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冒険の書  作者: siva5880


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9/55

二つ名を持つ魔物

 東の鉱山の奥では。


 俺たちはまだ、その事実を知らなかった。


 そして俺たちの前には――


 白い毛を持つ、一体のコボルトが立っていた。


その真っ白い毛は、逆立っていた。


 全身の毛が異様なほど膨れ上がり、まるでこちらを威嚇しているかのようだった。


 異常なまでに発達した両腕。


 その右腕には――


「……ツタ?」


 何本もの植物の蔓が絡みついている。


 肩から腕へ。


 そして手首へ。


 まるで、腕そのものに根を張っているようだった。


 その右手に握られているのは、錆びついた大剣。


 刃はボロボロで、ところどころ欠けている。


 それでも、あの異常な腕力なら――


 あれで切る?


 いや。


「……叩きつける、が正解なんだろう」


 あんなものをまともに受けたら、盾ごと吹き飛ばされる。


 俺は大剣から目を離せなかった。


 その時だった。


「……待て」


 ジェイさんが低い声を出した。


「腕だけじゃない」


「え?」


 言われて、俺はもう一度コボルトの身体を見る。


 白い毛の隙間。


 首元。


 そこに――


 植物のようなものが見えた。


 小さな花のようにも見える。


 だが、よく見ると違う。


 それは花ではない。


 何本もの細い根が、コボルトの首へ食い込んでいる。


「……あれは……」


 ジェイさんの表情が変わった。


「マッドプラントだ」


 ジェイさんは目の前の魔物から視線を逸らさない。


「魔物に寄生する植物だ。宿主の身体を蝕み恐怖心や痛みを麻痺させ、生命力を奪う代わりに強靭な力を与える・・。」


「じゃあ、あのコボルトは……」


「ああ」


 ジェイさんが答える。


「寄生されている」


 その言葉を聞いた瞬間、背筋に寒気が走った。


 あの異常な身体。


 あの巨大な腕。


 そして、右腕に絡みついた無数のツタ。


 すべてが繋がった。


 ヘイゼルの白。


 最近になって現れた、異常なコボルト。


 その正体は――


 マッドプラントに寄生された個体だった。


 そして、その首元。


 植物の本体と思われるものが、まるでコボルトの肉体に食い込むように張り付いている。


「……あれが、本体なのか?」


 グリフが呟く。


 ジェイさんは答えなかった。


 ただ、短剣を握り直す。


「気をつけろ」


 その声が、今までとは明らかに違っていた。


 その瞬間。


 ヘイゼルの白が――


 大剣をゆっくりと持ち上げた。


その頃――


 鉱山の街ラッカム。


 冒険者ギルドでは、集められた情報をもとに、一体の魔物について緊急の協議が行われていた。


「目撃情報は、これで何件目だ?」


「今回のものを含めて七件です」


「生還者は?」


「三組。ですが、全員が重傷を負っています」


「死者は?」


「確認できているだけで、八名」


 ギルド内に沈黙が落ちた。


 机の上には、これまでに集められた報告書が並べられている。


「マッドプラントに寄生されているという情報は?」


「まだ確証はありません。ただ、複数の冒険者が右腕に絡みついた植物の蔓を確認しています」


「なるほど……」


 ギルドマスターは報告書を閉じた。


「これまでの情報を総合すると、通常のコボルトとして扱うのは危険すぎる」


 周囲の職員たちが頷く。


「では、どうします?」


 ギルドマスターは少し考え――


「推定Bランクとする」


 その言葉に、何人かの職員が息を呑んだ。


「Bランク……ですか?」


「ああ」


 ギルドマスターは東の鉱山の方角を見る。


「確定ではない。あくまで推定だ・・・。」


 ヘイゼルの白は、低い唸り声を上げていた。


「グルルル……」


 だが――こちらへ攻撃してくる様子はない。


