第3話:聖女の価値を知らぬ無能、英雄の前で這いつくばる
燃え尽きた大地に、馬蹄の音が響いたのは、戦場が静寂を取り戻してからほどなくのことだった。
駆けつけてきたのは、本隊を率いていたこの国の第一皇太子――兼、総大将のアレンだった。供を連れて戦場に踏み入った彼は、目の前の光景に手綱を握ったまま硬直する。
地平線まで埋め尽くしていたはずの数千の敵軍が、跡形もなく消えている。残っているのは、黒く焼け焦げた大地と、呆然と立ち尽くす味方の兵士たち、そして――ボロボロの軍旗を手にした、一人の少女の姿だけだった。
「……噓だろう」
側近の一人が、震える声で呟いた。
「殿下、これは……。数万の軍勢でなければ、為し得ない戦果です……。それを、たった数十人の敗残兵が……?」
アレン自身、絶句していた。彼は十六の頃から戦場に立ち、戦術の天才と謳われてきた男だ。だからこそ、この光景がどれほど常軌を逸しているか、誰よりも理解できた。
そこへ、転がるように駆け寄ってくる者がいた。
「アレン殿下――! お救いいただき、心より感謝いたします!」
先ほどまで腰を抜かして震えていた指揮官の男――名をゴーティエという――が、満面の笑みで両手を広げていた。
「いやはや、危ういところでしたが、私の完璧な戦術が功を奏しましてな! あの薄汚い奴隷女を囮として前線に出す作戦が、見事にはまりましたぞ!」
ゴーティエは得意げに胸を張り、ジャンヌを顎で示した。
「殿下もご覧の通り、私の指揮があったからこそ、この大勝利が――」
「黙れ」
アレンの声は、低く、短かった。けれどそれだけで、ゴーティエの饒舌はぴたりと止まる。
アレンは馬を降り、戦場に残った足跡や血の跡、地形の使われ方を一瞥した。崖際に追い詰められて自滅した敵軍の隊列。少数の味方がどう動いたかが、泥の上にくっきりと刻まれている。それを読み解くのに、さして時間はかからなかった。
「お前の無能さなど、この戦場の足跡を見れば一目瞭然だ」
アレンは、地に向けていた視線をゴーティエへと戻す。
「お前は前線から逃げ出そうとしていた。違うか? その慌てた足跡が、ここから本陣の方角へ一直線に伸びている。これのどこが、囮を使った『作戦』だ」
「そ、それは……」
「黙れと言った」
ゴーティエは喉を詰まらせ、それ以上何も言えなくなった。
アレンは彼に背を向け、改めてジャンヌのほうへと歩を進めた。礼を尽くすように、彼女の前で軽く膝を折る。
「私はこの軍の総大将、アレンだ。――まず、礼を言わせてほしい。君の戦術、そして兵士たちに宿っていたあの異様な力。あれは一体、何なのだろうか」
彼の瞳には、警戒よりも純粋な興味が宿っていた。戦場の混乱を抜けてなお、目の前の事象を冷静に観察しようとする知性が、その奥に見える。
ジャンヌは、彼をまっすぐに見据えた。
「私はただのジャンヌ。目の前で理不尽に命が奪われるのを、黙って見ていられなかっただけです。それで、この旗を掲げました」
その声には気負いも誇張もなかった。ただ、当然のことを述べているだけだという、静かな確信があった。
アレンは、しばし言葉を失った。これだけの戦果を上げ、これだけの力を示しながら、少女の態度にはひとかけらの驕りもない。それどころか、瞳の奥には――何十、何百という修羅場をくぐってきた者だけが持つ、深い覇気のようなものが宿っている。
(この瞳は、何だ。まるで、歴戦の将のような……)
アレンの胸の内に、ただの興味とは違う何かが芽生えかけた、その時だった。
「で、ですが殿下! そのような身元の知れぬ小娘、しかも一人で数千の軍勢を消し去るなど、人間業ではございません! 魔女の類いに違いない! 今すぐ捕縛を――」
