その名は双剣の戦鬼
そして――。
準決勝の相手は、すでに決まっていた。
その名を聞いた瞬間、会場の空気が変わった。
――二つ名を持つ魔物。
その名は。
『双剣の戦鬼』。
二本の長剣を操る、女のケンタウロス。
その身体には、見るからに頑丈そうな鎧が身につけられている。
ただの金属鎧ではない。
魔力を帯びた――マジックアイテムの鎧だ。
巨大な身体に二本の長剣。
そして、魔法によって強化された鎧。
それだけでも十分に恐ろしい。
だが――。
最も恐れられているのは、彼女が二つ名を持っていることだった。
「……二つ名持ちか」
俺は闘技場に貼り出された対戦表を見つめる。
彼女のランクは――Aランク。
俺たちと同じ大会参加者の中でも、間違いなく上位に位置する冒険者だ。
だが。
二つ名を与えられているということは――。
単なるAランク冒険者ではない。
これまで積み重ねてきた実績。
数多くの戦い。
そして、その強さを多くの冒険者たちが認めたからこそ、二つ名が与えられている。
その事実だけで十分だった。
「『双剣の戦鬼』……」
街では、その名前があちこちで囁かれていた。
「まともに戦ったら勝てない」
「二本の剣を同時に使うんだろ?」
「しかも、あの鎧……魔法攻撃まで通じないって話だぞ」
「Aランクの中でも別格らしい」
そんな噂が広がっている。
実際――。
準決勝を前に、棄権を申し出る冒険者パーティーも少なくなかった。
戦うことすらせず。
勝負の舞台に立つ前に、敗北を認めるのだ。
それほどまでに――。
『双剣の戦鬼』という二つ名は、恐れられていた。
「……なるほどな」
俺はもう一度、対戦表を見る。
ここまで来れば、当然だ。
三回戦までの相手とは違う。
準決勝ともなれば――。
本物の強者が待っている。
俺は静かに息を吐いた。
怖くないと言えば嘘になる。
だが――。
だからこそ。
戦ってみたい。
俺はそう思っていた。
そして――。
これまで『双剣の戦鬼』と戦い、準決勝へと進むことができたパーティーは――たった一つだけだった。
それほどまでに、彼女は圧倒的だった。
そして――。
ついに、俺たちの出番がやってきた。
闘技場へと足を踏み入れる。
観客席から、凄まじい歓声が沸き起こった。
その声の中、俺たちの前に立っていたのは――。
一体の女ケンタウロス。
巨大な身体。
そして、その両手には二本の長剣。
全身を覆う頑丈そうな鎧は、太陽の光を受けて鈍く輝いている。
俺は盾を構えながら、相手を見据えた。
「……あれが、双剣の戦鬼か」
「ええ」
隣に立つアリスが、相手の武器を見つめる。
「レオン、気をつけてください」
「何か分かったのか?」
「はい」
アリスは静かに頷いた。
「あの二本の長剣……どちらもマジックアイテムです」
「……二本とも?」
「はい。そして――」
アリスの視線が、長剣へと向けられる。
「風の魔法が付与されています」
その言葉を聞いた瞬間だった。
開始の合図が鳴り響く。
――だが。
俺たちが動くよりも早く。
戦鬼が動いた。
「――ッ!」
四本の脚が地面を蹴る。
凄まじい速度。
そう思った次の瞬間――。
戦鬼はその場で二本の長剣を大きく振り抜いた。
――ブォンッ!!
空気が震える。
そして――。
「来ます!」
アリスの声。
二本の長剣から放たれたのは――。
巨大な風の刃だった。
左右から放たれた二つの斬撃が、地面を削りながら一直線にこちらへ飛んでくる。
「全員、避けろ!」
俺が叫ぶ。
風の刃が迫る。
速い。
想像以上に――速い。
俺は盾を構えながら、迫り来る斬撃を睨みつけた。
これが――。
『双剣の戦鬼』。
準決勝まで辿り着いた、たった一つのパーティーを退けてきた相手。
そして――。
二つ名を持つ者の力だった。
俺たちは迫り来る二つの風の斬撃を、間一髪でかわした。
――ズガァァンッ!!