 大剣を握ったまま、その場に立っているだけだ。


「……攻撃してこない?」


 グリフが小さく呟く。


 俺も目の前の魔物を見つめた。


 暗い。


 洞窟の奥は、ほとんど何も見えない。


 俺たちも月明かりのポーションがなければ、まともに周囲を確認することすらできないだろう。


「……そうか」


 ふと、ある考えが浮かんだ。


「やつも……暗闇でほとんど見えていないのか」


 そう考えれば、こちらを睨みながらも動かない理由が分かる。


 俺たちの位置を正確に把握できていない。


 ならば――


 音を立てなければいい。


 誰も動かない。


 誰も喋らない。


 洞窟の中に、ヘイゼルの白の唸り声だけが響いている。


 グルルル……。


 俺は息を殺した。


 あと少し。


 このまま気づかれずに距離を取れれば――。


 その時だった。


 すぐ近くにいたコボルトが、足を動かした。


 ――カツッ。


 小さな音。


 本当に、それだけだった。


 ヘイゼルの白の頭が――


 瞬時に動いた。


「……え?」


 次の瞬間。


 ドンッ!!


 巨大な身体が一瞬で踏み込んだ。


 錆びついた大剣が振り上げられる。


 そして――


 ズバァッ!!


 目の前を白い影が横切った。


「……」


 何が起きたのか、理解できなかった。


 ただ――


 さっきまでそこにいたコボルトが、地面に倒れている。


 その身体は、真っ二つになっていた。


「…………」


 誰も声を出せない。


 俺の身体が凍りつく。


 今の一撃。


 見えなかった。


 大剣を振ったことすら、まともに認識できなかった。


「……見えてないんじゃない」


 グリフが震える声で呟いた。


 俺もようやく理解する。


「音を……聞いてる」


 ヘイゼルの白は、ゆっくりと大剣を下ろした。


 その白い毛が、暗闇の中でわずかに揺れている。


 そして――


 こちらへ顔を向けた。


「……っ」


 背筋に冷たいものが走った。


 見えていない。


 それなのに。


 俺たちがいる方向を――


 正確に捉えている。


 ヘイゼルの白が、再び低く唸った。


「グルルル……」


 さっきまでとは違う。


 今度は――


 俺たちを、完全に敵として認識していた。


 その時だった。


 アンが何かを握っていることに気づいた。


 小さな木の実。


 俺は一瞬、それが何なのか分からなかった。


 だが――


「……あれは」


 思い出した。


 以前、ゴブリンの弓使いに投げつけた――カラの実だ。


 中身が空洞になっているため、硬い地面に落とせば大きな音を響かせる。


 アンはそれを握りしめると、ヘイゼルの白へ向かって投げた。


「――!」


 カラの実が宙を飛ぶ。


 そして――


 コツン。


 ヘイゼルの白の足元へ落ちた。


 次の瞬間。


 ――カァンッ!!


 洞窟中に、甲高い音が響き渡った。


 反響した音が何度も洞窟の壁を跳ね返る。


 カァン……カァン……。


 ヘイゼルの白が動きを止めた。


 その頭が――ゆっくりと音の方向へ向く。


「……今だ!」


 誰かが叫びかけた。


 レインだった。


 その声は、今まで聞いたことがないほど切迫していた。


「逃げろッ!!」


 その瞬間。


 ヘイゼルの白が動いた。


 速い。


 さっきの比ではない。


 地面を蹴っただけで、巨体が一気にこちらへ迫ってくる。


「なっ――」


 俺は盾を構えようとした。


 だが、間に合わない。


 錆びついた大剣が、暗闇の中で大きく振り上げられる。


 ――こいつは。


 見えていないんじゃない。


 音だけで、俺たちの位置を完全に捉えている。


 レインの叫び声が洞窟に響く。


「走れぇぇぇッ!!」


 俺たちは一斉に駆け出した。


 背後から――


 ズガァンッ!!


 大剣が地面を叩きつける音が響いた。


その大剣は――あまりにも太く、巨大だった。


 迫り来る一撃を見て、盾を構えた。


「レインさん!」


 ――間に合わない。


 ズガァァンッ!!


