表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/6

第2話 まずは、帝国の骨を一本折ります

 馬車は、王城の裏門を抜けていた。


 夜会の灯りが背後で小さくなる。王都の石畳は馬蹄の音を細かく返し、窓の外では、春の夜が何事もなかったように流れていた。


「お寒いですか」


 向かいに座ったレオンが、膝の上の外套に手をかける。


「平気よ」


「では、今は控えます」


「かけなさいと言ったら?」


「かけます」


「聞くまでもなかったのではなくて?」


「お嬢様が平気とおっしゃる時は、たいてい平気ではありませんので」


 私は窓の外へ目を向けた。


 王城の尖塔が、夜の奥へ沈んでいく。あの広間には、私の婚約者だった人と、その隣に立つ人が残っている。祝福の続きをするのか。釈明を始めるのか。それとも、誰も知らないふりをして夜会を終えるのか。


 どうでもよかった。――そう思いたかった。


「泣きませんでしたね」


「泣いてほしかった?」


「いいえ」


 レオンは短く答えた。


「泣かれたら、馬車を出す前に一人ほど殴っていたかもしれません」


「誰を?」


「候補が多すぎます」


 私は少しだけ笑った。


 それでようやく、自分が笑えていなかったと気づいた。


「殿下は、私を愛していなかったわ」


「存じております」


「私も、あの方を愛してはいなかった」


「それも、存じております」


「なら、傷つく理由はないはずでしょう」


「あります」


 レオンは、いつもの声で言った。


「差し出したものを、見なかったことにされたのですから」


 私は扇を膝の上に置いた。


 指先に、まだ広間の温度が残っている。笑いかけた顔。青ざめた王。勝ったつもりの王太子。正しい言葉を選んだエレノア様。


 彼らは皆、私を見ていた。


 けれど、私が立っていた場所までは、見ていなかった。


「レオン」


「はい」


「あなたは、止めないのね」


「止めてほしいのですか」


「聞いただけよ」


「なら、答えます。止めません」


「理由は?」


「お嬢様は、止めて止まる方ではありません」


「それだけ?」


「いいえ」


 レオンは、私を見た。


「今回は、止める理由がありません」


 馬車の中に、しばらく馬蹄の音だけが残った。


「国が荒れるわ」


「先に荒らしたのは、あちらです」


「私がこれからすることも、十分ヤケクソよ」


「それでも、最初に踏み越えたのはお嬢様ではありません」


 レオンの声は静かだった。


「あなた、意外と怒っているのね」


「怒っています」


 その声があまりに平らで、かえって本当だと分かった。


「お嬢様が王太子妃になれば、陰で笑われることはあると思っていました。古い公爵家の令嬢だと。冷たい女だと。王太子殿下にはもっと華やかな方が似合うと」


「実際、言われていたわ」


「存じております」


「止めなかったの?」


「止めれば、お嬢様が笑われる理由が増えます」


「賢いわね」


「不愉快ではありました」


 レオンは淡々と言った。


「ですが、それでも、あの婚約には意味がありました。お嬢様が黙る意味も、エルディア家が頭を下げる意味も、私の家がエルディア家に仕え続けた意味も、アルヴェント王家が王冠を戴き続ける意味も」


 私は何も言わなかった。


「それを、古い結びつきの一言で捨てられましたので」


「殴る候補が多いわけね」


「はい」


 私はまた少し笑った。


「では、殴らずに済ませましょう」


「可能でしょうか」


「できるわ」


 私はレオンの鞄を指で叩いた。


「どうせ、用意しているのでしょう」


「必要なものは」


 レオンが留め具を外した。封筒、帳面、短い筆記具、通行証。すべて整っている。私が命じる前に。


「なら十分よ。ヤケクソでも、帳簿くらいは使うわ」


 馬車の車輪が、石畳をひとつ噛んだ。


「帝都へ直行なさるのですか」


「まさか」


 私は答えた。


「皇宮は最後よ」


「では、どちらへ」


「国境の関税所」


 レオンは一度だけ瞬きをした。


「帝国の端からですか」


「傘だと言うなら、まず骨から折るわ」


「承知しました」


「国境の商人たちを止めておきなさい」


「この先の中継所から使いを出します。夜明けの便なら、橋の手前で止められるはずです」


「間に合うの?」


「間に合わせます」


「……本当に、嫌になるくらい話が早いわね」


「お嬢様に仕えておりますので」


 途中の中継所で、レオンは御者に短く指示を出し、封をした書状を数通渡した。

 御者は馬を替えると、そのまま国境へ向けて先に走った。


「ここからは私が」


 レオンはそう言って、御者台へ上がった。


 国境の関税所には、夜明け前に着いた。


 アルヴェントとラグナディアの境は、深い谷に架けられた石橋で分けられている。橋のこちら側にはアルヴェントの小さな詰所。向こう側には、ラグナディア帝国の関税門がある。


