それぞれの道
ラッカム冒険者ギルド。
その地下にある、遺体安置所。
薄暗い部屋の中に、二人の男が立っていた。
ジェイとグリフ。
二人の目の前には――
一人の男が、静かに横たわっている。
白い布を掛けられた身体。
その顔だけが、外に出されていた。
「…………」
グリフは、何も言えなかった。
ただ、目の前にいるレインを見つめている。
間違いない。
レインだ。
何度も一緒に冒険した。
何度も背中を預けた。
そして――
最後には、自分たちを逃がすために残った男。
「……レインさん」
グリフの声が震える。
返事はない。
いつもなら、
「どうした?」
そう言って笑うはずなのに。
今日は――何も言わない。
グリフは拳を握りしめた。
「……本当に……死んだんですね」
隣に立つジェイは、黙ったままだった。
ただ、レインの顔を見つめている。
長い沈黙。
やがてジェイが、静かに口を開いた。
「……ああ」
短い返事。
それだけだった。
けれど――
その声は、ひどく掠れていた。
ジェイはゆっくりとレインの顔へ手を伸ばす。
そして――
そっと、頬に触れた。
冷たい。
その冷たさが、現実を突きつけてくる。
「……冷たいな」
呟いた声が震えた。
「いつもなら……」
言葉が続かない。
ジェイは目を伏せる。
「いつもなら、お前は……こんなところで寝てねぇだろ」
返事はない。
当たり前だ。
もう――
返事をすることはない。
グリフが俯いた。
「……俺たちを逃がすために……」
声が震える。
「最後まで……一人で……」
ジェイは何も言わなかった。
ただ、拳を強く握りしめる。
爪が掌に食い込む。
「……俺たちは、生き残った」
その言葉を口にした瞬間。
ジェイの声が詰まった。
「お前が……残ったからだ」
静かな部屋に、その言葉だけが響く。
「……レイン」
今度は、親友として。
冒険者仲間として。
ジェイは、その名を呼んだ。
「……すまなかった」
グリフも、涙を拭わなかった。
ただ――
二人でそこに立ち続けた。
この場所にあるのは――
一人の仲間の死。
そして――
残された者たちの、言葉にならない悲しみだけだった。
――グリフは、自分が許せなかった。
俺は――何もできなかった。
レインさんが俺たちを逃がすために残った時も。
「振り向くな」
そう言われて、俺は振り向かなかった。
ただ、走った。
あの人を置いて。
何度も助けてもらった。
戦い方を教えてもらった。
危険な時には、いつだって俺たちの前に立ってくれた。
そんなレインさんを――俺は置いて逃げた。
分かっている。
振り返れば、俺たちまで死んでいたかもしれない。
それでも――悔しかった。
何もできなかった自分が、情けなかった。
そして、アンが白い怪物に襲われた時も。
俺は動けなかった。
大剣が振り下ろされようとしていたのに、足が動かなかった。
「逃げろ!」
そう叫ぶことしかできなかった。
そんな俺の前に――レオンが飛び込んだ。
盾を構え、あの一撃を受け止めた。
血を流しても、身体が限界でも、レオンは退かなかった。
俺は、それを見ていることしかできなかった。
レインさんも。
アンも。
レオンも。
俺は誰一人として守れなかった。
「……俺は……」
拳を握る。
痛い。
それでも、この胸の痛みには遠く及ばない。
俺は――弱い。
大切な人たちが傷ついていくのを、ただ見ていることしかできなかった。
――アンは、ずっと自分を責めていた。
私には――何もできなかった。
レインさんが私たちを逃がすために残った時も。
「振り向くな」
そう言われて――私は走った。
振り返ることができなかった。
怖かった。
レインさんがどうなったのか。
あの場所に一人で残って、どうなってしまったのか。
考えたくなかった。
でも――
分かっている。
私たちを逃がすために、レインさんは残った。
私たちを生かすために。
それなのに私は――
助けることができなかった。
何もできないまま、逃げた。
「……ごめんなさい……」
小さく呟く。
あの時、もっと強ければ。