直後。
風の刃が闘技場の外壁へと激突した。
轟音とともに、分厚い石壁が大きく砕ける。
俺は思わず振り返った。
そこには――。
深々と抉られた石壁。
まるで巨大な刃物で切り裂かれたかのように、石が大きく削り取られている。
「……」
思わず言葉を失う。
あれが――風の斬撃。
しかも、遠距離からただ剣を振っただけだ。
「……すごい威力だな」
俺が呟く。
もし、あれを盾で受け止めていたら。
そう考えるだけで、背筋に冷たいものが走った。
戦鬼は何事もなかったかのように、二本の長剣を構え直している。
その姿からは――。
余裕すら感じられた。
まだ、全力ではない。
そんな気がした。
「カレン!」
「なぁに?」
「シードラゴンを頼む!」
「うん!」
カレンはすぐに頷いた。
そして――。
腰に身につけたポーチさんから魔法カードを取り出す。
「ドラゴンさん!」
カレンがカードを掲げる。
次の瞬間――。
闘技場の上空に、巨大な魔法陣が浮かび上がった。
そこから現れたのは――。
巨大な水竜。
シードラゴンだった。
巨体を空中へと躍らせると、そのまま闘技場の上空を大きく旋回する。
「グォォォォォォッ!」
巨大な咆哮が闘技場全体に響き渡った。
「いけー!」
カレンの声に応えるように、シードラゴンが大きく口を開く。
次の瞬間――。
凄まじい量の水が、滝のように放たれた。
「――ッ!」
戦鬼が横へ跳ぶ。
直後、地面を水の奔流が叩きつけた。
――ドォォォン!!
石畳が砕け、水飛沫が周囲へと舞い上がる。
しかし――。
攻撃は、それだけでは終わらない。
シードラゴンは再び大きく旋回すると、今度は冷気を放つ。
空気そのものが凍りつき、無数の氷の刃が戦鬼へと降り注いだ。
「くっ……!」
戦鬼は二本の長剣を振る。
風を纏った剣が氷の刃を次々と弾き飛ばしていく。
だが――。
完全には防ぎきれない。
戦鬼は四本の脚を駆使して闘技場を駆け回り、上空から降り注ぐ魔法を避け続ける。
それでも――。
戦鬼は俺たちから目を離さない。
「……凄いな」
俺は思わず呟いた。
上空からシードラゴンが強力な水と氷の魔法を放ち続けている。
普通なら、あれだけの魔法を一方的に撃ち込まれれば、戦うどころではない。
だが――。
戦鬼は違った。
魔法を避け。
時には二本の長剣で弾き。
その合間を縫って――。
俺たちへと攻撃を仕掛けてくる。
「さすが……二つ名持ちですね」
アリスが呟く。
俺も盾を構え直す。
上空には巨大な水竜。
地上には――。
二本の長剣を構えた『双剣の戦鬼』。
シードラゴンの圧倒的な魔法によって戦鬼を追い詰めながらも――。
俺たちとの戦いまで同時にこなしている。
それでもなお――。
戦鬼は倒れない。
むしろ、その瞳には闘志が宿っていた。
シードラゴンの攻撃は続いていた。
だが――。
それだけではない。
「いきます!」
アリスが手を掲げる。
地面から巨大な土の槍が次々と突き出した。
さらに――。
「いけーっ!」
カレンの雷魔法が、上空から戦鬼へと降り注ぐ。
「こんっ!」
妖狐も負けじと火の魔法を放った。
水。
氷。
土。
雷。
そして――炎。
あらゆる方向から、強力な魔法が戦鬼へと襲い掛かる。
「――ッ!」
戦鬼は身体を大きく捻った。
頭上から落ちてきた雷を紙一重でかわす。
その直後。
地面から突き出した土の槍を跳躍して避ける。
着地した瞬間には、妖狐の放った炎が迫っていた。
戦鬼は身体を横へ滑らせるようにして炎をかわした。
――だが。
逃げた先には――。
「グリフ!」
「任せろ!」
グリフの弓から、複数の矢が放たれた。
空中を飛ぶ矢。
その先端には――。
爆発の魔法が込められている。
さらに、アンが用意した劇毒まで塗られている。
当たれば、ただでは済まない。
戦鬼は迫り来る矢を見て――。
二本の長剣を交差させた。
――ドドドォン!!
