第2話 まずは、帝国の骨を一本折ります
馬車は、王城の裏門を抜けていた。
夜会の灯りが背後で小さくなる。王都の石畳は馬蹄の音を細かく返し、窓の外では、春の夜が何事もなかったように流れていた。
「お寒いですか」
向かいに座ったレオンが、膝の上の外套に手をかける。
「平気よ」
「では、今は控えます」
「かけなさいと言ったら?」
「かけます」
「聞くまでもなかったのではなくて?」
「お嬢様が平気とおっしゃる時は、たいてい平気ではありませんので」
私は窓の外へ目を向けた。
王城の尖塔が、夜の奥へ沈んでいく。あの広間には、私の婚約者だった人と、その隣に立つ人が残っている。祝福の続きをするのか。釈明を始めるのか。それとも、誰も知らないふりをして夜会を終えるのか。
どうでもよかった。――そう思いたかった。
「泣きませんでしたね」
「泣いてほしかった?」
「いいえ」
レオンは短く答えた。
「泣かれたら、馬車を出す前に一人ほど殴っていたかもしれません」
「誰を?」
「候補が多すぎます」
私は少しだけ笑った。
それでようやく、自分が笑えていなかったと気づいた。
「殿下は、私を愛していなかったわ」
「存じております」
「私も、あの方を愛してはいなかった」
「それも、存じております」
「なら、傷つく理由はないはずでしょう」
「あります」
レオンは、いつもの声で言った。
「差し出したものを、見なかったことにされたのですから」
私は扇を膝の上に置いた。
指先に、まだ広間の温度が残っている。笑いかけた顔。青ざめた王。勝ったつもりの王太子。正しい言葉を選んだエレノア様。
彼らは皆、私を見ていた。
けれど、私が立っていた場所までは、見ていなかった。
「レオン」
「はい」
「あなたは、止めないのね」
「止めてほしいのですか」
「聞いただけよ」
「なら、答えます。止めません」
「理由は?」
「お嬢様は、止めて止まる方ではありません」
「それだけ?」
「いいえ」
レオンは、私を見た。
「今回は、止める理由がありません」
馬車の中に、しばらく馬蹄の音だけが残った。
「国が荒れるわ」
「先に荒らしたのは、あちらです」
「私がこれからすることも、十分ヤケクソよ」
「それでも、最初に踏み越えたのはお嬢様ではありません」
レオンの声は静かだった。
「あなた、意外と怒っているのね」
「怒っています」
その声があまりに平らで、かえって本当だと分かった。
「お嬢様が王太子妃になれば、陰で笑われることはあると思っていました。古い公爵家の令嬢だと。冷たい女だと。王太子殿下にはもっと華やかな方が似合うと」
「実際、言われていたわ」
「存じております」
「止めなかったの?」
「止めれば、お嬢様が笑われる理由が増えます」
「賢いわね」
「不愉快ではありました」
レオンは淡々と言った。
「ですが、それでも、あの婚約には意味がありました。お嬢様が黙る意味も、エルディア家が頭を下げる意味も、私の家がエルディア家に仕え続けた意味も、アルヴェント王家が王冠を戴き続ける意味も」
私は何も言わなかった。
「それを、古い結びつきの一言で捨てられましたので」
「殴る候補が多いわけね」
「はい」
私はまた少し笑った。
「では、殴らずに済ませましょう」
「可能でしょうか」
「できるわ」
私はレオンの鞄を指で叩いた。
「どうせ、用意しているのでしょう」
「必要なものは」
レオンが留め具を外した。封筒、帳面、短い筆記具、通行証。すべて整っている。私が命じる前に。
「なら十分よ。ヤケクソでも、帳簿くらいは使うわ」
馬車の車輪が、石畳をひとつ噛んだ。
「帝都へ直行なさるのですか」
「まさか」
私は答えた。
「皇宮は最後よ」
「では、どちらへ」
「国境の関税所」
レオンは一度だけ瞬きをした。
「帝国の端からですか」
「傘だと言うなら、まず骨から折るわ」
「承知しました」
「国境の商人たちを止めておきなさい」
「この先の中継所から使いを出します。夜明けの便なら、橋の手前で止められるはずです」
「間に合うの?」
「間に合わせます」
「……本当に、嫌になるくらい話が早いわね」
「お嬢様に仕えておりますので」
途中の中継所で、レオンは御者に短く指示を出し、封をした書状を数通渡した。