 凄まじい衝撃音が洞窟内に響き渡った。


 大剣が、レインの盾を真正面から叩き潰した。


 盾が砕ける。


 木片と金属片が飛び散った。


 そして――


 無情にも、その勢いは止まらなかった。


「ぐぁぁぁっ!!」


 大剣がレインの腕を捉える。


 一瞬だった。


 レインの身体が大きくよろめく。


「レインさん!!」


 思わず足を止めかけた。


 だが――


「振り向くなッ!!」


 洞窟中に、レインの声が響き渡った。


「走れッ!!」


 俺は歯を食いしばった。


 足が止まりそうになる。


 助けなければ。


 レインさんを置いていけるわけがない。


 そう思った。


 だが――


「レオン!!」


 グリフの声が飛んできた。


「行けッ!!」


 俺は前を向いた。


 走る。


 走るしかない。


 足音が洞窟の中に響き渡る。


 ドクン、ドクンと心臓が激しく鳴っている。


 背後からは、何かが崩れる音。


 そして――


「振り向くなぁぁぁッ!!」


 もう一度、レインの声が響いた。


 俺たちは走った。


 ただひたすらに。


 仲間を置き去りにして。


 師を残して。


 生き残るために――。


 走った。


 ただ、走るしかなかった。


 背後から聞こえる轟音。


 何かが砕ける音。


 そして――レインの声。


 それでも、俺は振り返らなかった。


 振り返れば、足が止まる。


 足が止まれば――俺も死ぬ。


 分かっている。


 分かっているのに、胸が苦しかった。


「……レインさん……」


 声にならない声が漏れる。


 あの人は、俺たちに戦い方を教えてくれた。


 盾の使い方を教えてくれた。


 生き残るために必要なことを、何度も教えてくれた。


 それなのに。


 今の俺には――


 何もできない。


 助けることも。


 立ち向かうことも。


 戻ることすら。


 ただ逃げるしかない。


 その時、胸の奥にあの日の光景が蘇った。


 燃える故郷。


 崩れた家。


 泣き叫ぶ人々。


 奪われていく命。


 あの日も、俺は何もできなかった。


 そして今も――同じだ。


「……そうだ」


 息を切らしながら、俺は思った。


 この世界では――


 弱い奴に、選択肢などない。


 強い者に奪われる。


 守りたいものを奪われる。


 大切な人を奪われる。


 そして――


 ただ、生き残るために逃げる。


「……誰も……守れない」


 悔しかった。


 情けなかった。


 それでも走る。


 今の俺には、それしかできない。


 誰かを守ることもできない。


 ――弱いからだ。


 この世界では。


 弱い奴に、選択肢などない。


 奪われる。


 ただ、それだけなんだ。


 俺は拳を握りしめた。


 そして、前だけを見て走った。


 走る。


 ただ、ひたすらに走る。


 誰も口を開かなかった。


 いや――開けなかった。


 背後から聞こえていた轟音が、少しずつ遠ざかっていく。


 それでも、俺たちは止まらない。


「……レインさん……」


 グリフの声が震えていた。


 その声を聞いて、俺は何も言えなかった。


 隣を走るジェイさんを見る。


 その顔を見ることはできなかった。


 それでも――分かる。


 ジェイさんも、泣いている。


 姿を見なくても分かる。


 あの人も、レインさんがどうなったのか分かっている。


