第6話 王冠を欲しがらない人
王城に戻った時、日は傾きかけていた。
春の夜会から、一日も経っていない。
けれど、王都の空気は変わっていた。城門の前には、使者の馬が何頭も繋がれている。貴族の馬車も、昨夜の華やかさを失い、車輪を揃えたまま重く沈んでいた。
夜会は終わっていなかった。
終われなかったのだ。
私が広間に入ると、最初に音が消えた。
昨夜と同じ大広間。
同じ高い天井。同じ燭台。同じ王座。
ただし、音楽はなかった。杯を掲げる者もいない。貴族たちは、こちらを見るだけだった。
中央に、王太子ユリウス殿下が立っている。
その隣に、エレノア様。
王座には、オスカー陛下。
昨夜と同じ配置だった。
違うのは、誰も勝った顔をしていないことだ。
「レティシア」
殿下が、私の名を呼んだ。
昨夜までは婚約者の名だった。
今は、何を呼んだつもりなのだろう。
「エルディア公爵令嬢です」
レオンが一歩後ろで言った。
私は扇を閉じ、殿下の前を通り過ぎた。
王座の前まで歩く。
「戻りましたので、続きをいたしましょう」
陛下の指が、肘掛けを握った。
昨夜と同じだった。
けれど今度は、青ざめるだけでは済まない。
「君は」
ユリウス殿下が言った。
「本当に、ラグナディアへ行ったのか」
「ええ」
「何をした」
「少し、帝国を滅ぼしてまいりました」
広間が揺れた。
誰かが息を呑む。誰かが小さく悲鳴を漏らす。殿下は、私を睨んだ。
「ふざけるな」
「ふざけてはおりません」
「帝国が滅びたという報せなど来ていない!」
「国土は残っていますもの」
「何を言っている」
やはり、分かっていない。
私は、少しだけ疲れを感じた。
国境の関税所で、帝国の骨を折った。
オルブラン侯爵家の朝餐会で、傘の正体を暴いた。
帝都の議事塔で、皇帝に黒い封蝋を再承認させた。
ここまで来ても、殿下はまだ、帝国を領土と兵のことだと思っている。
「レオン」
「こちらに」
レオンが書状を差し出した。
封蝋は白い。
ラグナディア皇家の封蝋だった。
その下に、黒い封蝋の写しが添えられている。
陛下が立ち上がった。
ゆっくりと。
「読む必要はありませんわね」
私は言った。
「陛下には、分かっていらっしゃるでしょうから」
ユリウス殿下が陛下を見た。
「父上?」
陛下は答えなかった。
エレノア様が、一歩前へ出る。彼女の顔は白い。だが、取り乱してはいなかった。
「オルブラン侯爵家は」
「財務院の調査を受けます」
「母は」
「逃げられません」
エレノア様の唇が、わずかに震えた。
「帝国は」
「アルヴェントを呑まぬ、と」
私は書状を掲げた。
「ヴァルター陛下が、そうおっしゃいました」
エレノア様は目を閉じた。
理解したのだろう。
王太子殿下より先に。
「……帝国の傘では、なかったのですね」
彼女は小さく言った。
「ええ」
私は頷いた。
「あなたが傘と呼んだものは、首輪でした」
「私は、国益を選んだだけです」
「ええ」
私は、彼女を見る。
「だから私も、国益を選びました」
エレノア様は、何も言わなかった。
そこに、憎しみはなかった。
少なくとも、私の中には。
彼女は愚かではない。王太子殿下より、ずっと見えていた。だからこそ、見ないふりをしたものも多かった。
聡明さは、人を正しくするとは限らない。
「待て」
ユリウス殿下が言った。
「オルブラン家の話など、どうでもいい。帝国がアルヴェントを呑まぬと言ったなら、むしろ私の選択は正しかったということではないのか。融和は成立した。国は守られた」
私は、殿下を見た。
殿下は、本気で言っていた。
ここまで来ても、自分が何を破ったのか分かっていない。
「殿下」
私は静かに言った。
「あなたは、国を守るという言葉を使いました」
「ああ」
「では、何を守るつもりだったのです」
「アルヴェントだ」
「どのアルヴェントを?」
殿下が眉を寄せる。
「何?」
「港を差し出し、関税を見逃し、穀物倉を奪われ、鉄の流れを握られ、それを保護と呼ばれる国ですか」