御者は馬を替えると、そのまま国境へ向けて先に走った。
「ここからは私が」
レオンはそう言って、御者台へ上がった。
国境の関税所には、夜明け前に着いた。
アルヴェントとラグナディアの境は、深い谷に架けられた石橋で分けられている。橋のこちら側にはアルヴェントの小さな詰所。向こう側には、ラグナディア帝国の関税門がある。
石でできた門は大きかった。
大きいだけだった。
帝国の紋章を掲げ、太い鉄鎖を垂らし、兵士を二列に並べている。小国の商人なら、それだけで背筋を伸ばすだろう。積み荷を降ろせと言われれば降ろし、検査費を払えと言われれば払う。
傘。
エレノア様はそう言った。
私は馬車の窓から、その鉄鎖を見た。
あれを傘の骨と呼ぶには、少し重すぎる。
「止まれ」
帝国兵が槍を横に出した。
レオンが御者台から降り、いつもの顔で兵士へ書状を見せた。
「アルヴェント王国、エルディア公爵家の馬車です。関税所長ガルディ・オルゼン殿への面会を求めます」
兵士は書状を見て、こちらを見て、それから鼻で笑った。
「こんな時間にか」
「急ぎです」
「なら、朝までそこで急いでいろ。所長は寝ている」
私は馬車の扉を開けた。
「起こしなさい」
兵士の目がこちらへ向く。
夜会服のまま国境へ来た公爵令嬢は、たしかに珍しいのだろう。兵士は一瞬だけ黙り、それから態度を悪くした。
「ここは帝国領です。小国の令嬢が命じる場所ではありません」
「そう。では、帝国領の関税所は、帝国の命令で動いているのですね?」
「当然だ」
「よかった」
私は微笑んだ。
「なら、この門で行われていることも、帝国の正式な政策として扱ってよろしいのですね」
兵士の顔が止まった。
「所長を呼びなさい」
レオンが一歩横へ動き、青い封蝋の書状を差し出す。
「だから、寝ていると――」
「お取り次ぎを」
今度は、レオンが言った。
声は荒くない。
だが兵士は、さっきよりも早く動いた。
関税門の内側が騒がしくなる。
夜明け前の薄い光の中で、兵士が走り、扉が開き、役人たちが書類を抱えて出てくる。門の奥では、商会の使いらしき者たちも慌ただしく行き来し始めていた。
寝間着に上着だけを羽織った男が、最後に現れた。襟元には酒の匂いが残り、指には関税所長の俸給では重すぎる宝石が光っている。
ガルディ・オルゼン関税所長。
「何事だ」
所長は不機嫌そうに言った。
「私はラグナディア帝国の関税所長だ。夜明け前に小国の女に呼びつけられる筋合いは――」
「あります」
私は馬車を降りた。
裾が石畳に触れる。夜会用の靴で国境の関税所に立つのは、我ながら正気ではない。
けれど、今夜はもう、正気でいる理由がなかった。
「レティシア・エルディアです」
私は礼をした。
「今夜から、黙るのをやめました」
所長の顔から、不機嫌そうな色が消えた。
代わりに浮かんだのは、理解できないものを見た時の苛立ちだった。
「……何を言っている」
「そのままの意味です。エルディア家はこれまで、アルヴェント王家の顔を立てて、帝国との小さな摩擦を見なかったことにしてまいりました」
「小さな摩擦、だと?」
「ええ。たとえば、二重課税」
レオンが帳面を開いた。
「三年前から、アルヴェント商人への通行税は二重になっています。名目は帝国道の保全費。ですが、その保全費が帝国道へ使われた記録はありません」
所長の頬が動いた。
「それだけではありません」
レオンは一枚、紙をめくる。
「穀物倉の買収、鉄輸送の遅延、帝国東部商会連合への不自然な融資。関係した名はすべて、この帳面にございます」
「黙れ」
「はい。これまでは」
私は静かに言った。
「エルディア家は、黙っていただけですわ。見ていなかったわけではありません」
所長が私を睨む。
「小国の令嬢が、帳面一つで帝国の関税所を脅すつもりか」
「いいえ」
私は首を振った。
「帳面は、ただの記録です。今日の本題はそちらではありません」
所長の眉が動いた。
「本題?」
「ええ」
夜明けの橋の向こうから、車輪の音が近づいてくる。
一台、二台ではない。
アルヴェント側の道に、荷馬車の列が現れた。穀物商、鉄商、布商、香料商。普段ならこの門を抜け、帝国の東部市場へ入っていく商人たちだった。