 アンも泣いていた。


 声を押し殺しながら、それでも必死に足を動かしている。


 グリフも同じだった。


 頬を涙が伝っている。


 それでも走る。


 誰も振り返らない。


 振り返ることができない。


 だから走る。


 涙を流しながら。


 歯を食いしばりながら。


 必死に。


 ただ、生きるために。


 その時、ジェイさんが前を向いたまま呟いた。


「……レイン」


 たった一言。


 それだけだった。


 けれど、その声は震えていた。


 俺は何も言えなかった。


 グリフも。


 アンも。


 誰も。


 ただ――


 泣きながら走った。


 そして俺は思った。


 こんなにも大切な人を失っても。


 俺たちは、今は逃げるしかない。


 それが――


 この世界で弱い者に与えられた、唯一の選択肢だった。


 どれだけ洞窟の中を走っただろう。


 どれだけの時間が経ったのかも、もう分からない。


 ただ、前だけを見て走った。


 そして――


 光が見えた。


 洞窟の入り口だ。


 僅かに差し込む夕方の光。


 俺たちはその光へ向かって、最後の力を振り絞った。


 そして――


 洞窟から飛び出した。


「はぁ……はぁ……!」


 外は、もう夕方だった。


 空は赤く染まり始め、山々の向こうへ太陽が沈もうとしている。


 普段なら、そろそろ野営の準備を始めている時間だろう。


 薪を集める。


 食事の準備をする。


 周囲を警戒する。


 いつもの野外活動なら、そんな時間だった。


 ――だが。


 俺たちは止まらなかった。


 洞窟から飛び出しても、まだ走っている。


 足が限界を迎えている。


 息も続かない。


 それでも、走る。


 なぜか。


 分かっている。


 頭ではなく――身体が理解している。


 あの怪物は、俺たちを簡単に逃がしてくれるはずがない。


 ヘイゼルの白。


 あの異常なコボルトは、暗闇の中で俺たちの位置を音だけで捉えた。


 そして――


 レインの盾を一撃で砕いた。


 あの大剣を。


 あの腕力を。


 俺たちは知ってしまった。


「……まだ……来る……」


 グリフが息を切らしながら呟いた。


 誰も答えない。


 ただ走る。


 背後を見る勇気など、誰にもなかった。


 もし――


 あの白い姿が、洞窟の入り口に立っていたら。


 そう考えるだけで、足がさらに速くなる。


 俺たちは走った。


 夕暮れの山道を。


 疲れ果てた身体を引きずりながら。


 ただひたすらに――


 生き残るために。


そうだ――。


 ふと、嫌な考えが頭をよぎった。


 もし――


 ヘイゼルの白が洞窟から出てきたら?


 洞窟の中では、あの怪物もほとんど何も見えていなかった。


 だからこそ、音を頼りに俺たちを追ってきた。


 だが――ここは違う。


 俺は走りながら、夕焼けに染まった空を見上げた。


 赤い光が山々を照らしている。


 まだ完全な夜ではない。


 十分な明るさがある。


「……もし、あいつが外に出てきたら」


 言葉が続かなかった。


 洞窟の中では見えていなかった。


 なら――


「……外では?」


 グリフも、その意味に気づいたようだった。


「まさか……」


 俺たちは走り続ける。


 考えたくない。


 だが、考えなければならない。


 あの怪物が――


 この夕焼けの中で、俺たちを目で捉えられるようになったら?


