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第1話:炎に焼かれた聖女、異世界の戦場でボロボロの旗を掲げる

肌を刺すような熱だった。


 一四三一年、ルーアンの広場。集まった群衆の数は、かつてジャンヌがオルレアンを救ったときに彼女を迎えた歓声の数と、さほど変わらないように思えた。


 違うのは、彼らの口から出てくる言葉だった。


「魔女!」

「悪魔の手先め!」

「燃えてしまえ!」


 投げつけられる石、唾、そして憎悪。ジャンヌは処刑台の柱に縄で縛り付けられたまま、その一つ一つを浴びていた。

肌を刺すような熱だった。


 一四三一年、ルーアンの広場。集まった群衆の数は、かつてジャンヌがオルレアンを救ったときに彼女を迎えた歓声の数と、さほど変わらないように思えた。


 違うのは、彼らの口から出てくる言葉だった。


「魔女!」

「悪魔の手先め!」

「燃えてしまえ!」


 投げつけられる石、唾、そして憎悪。ジャンヌは処刑台の柱に縄で縛り付けられたまま、その一つ一つを浴びていた。


(神よ。私はただ、あなたのお告げに従っただけなのに)


 十三歳のあの日、ドンレミの村はずれで聞こえた声。フランスを救えと、王太子のもとへ行けと、その声は確かに告げていた。そして自分はそれに従った。鎧をまとい、剣を取ったことなど一度もなかった農家の娘が、馬にまたがり、軍を率いた。オルレアンを解放し、シャルルに戴冠の道を開いた。それの、どこが罪だというのか。


(私を見捨てたのは、あなたたちのほうではないか)


 かつて聖女と呼び、その馬の前にひざまずいた民衆が、今は石を投げてくる。歓喜の涙を流していた老婆が、隣の男から松明を受け取って振り上げているのが見えた。

 救ったはずの国王シャルル七世は、ついに最後まで、彼女を救うために指一本動かさなかった。身代金を払うことすらしなかった。あの戴冠式で、自分が捧げた忠誠は、いったい何だったのだろう。


 足元に火がつけられる。


 炎は瞬く間に薪を這い上がり、ジャンヌの素足を、脛を、舐めるように包んでいった。激痛が脳天まで突き抜ける。喉から出かけた悲鳴を、彼女は奥歯を噛んで押し殺した。


「それでも、私は……!」


 天を仰ぐ。煙で曇る視界の向こうに、まだ何かを探そうとした。

 意識が、白く塗りつぶされていく。


    *


 次に感覚が戻ってきたとき、ジャンヌの頬を打ったのは炎の熱ではなく、ぬかるんだ泥の冷たさだった。


「……っ」


 飛び起きるように身を起こす。耳をつんざく金属音、怒号、そして悲鳴。これは、知っている音だ。何度も戦場で聞いた音。


 だが、何かがおかしい。


 自分の手を見る。火傷の痕がどこにもない。それどころか、記憶にある十九歳の自分の手よりも、ずっと小さく、細い。視線を下ろせば、見覚えのない粗末な衣服――没落した貴族の娘が着るような、泥と血で汚れたボロボロのドレスが、見知らぬ少女の体を包んでいた。


(これは……私の体、ではない?)


 考える猶予はなかった。顔を上げた先に広がっていたのは、紛れもない地獄だった。


 巨大な角を生やした魔物の群れが、戦列を崩された兵士たちを次々と斬り伏せている。盾も槍も、悲鳴の前ではただの飾りのようだった。土は血を吸ってどす黒く染まり、退却する者、倒れる者、立ち尽くす者で戦場は埋め尽くされている。空には黒煙が立ち上り、遠くで陣太鼓が乱れたリズムを刻んでいた。指揮系統は、もはや崩壊しかけている。


 誰の軍なのか、ここがどこの戦場なのかすら、ジャンヌにはわからなかった。ただ一つわかるのは――この光景には、覚えがあるということだった。何度もくぐってきた、敗走の予兆。このまま誰も食い止めなければ、戦列はものの数分で総崩れになる。


「ひぃっ……ひぃぃ! もうだめだ、退却だ、退却ぉぉ!」


 すぐ近くで、年若い兵士が腰を抜かしたまま後ずさっていた。鎧から察するに、それなりの家の出の騎士見習いだろう。だが今のその顔には、誇りも覚悟も残っていない。ただ、死から逃げようとする獣の目だけがあった。