なおも食い下がろうとするゴーティエの声を、別の声が遮った。
「お待ちください、殿下!」
戦場に残っていた兵士たちが、いっせいに動いた。先ほどまでジャンヌの後ろで剣を振るっていた者たちが、アレンの前に次々と膝をつき、頭を垂れていく。
「我々を救い、この勝利をもたらしたのは、このジャンヌ様です!」
「我々は、この方の旗のもとで戦いました! ジャンヌ様を侮辱なさるのであれば――」
「我々は、国への忠誠を捨てる覚悟でございます!」
数十人の兵士が、揃ってそう言い放った。命を懸けて忠誠を誓ってきたはずの祖国の皇太子の前で、たった数時間ともに戦っただけの少女のために膝をつき、声を上げる。それは、誰の目にも明らかな異常事態だった。
アレンは、その光景にしばし目を細めていた。やがて小さく息を吐き、視線をゴーティエへと向ける。その目には、もはや興味の欠片もなかった。あるのは、底冷えするような怒りだけだった。
「前線から逃亡を図り、あまつさえ救国の功労者を奴隷呼ばわりし、愚弄した罪は重い」
「で、殿下、お待ちを、私はただ……!」
「連れて行け。爵位は剥奪、後日沙汰を申し渡す」
「そんな、殿下ァァァ――!」
悲鳴を上げるゴーティエが、左右から駆け寄った兵に両脇を抱えられ、引きずられるようにして去っていく。その後ろ姿を見送る兵士たちの目には、もはや同情の色など欠片もなかった。
静かになった戦場で、アレンは改めてジャンヌへと向き直った。膝をついたまま、彼女の手をそっと取る。
「ジャンヌ。君のその力があれば、この傾きかけた帝国を救うことができるかもしれない。どうか、我が軍の『聖女』として、私に力を貸してくれないか」
その言葉を聞いた瞬間――ジャンヌの瞳が、ひどく静かに翳った。
聖女。
かつて、その言葉のもとに祭り上げられた。神の声を聞いた乙女として、祖国を救う旗印として担ぎ上げられ、利用されるだけ利用された挙句、用済みになれば手のひらを返され、火刑台に送られた。
(また、同じことを言うのね)
兵士たちのざわめきが遠のいて聞こえる。ジャンヌは、アレンの手をそっと、しかし確かな意志をもって振り払った。
「お断りします」
短く、しかし揺るぎない声だった。
「私はもう、誰かのために掲げられる『聖女』――都合のいい人形になるつもりはありません」
周囲が、どよめいた。一国の皇太子からの誘いを、これほどあっさりと撥ねつける者がいるとは、誰も思っていなかったのだろう。アレンの側近たちも、目を丸くしている。
だが、当のアレンはといえば――怒りも、戸惑いも見せなかった。
むしろ、その口元に浮かんだのは、隠しきれない笑みだった。
「……面白い」
彼は膝を払って立ち上がると、ジャンヌの瞳をまっすぐに見つめ返した。
「ならば『聖女』としてではなく、一人の『対等な同盟相手』として、改めて交渉させてくれないか。君が望む条件は、すべて呑もう」
拒絶されたはずなのに、その瞳に宿る光は、むしろ先ほどよりも強くなっていた。意のままにならない者にこそ価値を見出す――そういう種類の男なのだろうと、ジャンヌは思った。
「ひとまず、私の本陣まで来てくれないか。話はそれからだ」
ジャンヌはしばし、彼の顔を見つめたまま黙っていた。やがて、小さく息を吐く。
「……温かい食事と、まともな服をいただけるなら」
ボロボロの軍旗を肩に担いだまま、ジャンヌは不敵に笑ってみせた。
「考えてもよろしいですわ、殿下」
その答えに、アレンは声を上げて笑った。焼け焦げた戦場に、場違いなほど明るい笑い声が響く。
兵士たちに護られながら、ジャンヌは帝国の本拠地へと続く道を歩き始めた。火刑台の炎にすべてを奪われたはずの少女の背中には、もう、誰かに従うだけの影はなかった。




