第5話:私は私の旗を掲げる 〜奇跡は神ではなく、人間の手の中に〜
決戦の朝、ジャンヌは誰よりも早く目を覚ました。
まだ薄暗い天幕の中で、彼女はしばらくの間、自分の手のひらを見つめていた。火傷の痕一つない、けれど確かに、たくさんのものを握りしめてきた手だった。剣を、旗を、そして――かつては、誰かの手も。
(今日で、終わる)
誰に向けた言葉でもなかった。ただ、そう思っただけだった。
誰もが「進軍不可能」と切り捨てた左の渓谷。切り立った断崖が両側からそそり立ち、見上げれば首が痛むほどの高さだ。
その前に整然と並んだ兵士たちを、ジャンヌは一人ずつ見渡した。震えている者もいる。だが、その目に宿るのは、もう恐怖だけではなかった。
「怖くないと言えば、噓になります」
ジャンヌは静かに、それでいてよく通る声で言った。
「私だって、怖い。けれど、怖いままここに立っていることに、意味があると思うのです。――行きましょう」
ボロボロの軍旗が、高く掲げられる。
次の瞬間、全軍を黄金の光が包み込んだ。光は単なる輝きではなかった。骨の髄まで染み渡るような、確かな力の奔流だった。
「な……っ、体が羽根みたいに軽い……!」
「ジャンヌ様の後ろなら、崖すら平地だ……!」
兵士たちは歓声を上げながら、垂直に近い岩肌へと取りついた。先頭を行くジャンヌの旗が、夜明けの空に光の尾を引いていた。
*
奇襲は、見事に決まった。
正面ばかりに兵を伏せていた敵軍は、背後からの強襲に対応できず、瞬く間に崩れていく。
「本当に、やり遂げるとは……!」
円卓でジャンヌを侮っていたはずの老将軍が、戦況を見つめながら呻くように呟いた。その声に、もう侮蔑の色はなかった。
「あの少女は……本物の戦神だ」
勝利は、もう手の届くところにあった。だが――その瞬間、頭上の空に亀裂が走った。
世界そのものが薄布のように引き裂かれていくかのような、異様な裂け目。その奥から、目を焼くほどの光があふれ出してくる。
光の中から姿を現したのは、人ならざる輝きを纏った存在だった。この世界の教会が頂点に戴くという、神の使者。
「ジャンヌよ」
使者の声は、戦場の喧騒すべてを押しのけて響いた。鈴の音にも似た、あの懐かしい――そして今は、ひどく遠く感じる声色だった。
「神の示したルートを拒み、己の浅知恵で勝利を得ようなど、傲慢が過ぎる。お前は神の用意したシナリオを乱す、不届き者だ」
見えない圧力が、戦場全体を押し潰していく。
「が……っ」
「う、動け……ない……」
あれほど勇猛だった兵士たちが、次々と膝をつき、武器を取り落としていく。
その只中で、二人だけが膝をつかずにいた。
ジャンヌと――その前に剣を抜いて立ちはだかった、アレンだった。
「我が軍師に、指一本触れさせはしない」
声は震えていなかった。圧力に押し潰されそうになりながらも、彼は両足を踏ん張り、その場に立ち続けていた。
「相手が神だろうと――彼女を奪うことは、断じて許さない」
脂汗を流しながら、それでもアレンは退かなかった。命を懸けたその背中に、ジャンヌの胸が、静かに熱くなる。
誰かが自分のために、こんなふうに体を張ってくれる。それがどれほど得難いことか、彼女は誰よりも知っていた。フランスの戦場で、何万人もの兵を率いながら、最後には誰一人として、自分のために剣を抜いてはくれなかったのだから。
「下がっていなさい、アレン」
ジャンヌは静かに、しかしはっきりとそう告げて、彼の肩にそっと手を置いた。アレンが驚いたように振り返る。
「ありがとう。――でも、これは私の戦いです」
彼女はゆっくりと前へ進み出た。圧力の只中で、その足取りに迷いはなかった。
使者を見上げる。記憶の奥底から、あの日の光景がよみがえってくる。煙の臭い、炎の熱、群衆の罵声。すべてを神に捧げ、すべてを神に奪われた、あの日。十三歳の自分が、果樹園で初めてあの声を聞いたときの、胸が震えるほどの歓喜まで。
(あの頃の私は、本当に嬉しかった。選ばれたのだと思った。世界のために、自分の人生に意味があるのだと、信じられた)
(でも、違った)
「かつての私は、神を信じ、神の声に従いました」
声は静かだった。だが、戦場のどんな怒号よりも、はっきりと響いた。
「そして、火に焼かれました。あなたたちの言う神とやらは、あの炎の中で泣き叫ぶ私を、結局、一度も救いには来なかった」
ジャンヌは、手にした軍旗を、地面に深く突き立てた。
「ですが、今の私は違う」
膝をついていた兵士たちが、その声に、ゆっくりと顔を上げていく。
「私は、私を信じてくれる人間のために、この旗を掲げている。誰かが書いたシナリオに従うために、生きているのではない」
彼女の瞳が、紅蓮に燃え上がった。
「神の作ったシナリオなど――私の炎で、焼き尽くしてあげます」