 石でできた門は大きかった。


 大きいだけだった。


 帝国の紋章を掲げ、太い鉄鎖を垂らし、兵士を二列に並べている。小国の商人なら、それだけで背筋を伸ばすだろう。積み荷を降ろせと言われれば降ろし、検査費を払えと言われれば払う。


 傘。


 エレノア様はそう言った。


 私は馬車の窓から、その鉄鎖を見た。


 あれを傘の骨と呼ぶには、少し重すぎる。


「止まれ」


 帝国兵が槍を横に出した。


 レオンが御者台から降り、いつもの顔で兵士へ書状を見せた。


「アルヴェント王国、エルディア公爵家の馬車です。関税所長ガルディ・オルゼン殿への面会を求めます」


 兵士は書状を見て、こちらを見て、それから鼻で笑った。


「こんな時間にか」


「急ぎです」


「なら、朝までそこで急いでいろ。所長は寝ている」


 私は馬車の扉を開けた。


「起こしなさい」


 兵士の目がこちらへ向く。


 夜会服のまま国境へ来た公爵令嬢は、たしかに珍しいのだろう。兵士は一瞬だけ黙り、それから態度を悪くした。


「ここは帝国領です。小国の令嬢が命じる場所ではありません」


「そう。では、帝国領の関税所は、帝国の命令で動いているのですね?」


「当然だ」


「よかった」


 私は微笑んだ。


「なら、この門で行われていることも、帝国の正式な政策として扱ってよろしいのですね」


 兵士の顔が止まった。


「所長を呼びなさい」


 レオンが一歩横へ動き、青い封蝋の書状を差し出す。


「だから、寝ていると――」


「お取り次ぎを」


 今度は、レオンが言った。


 声は荒くない。


 だが兵士は、さっきよりも早く動いた。


 関税門の内側が騒がしくなる。


 夜明け前の薄い光の中で、兵士が走り、扉が開き、役人たちが書類を抱えて出てくる。門の奥では、商会の使いらしき者たちも慌ただしく行き来し始めていた。


 寝間着に上着だけを羽織った男が、最後に現れた。襟元には酒の匂いが残り、指には関税所長の俸給では重すぎる宝石が光っている。


 ガルディ・オルゼン関税所長。


「何事だ」


 所長は不機嫌そうに言った。


「私はラグナディア帝国の関税所長だ。夜明け前に小国の女に呼びつけられる筋合いは――」


「あります」


 私は馬車を降りた。


 裾が石畳に触れる。夜会用の靴で国境の関税所に立つのは、我ながら正気ではない。


 けれど、今夜はもう、正気でいる理由がなかった。


「レティシア・エルディアです」


 私は礼をした。


「今夜から、黙るのをやめました」


 所長の顔から、不機嫌そうな色が消えた。


 代わりに浮かんだのは、理解できないものを見た時の苛立ちだった。


「……何を言っている」


「そのままの意味です。エルディア家はこれまで、アルヴェント王家の顔を立てて、帝国との小さな摩擦を見なかったことにしてまいりました」


「小さな摩擦、だと?」


「ええ。たとえば、二重課税」


 レオンが帳面を開いた。


「三年前から、アルヴェント商人への通行税は二重になっています。名目は帝国道の保全費。ですが、その保全費が帝国道へ使われた記録はありません」


 所長の頬が動いた。


「それだけではありません」


 レオンは一枚、紙をめくる。


「穀物倉の買収、鉄輸送の遅延、帝国東部商会連合への不自然な融資。関係した名はすべて、この帳面にございます」


「黙れ」


「はい。これまでは」


 私は静かに言った。


「エルディア家は、黙っていただけですわ。見ていなかったわけではありません」


 所長が私を睨む。


「小国の令嬢が、帳面一つで帝国の関税所を脅すつもりか」


「いいえ」


 私は首を振った。


「帳面は、ただの記録です。今日の本題はそちらではありません」


 所長の眉が動いた。


「本題?」


「ええ」


 夜明けの橋の向こうから、車輪の音が近づいてくる。


 一台、二台ではない。


 アルヴェント側の道に、荷馬車の列が現れた。穀物商、鉄商、布商、香料商。普段ならこの門を抜け、帝国の東部市場へ入っていく商人たちだった。


 彼らは関税門の前で馬車を止めた。


 先頭にいた年配の穀物商が、帽子を握りしめる。


「オルゼン所長。三年前、私の荷に保全費を二度かけた担当官の名を、まだ覚えております」


 所長の顔が歪んだ。


