第49話-A 高校1年生 ~出発前日~
8月13日(日)
午前中、桂花は母と車で少し行ったところにあるスーパーへ出かけた。
弟妹がいると助手席には妹が座る。
今日は母と二人なので、桂花が助手席。
「やっぱり、いつもより混んでるね」
少しの間、車を停める場所を探しながら母が言った。
店舗の近くに停められなかったので、陽射しの中を少し歩いた。
店内では、桂花がカートを押す。
母は食料品を買い物かごに入れていく。
家族連れが多い。
桂花と母――二人のときは落ち着いた雰囲気になる。
(あの二人がいないと、全然違うな)
中二の弟も小六の妹も、近頃、母との買い物に行きたがらなくなった。
今日は父親は仕事で家にいない。
父親は、夜勤の周期が替わるタイミングになると、日曜日の午前中から出勤する。
そういう日は、家の空気が穏やかだ。
(明日も父さんは家にいないから、出て行きやすくてよかった)
「桂ちゃん、お昼はここのお惣菜にしようか」
母が総菜のコーナーで立ち止まった。
(お母さんから名前で呼んでもらえるの、こういうときくらいだな)
(二人だと、いつもとちょっと違う感じがするから……)
母を独り占めしたいわけではないけれど――
「うん。ここのコロッケ、美味しいしね」
桂花はそう言って、母に一歩近づいた。
「どうしたの?」
母が目を細めて桂花を見た。
桂花は少しだけ母を見て、何も答えなかった。
二人でじっくり眺めながら決める。
コロッケ、棒棒鶏サラダ、冷やしうどんも。
「これで足りる?」
「うん……十分だよね」
袋を提げて車に乗り込んだ。
夏の午後に向けて熱気が積もっていく。
母がふと桂花の方を向いた。
「桂ちゃん、今日は家にいるんでしょ? 最近、よく出かけてるから」
「あ……うん。夏休みは由奈と会えるから、ついね。
でも、今日は家にいる」
母は笑顔で言った。
「さっき買ったゼリー、おやつに食べようね」
「うん」
「そういえば、由奈ちゃんのお家でお泊まりしたお礼、何かしないとね」
「うん。そのうちね」
「由奈ちゃん、元気そうだった? あの子の学校、勉強大変でしょ」
「うん。でも、由奈、楽しそうだよ」
車の助手席の帰り道、いつもの景色。
桂花は周りをちらちらと見た。
(この景色、しばらく見なくなるのかぁ)
帰宅すると、弟妹がテレビを観ている音がする。
「ただいま」
桂花は袋を持って台所へ向かった。
冷蔵庫を開けて、食料品をしまった。
居間の方からは、母と弟妹の声。
桂花はその音に集中した。
「今日、こっちでテレビ観ながら食べようか」
母の声が飛んできた。
「お姉ちゃん、台所からお皿持ってきてー」
「おー、コロッケじゃん」
弟の明るい声も聞こえた。
桂花が皿を持って居間に行くと、ローテーブルに買ってきた惣菜が並べられていた。
桂花が台所へ戻ると、母がすぐに入ってきて、コップを人数分用意した。
(麦茶かな)
桂花はコップをお盆に並べた。
「ありがとう。
私もすぐ行くから、お姉ちゃんもあの子たちと食べてて」
「うん」
居間では、弟がさっそくコロッケに箸を伸ばした。
「早ぁ。
ちょっと待てばいいのに」
妹が呆れたように言った。
桂花と妹は母を待つ。
テレビから昼のバラエティ番組が流れている。
なんでもない日曜日。
「あら、待っててくれたの。ありがとう」
母が麦茶を一人ずつに配った。
「うん、早く食べよ」
妹が母に言った。
「いただきます」
(このコロッケ、相変わらずおいしい)
桂花はゆっくりと味わった。
***
健斗は、少し遅めに起きた。
夏の朝の光が、カーテン越しにじわりと差し込む。
階下からは、フライパンの油の音と、妹の笑い声。
階段を降りると、妹はすでにエプロン姿で、母の横で野菜を洗っている。
「おはよー」
母が笑って言った。
「……おはよ」
テーブルにつくと、妹が朝食を運んでくれた。
トーストとベーコンエッグとサラダ。
コップに牛乳を注いで、食べ始めた。
「ごちそうさま」
食後、健斗は自分の部屋の椅子に座ってスマホを見ていた。
いつもと変わらず、目的もなく見ている。
(あー、準備しなきゃな……)
昨日、買ってきたものをリュックに入れたきり。
(せめて誰かとLINEしながら準備したら、捗るかなぁ)
なんとなく、相手の顔を思い浮かべかけていると、ノックもせずに妹が入ってきた。
「なに、急に」
少しぶっきらぼうな口調になる。
「あ、ごめん」
妹の亜美は軽く言った。
「ねぇ、今日は家にいるの?」
「……うん」
「ふーん。最近よく出かけてたじゃん?」
「……そうかな」
「うん。彼女でもできたのかと思った」
「は?」
亜美は健斗を見下ろしてから、すっとベッドに座った。
健斗は亜美の顔を見た。
――もの言いたげな顔。
「ねぇ、お兄ちゃん……最近どうしたの? なんかあった?」
(うわ、答えにくい質問来た……)
健斗は少し間を置いて答えた。
「……別に。普通だし」
「まさか、小学校時代の同級生と付き合い始めたとか?」
「はぁ?