矢が地面へ突き刺さり、次々と爆発する。
爆風と土煙が闘技場を覆った。
「やったか!?」
グリフが叫ぶ。
しかし――。
「……そこだ!」
俺が叫んだ。
土煙の中から、戦鬼が飛び出してくる。
無傷。
いや――。
鎧には僅かな傷がある。
それでも、その動きには一切の乱れがなかった。
そして――。
一気に距離を詰めてくる。
「来るぞ!」
俺は盾を構えた。
戦鬼が二本の長剣を振り下ろす。
――ガキィン!!
俺の盾と長剣が激突した。
凄まじい衝撃が腕へと伝わってくる。
「ぐっ……!」
俺が受け止めた、その瞬間。
槍を構え、戦鬼の大きな馬体へと突き出す。
だが――。
「なっ……!」
戦鬼は身体を捻った。
槍の穂先が、ほんの僅かに身体をかすめていく。
そのまま四本の脚を巧みに動かし、俺の横を駆け抜ける。
距離を取れば――グリフの矢。
近づけば――俺の盾と槍。
上空からは――シードラゴン。
周囲からは、アリス、カレン、妖狐の魔法。
それでも――。
戦鬼は倒れない。
まるで攻撃の軌道が、最初から見えているかのようだった。
「……なんだ、この回避術は」
俺は思わず呟いた。
女ケンタウロスは、二本の長剣を構えたまま、静かにこちらを見据えている。
そして――。
また地面を蹴った。
凄まじい速度で駆けながら、次々と迫る攻撃を紙一重でかわしていく。
これだけの人数で、一斉に攻撃しているというのに。
――一発もまともに当たらない。
これが――。
二つ名を持つ者の実力だった。
戦鬼は、さらに速度を上げた。
闘技場の中を大きく旋回するように駆ける。
その速度は凄まじく、目で追うだけでも精一杯だった。
そして――。
「――ッ!」
二本の長剣を大きく振り抜く。
――ザンッ!!
風の斬撃が飛んでくる。
一つ。
二つ。
いや――。
次々と。
戦鬼は走りながら、風の斬撃を連続して放ってくる。
「来るぞ!」
俺は盾を構える。
アリスは障壁を展開し、カレンたちも攻撃の手を止めて回避する。
風の刃が闘技場を駆け抜ける。
俺たちは避け。
障壁で防ぎ。
盾で受け流す。
それでも――。
「くっ……!」
次々と飛んでくる斬撃によって、少しずつ陣形が崩されていく。
その瞬間だった。
戦鬼が――動いた。
「――速い!」
大きく地面を蹴る。
まるで飛ぶように、一気にこちらへと距離を詰めてきた。
狙いは――。
「アン!」
守りの陣形から離れていたアンだった。
「……!」
アンが振り返る。
だが――。
戦鬼は、もう目の前まで迫っていた。
その瞬間。
アンが何かを地面へ投げつけた。
――種?