私にも何かできていたら。
レインさんを置いて逃げなくてもよかったのに。
そう思ってしまう。
そして――
私が白い怪物に襲われた時。
私は、何もできなかった。
身体が動かなかった。
怖くて。
足が震えて。
大剣が振り下ろされるのを、ただ見ていた。
死ぬ。
そう思った。
その瞬間――
レオンが、私の前に飛び込んできた。
「――守る!」
そう言って。
私を守るために、あの怪物に向かっていった。
盾で攻撃を逸らして。
何度も傷ついて。
それでも、私の前から退かなかった。
「……レオン……」
思い出すだけで、胸が苦しくなる。
私のせいで――
レオンまで傷ついた。
私がもっと戦えたら。
私がもっと強かったら。
レオンが、あんな傷を負う必要なんてなかった。
そして最後には――
私の目の前で倒れた。
「レオン……!」
何度呼んでも、返事がなかった。
あの時の恐怖が、今も胸に残っている。
レインさんも。
レオンも。
私の大切な人たちが、傷ついていく。
それなのに私は――
何もできなかった。
私は弱い。
弱いから、守られてばかりだった。
守ってもらうだけで――
誰も守ることができなかった。
「……私も……強くならなきゃ……」
涙を拭う。
もう、誰かに守ってもらうだけなのは嫌だった。
もう二度と――
大切な人が傷ついていくのを、何もできずに見ているのは嫌だった。
――ジェイは、レインのことを考えていた。
レイン。
俺の――大親友だった。
冒険者になってから、ずっと一緒だった。
危険な依頼にも行った。
何度も死にかけた。
それでも、二人で生きて帰ってきた。
酒を飲みながら、くだらない話をしたこともあった。
くだらないことで笑ったこともあった。
いつか引退したら、冒険者だった頃の話を酒の肴にしよう。
そんな話をしたこともあった。
……なのに。
俺は、あいつを置いてきた。
「振り向くな」
最後に聞いた、あいつの声。
あの声が、今でも耳から離れない。
俺は――振り向かなかった。
振り向けなかった。
あいつがどうなったのか。
分かっていた。
分かっていたからこそ、振り返ることができなかった。
もし振り返っていたら。
俺たちは、レインの目の前で死んでいたかもしれない。
あいつが命を懸けて作った時間を、無駄にしていたかもしれない。
だから――
俺は走った。
仲間を連れて。
生き残るために。
……それでも。
俺には、もっと何かできたんじゃないか。
そんな考えが、頭から離れない。
あの怪物と戦った時。
俺は矢を放った。
マッドプラントを射抜いた。
それでも――
レインを救えなかった。
もっと早く弱点に気づいていれば。
もっと正確に動けていれば。
もっと強ければ。
あいつを置いて逃げる必要なんて、なかったんじゃないか。
「……馬鹿野郎……」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
レインに向けたのか。
自分自身に向けたのか。
それとも――
あの怪物に向けたのか。
ただ一つ、確かなことがある。
俺は――
親友を失った。
もう二度と、一緒に酒を飲むことはできない。
もう二度と、くだらない話をすることもできない。
もう二度と――
あいつの背中を見ることはできない。
そう考えた瞬間。
胸の奥が、締めつけられるように痛んだ。
俺は冒険者だ。
人が死ぬことなんて、何度も見てきた。
仲間を失ったことだって、一度や二度じゃない。
それでも――
レインだけは、違った。
あいつは――
俺の親友だった。
「……レイン」
小さく名前を呼ぶ。
返事はない。
当たり前だ。
もう――
返事をすることはない。
ジェイは目を閉じた。
そして、静かに拳を握りしめる。
涙が一滴だけ、頬を伝った。
「……すまなかった」
それが誰に向けた言葉なのか。
自分でも分からなかった。
ただ――
もう一度だけ。
あいつと話したかった。
――最初に聞こえたのは、アンの震える声だった。
「……レオン……?」
遠くから聞こえる。
誰かが、俺の名前を呼んでいる。
「……レオン……!」