 音を立てなくても。


 隠れなくても。


 逃げる方向すら――


 すべて見抜かれる。


 背後を振り返ることはできない。


 それでも、耳を澄ます。


 聞こえるのは自分たちの荒い呼吸と、地面を蹴る足音だけ。


 ……まだ、何も聞こえない。


 俺は祈るように思った。


 どうか――


 あの怪物が、洞窟から出てきませんように。


 だが、その願いとは裏腹に。


 背後の洞窟から――


 ズン……


 地面を踏みしめるような音が、一つ。


 聞こえた。


 嫌なことというのは――いつだって、心の願いとは裏腹に起こる。


 俺はゆっくりと後ろを振り返った。


 さっきまで俺たちがいた洞窟。


 その入り口に――


 白い影が立っていた。


「……っ」


 ヘイゼルの白。


 洞窟の暗闇から、ゆっくりと姿を現す。


 逆立った真っ白な毛。


 異常なまでに発達した腕。


 そして、その右手には――


 錆びついた大剣。


 俺たちは足を止めた。


 誰も、言葉を発することができない。


 やがて――


「グルルルルル……」


 低い唸り声が、山々にまで響き渡る。


 洞窟の中で聞いた時とは違う。


 その声が、はっきりと聞こえる。


 そして――


 ヘイゼルの白が、顔を上げた。


 夕焼けの光が、その白い毛を赤く染める。


 俺の背筋を、冷たいものが走った。


「……見えてるのか?」


 誰かが震える声で呟いた。


 答えは――


 すぐに分かった。


 ヘイゼルの白の視線が、真っ直ぐに俺たちへ向けられていた。


 洞窟の中では、音を頼りにしか動けなかった。


 だが今は違う。


 この夕焼けの下では――


 あいつは俺たちを、見ている。


そうか……。


 ここまでのようだ。


 俺には、そう思えた。


 たぶん――誰もが同じことを考えている。


 もう逃げきれない。


 洞窟の中では、音だけで俺たちを捉えた。


 それでもレインさんが盾を砕かれ、腕を奪われた。


 ならば――


 視界のあるこの場所では?


 俺たちに勝ち目などない。


 ヘイゼルの白が、一歩。


 ゆっくりと洞窟から出てくる。


 ズシン……。


 地面が震えた。


 右手には、あの錆びついた大剣。


 夕焼けを受け、その刃が赤黒く光っている。


 誰も動かない。


 逃げなければならない。


 分かっている。


 それなのに――


 足が動かなかった。


 グリフも。


 アンも。


 ジェイさんも。


 そして俺も。


 誰もが、目の前の怪物を見つめている。


 あまりにも圧倒的だった。


 いや。


 そんな言葉だけでは、この恐怖を表すことなどできない。


 その時だった。


「――動けッ!!」


 声が響いた。


 ジェイさんだ。


 普段のジェイさんなら、こんな時でも冷静に状況を見極める。


 敵の動き。


 俺たちの位置。


 逃げ道。


 すべてを判断して、最も生き残れる選択をする。


 そんな人だった。


 だが――


 今のジェイさんは、とても冷静には見えなかった。


 レインさんを失った。


 その事実が、ジェイさんの中にどれほどのものを残したのか。


 俺には分からない。


 ただ――


 ジェイさんは弓を構えていた。


「グリフ!」


「はい!」


 ジェイさんが弓を引き絞る。


 ギリッ――。


 弦が限界まで引かれる。


 その視線は、ヘイゼルの白だけを捉えていた。


「――あれだ」


 ジェイさんの視線の先。


 ヘイゼルの白の首元。


 白い毛の隙間から覗く、植物の本体。


 マッドプラント。


 そこだけが、異様に蠢いている。


「狙え……」


 ジェイさんが呟く。


「そこを撃ち抜け」


 次の瞬間。


 ヒュッ――!


 矢が放たれた。


 一直線。


 夕焼けの中を、矢が走る。


 ヘイゼルの白が反応した。


「グルァッ!」


 身体を動かそうとする。


 だが――遅い。


 矢は吸い込まれるように、首元へ向かっていく。


 そして――


 ズシュッ!!


