第4話:神の声(お告げ)を切り捨て、私は私の意志で戦う
帝国軍の本陣は、戦場のすぐ後方とは思えないほどの豪奢さだった。移動式とは名ばかりの、宮殿の一角をそのまま運んできたかのような天幕。その中で、ジャンヌは久方ぶりに温かい食事にありついていた。
焼きたてのパン、香草を効かせた肉の煮込み、それに葡萄酒。一口含むたびに、強張っていた体の芯がゆるんでいくのがわかる。戦場で何年も粗末な兵糧ばかり口にしてきた彼女にとって、これほどまともな食事は久しぶりだった。
食事を終えると、女官たちに案内され、湯あみをし、新しい衣に袖を通した。奴隷のように泥にまみれたボロボロの服ではない。仕立てのいい、動きやすさと気品を両立させた軍服――それでいて、どこか聖職者の祭服にも似た佇まいを持つ一着だった。
鏡の前に立ったジャンヌは、しばし自分の姿を見つめた。泥を落とした肌、整えられた金の髪。鏡に映る少女の顔立ちは、記憶の中の自分よりも幼い。だが、その瞳に宿る光だけは、何も変わっていなかった。
天幕の入り口に控えていたアレンが、彼女の姿を見て一瞬、言葉を失った。
「……これは」
息を呑むほどの変わりようだった。戦場の泥にまみれていた少女が、まるで降臨した聖職者のような神々しさを纏っている。だが、アレンが見惚れたのは、その美しさだけではなかった。
着飾っていても、彼女の瞳は少しも揺らいでいない。誰かに飾られることを甘受する人形の目ではなく、自分の意志でこの場に立っている者の目だった。それがアレンの胸の奥に、執着にも似た熱を灯していく。
「似合っている、ジャンヌ」
「ありがとうございます、殿下。――それで、本題は?」
ジャンヌは、その賛辞を当然のように受け流した。彼女が今この場にいるのは、着飾るためではない。それを忘れていないという態度に、アレンはかすかに苦笑した。
「ああ。これから、次なる作戦についての軍議がある。君にも、同席してもらいたい」
*
円卓を囲んでいたのは、戦歴何十年という、白髪交じりの将軍たちだった。そこへアレンに伴われて入ってきたジャンヌの姿を見るなり、彼らの顔には一様に侮蔑の色が浮かんだ。
「殿下。お言葉ですが、いくら前線で奇跡的な戦果を上げたとはいえ……このような小娘を軍議に同席させるなど、正気の沙汰とは思えません」
「戦争は遊びではないのですぞ。子供のおままごとではないのです」
露骨な嘲笑が、円卓のあちこちから漏れる。ジャンヌは、それに表情一つ変えなかった。こうした視線には、十九年の――いや、それ以上の人生で、何度も晒されてきている。
円卓の中央には、大きな地図が広げられていた。数日後に予定されているという、敵の要塞への進軍計画だ。将軍の一人が得意げに、その作戦を説明していく。正面の平地を抜け、要塞前面から一気に攻め落とす――そういう内容だった。
ジャンヌは地図に視線を落とした。一目見ただけで、彼女の表情が静かに引き締まる。
「その作戦では、三日後、我が軍は全滅しますね」
円卓に、沈黙が落ちた。一拍置いて、怒号が弾ける。
「無礼者! 何がわかるというのだ、小娘が!」
「殿下、このような者の戯言に耳を貸す必要はございません!」
将軍たちの怒声が天幕を満たす。だが、その喧騒の中で――ジャンヌの耳にだけ、別の音が届いていた。
鈴の音だ。
懐かしい、忘れようもない音色。十三歳のあの日、ドンレミの果樹園で初めて聞いた音と、寸分違わない。
『ジャンヌよ』
頭の中に、直接響く声があった。
『右のルートを進みなさい。そこに、私が奇跡を用意した。命じられるままに、再び我が駒となり――世界を救う聖女となるのだ』
その声を聞いた瞬間、ジャンヌの中で、何かが静かに、しかし確かに冷えていった。
(――黙りなさい)