少しずつ、意識が浮かび上がってくる。
重い。
身体が、ひどく重い。
目を開けようとしても、瞼が思うように動かない。
「……ん……」
小さく声が漏れた。
その瞬間――
「レオン……!」
声が近くなった。
誰かが、俺の手を握っている。
温かい。
その感触に、少しだけ安心する。
ゆっくりと瞼を開いた。
ぼんやりとした視界の中に――
アンの顔があった。
「……アン……?」
「レオン……!」
アンの目には、涙が浮かんでいた。
「よかった……本当に……」
声が震えている。
俺は、ぼんやりと周囲を見回した。
白い天井。
薬品の匂い。
身体に巻かれた包帯。
ここは……治療所だろうか。
「……俺……どれくらい……」
かすれた声で尋ねる。
アンは少し黙ってから答えた。
「……三日」
「……三日?」
「うん。ずっと眠ってた」
三日……。
東の鉱山で戦ってから、もうそんなに経ったのか。
自分では、ほんの少し前の出来事のように感じる。
俺はゆっくりと身体を起こそうとした。
「……っ」
全身に痛みが走る。
「無理しないで!」
アンが慌てて肩を支える。
「まだ傷が治りきってないんだから」
「……そうか」
俺はベッドに背を預けた。
けれど――
不思議だった。
あれほど動かなかった身体が、少しずつ動く。
指も。
腕も。
足も。
完全ではない。
それでも、あの戦いの直後とは比べものにならない。
「……歩けそうかな」
「まだ駄目」
即答だった。
「でも……あと少し休めば、少しずつ歩けるようになるって治癒師さんが言ってた」
「……そうか」
俺は天井を見つめた。
三日。
たった三日なのに――
俺には、随分と長い時間が過ぎたように感じられた。
「……みんなは?」
ふと、あの時の仲間たちの顔が浮かんだ。
「グリフは?」
「いるよ。怪我も治ってきてる」
「……ジェイさんは?」
「ジェイさんも大丈夫」
「……そうか」
少しだけ、安心した。
みんな生きている。
それなら――
「…………」
ふと、胸の奥に引っかかるものがあった。
何かが足りない。
誰かの姿が、頭に浮かばない。
いや――
違う。
最初から、考えたくなかっただけだ。
「……アン」
「うん?」
「……レインさんは?」
その瞬間。
アンの表情が固まった。
「…………」
返事がない。
「……アン?」
俺はもう一度、名前を呼んだ。
アンは俯いた。
握っていた手が、わずかに震えている。
「……どうした?」
嫌な予感がした。
けれど――
それを認めたくなかった。
「……レインさんは、どうしたんだ?」
アンは何も言わない。
ただ、目に涙が浮かんでいく。
「……まさか」
声が震えた。
「……まだ、鉱山にいるのか?」
アンが首を横に振った。
「……違う」
「じゃあ……」
言葉が続かない。
アンは涙を拭う。
何度も息を吸い込んで。
それでも、声が震えていた。
「……救出隊が……鉱山に向かったの」
「…………」
「私たちを助けに行ってくれた人たちが……レインさんを見つけた」
胸の奥が、嫌な音を立てた。
「……見つけた?」
「……うん」
アンの頬を、涙が伝う。
「……遺体で……」
「…………」
頭の中が真っ白になった。
「……嘘だろ?」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
「レインさんが……?」
アンは答えない。
ただ、涙を流している。
それが答えだった。
「……嘘だ」
俺は首を横に振った。
「だって……」
あの人は強かった。
俺たちよりずっと経験があって。
いつだって冷静で。
どんな危険な場所でも、俺たちの前に立っていた。
「……レインさんだぞ?」
まるで、それだけで答えになると思った。
「そんな簡単に……死ぬわけないだろ……」
声が震える。
アンは俯いたまま、何も言わない。
「……戻ってきたんだろ?」
「…………」
「なあ、アン……」
俺は必死にアンを見る。
「……戻ってきたんだろ?」
アンはゆっくりと首を横に振った。
「……レインさんは……もう……」