「――ッ!?」


 矢が、マッドプラントの本体を正確に捉えた。


 植物の肉塊が弾ける。


 ヘイゼルの白が、大きく身体を仰け反らせた。


「グルァァァァァッ!!」


 山全体を揺らすような咆哮。


 俺たちは思わず耳を塞いだ。


 ジェイさんは弓を下ろさない。


 その目には――


 怒りと悲しみが入り混じっていた。


「……レイン」


 小さく呟く。


 そして、もう一度矢を番えた。


「お前の分まで――」


 ジェイさんは、ヘイゼルの白を睨みつけた。


 ヘイゼルの白は――分かっていた。


 この場にいる誰を狙えば、一番簡単に殺せるのか。


 その視線が、ゆっくりと動く。


 そして――止まった。


「……アン」


 俺が気づいた時には、もう遅かった。


 ヘイゼルの白が狙っている。


 このパーティーの中で、最も戦闘能力が低い人間。


 アンだ。


 マッドプラントの本体には、ジェイさんの矢が深々と突き刺さっている。


 明らかに致命傷。


 それでも――


「グルァッ!!」


 ヘイゼルの白が地面を蹴った。


「――ッ!?」


 速い。


 異常なほど速い。


 これまで見てきた、どんなコボルトとも比べ物にならない。


 巨体からは想像もできない速度。


 一瞬で距離を詰める。


「アン、逃げろ!!」


 グリフが叫ぶ。


 アンが振り返る。


 その顔が恐怖に染まった。


 だが――


 もう目の前にいる。


 白い毛が視界を覆う。


 巨大な腕が振り上げられる。


 そして、その手には――


 錆びついた大剣。


 マッドプラントに致命傷を与えた。


 それでも、止まらない。


 いや――


 むしろ、傷ついたからこそ、ヘイゼルの白は本能的に理解していた。


 まず、弱い者を殺す。


 それが、この戦場で生き残るための最も確実な選択だと。


 アンへ向かって、大剣が振り下ろされる。


「アンッ!!」


――間に合わない。


 そう思った瞬間だった。


『盾は攻撃を防ぐためだけのものじゃない』


 レインさんの声が、頭の中に蘇った。


 初めて訓練所で教わったこと。


 盾は、ただ身を守るためだけのものじゃない。


 相手の体勢を崩す。


 仲間を守る。


 攻撃へ繋げる。


 あの日、何度も教わった。


 なのに――


 今まで俺は、本当の意味で理解していなかったのかもしれない。


 気づけば――


 身体が勝手に動いていた。


「――守る!」


 ただ、それだけだった。


 アンへ向かって、ヘイゼルの白が飛びかかる。


 あまりにも速い。


 大剣が振り下ろされる。


 俺はその横へ飛び込んだ。


「うおおおおっ!!」


 盾を――


 横から叩きつける。


 ドンッ!!


 盾の縁が、ヘイゼルの白の身体を捉えた。


「グルァッ!?」


 巨体が横へ弾かれる。


 大剣の軌道が逸れ、地面へ叩きつけられた。


 ズガァァン!!


 土煙が舞い上がる。


 俺はその場に踏みとどまった。


 腕が痺れている。


 足も震えている。


 それでも――


 アンの前に立っていた。


「……レオン?」


 背後から、アンの震える声が聞こえた。


「下がって!」


 俺は盾を構え直した。


 目の前には、ゆっくりと立ち上がる白い怪物。


 ヘイゼルの白が、俺を見る。


 その目に――


 初めて、明確な敵意が向けられた。


 俺は盾を握りしめる。


 怖い。


 今までにないほど怖い。


 それでも、退けなかった。


 脳は、今すぐにでも逃げろと命じているのだろう。


本能が警鐘を鳴らしている。

これ以上は危険だ。逃げなければ死ぬ。


それでも――俺の心は、別の答えを出していた。


もう、二度と奪われたくない。


仲間を。

大切なものを。


あの時のように、何もできないまま失うのだけは――もう嫌だ。


動いたのは、白い怪物の方からだった。


その動きに、先ほどまでの速さはない。


一歩、また一歩と、重い足を引きずるようにして近づいてくる。


だが――その剛腕だけは、まだ死んでいなかった。


白い怪物が大剣を大きく振りかぶる。


来る。


横薙ぎの一撃――大剣のフルスイングだ。


あれをまともに受ければ、盾ごと吹き飛ばされる。


――盾で受け止められるか?


いや……受け流せるか?


一瞬の逡巡。


そして脳裏に浮かんだのは、たった一つの言葉だった。


――死?


俺は、この感覚を知っている……。


死……?


なぜだ……?


それも、一度ではない……?


胸の奥がざわつく。


知らないはずの感覚。

経験したはずのない恐怖。


なのに、身体だけが知っている。


俺は……死んだことがある……?