かつての自分なら、この声に従っていただろう。跪き、感謝し、すべてを委ねていただろう。だが今のジャンヌは、もう知っている。この声に従った先に何が待っていたかを。栄光と、裏切りと、火刑台と。
(私はもう、あなたの駒ではない)
ジャンヌは、軽く頭を振った。そして、地図の上に手のひらを叩きつける。乾いた音が、将軍たちの怒声を切り裂いた。
「お静かに」
その一言だけで、天幕の喧騒が嘘のように静まる。
「今、頭の中で『お告げ』とやらが、右へ進めと囁きました」
誰もが、息を呑んだ。お告げ――この世界においてもそれは、誰もが平伏すべき神聖なものなのだろう。だが、ジャンヌの口から続いた言葉は、誰の予想にもなかったものだった。
「そんな根拠の不確かな囁き、信じるに値しません」
「な……っ! それは、神の声では――」
「神の声であろうと、何であろうと、関係ありません」
ジャンヌは、将軍たちを真っ向から見据えた。
「戦は、人間の知恵と意志で勝つものです。誰かの声に従って勝った気になるのは、もうたくさん」
天幕の空気が凍りついた。アレンですら、わずかに目を見開いている。この世界の誰もが疑うことのない神の権威を、たった一人の少女が真っ向から切って捨てた瞬間だった。
だが、アレンの胸に湧き上がったのは、恐れではなかった。
(……ゾクゾクする)
神にすら従わず、自らの意志だけを羅針盤とする。そんな人間が、果たしてこの世にどれだけいるだろうか。
「では、ジャンヌ。君の意見を聞こう」
ジャンヌは地図に視線を戻すと、迷いのない指先で、右ルートとは正反対の地点をなぞった。
「左の渓谷を抜けます」
「ば、馬鹿な! あそこは進軍不可能な断崖絶壁だぞ!」
案の定、将軍の一人が声を荒げる。だがジャンヌは動じない。
「敵は、私たちが『お告げ』を信じる性質を読み切っています。だからこそ、右ルートには間違いなく伏兵が配されているでしょう。逆に、誰もが進軍不可能と決めつけている左の渓谷は――おそらく、がら空きです」
「しかし、断崖絶壁を兵が越えられるはずが……」
「越えられます」
ジャンヌは、静かに、しかし確信を込めて言い切った。
「私が旗を掲げれば、兵士たちの身体能力は数倍に跳ね上がります。先日の戦で、それはすでに証明済みのはずです。断崖絶壁など、彼らにとってはただの平地と変わりません」
淀みなく続く説明に、将軍たちの顔色がみるみる変わっていく。オルレアンの城壁を、トゥーレル要塞を、寡兵と速さで攻め落としてきた、本物の戦術家の思考だった。穴がない。反論しようにも、言葉が出てこない。
冷や汗を浮かべて黙り込む将軍たちを眺めながら、アレンは静かに確信していた。
(やはりこの少女は――この世界をひっくり返しかねない、本物の怪物だ)
彼は立ち上がり、円卓を見渡した。
「決めた。次の戦、全軍の指揮権はジャンヌに委ねる」
「殿下!? しかし――」
「異論は聞かない」
アレンはそう告げると、ジャンヌのほうへと向き直った。
「ジャンヌ。君の戦略に、我が帝国の運命を賭けよう」
ジャンヌは、彼を見つめ返し、不敵に笑った。
「いいでしょう。――ただし、殿下。お間違えなきよう」
「?」
「私は、あなたを勝たせるために戦うのではありません。私が、私自身の意志で、勝利を掴み取るのです」
その一言に、アレンは一瞬呆気にとられたあと、声を上げて笑った。
「ああ、それでいい」
彼はジャンヌの前に膝をつき、その手を取ると、恭しく口づけを落とした。
「喜んで、君の後ろを歩こう。我が偉大な軍師殿」
ジャンヌは小さく息を吐き、窓の外――次の決戦が待つ方角へと視線を向けた。
頭の中の鈴の音は、もう聞こえなかった。
神の声に導かれるのではなく、自らの足で歩み出す。それが今のジャンヌにとって、何よりも確かな一歩だった。




