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第2話:神速の戦術と紅蓮の炎 〜無能な指揮官は置いていく〜

炎が敵の頭目を灰に変えた直後、戦場には束の間の静寂が訪れていた。


 誰もが声を失っていた。泥にまみれた少女が、ボロボロの軍旗を片手に、たった一撃で巨大な魔物を消し去った。それを目の当たりにして、すぐに言葉が出てくる者などいない。


 ジャンヌ自身、肩で息をついていた。先ほどの炎は、自分でも制御しきれているとは言い難い力だった。だが、安堵する間など、与えられるはずもなかった。


 地響きが、足の裏から伝わってくる。


「……噓でしょう」


 ジャンヌは思わず地平線を見やった。土煙を巻き上げながら迫ってくるのは、先ほどの先遣隊などとは比較にならない、おびただしい数の軍勢だった。角を持つ魔物の隊列が、地平線を埋め尽くすほどに連なっている。


「だ、ダメだ……! 今の炎はすごかったが、あの数を相手にしたら、ひとたまりもない……!」

「終わりだ……俺たちは、ここで終わるんだ……」


 束の間の希望は、瞬く間に絶望へと塗り替えられていく。先ほどまで剣を握り直していた兵士たちの顔から、再び色が失われていった。

その時だった。


「ど、どけ! どけと言っている!」


 後方の茂みから、恰幅のいい男が転がるように飛び出してきた。鎧こそ立派だが、刃こぼれ一つない、まるで実戦を知らない代物だ。胸の紋章からして、それなりの地位にある指揮官なのだろう。だが、その顔に浮かんでいるのは、指揮官としての覚悟ではなく、ただの保身だった。


「お前ら! 私が逃げる時間を稼げ! 盾になれ!」


 男は震える指で、ジャンヌを指さした。


「そ、そこの女だ! 泥まみれの怪しい小娘、魔女に違いない! 捕らえて敵にくれてやれ、囮になる! それで私は――」


 言葉は、最後まで続かなかった。


 ジャンヌが、男を一瞥したからだ。


 その視線には、怒りすら宿っていなかった。あったのはただ、底まで見透かすような、冷たい静けさだった。シャルル七世の宮廷で、保身ばかりを口にする貴族たちを何度も見てきた。戦の最前線に立ったことのない者ほど、声だけは大きい。それを彼女は、嫌というほど知っていた。


「戦う覚悟のない者は、邪魔です」


 声は荒げていない。それでも、その場の空気を一瞬で凍りつかせるだけの圧があった。


「下がって、震えていなさい。誰もあなたを当てにはしていません」


 男は何か言い返そうと口を開きかけたが、言葉にならなかった。ジャンヌの瞳に宿る何かに気圧されたように、へなへなとその場に尻もちをつく。誰も、その男を助け起こそうとはしなかった。


 ジャンヌはもう、男のほうを見てはいなかった。視線はすでに、迫りくる敵の大軍へと向けられている。


(陣形が、雑だわ)


 頭の中で、かつて幾度も指揮した戦の記憶が、自然と像を結んでいく。オルレアン包囲戦、トゥーレル要塞攻略――どれだけ寡兵で、どれだけ絶望的な状況でも、活路はどこかにあった。それを見つけ出すのが、自分の役目だった。


 敵の大軍は数こそ圧倒的だが、隊列はあまりに無造作だった。突撃の勢いだけに任せた、統率のない波。そして戦場の右手には、切り立った崖がある。あの地形を利用すれば――


「右翼の崖です」


 ジャンヌは振り返り、残った兵士たちに向かって叫んだ。数にすればわずか数十人。さきほどまで逃げ出そうとしていた者たちだ。


「あそこを使えば、数の利を崩せます。敵は雑に突っ込んでくる。崖際に誘い込めば、後続が前を押し潰し、自滅していく」


「で、ですが……数十人であの大軍を相手にするなんて……」


「数の問題ではありません」


 ジャンヌは、ボロボロの軍旗を再び高く掲げた。


「戦は、頭で勝つもの。私についてきなさい。勝利を、約束します」


 その声に応えるように、彼女の体から再び黄金の光が放たれた。


 今度の光は、兵士たちの体だけでなく、その手にしている武器や防具にも宿っていく。錆びついた剣の刃が、青白い輝きを帯びていく。ひしゃげていた盾が、まるで新品のように力を取り戻していく。


