幕間16 源頼朝は、将軍になっても鷹狩に行きたい
建久三年(1192年)、鎌倉。
最後の御家人が部屋を出ていった。
「失礼いたします」
頭を下げ、
戸の向こうへ消える。
足音が遠ざかる。
源頼朝は、しばらくそのまま座っていた。
大江広元は文書を整理している。
二階堂直成も、
先ほどの所領争いについて記録をまとめていた。
頼朝が入口を見る。
「広元」
「はい」
「もう誰もおらぬな」
広元が顔を上げた。
「近習は外におりますが、ここには」
「入ってくる者は」
「急ぎがなければ、しばらくは」
頼朝は、もう一度入口を見た。
そして、
大きく息を吐いた。
「面倒くさい」
直成の手が止まった。
広元の手は止まらなかった。
「何がでしょう」
「全部だ」
「ずいぶん広い話になりましたな」
「朝から土地、土地、土地だ」
頼朝は、さっきまで御家人が座っていたところを見る。
「境が違う」
指を一本折る。
「父からもらった」
もう一本。
「あちらが勝手に入った」
もう一本。
「昔の証文がある」
さらに一本。
「相手にも証文がある」
頼朝は手を下ろした。
「なぜ私は、征夷大将軍になった日に、人の田畑の境ばかり聞いておる」
広元が答えた。
「征夷大将軍になられたからでは」
頼朝が広元を見る。
「そういう答えを聞きたいのではない」
直成が下を向いた。
「直成」
「はい」
「今、笑ったか」
「少し」
「正直に言うな」
「見つかりましたので」
頼朝は額に手を当てた。
御家人たちの前にいたときとは、
まるで違う。
さきほどまで背筋を伸ばし、
一つずつ訴えを聞いていた鎌倉殿は、
いまは文書の山を嫌そうに見ている。
「将軍というのは」
頼朝が言った。
「もう少し、こう……」
広元が待つ。
直成も待つ。
「馬に乗るとか」
「はい」
「弓を射るとか」
「はい」
「鷹を追うとか」
広元の返事がなくなった。
「そういうものではないのか」
直成が言った。
「なさっているではありませんか」
「足りぬ」
「足りませんか」
「足りぬ」
即答だった。
広元が文書を一枚差し出す。
「でしたら、こちらを終わらせてから」
頼朝は文書を見ない。
「広元」
「はい」
「お前は、私が鷹狩をするのが嫌いなのか」
「いいえ」
「ならば」
「仕事を終えてから、お好きなだけ」
「終わらぬから言っておる」
広元は文書の山を見る。
「終わらせなければ、さらに増えます」
頼朝は直成を見る。
「直成」
「はい」
「何とか言え」
「大江殿の言う通りです」
「九年近く一緒にいるのに、お前は一度も私の味方をせぬな」
直成は少し考えた。
「鎌倉殿の味方なので、仕事を終わらせようとしております」
頼朝が黙った。
広元の口元が少し動いた。
「広元」
「はい」
「笑ったな」
「いいえ」
「直成」
「笑っていました」
「なぜお前が答える」
「見えましたので」
「お前たちは、本当に」
頼朝は言いかけ、
自分でも笑った。
人前では、
こんな顔をあまり見せない。
頼朝には、
御家人たちの前で保たなければならない顔があった。
所領を認める者。
争いを裁く者。
命令を下す者。
いざというとき、
多くの武士を動かす者。
頼朝の機嫌によって、
昨日認められた所領が今日奪われる。
そう思われては困る。
嫌な仕事だから今日は裁かない。
そう見られるわけにもいかない。
だから御家人の前では、
疲れていても座る。
腹が立っても話を聞く。
迷っていても、
迷い方まで考える。
けれど、
広元と直成の前では、
もう少し違う。
二人とも、
頼朝が今ほど大きな力を持つ前から近くにいる。
怒ったところも、
迷ったところも、
間違えたところも知っている。
今さら、
征夷大将軍になったからといって、
すべてを隠す必要もなかった。
頼朝が、また文書を一枚開いた。
すぐ閉じた。
「嫌だ」
広元が顔を上げる。
「何がでしょう」
「また土地だ」