「貴様、誰の許しで口を開いている」


「払わねば、帝都の倉には入れぬと言われました。払わねば、次の通行許可も出さぬと」


「黙れ!」


 兵士が一歩前へ出た。


 しかし、その足は途中で止まった。


 荷馬車の列に並んだ商人たちが、誰一人として目を伏せていなかったからだ。


「本日この時刻をもって、エルディア家は帝国東部商会連合への信用保証を撤回します」


 所長の目が見開かれた。


「なっ……」


「同時に、アルヴェント商人に対し、ラグナディア経由の輸送停止を勧告しました」


 門の奥で、商会の使いたちの声が高くなる。


「馬鹿なことを! そんなことをすれば、困るのはお前たち小国の――」


「困るでしょうね」


 私は静かに言った。


「帝国東部商会連合が」


 所長が黙った。


 ようやく気づいたらしい。


 この門を通っていたのは、アルヴェントの商人だけではない。帝国東部商会連合の荷もまた、アルヴェントの港と倉庫と信用を使っていた。


 傘のつもりで広げたものが、いつの間にかこちらの柱に寄りかかっていたことに、気づいた。


「エルディア家の信用保証がなければ、帝国東部商会連合の手形は通りません。南方航路の前払いも、穀物の積み替えも、鉄の買い付けも止まります。保全費を横領していた程度の関税所長では、埋められない穴ですわね」


「脅すつもりか」


「いいえ」


 私は首を振った。


「取り立てるつもりです」


 レオンが、もう一通の書状を差し出した。


「二重課税分の返還請求。保全費の使途明細の開示要求。信用保証撤回の通達。すべて、帝国東部商会連合と帝都財務院へ同時に送付済みです」


「信用保証の撤回など、アルヴェント王家の承認なくできるものか」


「その王家が、今夜、エルディア家との盟約を公衆の面前で不要とされました」


 私は微笑んだ。


「ですから、我が家も我が家の名で動いております」


 所長の喉が鳴った。


「そんなもの、ここで破れば――」


「破ってもかまいません」


 レオンは淡々と言った。


「写しは六通あります」


 その時、門の奥から、灰色の上着を着た男が駆けてきた。


 見覚えのある顔だった。以前、王都の商談で、アルヴェントの港を使わせてほしいと何度も腰を折っていた男。


 帝国東部商会連合の番頭だ。


「所長!」


「何だ!」


「南方航路の手形が落ちません。エルディア家の保証が外れたと、港の両替商が――」


「黙れ!」


 所長の声は、今度こそ裏返った。


 番頭はそこで、私に気づいた。顔色を変え、すぐに頭を下げる。


「エルディア公爵令嬢」


「お久しぶりです」


「これは、いったい」


「保証を外しました」


 私は言った。


「帝国の傘に入る道を選べと、昨夜、勧められましたので」


 番頭の顔から血の気が引いた。


 所長が私を睨みつける。


「私の後ろ盾が誰か分かっているのか。オルブラン侯爵家だぞ。帝国でも指折りの――」


「ええ」


 私は頷いた。


「ですから次は、その方々に会いに行きます」


 所長の言葉が止まった。


 私は所長を見た。


「あなたが今すべきことは、私を止めることではありません」


「では、何だ」


「帝都へ早馬を出すことです」


 夜明けの空が白み始めていた。


 関税門の上に掲げられた帝国の紋章は、まだそこにある。けれど、鉄鎖の鳴る音が、先ほどより軽く聞こえた。


「知らせて差し上げて。アルヴェントの古い公爵家が、今朝から黙るのをやめたと」


 レオンが私の後ろへ戻る。


「お嬢様」


「ええ。ここは終わりよ」


 私は関税門を見上げた。


「次へ行きましょう」


「どちらへ」


「エレノア様の母方、オルブラン侯爵家の朝餐会が、帝都の手前の別邸で開かれるはずよ」


「招待状は?」


「ないわ」


「承知しました」


「驚かないのね」


「今さらです」


 レオンが馬車の扉を開ける。


 私は乗り込む前に、もう一度だけ所長を見た。


「ご安心ください、オルゼン所長。あなたで帝国が終わるとは思っておりません」


 所長の顔は、夜明けよりも白かった。


 私は微笑んだ。


「これは、ただの一本目です」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