その先を聞きたくなかった。
「……もう、いないの」
「…………」
言葉が出なかった。
胸の奥に、何か大きな穴が開いたようだった。
「……そうか」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど静かだった。
視界が滲む。
あの時の光景が蘇る。
最後に聞いた、あの人の声。
――振り向くな。
俺たちを逃がすために。
一人で残った。
「…………」
俺は震える手で顔を覆った。
「……俺……」
声が詰まる。
「……何も……できなかった」
涙が指の隙間から落ちていく。
「レインさんが残った時も……」
「…………」
「俺は……逃げただけだ……」
アンは何も言わなかった。
ただ、俺の手を握っていた。
温かい。
けれど――
その温かさでは、胸の中にできた穴を埋めることはできなかった。
「……レインさん……」
名前を呼ぶ。
返事はない。
もう――
返事をしてくれることはない。
その現実を、俺はようやく知った。
そしてこの時の俺は――
まだ知らなかった。
街ではすでに、
俺が一人でヘイゼルの白を倒した英雄として、語られていることを。
時に――噂とは残酷である。
一夜のうちに
真実とは異なる形へと歪み。
誰かの口から、誰かの口へ。
伝わるたびに、少しずつ形を変えていく。
そして――
いつの間にか、それは真実よりも大きなものになっていた。
ラッカムの街では、今日も同じ話が繰り返されていた。
「聞いたか?」
「ああ。東の鉱山で、とんでもない新人が出たらしいぞ」
「ヘイゼルの白を倒したんだろ?」
「しかも、一人でだ」
「一人で……?」
「ああ。あの白い怪物を相手に、真正面から立ち向かったらしい」
「嘘だろ……」
「いや、本当らしいぞ。あの巨大な大剣を真正面から受け止めて、そのまま斬り伏せたって話だ」
「新人なのにか?」
「それだけじゃない。仲間が襲われたところに飛び込んで、盾一枚であの怪物の攻撃を防いだらしい」
「盾一枚で……?」
「そうだ。そして最後は、自分の剣で首を貫いた」
「……とんでもない奴だな」
「ああ」
酒場の隅で、誰かが感嘆の声を漏らした。
「その新人、名前は?」
「レオンっていうらしい」
「レオン……」
その名前が、また別の誰かへ伝わっていく。
「ヘイゼルの白を倒した新人は、レオンっていうらしいぞ」
「一人で倒したんだってさ」
「しかも、あの大剣を真正面から受け止めたらしい」
「いやいや、俺が聞いた話じゃ真正面から斬り伏せたって話だぞ」
「どっちにしろ、とんでもないな……」
話は、さらに膨らんでいく。
「たった一人でヘイゼルの白を倒した冒険者」
「新人とは思えない剣技の持ち主」
「巨大な大剣を受け止めた盾使い」
「東の鉱山を救った英雄」
昨日まで、誰もその名を知らなかった少年。
それが一夜にして――
ラッカム中の冒険者たちに知られる存在となっていた。
だが――
その噂には、決定的に欠けているものがあった。
真実だ。
誰も知らない。
レインが最後に残ったことを。
仲間たちを逃がすため、一人で怪物の前に立ったことを。
そして――
その命を落としたことを。
街の人々が知っているのは、ただ一つ。
レオンがヘイゼルの白を倒した。
それだけだった。
レインの死は――
まだ、誰にも知られていない。
だから街では、今日も英雄譚が語られる。
実際には五人で戦ったことも。
レインが命を懸けて時間を稼いだことも。
ジェイがマッドプラントの弱点を射抜いたことも。
グリフやアンが必死に戦ったことも。
そして――
レオン自身が、何度も死を覚悟したことも。
誰も知らない。
真実は、噂の中から消えていた。
残ったのは――
たった一人の新人冒険者が、恐ろしい魔物を打ち倒したという英雄譚だけだった。
レオンが目を覚ましてから、二日が経った。
傷はまだ残っていたが、俺は自分の足で歩けるようになっていた。
「……会いに行く」
「どこへ?」
アンが尋ねる。
「レインさんに」
アンは少し黙った。
「……うん」
俺は治療所を出た。