「な……なんだ、これ……」


 一人の兵士が、自分の剣を見つめて呟いた。


「力が、満ちてくる……。さっきまであんなに重かった剣が、羽根みたいに軽い……」


「俺は、確かに矢で射られたはずなのに……痛みすら感じない……」


 恐怖に支配されていた兵士たちの瞳に、まったく違う光が宿り始める。それは蛮勇ではなく、確信だった。


「この方の後ろにいれば――俺たちは、死なない」


 誰からともなく、剣を構え直す音が連鎖していく。たった数十人の敗残兵が、見る間に異様な気迫を纏った精鋭へと姿を変えていった。


 ジャンヌは旗を前へと突き出した。


「行きます――ッ!」


 数十人が、数千の軍勢へと正面から駆け出していく。誰がどう見ても、自殺行為だった。だが、その隊列に迷いはなかった。


 兵士たちはジャンヌの指示通りに動いた。先頭が崖際へと敵を誘い込み、横から回り込んだ数名が、密集した敵の隊列の側面を突く。統率を欠いた魔物の軍勢は、勢いのまま崖際へと押し寄せ、後続が前列を押し潰していく。


「面白いように崩れていく……!」

「これが、戦術というものか……!」


 驚嘆の声が、戦場のあちこちから上がった。数の不利は、もはや意味をなしていなかった。


 その異常事態に、ようやく敵本陣が動いた。後方に控えていた、ひときわ大きな影――敵の本隊を率いる存在が、ジャンヌの姿を捉えたのだ。


 咆哮とともに、無数の魔法弾と矢の雨が、ジャンヌただ一人を目がけて殺到する。


「お嬢様、危ない――!」


 兵士の悲鳴が響く。だが、ジャンヌは旗を掲げたまま、微動だにしなかった。


「――来なさい」


 旗を一振りした瞬間、彼女を中心に巨大な炎の壁が立ち上った。


 それは、かつて彼女自身を焼き尽くした、ルーアンの火刑台の炎だった。理不尽な裁きの象徴であったはずのその炎が、今は彼女の意志に従い、降り注ぐ攻撃のすべてを呑み込んでいく。矢も魔法も、炎の壁に触れた瞬間に灰となって消えていった。


 兵士たちは、ただ呆然とその光景を見上げていた。


 炎の壁の向こうで、ジャンヌは静かに息を吸い込んだ。


「今度は――私が、あなたたちを焼く番です」


 旗を敵本陣へと突き出す。


 その瞬間、炎の壁が形を変えていく。渦を巻き、伸び上がり、まるで意志を持つ生き物のように、巨大な炎の龍へと姿を変えた。咆哮一つ、空気を震わせる。


 炎の龍は地を這うように戦場を駆け抜けた。逃げる間も、防ぐ間もなかった。敵の本隊は、悲鳴を上げる暇すら与えられないまま、まばゆい光の中へと呑み込まれていく。


 数千の軍勢が、文字通り一瞬で蒸発した。


 あとに残ったのは、燃え尽きた大地と、静まり返った戦場、そして――ボロボロの軍旗を手に立つ、一人の少女の姿だけだった。


 誰もが、声を出すことすら忘れていた。ジャンヌはゆっくりと旗を下ろし、肩で息をつく。先ほどよりも大きな力を使ったせいか、視界の端がわずかに揺らいだ。


(この力の正体は、まだわからない。でも――)


 彼女は、振り返った。地に伏したまま尻もちをついている指揮官の男と、奇跡のような勝利に呆然と立ち尽くす兵士たち。その対比に、ジャンヌは小さく笑みをこぼした。


「さあ、戦は終わりました。負傷者を運びなさい。――今度こそ、誰も見捨てません」


 その声に弾かれたように、兵士たちが我に返って動き出す。歓声とも嗚咽ともつかない声が、戦場のあちこちから上がり始めた。


 ボロボロの旗を握りしめたまま、ジャンヌはまだ見ぬこの世界の空を見上げた。


(さて――ここがどこなのか、私が何者の体に宿ったのか。それを知るのは、これからね)

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