彼らは関税門の前で馬車を止めた。
先頭にいた年配の穀物商が、帽子を握りしめる。
「オルゼン所長。三年前、私の荷に保全費を二度かけた担当官の名を、まだ覚えております」
所長の顔が歪んだ。
「貴様、誰の許しで口を開いている」
「払わねば、帝都の倉には入れぬと言われました。払わねば、次の通行許可も出さぬと」
「黙れ!」
兵士が一歩前へ出た。
しかし、その足は途中で止まった。
荷馬車の列に並んだ商人たちが、誰一人として目を伏せていなかったからだ。
「本日この時刻をもって、エルディア家は帝国東部商会連合への信用保証を撤回します」
所長の目が見開かれた。
「なっ……」
「同時に、アルヴェント商人に対し、ラグナディア経由の輸送停止を勧告しました」
門の奥で、商会の使いたちの声が高くなる。
「馬鹿なことを! そんなことをすれば、困るのはお前たち小国の――」
「困るでしょうね」
私は静かに言った。
「帝国東部商会連合が」
所長が黙った。
ようやく気づいたらしい。
この門を通っていたのは、アルヴェントの商人だけではない。帝国東部商会連合の荷もまた、アルヴェントの港と倉庫と信用を使っていた。
傘のつもりで広げたものが、いつの間にかこちらの柱に寄りかかっていたことに、気づいた。
「エルディア家の信用保証がなければ、帝国東部商会連合の手形は通りません。南方航路の前払いも、穀物の積み替えも、鉄の買い付けも止まります。保全費を横領していた程度の関税所長では、埋められない穴ですわね」
「脅すつもりか」
「いいえ」
私は首を振った。
「取り立てるつもりです」
レオンが、もう一通の書状を差し出した。
「二重課税分の返還請求。保全費の使途明細の開示要求。信用保証撤回の通達。すべて、帝国東部商会連合と帝都財務院へ同時に送付済みです」
「信用保証の撤回など、アルヴェント王家の承認なくできるものか」
「その王家が、今夜、エルディア家との盟約を公衆の面前で不要とされました」
私は微笑んだ。
「ですから、我が家も我が家の名で動いております」
所長の喉が鳴った。
「そんなもの、ここで破れば――」
「破ってもかまいません」
レオンは淡々と言った。
「写しは六通あります」
その時、門の奥から、灰色の上着を着た男が駆けてきた。
見覚えのある顔だった。以前、王都の商談で、アルヴェントの港を使わせてほしいと何度も腰を折っていた男。
帝国東部商会連合の番頭だ。
「所長!」
「何だ!」
「南方航路の手形が落ちません。エルディア家の保証が外れたと、港の両替商が――」
「黙れ!」
所長の声は、今度こそ裏返った。
番頭はそこで、私に気づいた。顔色を変え、すぐに頭を下げる。
「エルディア公爵令嬢」
「お久しぶりです」
「これは、いったい」
「保証を外しました」
私は言った。
「帝国の傘に入る道を選べと、昨夜、勧められましたので」
番頭の顔から血の気が引いた。
所長が私を睨みつける。
「私の後ろ盾が誰か分かっているのか。オルブラン侯爵家だぞ。帝国でも指折りの――」
「ええ」
私は頷いた。
「ですから次は、その方々に会いに行きます」
所長の言葉が止まった。
私は所長を見た。
「あなたが今すべきことは、私を止めることではありません」
「では、何だ」
「帝都へ早馬を出すことです」
夜明けの空が白み始めていた。
関税門の上に掲げられた帝国の紋章は、まだそこにある。けれど、鉄鎖の鳴る音が、先ほどより軽く聞こえた。
「知らせて差し上げて。アルヴェントの古い公爵家が、今朝から黙るのをやめたと」
レオンが私の後ろへ戻る。
「お嬢様」
「ええ。ここは終わりよ」
私は関税門を見上げた。
「次へ行きましょう」
「どちらへ」
「エレノア様の母方、オルブラン侯爵家の朝餐会が、帝都の手前の別邸で開かれるはずよ」
「招待状は?」
「ないわ」
「承知しました」
「驚かないのね」
「今さらです」
レオンが馬車の扉を開ける。
私は乗り込む前に、もう一度だけ所長を見た。
「ご安心ください、オルゼン所長。あなたで帝国が終わるとは思っておりません」
所長の顔は、夜明けよりも白かった。
私は微笑んだ。
「これは、ただの一本目です」