「それは、まだ決まっていたことでは」
「決められるところでした」
「だから、私が王になれば交渉を」
「できません」
私は遮った。
広間が静まる。
「なぜだ」
「あなたは、昨日の夜、交渉の席を自分で壊したからです」
殿下の顔が強張る。
「婚約のことを言っているのか」
「いいえ」
私は首を振った。
「盟約のことを言っています」
その言葉に、広間の貴族たちがざわめいた。
昨夜と同じざわめき。
けれど、今日は違う。
昨日は知らない者の困惑だった。
今日は、知ってしまった者の恐怖だった。
「知らなかったことを、責めているのではありません」
私は言った。
「王太子に知らされるのは、王冠を戴く前夜。そう定めたのは、王家ですもの」
陛下の肩が、わずかに落ちた。
「けれど、知らないまま軽んじたことは、あなたの責任です」
「私は、国の未来を」
「語りましたね」
私は頷く。
「政治の言葉で。国を守るという顔で。けれど、あなたは自分が何の上に立っているかを知らなかった」
殿下の顔が赤くなる。
「なら、なぜ誰も教えなかった!」
その声は、王座へ向いた。
ようやく。
ようやく、殿下は正しい相手を見た。
オスカー陛下は、静かに目を閉じた。
「余が、教えなかった」
広間が止まった。
「父上」
「そなたが王冠を戴く前夜に、伝えるはずだった。そういう掟であった。だが」
陛下は目を開ける。
「それだけではない」
陛下は、私を見た。
「余は、知っていた。エルディア家との婚約が、ただの縁組ではないことを。ラグナディアとの融和が、危うい橋であることを。オルブラン家の動きも、薄くは聞いていた」
「陛下」
ユリウス殿下の声が震える。
「なぜ」
「王家を守りたかった」
陛下は言った。
その声には、王の威厳よりも、老いた男の疲れがあった。
「ラグナディアは強い。アルヴェントは小さい。エルディア家の沈黙に甘え続ける王家でよいのかと、何度も思った。帝国の傘に入れば、王家は古い盟約から逃れられるのではないかと」
私は、黙って聞いていた。
「愚かであった」
陛下は言った。
「沈黙を、善意だと思った。貸しを、忘れても許されるものと思った。エルディア家が本当に動くとは、思わなかった」
「ええ」
私は言った。
「そこが一番、悪いところです」
陛下は、深く頭を下げた。
王が、公爵令嬢に頭を下げた。
広間が凍った。
けれど、私は驚かなかった。
この人は、昨夜から分かっていた。
自分が何を踏んだのかを。
「わかっているわね?」
私は言った。
陛下は顔を上げた。
「余は、退く」
殿下が一歩踏み出した。
「父上!」
「ユリウス」
陛下の声が、初めて鋭くなった。
「そなたも退く」
「なぜです! 私は知らなかった。知らされていなかったのです!」
「知らぬまま、人を捨てた」
陛下は言った。
「知らぬまま、国を語った。知らぬまま、王冠の下にあるものを軽んじた。それは、王になる者の罪だ」
殿下は、何かを言おうとした。
けれど言葉にならなかった。
「王太子ユリウス・ベルクラインを廃嫡する」
陛下の声が、広間に落ちた。
「エレノア・ヴェルナーとの婚姻も認めぬ。ヴェルナー家については、帝国側の調査結果を待ち、アルヴェント国内での関与を洗う」
エレノア様は、静かに膝を折った。
泣かなかった。
その点だけは、少しだけ好ましかった。
「承知いたしました」
彼女は言った。
「正しいと、思っておりました。私は、国益を選びました。その結果も、受けます」
私は何も返さなかった。
返すべき言葉は、もうない。
ユリウス殿下だけが、まだ立っていた。
自分の足元が消えたことを、理解しきれない顔で。
「では」
陛下が言った。
「王冠は、誰に返せばよい」
広間の視線が、私へ集まる。
ここからが、最後の取り立てだった。
「返す必要はありません」
私は言った。
陛下の眉が動く。
「何?」
「王冠は、預け直します」
「誰に」
私は振り返った。
レオンが、壁際に立っていた。
いつも通り、半歩後ろに。
