第1話 婚約破棄ですか。では、帝国を滅ぼします
「レティシア・エルディア。君との婚約を、ここに破棄する」
王太子ユリウス殿下は、広間の中央でそうおっしゃった。
春の夜会だった。
王城の大広間には、招かれた貴族たちが揃っていた。楽士の弓が止まり、掲げかけた杯もそのまま宙に残る。誰もがこちらを見ていた。王家主催の祝宴で、王太子が公爵令嬢との婚約を破棄する。
なるほど。
公開処刑にしては、ずいぶん華やかだった。
殿下の隣には、宰相家の令嬢エレノア・ヴェルナー様が立っていた。薄金の髪を結い上げ、淡い青のドレスをまとっている。母君はラグナディア帝国の有力貴族の出。その血筋まで含めて、今夜の彼女はよく飾られていた。
「私は、エレノアを妃に迎える」
殿下は迷いのない声で続けた。
「ラグナディア帝国との融和こそ、これからのアルヴェントに必要な道だ。王家とエルディア家の古い結びつきに頼るだけでは、この国は守れない」
広間の空気が、わずかに揺れた。
馬鹿げた恋の告白なら、笑えばよかった。だが殿下は、政治の言葉を使った。国を守る、という顔をしていた。
だから、笑うのはやめた。
エレノア様が一歩前へ出る。
「エルディア公爵令嬢。あなたを軽んじるつもりはございません。ただ、小国の誇りだけで民を飢えさせる時代ではないのです。帝国の傘に入る道を選ぶことも、国を預かる者の責務ではございませんか」
正しい言葉だった。
少なくとも、今この場で聞くには。
私は、扇を閉じた。
殿下に愛されていなかったことは知っている。そこに驚きはない。私もまた、恋に焦がれてこの婚約を受け入れていたわけではなかった。
政略であることくらい、初めから承知していた。
ただ。
私が何を差し出していたのかさえ、知られていなかった。
それだけは、少し堪えた。
「確認してもよろしいでしょうか」
私は殿下を見た。
「ベルクライン王家は、エルディア家との婚約を、古い結びつきとして不要と判断された。そう受け取ってよろしいのですね?」
殿下は眉を寄せた。
「そう言ったはずだ」
「では、婚約だけでなく、盟約も不要と判断されたのですね」
広間のあちこちで、困惑が広がった。
婚約ではなく、盟約。
その言葉の意味を、ほとんどの者は知らない。知る必要もなかった。知らずに済むよう、我が家が黙ってきたのだから。
殿下は不快そうに息を吐いた。
「言葉をすり替えるな。これは私と君の婚約の話だ」
「いいえ、殿下」
私は首を振った。
「私とあなたの婚約で済む話でしたら、私はここで泣いて差し上げました」
広間が静まる。
王座の脇で、オスカー陛下だけが顔色を変えていた。
さすがに、陛下は覚えていらっしゃる。
王城の地下庫に眠る、黒い封蝋の誓書。
そこに誰の名が記されているのか。
建国以来、エルディア家が何を引き受けてきたのか。
王冠が、誰の沈黙の上に置かれていたのか。
王太子に知らされるのは、王冠を戴く前夜。そう定めたのは、我が家ではない。王家のほうだった。
けれど、知らないことと、軽んじることは違う。
「父上も、最後にはこの道を認めてくださった」
殿下は勝ち誇ったように言った。
「君の家がどれほど古かろうと、国の未来を妨げる権利はない。私は、アルヴェントを守るために選んだのだ」
「そうですか」
私は、もう一度だけ陛下を見た。
陛下は何もおっしゃらなかった。
ならば、十分だった。
「では、我が家も黙っている理由を失いましたわね」
誰かが息を呑んだ。
エレノア様の目が細くなる。彼女は殿下ほど鈍くない。いまの一言が、ただの強がりではないと気づいたのだろう。
「何をなさるおつもりですか」
「ご心配には及びません」
私は微笑んだ。
「少し、ラグナディアまで行ってまいります」
広間が静まり返った。
殿下が、ようやく声を荒げる。
「何を馬鹿な――」
「レオン」
私は殿下の言葉を聞き終える前に、名を呼んだ。
広間の壁際に控えていた黒髪の青年が、一礼する。
公爵家の執事の息子、レオン・リゼル。
私と同じ年に生まれた、従者で、幼なじみで、共犯者のような男だ。
けれど、彼をただの執事の息子だと思ったことは、私にはなかった。
八歳で古い建国記録を読み、九歳で王城の抜け道を覚えた私が、十歳の冬に「王冠とは貸し出すものなのね」と呟いた時も、彼だけは一度も笑わなかった。
「馬車は裏門に」
「まだ何も言っていないわ」
「お嬢様が、何かを壊すと決めた時のお顔でしたので」
「そんな顔をしたことがあるの?」
「八歳の時、隣家の温室を潰した時に」
「あれは必要だったのよ」
「そういうことにしておきます」
私は扇を指先で返し、王太子殿下へ礼をした。
「ご婚約、おめでとうございます。殿下。エレノア様」
そして、青ざめた陛下へ向き直る。
陛下の指が、玉座の肘掛けを白く握っていた。
「戻りましたら、続きをいたしましょう。陛下」
陛下は何も言わなかった。
言えなかったのだと思う。
私は踵を返した。
「行くわよ、レオン」
「行き先の確認を」
「決まっているでしょう」
王城の扉が開く。
夜風が、熱を失った広間に流れ込んだ。
「帝国を滅ぼしに」