向かう先は――ラッカムの墓地。
レインさんが眠る場所だった。
街を抜け、静かな坂道を上っていく。
やがて、墓石が並ぶ一角が見えてきた。
その中に――
見覚えのある名前があった。
レイン
「…………」
足が止まった。
その墓の前には、すでに一人の男が立っていた。
「……ジェイさん」
「……レオンか」
ジェイさんが振り返る。
少し疲れた顔をしていた。
「来たか」
「……はい」
俺は墓の前まで歩いていく。
そして――
静かに膝をついた。
「……レインさん」
返事はない。
当然だ。
それでも、名前を呼ばずにはいられなかった。
「……本当に、死んだんですね」
ジェイさんはしばらく黙っていた。
「……ああ」
それだけだった。
風が墓地を通り抜ける。
「救出隊が見つけた時には、もう息はなかった」
「……そうですか」
分かっていた。
アンから聞いていた。
それでも、自分の目の前に墓があることで――ようやく現実になった気がした。
俺は墓石に手を触れた。
冷たい。
「……俺、助けられませんでした」
ジェイさんは何も言わない。
「レインさんが残った時も……俺は逃げただけです」
拳を握る。
「もっと強ければ……」
「レオン」
ジェイさんが口を開いた。
「お前が生きているのは、レインが望んだことだ」
「…………」
「だから、自分を責め続けるな」
優しい言葉だった。
けれど――
今の俺には、すぐに受け入れることはできなかった。
ジェイさんは懐から一冊の手帳を取り出した。
古びた冒険手帳。
「……これを」
「……?」
俺は受け取った。
表紙には、何度も使い込まれた傷が残っている。
「レインの冒険手帳だ」
「……冒険手帳」
「あいつが冒険の記録を残していたものだ」
ジェイさんが少しだけ笑う。
「依頼のことや、魔物のこと……くだらないことまで色々書いてある」
俺は手帳を見つめた。
「俺には必要ない」
ジェイさんは静かに首を振った。
「いや。お前が持っていてくれ」
「……俺が?」
「ああ」
そして――
「レインは、お前のことを気に入ってた」
胸が詰まった。
「新人だったお前を見て、昔の自分を思い出すって言ってたよ」
俺は手帳を強く握った。
「……大切にします」
「……ああ」
ジェイさんは小さく頷いた。
俺はもう一度、墓を見る。
「……レインさん」
涙が頬を伝う。
「俺……もっと強くなります」
手帳を胸に抱く。
「いつか……あなたみたいに、誰かを守れる冒険者になります」
風が吹いた。
墓前に、静かな時間が流れる。
ジェイさんも何も言わなかった。
ただ――
二人で、しばらくレインの墓の前に立っていた。
それから、さらに数日が経った。
そのことを。
「……レオン?」
アンの声で、顔を上げる。
「どうしたの? さっきから黙ってるけど」
「……いや」
俺は一度、二人を見る。
グリフも、こちらを見ていた。
今まで何度も一緒に戦ってきた仲間たち。
何度も背中を預けた。
何度も助けられた。
だからこそ、言い出すのが怖かった。
けれど――
いつまでも先延ばしにはできない。
俺はゆっくりと息を吸った。
「……二人に話がある」
アンとグリフの視線が俺に集まる。
「俺は――」
一瞬だけ、言葉に詰まる。
それでも、俺は続けた。
「パーティーを解散しようと思う」
静かだった。
ギルドの喧騒が、やけに遠く感じられた。
レオンの身体は、日常生活なら問題なく動けるほどに回復していた。
けれど――
心の傷は、日に日に深くなっていた。
ラッカム冒険者ギルドの酒場。
いつもの席に、俺たち三人は座っていた。
アン。
グリフ。
そして、俺。
周囲からは、今日も冒険者たちの話し声が聞こえてくる。
「聞いたか? レオンの話」
「ヘイゼルの白を一人で倒した新人だろ?」
「そうそう。あの巨大な大剣を正面から受け止めたって話だ」
「いや、俺が聞いた話じゃ、真正面から斬り伏せたらしいぞ」
「どっちにしろ化け物だな」
笑い声が聞こえる。
俺は俯いた。
……違う。
何度聞いても、違う。
俺一人じゃない。
あの場には、アンもいた。