俺がそう思った次の瞬間だった。
地面に落ちた種が――。
爆発的な勢いで成長した。
「なっ!?」
地面から無数の蔓が飛び出す。
太く、長い。
そして――。
無数の鋭い棘が生えている。
それらが一瞬にして戦鬼の身体へと絡みついた。
「――ッ!」
戦鬼が驚き、身体を止める。
腕。
脚。
胴体。
その全身へ、棘のついた蔓が巻き付いていく。
「捕まえた!」
アンが叫んだ。
「これは……?」
俺は目の前の光景に驚く。
アンが使ったのは――。
魔族領で手に入れた植物の種。
「ローズイーターの種よ」
アンが答える。
「地面に落ちると、一瞬で成長して……獲物を捕まえるの」
蔓がさらに強く戦鬼へと絡みつく。
無数の棘が鎧へと食い込んでいく。
「そして――捕まえた獲物を、そのまま捕食しようとする」
アンがそう言った。
その名の通り――。
ローズイーター。
獲物を捕らえ、捕食するために進化した危険な植物。
魔族領で見つけた時、アンが面白がっていくつか種を採取していたものだった。
「まさか……こんなところで使うとはな」
俺は絡みついた蔓を見つめる。
これまで、どんな攻撃も紙一重でかわし続けていた戦鬼。
その動きが――。
初めて止まった。
ローズイーターの棘のツタが、戦鬼の身体へと深く食い込んでいく。
「ぐっ……!」
戦鬼が身体を激しく捩る。
だが――。
もがけばもがくほど、棘はさらに深く食い込んでいった。
腕に。
脚に。
そして、大きな馬体にも。
赤い血が、鎧の隙間から流れ落ちる。
それでも――。
戦鬼の瞳から、闘志が消えることはなかった。
「……まだ、やる気なの?」
アンが驚いたように呟く。
次の瞬間だった。
「――ッ!」
戦鬼が全身に力を込めた。
筋肉が大きく膨れ上がる。
そして――。
ブチッ!
バキッ!
ローズイーターの太いツタが、一本、また一本と引き千切られていく。
「えっ……」
アンが目を見開く。
戦鬼は――。
純粋な力だけで、ローズイーターの拘束を引き千切った。
大量の棘が身体から外れ、地面へと落ちる。
全身から血を流しながらも、戦鬼は二本の長剣を拾い上げた。
アンはすぐに距離を取る。
「……化け物ね」
アンが小さく呟いた。
俺も思わず息を呑む。
あれだけの棘が食い込んでいた。
普通なら、戦意を失ってもおかしくない。
それなのに――。
戦鬼は、まだ戦おうとしている。
「行くぞ!」
俺が叫ぶ。
今度はこちらから一気に攻める。
アリスの土魔法が地面から次々と突き出す。
カレンの雷が戦鬼へと落ちる。
妖狐の炎が横から襲い掛かる。
そして――。
「そこだ!」
グリフの弓から、爆発する矢が次々と放たれる。
アンも魔法を放ち、俺は戦鬼の動きを見ながら距離を詰めていく。
――ドォン!
――バァン!
――ズガァン!
魔法や矢が戦鬼へと次々に命中する。
「おおおおおおっ!」
観客席から大歓声が上がる。
攻撃が当たるたびに、会場が沸き上がる。
さっきまでとは明らかに違う。
戦鬼の動きが――遅くなっている。
全身から流れる血。
それによって、先ほどまでの凄まじい速度と回避能力は失われつつあった。
それでも――。
「――ッ!」
戦鬼が二本の長剣を振り抜く。
――ザンッ!!
風の斬撃が飛んでくる。
「危ない!」
俺は盾を構える。
――ガァン!!
盾に風の刃が叩きつけられた。
「ぐっ……!」
腕が痺れる。
速度は落ちている。
回避能力も落ちている。
だが――。
攻撃の威力だけは、まったく衰えていなかった。
むしろ、傷つきながらも二本の長剣を握りしめるその姿からは、さらに凄まじい気迫が感じられる。
「……まだ、こんな力を残してるのか」
俺は盾を構え直した。
目の前には――。
血に濡れながらも、決して倒れようとしない女ケンタウロス。
『双剣の戦鬼』。
その二つ名に相応しい、凄まじい強敵だった。
それでも――。
戦鬼は止まらなかった。
アリスの土魔法。
カレンの雷魔法。
妖狐の炎。
シードラゴンの水と氷。
グリフの矢。
次々と襲い掛かる攻撃を、戦鬼は身体を捻りながらかわしていく。
そして――。
一気に俺へと迫ってきた。
「――ッ!」
二本の長剣が、左右から同時に振り下ろされる。
俺は盾と剣を使い、必死に受け流していく。
――ガキィン!
――キィン!
――ガァン!