その言葉と共に、ジャンヌの体から炎が噴き上がった。
それは、かつてルーアンの広場で彼女自身の肉を焼き尽くした、あの紅蓮の炎だった。だが、もはやその色は違う。理不尽と憎悪に満ちていたあの炎は、今、純白に近い輝きを帯びた、神聖な炎へと姿を変えていた。
「これが――私の答えです」
ジャンヌが旗を大きく振るうと、炎は巨大な渦となって天へと駆け上がった。白い奔流が使者の姿を呑み込み、まばゆい光の粒子となって、静かに空へと溶けて消えていく。崩れていた敵軍の残党も、その余波に呑まれるように沈黙した。
奇跡ではなかった。
それは、一人の人間が、自らの意志だけで成し遂げた勝利だった。
*
静寂が、戦場を包んだ。
やがて、誰かが嗚咽混じりに彼女の名を呼んだ。それが波紋のように、戦場いっぱいに広がっていく。
「ジャンヌ……! ジャンヌ様だ……!」
「神にすら、打ち勝った……! あの方こそ、我らの本物の聖女だ……!」
将軍も、一般の兵も、誰もが涙を流しながら歓声を上げていた。
ジャンヌは、その声の中に立ち尽くしていた。
かつてフランスの民は、彼女を「魔女」と呼び、石を投げた。歓喜の涙を流していたはずの老婆が、最後には松明を振り上げた。信じていたはずの国王にすら、最後まで見捨てられた。
あの日、火刑台の上で、自分は確かに一人だった。どれほど叫んでも、誰の手も届かなかった。
けれど、今は違う。
戦場いっぱいに響くこの声は、誰かに命じられたものでも、利用するための称賛でもない。ただ純粋に、ジャンヌという一人の人間へ向けられたものだった。
頬を、一筋の涙が伝った。
それは、悲しみの涙ではなかった。生まれて初めて――いや、生まれ変わって初めて流す、報われた涙だった。
誰かが、隣に立った。振り返らなくても、それが誰かはわかった。アレンは何も言わず、ただ彼女の隣に立ち、同じ歓声を浴びていた。
その温かさに、ジャンヌはそっと目を閉じた。
*
それから数週間後。帝国の王都は、戦勝を祝う祭りの熱気に包まれていた。
通りには花が撒かれ、子供たちはボロボロの旗を模した小さな布切れを振り回しながらはしゃいでいる。国を救った英雄として、ジャンヌの名はすでに帝国中の隅々にまで知れ渡っていた。
あの軍議で彼女を鼻で笑った老将軍たちは、今では誰よりも深く頭を垂れる。かつてジャンヌの背後で腰を抜かしていた若い騎士見習いも、今では自ら志願して前線に立つ、一人前の兵に育っていた。
ジャンヌは、その変化を少し離れたところから眺めていた。称賛も歓声も、フランスにいた頃には確かにあった。けれど、あの時の称賛はいつも、何かと引き換えだった。期待に応えている限りの、条件付きの愛だった。
今、この街にあるものは違う。誰も、彼女に何かを差し出せとは言わない。ただ、彼女がそこにいることを、喜んでくれている。
それだけのことが、こんなにも胸を満たすのだと、ジャンヌは初めて知った。
王城の庭園で、アレンはジャンヌの前に跪いていた。今度は軍師としてではなく、ただ一人の男として。
「ジャンヌ」
差し出された手のひらに、小さな箱が乗っている。
「神のいないこの国を、これから私と共に作ってくれないか。君が行きたい場所には、どこへでも、私がついていく」
ジャンヌは、しばらくその言葉を黙って受け止めていた。火刑台の上で絶望に焼かれたあの日から、ここまで歩いてきた長い道のりが、瞼の裏を巡っていく。
神の声に従い、すべてを捧げ、そして裏切られた日々。
目覚めた泥の上で、理不尽に抗うために旗を掴んだ日。
誰かの駒になることを拒み、自分の意志だけを頼りに歩いてきた、すべての日々。
もう、誰かのお告げに従う必要はない。
もう、誰かに祭り上げられ、利用される人形になる必要もない。
そして今、目の前には、自分を道具としてではなく、一人の人間として見てくれる人がいる。
ジャンヌは、アレンの手をそっと取った。その指先は、わずかに震えていた。長く張り詰めていた何かが、ようやくほどけていくような感覚だった。
「いいでしょう」
声が、少しだけ掠れた。けれど、浮かべた笑みは、かつてないほど穏やかで、それでいて悪戯っぽいものだった。
「ただし、アレン。私の戦術は、高くつきますよ」
アレンは一瞬呆気にとられたあと、堪えきれずに声を上げて笑った。立ち上がり、ジャンヌの手をしっかりと握りしめる。その手のひらの温もりに、ジャンヌはそっと目を細めた。
青空の下、二人は並んで歩き出した。
ボロボロだった軍旗は、今は王城の最も高い塔に掲げられている。それは、神が与えた奇跡の証ではない。一人の少女が、自らの意志で、そして誰かと共に歩むことを選んで掴み取った、勝利の証だった。
炎に焼かれた聖女は、もう誰の人形でもない。
自分の足で、自分が選んだ未来へ、隣にいてくれる人と共に、歩き出していた。