グリフもいた。
ジェイさんもいた。
そして――
レインさんがいた。
なのに。
街で語られているのは、俺一人の英雄譚だった。
「……」
俺は、膝の上で拳を握った。
胸元には、レインさんから受け取った冒険手帳がある。
触れるたびに、あの人の顔を思い出す。
――振り向くな。
あの声が、今でも耳に残っている。
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
「……二人とも」
アンとグリフが俺を見る。
「どうしたの?」
「……なんだ?」
俺は、一度だけ息を吸った。
そして――
「俺たちのパーティーを……解散したい」
二人は黙った。
酒場の喧騒だけが、妙に大きく聞こえる。
「…………」
アンは何も言わなかった。
グリフも、何も聞かなかった。
「……そう」
しばらくして、アンが小さく呟いた。
それだけだった。
「グリフも……いい?」
「ああ」
グリフは短く答えた。
俺は少し驚いた。
「……理由、聞かないのか?」
グリフは首を横に振った。
「聞かなくても……分かるからな」
「……」
俺は言葉を失った。
アンも、小さく笑った。
けれど、その笑顔はどこか寂しかった。
「レオンが決めたことなら……私は受け入れるよ」
「……アン」
「だって……」
アンは一度だけ俯いてから、顔を上げた。
「レオンが、ずっと苦しそうなの……分かってたから」
俺は何も言えなかった。
グリフが静かに続ける。
「俺も同じだ」
その言葉に、俺はグリフを見る。
「レインさんのことも……あの日のことも。まだ、俺は整理できてない」
グリフは拳を見つめる。
「だから……お前が一人になりたいって言うなら、俺は止めない」
「……」
「ただ」
グリフが俺を見る。
「パーティーを解散したからって、仲間じゃなくなるわけじゃないだろ」
その言葉に――
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
「……ああ」
俺は頷いた。
「そうだな」
アンも小さく頷く。
「またいつか……一緒に冒険できるといいね」
「……うん」
俺は答えた。
その言葉を最後に――
三人の間に、静かな沈黙が流れた。
誰も責めなかった。
誰も理由を問い詰めなかった。
ただ――
それぞれが、今の自分に必要な道を受け入れた。
それから数日後。
ジェイさんとグリフは、二人でラッカムを離れる。
グリフはジェイさんと共に行動して斥候としての技術を学ぼうとしている。
俺は、二人を見送った。
「じゃあな、レオン」
「ああ。またどこかで」
二人の背中が、街の向こうへ消えていく。
それから、さらに数日後。
今度はアンがラッカムを離れる日が来た。
街の門には、一台の交易用の荷車が停まっている
アンはネネと共に行動し色んな街を周り今まで見たこともない魔物の素材や特産品を学び調合師としての技術を学ぼうとしている。
「元気でね、レオン」
「アンも」
最後に手を振るアンの姿を、俺は黙って見送った。
俺たちは、それぞれの道へ歩き出した。
俺は、胸元の冒険手帳にそっと触れる。
レインさん。
俺はまだ、あなたのようにはなれない。
だから――
少しだけ、一人で歩いてみます。
自分が何を守りたいのか。
何のために剣と盾を持つのか。
それを、自分自身で見つけるために。
いつか。
自分の足で、あなたの背中を追えるようになるまで。
俺は、一人でラッカムの街を歩いていた。
俺も、いつまでも立ち止まっているわけにはいかない。
そして俺は、通りを外れて一つの路地へ入った。
向かう先は――ガフさんの鍛冶屋。
鍛冶屋の看板が見えてくる。
俺は足を止めず、そのまま店の扉へ向かった。
「……失礼します」
扉を開ける。
中から、金属を打ちつける音が響いてきた。
「あー!」
店の奥から、とても元気で明るい声が響いた。
「レオンさん!」
聞き覚えのある声。
俺が顔を向けると――
鍛冶場の奥から、ルーシェがひょこっと顔を出した。
「ルーシェ……」
「お久しぶりです!」
