第49話-B 高校1年生 ~出発前日 2~
晴基の家では、台所で小二の妹が椅子に正座し、テーブルに置いたボウルの中で泡立て器を回していた。
その隣で、中二の妹が見守る。
「がんばって。まだ混ざってないからね。ダマがあるよ、見える?」
下の妹は小さく頷いて、もくもくと続ける。
「うまくいってる?」
晴基がキッチンを覗き込むと、
「お兄ちゃんはまだ見ちゃダメ! できたら呼ぶ」
「はいはい……」
下の妹に口だけで言われ、踵を返した。
リビングに戻り、ソファに座る。
テレビから聞こえるのは、日曜のワイドショーの明るい声。
(……明日から、こういうのじゃなくなるんだよな)
少しモヤっとしたが、妹たちの声がそれをすぐに溶かしていく。
「あーっ、こぼれたー!」
「ぎゃー、やっぱりこうなる!
触らないで、そこ!」
晴基はキッチンに目をやって、じきに視線を戻した。
目を閉じて、その音を聞く。
「お姉ちゃんが来ちゃうよ。がんばって」
「うん」
上の妹が下の妹を励ます声。
今日の昼頃、晴基の三歳年上の姉が下宿先から帰省してくる。
そのため、両親は買い出しに出かけ、妹たちはホットケーキを作ると言い出した。
晴基は、「ホットケーキは姉と一緒に作ったらいいんじゃないか」と提案してみたが、下の妹に却下された。
作っておいて驚かせたいらしい。
「お兄ちゃん、これから焼くよー」
上の妹が伝えに来た。
「ああ。最初だけ見るか」
キッチンに行くと、さっきの騒ぎの現場はすぐにわかった。
粉の跡が残る床を踏まないようにして、コンロに近づく。
「火を使うところだけ、お兄ちゃんに見てもらうよ」
上の妹が言うと、下の妹は神妙な顔で頷いた。
上の妹がコンロに火を点け、フライパン全体に油を回す。
最初のホットケーキを焼き始めた。
甘い匂いが、じわっと部屋中に広がった。
焼けた生地とバターの匂い。
一枚目をひっくり返す様子を見届けてから、晴基が言った。
「この感じでやれば大丈夫そうだな」
上の妹が頷く。
「この後も気をつけてやるんだぞ。ちゃんと言うこと聞いてな」
下の妹に言ってから、晴基はキッチンを出た。
どんどん部屋中にいい匂いが広がっていく。
再び騒がしくなるかと思ったら、思ったより静かだ。
火を使う段階になって、下の妹が大人しくなったらしい。
少しして、
「ちっちゃいの、できた!」
下の妹が晴基のところに持ってきた。
「いいじゃん」
焦げ跡つきのホットケーキが乗った皿。
「食べて!」
晴基はつまんで、ひとくちで食べた。
「うまいじゃん」
そう言った瞬間、妹は満面の笑みを見せた。
「やった!」
小走りでキッチンへ戻っていく。
「わたしもフライパンにのせたい!」
下の妹が急に勢いづいたようだ。
「えーっ。
あんた届かないから。ここに椅子持ってきて」
そうこうするうちに、両親が帰宅した音。
「いい匂いがするな」
父親が居間に入ってきた。
「おかえり」
「ただいま」
母親はキッチンに直行したらしい。
台所がさらに賑やかになった。
「そっちこそ、いい匂いさせてるんじゃん」
父親の持つ、積み上がった平たい大きめの箱からは、焼けたチーズとトマトソースの匂いが漂っていた。
「けどさ、ホットケーキがあるってわかってて、ピザ買ってきたわけ?」
晴基は呆れた声で言った。
「ははっ、これ、つい食べたくなってさ。みんなで食べれば、たいした量にならんだろ」
「……まぁな」
晴基は軽く笑った。
それから父親はキッチンに入っていった。
「お、三人でがんばったのか」
「お兄ちゃんはちょっと見てただけ」
そんなやり取りが聞こえてくる。
女性陣が圧倒的に多い家の中で、晴基は父親のことをよく見ていた。
子どもの頃はよく遊んでもらったし、運動が好きになったのも父親の影響。
考え方も似ていると言われる。
台所から戻ってきた父親は、穏やかな声で晴基に言った。
「晴基がいたから安心して出かけられたよ」
「いや、俺はほんとにいただけだし。あの二人が頑張ってたよ」
「はは、そうか。
……ホットケーキが終わるまで、もうちょっとかかるな」
父親は時計を見た。
それから何も言わずにソファに腰掛ける。
キッチンを覗きに行くと、ホットケーキを焼いている横で、母親がサラダを作っていた。
「何か、手伝うことある?」
そう言って台所に入りかけると、
「ねぇ、なんか、いい匂い」
聞き慣れているけど久しぶりの声に、みんなが反応する。
いつの間にか、姉が台所の出入り口に立っていた。
「あっ、お姉ちゃん!」
「おかえりなさい」
妹たちがはしゃぐ。
「ただいまー」
荷物を抱えた姉の声は元気そうだ。
「お昼だから、荷物置いてここに来て」
母親が言うと、姉は部屋に荷物を置きに行った。
上の妹が晴基を見た。
「お兄ちゃんは、明日、友達と出かけるんでしょ?」
「ああ」
「せっかくお姉ちゃん来たのに」
「だからいいじゃないか。遊んでもらえよ。
バイト代で何か買ってくれるかもしれんよ」
言いながら、胸の奥に小さな波が立つのを感じた。
部屋から戻ってきた姉が、テーブルを見て言った。
「なになに、お昼ごはん、ホットケーキとピザなの?