私が名を呼ぶまで、自分から前に出ない位置で。
「レオン」
「はい」
「こちらへ」
レオンは、一瞬だけ動きを止めた。
珍しい。
彼は、私が何を言おうとしているのか分かっている。
だから、来たくない。
「お嬢様」
「こちらへ」
もう一度言うと、レオンは静かに歩いてきた。
広間の中央。
昨日、私が婚約破棄を告げられた場所。
そこに、レオンが立つ。
「陛下」
私は言った。
「ベルクライン家は、兄の血筋だけではありません」
陛下は、目を閉じた。
「弟筋か」
「ええ」
広間がざわめく。
私は続けた。
「建国時、王冠を預かったのは兄の家系。弟の家系は、王にならぬために、そして王を見張るために、エルディア家へ仕えました」
レオンは何も言わない。
彼の横顔は、いつもと変わらないように見えた。
けれど、私は知っている。
少しだけ怒っていて、そして、困っている。
「執事の家」
ユリウス殿下が呟いた。
「執事の息子が、王家の血筋だと?」
「そうです」
「馬鹿な」
「殿下」
レオンが初めて口を開いた。
「私も、できれば馬鹿な話であってほしかったです」
それは本音だった。
広間の誰もが黙った。
私は扇を握り直す。
「黒い封蝋の誓書にも、弟筋の名は残っています。王冠を預かった家が、預かったことを忘れた時のために」
陛下が、ゆっくりと頷いた。
「余も、名は知っていた」
レオンを見る。
「だが、会うのは初めてだ」
「私は、王にお会いするために育ったわけではありません」
レオンは答えた。
「公爵家に仕えるために育ちました」
陛下は、しばらくレオンを見ていた。
そして、静かに言った。
「黒い封蝋の誓書に基づき、ベルクライン弟筋の継承権を認める」
広間のざわめきが、大きくなった。
陛下は続ける。
「余は退位する。ユリウスは廃嫡する。王冠は、ベルクライン弟筋へ預け直す」
「陛下!」
古い貴族のひとりが声を上げた。
陛下は、その者を見た。
「異議は、黒い封蝋を読んでから申せ」
誰も続かなかった。
「レオン」
私は言った。
「王になりなさい」
「お嬢様」
「命令よ」
「私は、あなたの従者です」
「では、王を務める従者になりなさい」
「無茶をおっしゃいます」
「いつものことでしょう」
「国が相手です」
「ええ」
私は頷いた。
「だから、あなたがいいの」
レオンの表情が、ほんの少しだけ動いた。
私は、もう一歩近づく。
「あなたは、王冠を欲しがらない。だから預けられる」
広間が静まり返った。
「王冠を欲しがる者は、王冠のために国を曲げる。王冠を恐れる者は、王冠を守るために人を踏む。でも、あなたは違う」
「買いかぶりです」
「ええ」
私は頷いた。
「でも、私はあなたを買いかぶる権利くらい持っているわ。ずっと隣にいたのだから」
レオンは、目を伏せた。
長い沈黙だった。
やがて、彼は陛下へ向き直った。
「陛下」
「何だ」
「私は、王になりたいとは思いません」
「だろうな」
「ですが」
レオンは、私を見ずに言った。
「お嬢様が王冠を誰かに預けるなら、その王冠がまたお嬢様を傷つけることだけは、許せません。もう二度と」
レオンは膝を折った。
私にではない。
王座に向かってでもない。
王冠が置かれるはずの空白へ向かって。
「預かります」
その一言で、広間の空気が変わった。
陛下が、ゆっくりと玉座から降りる。
王冠を外す。
重い金の輪が、陛下の手に移った。
その瞬間、王は少し小さく見えた。
けれど、逃げる男には見えなかった。
自分が借りたものを、ようやく返す男に見えた。
「ベルクライン王家は、王冠を預かった」
陛下が言った。
「そして今、預け直す」
王冠が、レオンの前に置かれる。
レオンは手を伸ばさない。
私を見る。
「お嬢様」
「何」
「本当に、よろしいのですか」
「よくないわ」
私は答えた。
「でも、必要よ」
レオンは、ほんの少しだけ笑った。
「では、必要だったということにしておきます」
「そうよ」
私は笑った。