彼女は嬉しそうに笑いながら、こちらへ駆け寄ってくる。
相変わらず元気そうだ。
「怪我、もう大丈夫なんですか?」
「ああ。もう普通に歩ける」
「よかったぁ!」
ルーシェは胸を撫で下ろす。
「あ、剣を受け取りに来たんですね!」
そして――
彼女は店の奥を指差した。
「こっちです!」
鍛冶場の奥へ進むと、壁際には様々な武器が並べられていた。
剣、槍、斧。
その中には、同じような形をした剣も何本か置かれている。
けれど――
「……あれだ」
俺には、すぐに分かった。
複数の剣の中に、一振りだけ。
見覚えのある剣があった。
ガフさんに預けていた、あのボロボロで錆びついた剣だ。
「……これが……?」
思わず足を止める。
以前の姿からは、想像もできなかった。
刃には錆一つ残っていない。
表面は丁寧に磨かれ、淡い光を反射している。
欠けていた部分も綺麗に整えられ、柄も新しく補修されていた。
まるで――
別の剣に生まれ変わったようだった。
俺はゆっくりと手を伸ばす。
柄を握った瞬間――
頭の奥に、鋭い痛みが走った。
「……何だ……?」
視界が揺れる。
目の前にある鍛冶場が、一瞬だけ遠ざかっていく。
そして――
知らないはずの光景が、頭の中に流れ込んできた。
森。
暗い洞窟。
無数の蜘蛛の巣。
その中心にいる――巨大な魔物。
グリーンスパイダーの女王。
「…………!」
息が詰まる。
俺は――知っている。
あの魔物を。
いや……違う。
俺は、あいつに殺された。
身体が動かない。
目の前まで迫る巨大な顎。
逃げようとしても、足が動かない。
そして――
鋭い牙が、俺の身体へと突き立てられる。
「――っ!」
そこで、記憶が途切れた。
「……はぁ……はぁ……」
俺は剣を握ったまま、荒い息を吐いていた。
額には冷たい汗が浮かんでいる。
「俺は……」
震える手で、剣を見る。
この剣を握ったことで――
失われていた記憶の一部が、蘇った。
グリーンスパイダーの女王。
あの魔物に――
俺は、過去に殺されている。
「……どうして……」
自分でも理解できない。
けれど、確かに分かる。
あれは夢なんかじゃない。
俺が実際に経験したことだ。
そして――
この剣は、その記憶と何か繋がっている。
俺は剣を強く握り直した。
「……まだ、何かある」
蘇ったのは、ほんの一部。
あの時、俺は何者だったのか。
なぜグリーンスパイダーの女王と戦ったのか。
そして――
なぜ、俺は今ここにいるのか。
答えは、まだ記憶の奥に眠っていた。
「……レオンさん!」
遠くから、声が聞こえた。
「レオン! 大丈夫ですか?」
その声に、はっとする。
「……っ」
目の前の景色が、一気に現実へと戻ってきた。
鍛冶場。
熱気。
鉄を打つ音。
そして――
心配そうにこちらを見つめるルーシェの姿。
「……ルーシェ?」
「はい! どうしたんですか? 急に動かなくなって……」
ルーシェが不安そうに俺の顔を覗き込む。
俺は、まだ少し震えている手を見る。
さっきまで頭の中にあった光景は、もう消えていた。
けれど――
あの感覚だけは、はっきりと残っている。
「おう、来てたのか」
背後から、聞き慣れた低い声が響いた。
「……ガフさん」
振り返ると、作業場の奥からガフさんが歩いてくるところだった。
煤で汚れた前掛けを身につけ、手にはまだ鍛冶仕事の跡が残っている。
「どうだ? 見違えただろ」
「……はい」
俺は剣へ視線を戻した。
以前の、ボロボロで錆びついた姿からは想像もできない。
「ありがとうございます。ここまで綺麗になるとは思いませんでした」
「それと――これだ」
ガフさんがそう言うと、作業場の奥へと歩いていった。
しばらくして――
「……よっ」
何かを持ち上げる、低い声が聞こえる。
次の瞬間。
ズシンッ――
重い金属が床に置かれた。
「……!」
俺たちが振り向く。
そこにあったのは――
あの大剣だった。
ヘイゼルの白が使っていた、巨大な大剣。
鉱山で何度も目にした、あの異様な武器。
ガフさんが両手で抱えるようにして持ってきたらしい。
「これ……」