「鎌倉ですから」
「私は今日はもう土地を見たくない」
直成が言った。
「では、人の話だけ聞きますか」
「土地の話であろう」
「たぶん」
「意味がないではないか」
そのとき、
外から子どもの声が聞こえた。
遠い。
だが、
頼朝の顔が上がった。
「頼家か」
広元が耳を澄ませる。
「違うと思います」
頼朝は少し残念そうだった。
直成はそれを見た。
何も言わなかった。
頼朝が気づいた。
「何だ」
「何も」
「今度は顔に出ておる」
「そうでしょうか」
「何を考えた」
直成は、少し迷ってから答えた。
「父親の顔になったな、と」
頼朝の目が細くなる。
「直成」
「はい」
「御家人の前では絶対に言うな」
「言いません」
「絶対だぞ」
「はい」
広元が言った。
「若君を気になさることくらい、隠す必要はないでしょう」
「それとこれとは別だ」
頼朝は少し姿勢を直した。
「頼家は嫡男だ」
「はい」
「私の後を継ぐ」
「はい」
「だから気にする。当然だ」
直成はうなずいた。
「そうですね」
「その顔をやめろ」
「どの顔でしょう」
「子どもがかわいくて仕方がない父親を見る顔だ」
「そう見えるなら」
直成は少し笑った。
「そうなのでは」
「直成」
「はい」
「今日は帰さぬ」
「さっきまで帰す話では」
「変わった」
広元が笑った。
頼朝は、もう一度文書を開く。
しかし、
文字を追いながら言った。
「頼家は、このごろ弓がよくなった」
直成が答える。
「それは何よりです」
「馬も悪くない」
「はい」
「以前より姿勢がよくなった」
「よく見ておられますね」
頼朝は少し得意そうにした。
「見れば分かる」
広元が、静かに文書を置いた。
頼朝が気づく。
「何だ」
「何も」
「お前も、何か言いたそうだな」
「いいえ」
「言え」
広元が答えようとしたとき、
外から声がした。
「御台所がお見えです」
頼朝の顔が止まった。
直成は広元を見る。
広元は、見なかったことにした。
頼朝が咳払いをする。
姿勢を直す。
「通せ」
さきほどまで、
「鷹狩へ行きたい」
と言っていた人とは思えない。
北条政子が入ってきた。
頼朝を見る。
広元を見る。
直成を見る。
そして、
文書の山を見る。
「お仕事中でしたか」
「いや」
頼朝が答えた。
広元が文書を見る。
直成も見る。
政子も見る。
頼朝が言い直した。
「……少しな」
「少しには見えませんけれど」
頼朝は黙った。
政子が座る。
「何の用だ」
頼朝が聞いた。
「頼家のことです」
頼朝の表情が変わった。
「何かあったか」
「ありません」
「なら先にそう言え」
政子が頼朝を見る。
「あなたが勝手に心配したのでしょう」
「心配などしておらぬ」
広元と直成は、
何も言わない。
政子は続けた。
「今日の弓の稽古が終わりました」
頼朝の顔が明るくなる。
「どうだった」
「いつも通りです」
「上手くなっておるだろう」
「昨日から一日で、そんなに変わりません」
頼朝の顔が曇った。
「私は、よくなっていると思う」
「あなたは頼家のことになると、すぐそう言うでしょう」
「何が悪い」
「悪いとは言っていません」
「ならよいではないか」
「褒めすぎだと言っているのです」
直成は、そっと視線を文書へ落とした。
「直成」
頼朝が言った。
「はい」
「なぜ急に仕事を始める」
「仕事中ですので」
「今まで止まっておったではないか」
政子が直成を見る。
「二階堂殿」
「はい」
「笑って構いませんよ」
頼朝が政子を見る。
「政子」
「何です」
「なぜ直成の側につく」
「ついていません」
「ついておる」
「あなたが、頼家の話をすると分かりやすいと言っているだけです」
頼朝が広元を見る。
広元は、静かに別の文書を読んでいる。
「広元」
「はい」
「お前はどう思う」
「何をでしょう」
「私は頼家を褒めすぎか」
広元は少し考えた。
「御台所がおっしゃるのでしたら」