「あれも、これも、全部必要だったのよ」
王冠を受け取る音は、思ったよりも小さかった。
だが、広間の誰もが聞いていた。
最初に膝を折ったのは、オスカー前王だった。
次に、古い貴族たちが続いた。
それから、一人、また一人と。
新しい王へではない。
預け直された王冠へ。
そして、その王冠を欲しがらなかった男へ。
ユリウス殿下は、膝から崩れた。
「私は」
彼は呟いた。
「私は、何を捨てたんだ」
その目が、私ではなく、レオンの手に渡る王冠を見た。
「私ではありません。あなたが捨てたのは、王冠です」
ユリウス殿下の顔から、血の気が引いた。
愛されたかったわけではない。
ただ、私が立っていた場所を、一度くらい見てほしかった。
答えは、昨夜の広間にすべて置いてあった。
彼が一生かけて理解すればいい。
エレノア様が、静かに目を伏せた。
オスカー前王が、深く息を吐いた。
そして、レオンが王冠を手に立ち上がる。
新しい王。
王冠を欲しがらない男。
私の幼なじみで、従者で、共犯者のような男。
「それで」
レオンが言った。
「私は、何から始めればよろしいのでしょう」
「ユリウス殿下の廃嫡手続き。ヴェルナー家の調査。帝国との誓書再確認。まずはその三つね」
「多いですね」
「王ですもの」
「お嬢様」
「なに」
「手伝っていただけますか」
「もちろん」
私は扇を開いた。
「そのために、あなたを王にしたのよ」
「では、役職を」
「役職?」
「あなたは、何として私の隣に立たれるのです」
広間が、また静まった。
今度の静けさは、先ほどまでと違う。
貴族たちが見ている。
前王も、廃された王太子も、エレノア様も、レオンも。
私は、扇で口元を隠した。
ここまで来て。
ここまでやって。
急に、少しだけ恥ずかしくなるのは、腹立たしい。
「そうね」
私は言った。
「宰相でもよろしいけれど」
「お嬢様」
「何かしら」
「私は今、王にされたばかりです」
「ええ」
「その王に、初日から宰相として命じるおつもりですか」
「だめ?」
「だめではありません」
「では」
「ただ」
レオンは、私を見た。
「あなたらしくありません」
私は、扇を閉じた。
負けた気がした。
とても腹立たしい。
「分かったわ」
私は一歩近づく。
「レオン。国を守りなさい。王冠を二度と、誰かの沈黙の上に置かせないで」
「お嬢様」
「それから」
私は、彼を見上げた。
「さっさと政略結婚なさいな」
レオンは、しばらく私を見ていた。
それから、いつもの顔で小さく息を吐いた。
「相手は、どなたに」
「私に決まっているでしょう」
「お嬢様」
「なに」
「相変わらずですね」
「そうよ」
私は笑った。
夜会では、笑えなかった。
けれど今は、ちゃんと笑えた。
「私はヤケクソなの」
レオンが、ほんの少しだけ目元を緩めた。
「存じております」
「では、返事は?」
「それは、ご命令ですか」
「いいえ」
私は言った。
「これは、私のお願い」
レオンは、一瞬だけ黙った。
それから、王冠を持たないほうの手を差し出した。
「では、謹んで」
私は、その手を取った。
広間の端で、誰かが小さく笑った。
「血じゃな」
来るなと言ったはずの曽祖父様が、杖にもたれて立っていた。
「王冠を動かす理由は、昔からたいして変わらん」
「余計なことを」
私は言った。
「必要なことですもの」
曽祖父様は、ただ笑った。
昨日、ここで私は婚約を破棄された。
今日、ここで私は政略結婚を申し込んだ。
相手は、私を捨てた王子ではない。
王冠を欲しがらず、私のヤケクソに帳簿を差し出す男。
従者のままでは、隣に立てなかった人。
だからこれは、私が選んだ政略だった。
それで十分だった。
いいえ。
ようやく、十分になったのだ。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
全6話完結です。
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