俺は思わず息を呑んだ。
間近で見ると、その大きさはやはり異常だった。
刃は分厚く、普通の冒険者が使う剣とは比べものにならない。
「ヘイゼルの白が使っていた大剣だ」
ガフさんが顎で大剣を指す。
ガフさんが置いた大剣を、俺はじっと見つめた。
近くで見ると、あの時の恐怖が蘇ってくる。
分厚い刃。
禍々しいほどの存在感。
あの鉱山で、何度も俺たちに死を突きつけた武器。
「……」
確かめるように、俺はゆっくりと手を伸ばした。
そして――
指先が大剣の柄に触れた瞬間。
「――っ!」
頭の中に、凄まじい衝撃が走った。
「……あ……」
視界が歪む。
身体から力が抜けていく。
「レオンさん!」
ルーシェの声が聞こえた。
けれど、それに答えることはできなかった。
俺はその場に――
ドサッ
膝を突いた。
「レオン!」
ガフさんの声が遠くに聞こえる。
そして――
また、記憶が流れ込んできた。
暗い森。
血の匂い。
目の前に立つ巨大なコボルト。
白い毛。
そして――
あの大剣。
「…………ああ」
震える声が漏れた。
知っている。
俺は、この怪物を知っている。
この大剣を――知っている。
「……そうだ」
胸の奥が締めつけられる。
断片的だった記憶が、少しずつ繋がっていく。
俺は以前にも――
ヘイゼルの白と戦っていた。
そして――
「……俺は……」
目の前に迫る大剣。
逃げられない。
避けられない。
次の瞬間――
視界が真っ赤に染まった。
「……殺された」
この感覚だけは間違いなかった。
この大剣を知っている。
あの白い怪物を知っている。
そして――
俺は過去に一度、こいつに殺されている。
「大丈夫? 顔色が悪いよ?」
ルーシェが心配そうに声をかけてきた。
「…………」
俺はすぐには答えられなかった。
まだ頭の中に、さっきの光景が残っている。
巨大な白い身体。
振り下ろされる大剣。
そして――
自分の身体を貫いた、あの一撃。
「……大丈夫だ」
そう答えようとしたが、声に力が入らなかった。
ルーシェがしゃがみ込み、俺の顔を覗き込む。
「本当に?」
「ああ……少し、頭が混乱してるだけだ」
「無理しちゃ駄目ですよ」
「……すまない」
俺はゆっくりと立ち上がった。
けれど、膝にはまだ力が入りきらない。
ガフさんが腕を組んだまま、黙って俺を見ていた。
そして俺は、床に置かれた大剣と、持ってきた素材の入った袋を見つめた。
「ガフさん」
「ん?」
「この大剣と……これも使ってほしい」
俺は持ってきた袋を差し出した。
中には、鉱山で手に入れた――ヘイゼルの白の素材が入っている。
ガフさんは袋を受け取り、中身を確認する。
「……ヘイゼルの白の素材か」
「ああ」
俺は大剣へ視線を戻した。
「この大剣と、こいつの素材を使って――」
一度、息を吸う。
「盾と鎧を作ってほしい」
「……盾と鎧?」
ガフさんが目を丸くする。
「ええ。できるだけ、この大剣と素材を無駄にしない形で」
ルーシェも驚いたように大剣を見る。
「でも……あの大剣を盾や鎧に?」
「うん」
俺は頷いた。
「この大剣には……俺の過去に関係する何かがある。それに――」
俺は自分の盾を見る。
あの戦いで傷だらけになった盾。
「俺には、もっと強い盾が必要なんだ」
そして――
「鎧も」
レインさんの背中を思い出す。
守ることができなかった自分。
「次は……誰かを守れるようになりたい」
ガフさんはしばらく黙って、大剣と素材を見つめていた。
やがて、ゆっくりと頷く。
「……分かった」
「できますか?」
「簡単な仕事じゃねぇぞ」
ガフさんは大剣の刃を軽く叩いた。
「だが、これだけの素材があるなら、面白いものは作れそうだ」
そして俺を見る。
「時間はかかる。それでもいいか?」
「はい」
俺は迷わず答えた。
「お願いします」
ガフさんはニヤリと笑った。
「任せろ。こいつを、お前がこれから生き残るための武具にしてやる」
俺は大剣を見つめた。
かつて俺を殺した武器。
そして――
今度は俺を守る盾と鎧になる。
そのことが、不思議と胸に残った。