二本の剣が、まるで嵐のように襲い掛かってくる。
俺は一撃を盾で受け流し、続く一撃を剣で逸らす。
だが――。
戦鬼は止まらない。
「憎い……」
小さく呟く。
「……憎い……」
血に濡れた顔。
荒い呼吸。
それでも、二本の長剣を握る手には力が込められている。
「憎い……!」
再び剣が振り下ろされる。
俺は盾で受け止め――。
「……もう、終わりだ!」
身体を沈める。
そして――。
「シールドバッシュ!」
盾を叩き込んだ。
――ドゴォン!!
「ぐっ……!」
戦鬼の巨体が吹き飛ぶ。
地面を何度も跳ねながら、闘技場の上を滑っていく。
ようやく止まった時には――。
戦鬼は大きく体勢を崩していた。
それでも。
ゆっくりと身体を起こす。
脚が震えている。
全身から血が流れている。
それでも――。
まだ立っていた。
「……まだ、立つのか」
俺が息を呑む。
その時だった。
「カレン!?」
アリスの声が響いた。
見ると――。
カレンが戦鬼の背中に乗っていた。
「なっ……!?」
戦鬼も驚いたように身体を跳ねさせる。
完全に油断していたのだろう。
突然、小さなカレンが背中に乗ったことで、明らかに焦っている。
「カレン! 危ないです!」
アリスが叫ぶ。
だが――。
カレンは攻撃をしなかった。
ただ、戦鬼の背中に小さな身体を預け――。
優しく声を掛けた。
「……もう戦わなくていいんだよ」
「……」
戦鬼の動きが止まる。
「傷つかなくても……いいんだよ」
カレンは、そっと戦鬼の身体に手を置く。
「もう、いっぱい頑張ったよ」
戦鬼は何も答えない。
ただ、荒い呼吸を繰り返している。
そして――。
突然、四本の脚が動き出した。
「えっ!?」
戦鬼が走り出した。
カレンを背中に乗せたまま――。
「カレン!」
アリスが慌てて叫ぶ。
俺もすぐに追おうとした。
だが――。
「待って!」
カレンの声が響く。
戦鬼は闘技場の中を走っている。
その背中で、カレンは振り落とされないように小さな身体で必死にしがみついていた。
「血がいっぱい出てるよ!」
カレンが叫ぶ。
「すぐに治療してもらおう!」
その声に――。
戦鬼の走る速度が、ほんの僅かに緩んだ。
「大丈夫だから!」
カレンは小さな身体で背中にしがみつきながら、何度も声を掛ける。
「もう戦わなくていいからね!」
その姿を見つめながら――。
俺は盾を下ろした。
アリスも、魔法を止める。
グリフも弓を下ろす。
妖狐も炎を止め、シードラゴンも空中で旋回を続けながら攻撃をやめた。
闘技場から――。
音が消えていく。
そこに残ったのは。
傷だらけの戦鬼と。
その背中にしがみつく、小さなカレンだけだった。
そして――。
ケンタウロスは、少しずつ走る速度を落としていった。
荒かった呼吸も、ほんの僅かに落ち着いていく。
それでも、まだその身体には大量の血が流れていた。
「……痛い?」
カレンが小さく尋ねる。
返事はない。
ただ、ケンタウロスはゆっくりと歩き続けている。
カレンはその背中にしがみつきながら――。
首元へ手を伸ばした。
そこには――。
カレン自身にも刻まれている、あのルーン。
カレンは静かに目を閉じる。
そして――。
ルーンへ魔力を流し込んだ。
「……お願い」
小さな身体から、大量の魔力が流れ込んでいく。
――シュゥゥゥ……。
カレンの身体から溢れた魔力が、淡い光となってケンタウロスを包み始める。
「……」
ケンタウロスが足を止める。
その身体を包み込むように、魔力が優しく広がっていく。
そして――。
ケンタウロスの首元に、ゆっくりと何かが浮かび上がった。
――ルーン。
カレンの首元に刻まれているものと、同じルーンだった。
「……できた」
カレンはさらに魔力を注ぎ込む。
だが――。
その小さな身体から、どんどん魔力が失われていく。
それでも、カレンはやめなかった。
「大丈夫だよ……」
優しく語り掛けながら、魔力を送り続ける。
