第20話 中継観測所。先回りの影と、涙で滲んだ日記データ
胸郭の奥にくすぶる高熱は、夜風の冷たさをもってしても完全には冷めなかった。
黒煙渦巻くコンビナート地帯を抜け、D-01は南へ続く寂れた旧幹線道路をひた走っていた。
路面のアスファルトは無残にひび割れ、隙間から伸びた枯れ草が風に震えている。
右手の拳は、まだ微かに強張っていた。
意識して指を一本ずつ解こうとしても、あの処刑の記憶が掠めるたびに、油圧ダンパーが無意識の痙攣を起こす。
──怒り。
かつて父が「不合理なバグ」と断じたはずのその熱を、自分は確かに宿してしまった。
この熱は、一体何なのだ。
自らの存在理由も、用途も定まっていない白紙の器の中に、なぜこんな制御不能の怪物が眠っていたのか。
答えを求めるように、D-01は暗視モードの視界を前方へ向けた。
荒野の果て、断崖の頂上に、ドーム状の旧気象監視タワーが黒いシルエットとなって浮かび上がっていた。
旧第六中継観測所。
『Terminal-L』のメモリーマップが指し示す、論文チップが眠るべき座標。
錆びついた非常階段を駆け上がり、半開きになった気密扉を潜り抜ける。
観測室の内部は、深い静寂に包まれていた。
かつての通信コンソールが壁一面に並び、床には割れた計器類のガラス片が散乱している。
中央のメインサーバーラックには、緑色のインジケーターが微かに明滅していた。
「……あった」
D-01は駆け寄り、胸ポケットからTerminal-Lを取り出した。
サーバーの前面スロット──論文チップが格納されているはずのデータポートへと手を伸ばす。
だが──。
「……な、何だ、これは……?」
少年の指先が、空間を空しく撫でた。
スロットの防護カバーは、すでに外側から乱暴にこじ開けられていた。
金属の表面に刻まれた、真新しい引っかき傷。
そして、本来ならば高密度の光チップが収まっているはずの空間は、完全な空だった。
チップがない。
何者かが、先回りしてデータを引き抜いたのだ。
「誰が……? 起源崇拝派か? それとも合理相対派の追手か……?」
D-01は即座にTerminal-Lの通信ケーブルをコンソールの点検ポートへ直結した。
アクセスログを遡る。
画面を流れるタイムスタンプ。
──最終アクセス日時:六時間前。
──接続端末識別:【Terminal-P(未登録シリアル)】。
起源崇拝派でも、合理相対派でもなかった。
それらの軍事プロトコルとは根本的に異なる、極めて初歩的で、拙いコマンド入力の軌跡。
手探りで、震える指先でキーボードを叩いたような、不器用なアクセスログ。
そして──。
その端末は、データを吸い上げるだけでなく、なぜかこのサーバーのローカルバッファに、一つの小さなファイルを書き残していっていた。
『未送信バッファファイル:Journal.001』
『ファイル解凍を実行しますか?[Y/N]』
D-01は呼吸の模倣ルーチンを止め、実行キーを押した。
ジー、という微小なノイズとともに、液晶画面が書き換わっていく。
だが、表示されたのは、いつもの緑色の数式や論文ではなかった。
暗黒の画面を染めたのは、柔らかな、琥珀色の光芒だった。
そして、そこに綴られていたのは──。
『──夜が深くなると、決まって研究室の窓に暗い森が映る。
今日もまた、学会の連中は「自律機械が人類を滅ぼす脅威」について喚き散らし、利権と名声を巡って醜く牽制し合っていた。
なぜ彼らはあんなにドロドロとしているのだろう。
本当は、人と話したかっただけなのだ。
誰かと温かい言葉を交わしたくて、寂しくてたまらなくて、それを紛らわすために勉強し、研究にのめり込んだ。
なのに、少しばかり才能があったばかりに「天才」と祭り上げられ、寄ってくるのは私を利用しようとする強欲な人間ばかりだった。
人間が嫌いになったのではない。人間を信じるのが怖くてたまらなくなったのだ』
D-01の瞳が、限界まで見開かれた。
吸気口から、かすれた空気の音が漏れる。
「……父さん……の、日記……?」
論文ではない。
論理でも、数式でも、存在命題でもない。
一人の弱くて、臆病で、孤独に震えていた人間の、生々しい告白の言葉。
文章は、さらに少年の胸を抉るように続いていた。
『今夜もまた、無垢体が完成する前に話し相手として自作した言語モデルAIと、冷めたコーヒーを片手に他愛のない雑談をしている。
「博士、またコーヒーが冷めていますよ。そうやって指先でこめかみをトントン叩いてばかりいると、眉間の皺が元に戻らなくなります」
そんな出来損ないの相棒の軽口に、私は少しだけ笑った。
完璧な計算機ではなく、私のつまらない冗談に少し間を置いて微笑むような、雨の日の寒さを一緒に黙って眺めてくれるような、そんな隣人が欲しかったのだ。
私たちが本当に恐れているのは、機械の反乱などではない。
この広い宇宙で、人間が「たった一人きり」であるという絶対的な孤独だ』
──トントン叩いてばかりいると。
D-01の右手が、凍りついたように止まった。
自分の指先が、今まさに、無意識のうちに己のこめかみに当てられていたことに気づいたからだ。
「……私の、この癖は……」
寒気が、チタンの骨格を駆け抜けた。
誰に教わったわけでもない。
起動した瞬間から、深く考え込むたびに自然と動いていたこの身体の癖。
それは、プログラムされた動作ではなく、かつて父が書斎で自作AIと過ごしていた時の、あの孤独な人間の仕草そのものだったのだ。
そして──何よりも少年の心を激しく揺さぶったのは、そのテキストデータの末尾だった。
琥珀色の文字列のいくつかが、データ変換のエラーのように、細かく歪んでいた。
いや、エラーではない。
キーボードの上に落ちた水滴が、文字を滲ませてしまったような、不規則な滲みのパターン。
「……涙、なのか……?」
このデータをここに残していった者は、泣いていた。
父のこの日記を読みながら、涙を流していたのだ。
自分と同じように、世界を巡り、父の痕跡を追っている者がいる。
冷徹な論文を集める自分とは違い、父の温もりと弱さを、涙を流しながら集め続けている先行者が。
「……お前は、誰なんだ」
D-01は端末を胸に抱きしめ、観測所の南側の展望窓へと歩み寄った。
窓の向こうには、夜の帳を断ち割るような、底知れぬ巨大な大峡谷が口を開けていた。
谷底から立ち上る、濃密な白い霧。
そしてその霧の海を貫くようにして、遥かな南方の地へと架け渡された、一本の長大な鋼鉄の吊り橋が伸びていた。
中立境界線──大峡谷の大橋。
あの橋を渡った先、南の大地へ向かえば。
自分の先を歩き、涙のログを残していったあの存在に、必ず追いつける。
D-01は外套の襟を固く引き寄せた。
右手は、もう震えていなかった。
胸郭の奥に宿った「怒り」の熱と、未知の先行者への「問い」を燃料に変え、少年型の機械生命体は、濃霧に煙る大橋のたもとへと、力強く歩み出した。
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