なんでそんなこと……」
「だってさぁ、夏休み入ってから急に忙しそうなんだもん。
学校の日はつまらなさそうで、土日でも家でずっとゲームしてたくせに。
夏休みになってから、しょっちゅう外に行ってるし、筋トレとかしだしてさ」
(よく見てるなぁ……)
「しかも、急に小学校のこと話したり。
そういや、分厚い本読んでたこともあったよね。あれ、びっくりした」
ふと、亜美の目つきが少し鋭くなった。
「とにかく、見てて変なんだってば。
もう、誰かの影響としか思えなくて。
だから、彼女でもできたのかなって。
……小学校のとき、お兄ちゃんのこと好きな子、結構いたでしょ?
だから、そういう子と……」
「は?……知らねーし」
健斗はスマホに視線を落とした。
「えー、バレンタイン、いつも何人かにもらってたじゃん」
亜美は笑いながら続けた。
「ねぇ、本と言えば、お兄ちゃんのクラスにいた、佐山由奈さん」
健斗はスマホをいじる指を止めて顔を上げた。
「読書感想文でよく表彰されてた。
あの人、いいよね。
一緒に遊んだことあったけど、優しくて楽しかった」
健斗の心臓の音が少し速くなる。
「……へぇー、そうなんだ。
いつ?」
(亜美と由奈が話してたなんて、全然知らなかった。
……てか、なんで俺だけ知らないんだ?)
「小学校のとき、違う学年の子と遊ぶ時間あったじゃん。あれで、同じグループだったことあった」
「へぇ」
「年下とも普通に友達みたいに話してくれてた。
でも、ちゃんと年上らしいところもあって。
こういう人、“お姉ちゃんになってほしい”って思ってた」
「え……そうなんだ」
「私、言ったんだよ、実際。
『お姉ちゃんになって』って」
健斗は目を瞬いた。
「佐山さん、そのとき、他の子にも同じこと言われてるって笑ってたよ。
だから、私も何回も言っちゃった」
亜美は言いながら、どこか照れた顔になった。
「私、お兄ちゃんの同級生の、全然知らない女の子たちに急に話しかけられて、びっくりしたこともあったけどさ」
「……そうなんだ」
「そういうとき、お兄ちゃんのこと聞かれたりしたんだ。
そういうことは、わりとよくあったよ」
「そっか……」
「今思えば、みんな、お兄ちゃんの話がしたくて私に声かけてきてたんだよね。
でも、佐山さんは違った。
私の話を聞いてくれてた」
「……あいつは亜美が俺の妹って知らなかったんじゃないの?」
「ううん。私からお兄ちゃんのこと話したら、私が妹って知ってた。
そのとき、私のこと『お兄ちゃんより、ちゃんとしてるよね』って言ってくれたけど。それだけ」
「はは、なんだよ。
いかにも由奈らしい」
「え……なにそれ」
亜美が身を乗り出し、じっと健斗を見た。
「まさか、最近、あの人に会った?」
心臓が、どくっと鳴った。
「……え?」
亜美の目はまっすぐで、まだ子どもっぽいのに鋭かった。
健斗は、誤魔化すように笑った。
「あ……会ってないよ、学校違うし。
会うわけないじゃん」
「ふーん。なーんだ……。
もし会ったら、私にも教えてよね」
亜美は、長い脚をぶらぶら揺らしながら言った。
「ああいう人がお兄ちゃんの彼女になったら、嬉しいかも」
「えっ」
亜美は真面目な顔で続けた。
「あー、でもさ、佐山さん、頭良さそうだし。
……残念だけど、お兄ちゃんとは違うかなぁ。
あの人には、もっと頭良くてちゃんとした人が合ってるよね。
どうせ、佐山さんからはバレンタイン貰ってないんでしょ」
「な……っ」
(……いや、なんか地味にキズつくんだけど)
「それにしてもさ、お兄ちゃん、モテるのにあんまり彼女作らないよね」
「……ほっとけよ」
「私、そういうの、いいと思うよ~」
亜美はからかうように言って部屋を出て行った。
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午後、健斗は、母と妹と一緒に車で出かけた。
――美容室。
子どもの頃から来ていた。
担当のスタイリストが笑顔で迎えてくれる。
「お、健斗くん。背、また伸びたな。昨日、絢斗くん来てたよ。
いやぁ、兄弟かって思うくらい似てきたなぁ」
「え、そうですか」
「うん。顔立ちがね。モデルやれって言われない?」
健斗は小さく笑った。
(絢斗には誘われたけどさ)
「健斗くんもモテるだろ?」
スタイリストが茶化す。
「……いや、別に」
その曖昧な返しに、母と妹がくすくす笑う。
健斗は小さく息をついた。
「見た目でモテてもなぁって、最近、思うんですよね」
スタイリストは軽い調子で言った。
「へぇ~。そんなふうに思ってるんだ。
みんな、羨ましいと思うけどなぁ」
さっき、亜美の口から由奈のことを聞いて少し落ち着かなかったが、
髪が落ちるたび、胸の奥で静かに整っていく感覚。
床に落ちた髪を見ながら思った。
(この髪は、残るんだよな……)