「なぜ最初から政子の方が正しいことになっておる」
直成が小さく言った。
「経験でしょうか」
頼朝が振り向く。
「何の経験だ」
「夫婦の」
「お前も妻に負けておるのか」
直成は少し考えた。
「勝ち負けなのでしょうか」
広元が言った。
「ほら、ご覧なさい」
頼朝が言う。
「こやつに聞いた私が悪かった」
政子が笑った。
「でも、頼家は喜んでいましたよ」
頼朝がすぐ政子を見る。
「何を」
「あなたが先日、弓を褒めたことを」
頼朝の顔が、
また明るくなる。
「そうか」
「ええ」
「何と申していた」
「父上にもっと見てもらいたい、と」
頼朝が完全に黙った。
直成は、今度は文書へ視線を落とさなかった。
頼朝の顔を見た。
これほど分かりやすい人なのか、
と思った。
御家人たちの前では、
まず見せない顔だった。
政子が言った。
「ですから、今日もあなたと馬に乗りたいそうです」
「本当か」
「ええ」
頼朝は立ち上がりかけた。
広元が言った。
「鎌倉殿」
頼朝が止まる。
「何だ」
広元は、文書の山を指した。
頼朝が座り直した。
「……広元」
「はい」
「お前は人の心がないのか」
「若君と馬に乗っていただくために申し上げています」
「どういう意味だ」
「このまま残せば、明日はもっと増えます」
頼朝は文書を見る。
頼家と馬。
文書。
頼家と馬。
文書。
視線だけで、
何度か行き来した。
政子が聞いた。
「そんなに残っているのですか」
頼朝が答える。
「見れば分かるだろう」
政子は文書の山を見る。
「ええ」
「私は今日、征夷大将軍になったのだぞ」
「そうですね」
「もう少し何かないのか」
政子は考えた。
「おめでとうございます」
「それだけか」
「昨日までのお仕事が、今日からなくなるわけではないでしょう」
広元の口元が動く。
直成は下を向いた。
頼朝が二人を見る。
「笑うな」
「笑っておりません」
二人が同時に答えた。
政子が言った。
「それで」
「何だ」
「本当は何をなさりたいのです」
頼朝は黙った。
「別に」
「そうですか」
「……頼家と馬に乗りたい」
直成は、思わず少し笑った。
頼朝が見る。
「直成」
「すみません」
政子は、頼朝をしばらく見た。
「それなら、そう言えばよいではありませんか」
「時間がない」
「では、人に任せればよいでしょう」
頼朝が広元を見る。
「任せておる」
広元が答える。
「任されております」
政子は直成を見る。
「二階堂殿にも?」
「はい」
「なら、なおさらでしょう」
頼朝が言った。
「全部を任せたら、私が要らぬ」
「誰も全部とは言っていません」
政子は即答した。
頼朝は黙った。
直成には、
少し見覚えのある光景だった。
家でも、
似たようなことがある。
自分でやらなければと思う。
ちよに、
そこまでしなくてもよいと言われる。
それでもやる。
そして疲れる。
頼朝が直成を見る。
「何だ」
「何も」
「今日はその言葉が多いな」
「口に出さない方がよいこともあります」
政子が笑った。
「二階堂殿は、少し賢くなりましたね」
頼朝が聞く。
「昔は違ったのか」
直成が答える。
「妻に教わりました」
「やはりか」
頼朝が言った。
政子が頼朝を見る。
「あなたも少し覚えたらいかがです」
「何をだ」
「人に任せることを」
「任せておる」
「もう少し」
「政子」
「何です」
「今日は祝いの日だぞ」
「ですから?」
「もう少し夫に優しくしてもよいのではないか」
政子は、少し考えた。
「では」
頼朝を見る。
「頼家と馬に乗る時間を作れるよう、早くお仕事を終わらせてください」
頼朝は広元を見る。
「広元」
「はい」
「政子は、私に優しくしたと思うか」
広元は即答しなかった。
頼朝が直成を見る。
「お前は」
直成も答えない。
「なぜ二人とも黙る」
政子が笑った。
頼朝も、しばらくして笑った。
そのとき、
外からまた声がした。
「鎌倉殿」