 その背に、巨大な斧を担いだ魔物の影が伸びる。


「――!」


 ジャンヌの中で、何かが弾けた。


 国に裏切られた絶望は、まだ胸の奥にわだかまっている。神への問いも、消えてはいない。けれど、目の前で理不尽に踏みにじられようとしている命を、黙って見ていることだけは、彼女にはできなかった。


 それは思考ではなく、本能だった。オルレアンの城壁の上で、何千もの兵を率いて駆けた、あの聖女にして将の本能。


 気づいたときには、ジャンヌは泥の中に転がっていた一本の旗――敗走する軍が打ち捨てていった、ズタズタに引き裂かれた軍旗を、両手で掴み取っていた。


「立ちなさい」


 声は、自分でも驚くほど通った。少女の細い喉から出たとは思えないほど、戦場の喧騒を裂いて響いた。


 ジャンヌは旗を高く掲げ、立ち上がる。泥にまみれたその旗布は、もはや紋章すら判別できないほどボロボロだったが、構わなかった。旗とは、布の美しさで人を動かすものではない。


「――戦意を捨てるな! 命を諦めるな!」


 戦場の只中で、彼女は叫んだ。


「武器を持ちなさい、若き兵士たち! あなたたちはまだ、何も終えてはいない!」


 その言葉と同時に、ジャンヌの体から黄金の光が溢れ出した。光はさざ波のように戦場へと広がっていく。


 逃げ惑っていた兵士たちの足が、ふいに止まった。


「な……体が、軽い……?」

「さっきまでの恐怖が、嘘のように……」


 深手を負い、地に伏していた兵士の傷口が、光に包まれて見る間に塞がっていく。彼は信じられないという顔で自分の腹を、何度も触った。


「お、俺の傷が……! お、おい見ろ、塞がってるぞ!」

「な、なんなんだあの光は……負ける気がしない……!」


 恐怖に支配されていた戦場の空気が、明らかに変わっていく。膝をついていた者たちが、剣を握り直し、再び立ち上がっていく。


 ジャンヌ自身、驚いていた。これが何なのか、理屈で説明はできない。ただ、体の奥底から確かに伝わってくる感覚があった。


(これは――かつての、私の力)


 しかし、感慨に浸る間も与えられなかった。彼女の咆哮に怒り狂ったのか、ひときわ巨大な魔物――角を持つ群れの頭目とおぼしき一体が、地を割るような咆哮を上げてこちらへ突進してきた。


 周囲の兵士から悲鳴に近い声が上がる。


「お、お逃げください、お嬢様……っ!」


 だがジャンヌは、一歩も退かなかった。


 迫りくる巨躯を見据える彼女の瞳の奥に宿っていたのは、つい先ほどまで自分の肉を焼いていたはずの、紅蓮の炎の記憶だった。


(私を焼いた炎よ)


 胸の中で、絶望と怒りと、それでも消えなかった意志が一つに溶け合っていく。


(今度はその力を、この理不尽を焼き尽くすために使いなさい)


「――燃えなさい!」


 旗を大きく振るったその瞬間、ジャンヌの手から放たれたのは、目もくらむほどの神聖な炎だった。それは矢のように一直線に飛び、突進してきた魔物を呑み込む。


 断末魔の咆哮すら長くは続かなかった。巨体はあっという間に炎に包まれ、灰となって戦場の風に散っていった。


 静寂が、その場を支配した。


 誰もが、言葉を失って立ち尽くしている。ボロボロの旗を肩に担いだまま、ジャンヌは焼け落ちた敵の跡を見つめ、小さく息を吐いた。手にはまだ、炎を放った余韻のような熱が残っている。火に焼かれて死んだはずの自分が、今度はその炎を味方につけている。皮肉なものだと、彼女は思った。


「お、おい……見たか、今の……」

「化け物の頭目を、一撃で……」


 ざわめきが波紋のように広がっていく。それは恐怖ではなく、明らかに違う色を帯びた声だった。


「……まだ、終わってはいないわ」


 彼女は振り返り、呆然とこちらを見つめる兵士たちに向かって、不敵に笑ってみせた。ここがどこで、自分が何者の体に宿ったのか、まだ何もわかってはいない。けれど、目の前で命を諦めかけていた者たちがいる以上、答えはあとで探せばいい。


「さあ、立ち上がりなさい。この戦場で、まだ戦う意志がある者は」


 ボロボロの軍旗を風にはためかせながら、ジャンヌ・ダルクは、見知らぬ世界での最初の一歩を踏み出した。

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