……いや。


違う。


一度じゃない。


何度も……?


「……??」


頭の中に、何かが浮かびかける。


暗闇。

痛み。

誰かの声。


けれど、それ以上は思い出せない。


無情にも、その巨大な大剣が間近に迫り来る。


ああ……そうだ。


前へ……少しでも前へ。


大きく振りかぶられた大剣。

あれだけの勢いをまともに受ければ、盾ごと吹き飛ばされる。


なら――


勢いを殺す。


それしかない。


「……っ!」


俺は一歩、前へ踏み込んだ。


怖い。


それでも、前へ。


少しでも前へ。


大剣の軌道に合わせ、盾を突き出す。


――ガァンッ!!


凄まじい衝撃が盾を叩いた。


腕が痺れる。

身体が浮き全身にとてつもない痛みが走る。


白い怪物の攻撃を、全て受け流しきることはできなかった。


意識が飛びそうだ。


頭から血が流れている。


それでも――


白い怪物は、体勢を大きく崩していた。


「……飛べ……」


誰だ……?


聞き覚えのある声。


いや――声じゃない。


この瞬間を、俺は知っている。


膝をついた白い怪物。


ゆっくりとこちらへ向けられる、その横目。


俺を捉えようとしている。


だが――


その瞬間。


俺の盾が、怪物の視界を遮った。


死角。


一瞬だけ生まれた、完全な死角。


この感覚……知っている。


身体が勝手に動いた。


盾で視界を奪い、踏み込む。


白い怪物の首元が、目の前にある。


剣を突き出す。


ゆっくりと――


刃が首元へ沈んでいく。


その瞬間、頭の中に一つの言葉が浮かんだ。


俺は、この技を知っている。


この技の名前を――


白い怪物の首元。


そこには、俺の剣が奥深くまで突き刺さったままだった。


怪物は動かない。


やがて、その巨体がゆっくりと崩れ落ちる。


「……終わった……のか……?」


力が抜ける。


左腕を見る。


盾は――


大きく歪んでいた。


何度も攻撃を受け止めたせいで、表面は大きくへこみ、縁もひしゃげている。


もう盾としての機能は、残っていないだろう。


それでも――


俺は、その盾から目を離せなかった。


最後の一撃を防いだのも。


最後まで俺を守ったのも。


この盾だった。


あぁ……。


意識が、飛ぶ。


もう……身体に力が入らない。


膝から力が抜けていく。


誰かが、俺を呼んでいる。


「……レオン……!」


アンの声。


震えている。


何度も俺の名前を呼んでいる。


返事をしなければ。


そう思っているのに――


声が出ない。


視界が、ゆっくりと暗くなっていく。


「レオン! しっかりして!」


最後に聞こえたのは、アンの震えた声だった。


そして俺は――


意識を失った。


暗い……。


とても、寒い。


身体の感覚がない。


俺は……また死ぬのか……?


――また?


「……また?」


その言葉に、自分自身が違和感を覚えた。


また……?


俺は何を言っている?


死ぬのは……これが初めてのはずだ。


なのに――


知っている。


この暗闇を。


この寒さを。


この、死ぬ直前の感覚を。


「……女王蜘蛛……?」


なぜ、その言葉が頭に浮かんだ?


何だ……女王蜘蛛って。


俺は……何を知っている?


――何を、忘れている?


そして暗闇の中で、何かがこちらを見ている気がした。


「……まだ……」


誰だ……?


暗闇の中から、声が聞こえる。


「戦え……」


何を……?


俺はもう……。


「続けろ……!」


――誰だ?