頼朝の笑いが消える。
広元の顔も戻る。
直成も姿勢を整えた。
政子は、その変化を静かに見ていた。
「何だ」
頼朝の声は、
もう鎌倉殿のものだった。
「御家人が一人、急ぎでお目通りをと」
「用件は」
「所領についてと」
ほんの一瞬、
頼朝の眉が動いた。
政子には見えた。
広元にも見えた。
直成にも見えた。
外にいる者には、
おそらく分からない。
「通せ」
「はっ」
足音が遠ざかる。
頼朝は小さく言った。
「……また土地か」
政子が笑った。
「聞いて差し上げなさい」
「分かっておる」
「鎌倉殿ですから」
頼朝が政子を見る。
「今日は皆、それを言うな」
「本当のことでしょう」
「そうだが」
頼朝は文書を整えた。
政子が立ち上がる。
「では、私は戻ります」
頼朝が聞く。
「頼家は?」
「待っていますよ」
「馬の支度は」
「まだです」
「しておけ」
政子は少し笑った。
「お仕事が終わったら」
頼朝が広元を見る。
広元は何も言わない。
直成を見る。
直成も何も言わない。
「分かった」
頼朝が言った。
「終わらせる」
政子が部屋を出る。
その直前、
振り返った。
「あなた」
「何だ」
「征夷大将軍、おめでとうございます」
頼朝が少し驚いた。
政子は、それだけ言って出ていった。
足音が遠ざかる。
しばらく、
頼朝は何も言わなかった。
やがて、
広元が聞いた。
「鎌倉殿」
「何だ」
「お顔が」
「何だ」
「いえ」
「言え」
直成が先に言った。
「うれしそうです」
頼朝が直成を見る。
「帰れ」
「まだ仕事が」
「終わったら帰れ」
「どちらでしょう」
「今は働け」
「はい」
広元が笑った。
そこへ、
先ほどの御家人が入ってくる。
頼朝の顔が、
再び変わった。
「鎌倉殿」
「申せ」
御家人が頭を下げる。
「所領のことで、お願いがございます」
頼朝は、静かに聞いた。
相手の話を遮らない。
文書を見る。
分からないところは尋ねる。
直成へ回す。
広元へ確認する。
征夷大将軍になっても、
やることは同じだった。
ただ、
今日は少しだけ違う。
仕事が終われば、
頼家が待っている。
一緒に馬に乗れる。
そのことを知っている頼朝は、
さきほどより少しだけ、
土地の揉め事に耐えられた。
御家人が下がったあと、
頼朝が言った。
「次は」
広元が文書を見る。
「もう一件ございます」
「何だ」
「土地です」
頼朝は目を閉じた。
「直成」
「はい」
「鷹狩は、いつ行けると思う」
直成は少し考えた。
「分かりません」
頼朝は目を開けた。
「九年たっても、それか」
「はい」
「そこは、もう少し希望のあることを申せ」
「では」
直成は言った。
「まず今日の仕事を終わらせましょう」
「広元と同じではないか」
「長く一緒におりますので」
頼朝は呆れた。
広元は笑った。
征夷大将軍になった男も、
子どもと馬に乗りたい。
鷹狩にも行きたい。
妻に褒めてもらえば、
少しうれしい。
面倒な仕事から逃げたくなる日もある。
けれど、
人が来れば、
また鎌倉殿の顔に戻る。
その繰り返しだった。
肩書がどれほど大きくなっても、
その中にいるのは、
やはり一人の人間だった。
## 人物紹介
**源頼朝**
鎌倉殿。建久三年(1192年)に征夷大将軍となる。御家人の前では威厳を保つ一方、この話では、仕事に追われ、頼家をかわいがる父親としての一面も描いている。
**北条政子**
源頼朝の妻。北条時政の娘で、頼家・実朝らの母。頼朝に対しても遠慮なく意見を述べることのできる人物。
**源頼家**
頼朝と政子の嫡男。のちに鎌倉幕府の第二代将軍となる。この時点ではまだ少年で、頼朝から父親としても後継者としても強く気にかけられている。
**大江広元**
頼朝の政治を実務面から支えた人物。長く頼朝のそばで仕事をしており、この話では御家人の前では見せない頼朝の素顔も知る側近として登場する。