なんかおかしくない?」
その場に笑いが起こった。
「でも、どっちもおいしそう」
姉が笑うと、みんな、嬉しそうに笑った。
「元気そうじゃん」
晴基が言うと、笑顔が返ってくる。
「うん。あんたも高校楽しい?」
「ああ」
晴基は気づかれないように、小さく息をついた。
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昼ごはんを終えると、妹たちは居間のソファに沈んで眠っていた。
みんなにホットケーキを褒められて、満足したようだ。
晴基はタオルケットをそっとかけてやり、テレビの音量を落とす。
姉は疲れたと言って、自分の部屋に行った。
一気に静かになったリビング。
外から、蝉の声だけが遠く聞こえる。
――時間が止まったようだ。
(ここからいなくなるわけじゃないんだけど……)
思わず、長く息をつく。
(荷物……見とくか。
女子たちほどじゃないだろうけど、健斗よりはきっと持ち物が多いだろうな)
(あいつ、ちゃんとやってんのか?
絶対「現地調達でなんとかなるっしょ」とか言いそう)
「どこで調達するのか、知らねぇけどなぁ」
思わず、口をついて出た。
鞄の中で荷物を少しずらしながら確認する。
「よし」
ファスナーを閉じる音が部屋に響く。
(……みんな、馴染めるといいけど)
戦うために行く。
楽しいだけじゃないだろう。
でも、最初から不安を抱えてたら、向こうで誰かが崩れたとき支えきれない。
(何があっても、四人でやっていくしかない)
そんな自分の考えに、少し驚く。
いつの間に、こんなふうに腹を括っていたんだろう。
(……明日の今頃は、もういないんだな)
※※※
由奈の祖父母の家では、お盆で帰省してきた親戚たちがテーブルを囲んでいた。
昼前に親戚が到着してから、家の中はずっと賑やかだ。
父親の兄妹が、それぞれ家族を連れて帰省している。
従兄弟は三人。
二人は由奈より年上。
一人は葉太と同い年。
由奈以外、全員男子。
昼食後、なんとなく、いとこ同士で居間に集まる。
居間のテーブルにはお茶とお菓子。
台所では、大人たちの楽しそうな声。
年下の二人はゲームの話で盛り上がっている。
高校生の由奈と二番目の従兄は、地元の国立大学に通う最年長の従兄の話を聞いていた。
「二人とも、勉強、順調だろ。だったら、俺の大学には入れるって」
「俺はそこ入れたら御の字かな」
「私はまだ具体的にピンと来ないけど……」
「由奈は数学より国語とか得意だろ」
「でも、私、科学コースにいるからさ」
「そっか。そういうとこって授業数多いよな。
もっと上の大学狙えそうだ」
「うーん、どうかなぁ」
年下組は相変わらずゲームの話で盛り上がっている。
そのうち、年上組の話題が自然に変わった。
「なぁ、子どもの頃、庭の隅っこから入れる隣の家との間の通路、歩いたじゃん。
あれ、ちょっとした冒険みたいだったな」
「そうそう。あんなの、すぐ通り抜けちゃうんだけどな」
「私、今でも、たまにあそこ歩くとワクワクする」
「行く前に準備するんだよな。
敵の基地に繋がってる設定だから」
「おもちゃの刀や木の棒持って行ったなぁ」
「そういや、いつもチャンバラもしてたな」
「うん。あれ、楽しかった」
「由奈が結構強かったんだよな」
「あれ、みんなが来たときしかできなかったから」
「そりゃあ、他の女の子はやりたがらないって」
「あはは、だよね」
子どもの頃から、男の子と一緒に行動するのは、由奈には当たり前だった。
しかし――
小学校ではそれが裏目に出て、「女子より男子と仲がいい」と、クラスの女子たちに嫌な目で見られたこともあった。
年齢を追うごとに、女子同士の空気も少しずつ分かるようになった。
けど――
(やっぱ、こういうの、気楽だな)
そんなことを思いながら、小さく息をついた。
「この後、何する?」
「うーん、外、暑いからなぁ。
こんな感じで話してるしかないか?」
「きっとお母さんたち、そのうち買い物に行くよ。それについてく?」
「そうだな」
由奈は年下二人の方を見た。
「ねぇ、あっちでゲームする?」
「うん、しよ!」
「よし、じゃ、みんなでできるやつ」
全員立ち上がった。
従兄弟たちとゲームで盛り上がる午後。
ソファに座ってお茶を飲みながら、由奈はぼんやりと思う。
(明日のこの時間は、ここにいないんだな)
けれど同時に、
(帰ってきたら、またみんなに会える)
そう思って、少しだけほっとする。
夕方になり、みんなで近所の大型スーパーへ行った。
店内は人でいっぱいだった。
お盆用の刺身や寿司が並ぶ売り場。
(一年で一番、楽しくて穏やかな時間かもしれない)
「これで足りる?」
「もっといるよね?」
母親と伯母が、二人の従兄が持つかごに、次々と肉、野菜、刺身などを重ねていく。
叔母は従弟と葉太と一緒に、お菓子を見て回っている。
帰り道、車の後ろには、買い物袋がぎっしり積まれていた。
夜は寿司、焼肉、刺身、ポテトサラダ。
どれも、あっという間になくなっていく。
食後のデザートが次々と並ぶのに、まだ晩酌している父親たち。
親戚は、祖父母の家に泊まっていく。
だから、明日もこの家では楽しい時間が続く。
「明日は何する?」
「ごめん、明日は昼間、友達と会うんだ」
「なんだ。じゃ、俺たちだけでどっか行く?」
由奈は目を伏せた。
(……ここにいたいな。明日も絶対楽しいはず。
でも、行かなきゃいけないんだけど)
この笑い声が絶えない空間が、現実のものかどうか、わからなくなる。
(あっちにも、こうやって笑ってる人たちがいるんだから)




