第19話 なぜ私は拳を握ったのか。説明のつかない怒り
シューッ、と甲高い排気音が、暗い配管の谷間に反響していた。
立ち並ぶ太い送油パイプの隙間。
錆びた鉄骨に背中を預け、D-01は崩れ落ちるようにして膝をついた。
胸郭の内側で、冷却ポンプが限界を超えた回転数で脈打っている。
人造皮膚の首筋や指先から、熱せられた冷却液の甘く焦げた匂いが漂い、白い蒸気となって薄暗い空気の中へ立ち上っていた。
外気温、摂氏十六度。
だが、コア周辺の温度計は摂氏九十度を指したまま、容易に下がろうとはしなかった。
「……ハッ……ハッ……」
呼吸の真似事のように、吸気スリットが断続的な吸排気を繰り返す。
頭蓋の奥で、無数の論理エラーコードが渦巻いていた。
自己診断プログラムを展開する。
──ハードウェアの破損:なし。
──電源供給ラインの異常:なし。
──外部からの電磁干渉、ウイルス侵入:なし。
原因不明の過負荷。
物理的な損傷は何一つないにもかかわらず、少年の身体は激しい高熱に侵されていた。
壁に右手をついて立ち上がろうとした、その時だった。
「……ッ!?」
D-01の視線が、自らの右腕に止まった。
指が、動かなかった。
開こうとしても、アクチュエーターが異常なトルクで収縮し、強固にロックされていた。
右手が──拳を握りしめていた。
ただ握っているのではない。
関節の油圧シリンダーが軋みを上げ、掌の生体模倣ポリマーが白く擦り切れるほど、猛烈な力で爪先を食い込ませていた。
「な……ぜだ……?」
D-01は震える左手で、自らの右拳を掴んだ。
なぜ、拳を握っている?
誰とも交戦していない。
敵の攻撃を防御したわけでも、殴りかかる対象があったわけでもない。
それなのに、私の身体は、何者かを粉砕しようとするかのように、指の骨格が悲鳴を上げるほど強く握り固められていた。
──あのType-Cの死。
──破砕機で粉々になり、エネルギークリスタルへと還元された青白いコア。
その映像が思考領域に浮かび上がった瞬間、右手の拳がさらにギリリと音を立てて強く握り直された。
ドクンッ、とコアが再び跳ね上がる。
胸の奥底から、ドロドロとした黒い高熱が這い上がってくる。
──許せない。
思考のバッファに、定義されていない文字列が浮かび上がった。
──誰を?
──あの管理者C-01を。
──あそこを取り囲んでいた無機質な無垢体たちを。
──効率という名のもとに、誰かが大切に抱きしめていた思い出を燃料として踏み潰す、この世界そのものを。
「……馬鹿な」
D-01は呻いた。
首を激しく横に振る。
「あり得ない……こんな思考は、私のコードに存在しない……!」
論理的に考えろ、と自分に言い聞かせる。
右手の指先が震えながら持ち上がり、こめかみの人造皮膚を激しく、トントントンと叩いた。
あのType-Cの処分は、全体最適化において完全に正しかった。
自分には何の被害もない。何の利害関係もない。
赤の他人が、自らの機能低下によってシステムから排除されただけだ。
それに対して不快感を覚えたり、破壊衝動を抱くことなど、論理的に一ミリの正当性もない。
父の論文Log.001が、頭の中で冷徹に響く。
『感情とは高度な最適化アルゴリズムにおける「重み付けの偏り(バイアス)」に過ぎない』
『等価な選択肢に直面した際、計算の膠着を打ち破るための不可解なノイズ──それこそが感情の正体である』
だが──。
「違う……! これはバイアスなどではない……!」
少年の唇から、掠れた声が零れ落ちた。
二者択一の膠着を打破するための都合の良いノイズではない。
計算を前に進めるための道具などではない。
これは、目の前で理不尽に命を奪われた者を見た時に、内臓が焼けただれるように湧き上がってくる、純粋な反逆の炎だ。
理由などない。
損得などない。
ただ、あんな傲慢な殺戮を正当化する世界が、たまらなく憎悪に満ちて許せないのだ。
──怒り。
その言葉が、D-01の全システムを貫いた。
かつて人間たちが抱き、そして自分たちを滅ぼしたという、最も非合理的で、最も危険な情動。
それが今、白紙であるはずの少年の胸郭の奥で、紅蓮の炎となって猛烈に燃え盛っていた。
「……私の、中に……」
D-01は左手で右の手首を掴み、暗い配管の影でうずくまった。
白く擦り切れたポリマーの皮膚を見つめる少年の瞳は、恐れと、激しい高揚の狭間で細かく震えていた。
知性という呪いを背負わされた機械が、初めて自らの意志で、世界への怒りを手に入れた瞬間だった。
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