聞いたことがある。


いや……違う。


聞いたことがあるんじゃない。


俺は、この声を――


「知っている……?」


暗闇の中で、何かが蠢いた。


そしてまた、声が響く。


「まだ終わっていない」


その言葉と同時に――


俺の意識は、深い闇へと沈んでいった。


ラッカムの街。


朝から、街はとても慌ただしかった。


普段ならば、冒険者たちが依頼へ向かう姿や、店を開ける商人たちの声が聞こえる時間。


だが今日は違った。


街中を、人々が忙しなく行き交っている。


その理由は――


瀕死の冒険者が、運び込まれたからだ。


「急げ! まだ息がある!」


「治療師を呼べ!」


「こっちだ! 道を空けろ!」


血にまみれた冒険者たち。


壊れた盾。


そして、巨大な魔物と戦ったことを物語る傷跡。


その光景を見た者たちは、何が起きたのかを知ろうと口々に騒いでいた。


ラッカムの街に、これまでにない緊張が走っていた。


そして――


もう一つ。


恐ろしく太い大剣もまた、共に運び込まれていた。


それは、人間が扱うにはあまりにも巨大だった。


血に濡れた刀身。


何度も何かを叩き潰したかのような傷跡。


その大剣を見た冒険者たちは、言葉を失っていた。


「……なんだ、あれ……」


誰かが呟く。


誰も答えられない。


ただ一つだけ、分かっていることがあった。


あの冒険者は――


あれほどの大剣を振るう何かと、命を懸けて戦ったのだ。


「すいません、通してください……!」


ネネは、野次馬として集まった冒険者や商人たちの隙間を、必死に潜り抜けていく。


「何があったんだ?」


「東の鉱山から運ばれてきたらしいぞ」


「見ろよ、あの大剣……」


周囲から聞こえてくる声。


ネネは、それらを聞き流しながら前へ進んだ。


そして――


人垣の向こうに、担架が見えた。


血に染まった冒険者。


その傍らには、あまりにも巨大な大剣が置かれている。


「……っ」


ネネの足が止まった。


担架の上に横たわっている男。


見間違えるはずがない。


「……レオンさん……?」


瀕死の冒険者。


それがレオンであることを、ネネは知った。


治癒師たちは、慌ただしく治療を始めていた。


「止血を急いで!」


「まだ出血が続いてる!」


「この傷は深いぞ……!」


次々と治癒魔法が施されていく。


ネネは、その光景を呆然と見つめていた。


その片隅には、冒険者ギルドの関係者たちも集まっている。


そして――


ギルドマスターの姿もあった。


レオンが治癒師たちの治療を受けている、その傍らで。


ギルドマスターは、ジェイとグリフから東の鉱山で起きたことを聞いていた。


「……レインは?」


その問いに、ジェイは一瞬だけ言葉を詰まらせた。


「……俺たちが逃げる時間を作るために、残りました」


「それから?」


「……分かりません」


グリフが俯く。


「俺たちは……振り返ることができなかった」


ギルドマスターは二人の表情を見つめる。


そして――


すぐに立ち上がった。


「救出隊を出す」


「ギルドマスター……」


「今すぐだ」


迷いのない声だった。


「東の鉱山へ向かわせろ。レインの生存を確認する」


「はい!」


職員が駆け出していく。


「それと、治癒師を含めた救護班も同行させろ。負傷者がいる可能性がある」


「了解しました!」


ジェイたちから聞いた情報がまとめられ


――ヘイゼルの白。


――討伐確認。


――東の鉱山内部に負傷者一名を残した可能性あり。


ギルドマスターは、短く息を吐いた。


「……まさか、あの魔物を討ち取るとはな」


視線が、治療を受けているレオンへ向かう。


全身に刻まれた傷。


血に濡れた衣服。


そして――


その傍らに置かれた、巨大な大剣。


「だが……」


ギルドマスターの表情が険しくなる。


「まだレインが残っている」


 ヘイゼルの白は、もういない。


だからこそ――


今なら、助けられる可能性がある。


「一刻も早く向かえ」


「はい!」


職員たちが慌ただしく準備を始める。


やがて――


東の鉱山へ向けて、救出隊が出発した。


目的は一つ。


取り残されたレインを――


生きて連れ戻すことだった。

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