すると――。
ケンタウロスの身体から漂っていた、禍々しいオーラが少しずつ薄れていった。
まるで長い間、心に絡みついていた何かが、ゆっくりと解けていくように。
そして――。
完全に消えた。
「……」
ケンタウロスが、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳からは、先ほどまでの激しい憎しみが消えていた。
そこにあるのは――。
静かな瞳。
そして、カレンを背中に乗せたまま動かない。
カレンはその首元をそっと撫でる。
「……これで、もう大丈夫」
ケンタウロスは何も言わない。
ただ――。
カレンを振り落とすこともなく、その場に静かに立っていた。
カレンは嬉しそうに笑った。
「今日から――」
小さな手で、優しく首元を撫でる。
「カレンのお友達だよ」
その瞬間。
闘技場にいた誰もが――。
目の前で起きた出来事を理解できず、言葉を失っていた。
しばらくの間――。
闘技場は静まり返っていた。
誰もが、目の前で起きた出来事を見つめていた。
そして――。
「うおおおおおおおおっ!!」
突然。
会場を揺らすほどの大歓声が巻き起こった。
観客たちが一斉に立ち上がる。
驚き。
そして――祝福。
割れんばかりの拍手が、闘技場全体を包み込んでいく。
「雷鳴の勇者だ!」
「すげぇぞ!」
「二つ名持ちの魔物を救ったぞ!」
「なんて子なんだ!」
歓声は、いつまでも止まらなかった。
戦うことで勝利する。
それだけが、勇者ではない。
二つ名を持つほどの強さを誇りながら、憎しみに囚われていたケンタウロス。
その魔物を――。
カレンは倒すのではなく、救った。
そして――。
その小さな身体で、戦鬼を背中に乗せたまま立っている。
俺はその姿を見つめながら、胸が熱くなるのを感じていた。
「……カレン」
俺が名前を呼ぶと――。
カレンは振り返って、いつものように笑った。
「お父さん!」
その声に、また大きな拍手が沸き起こる。
そして――。
カレンを背中に乗せたままの戦鬼が、ゆっくりと身体を動かした。
カレンが落ちないように気をつけながら、そっと振り返る。
そして、その大きな手を――。
カレンの小さな頭へ伸ばした。
「……」
優しく。
本当に優しく。
何度もカレンの頭を撫でる。
その瞳には、もう憎しみはなかった。
そこにあったのは――。
感謝だった。
言葉にすることはできなくても、その仕草だけで十分に伝わってくる。
「えへへ……」
カレンは嬉しそうに笑う。
戦鬼の手に、自分の小さな手を重ねる。
そして――。
闘技場を包み込む歓声の中。
『双剣の戦鬼』は――。
新しくできた、小さな友達を優しく撫で続けていた。
その光景に――。
俺も、アリスも、グリフも、アンも。
誰もが笑顔になっていた。
俺たちは、カレンのお友達になった女ケンタウロスから、これまでの話を聞いていた。
彼女はしばらく黙ったあと、ゆっくりと口を開いた。
「……私たちケンタウロスは、元々この魔族領大陸で暮らしていた部族だ」
その声には、どこか遠い記憶を思い出すような響きがあった。
「大地を駆け、仲間と共に暮らしていた。争いを好む部族ではなかった……。だが――」
彼女の表情が曇る。
「魔神ヴェルマゴートが現れた」
その名前を聞いた瞬間、俺は息を呑んだ。
「私たちの故郷は……何もかも奪われた」
握っていた拳が、わずかに震える。
「家族も、仲間も……子供たちも。誰一人として助からなかった」
「……」
俺たちは何も言えなかった。
彼女は族長だった。
仲間を守る立場にありながら――何も守れなかった。
「私は……族長だった」
その言葉には、深い後悔が滲んでいた。
「皆を守れなかった自分が許せなかった。そして……魔神への憎しみだけが残った」
彼女は俯く。
「その憎しみに心を喰われ……私は魔物へと変わった」
「……魔物に」
俺が呟くと、彼女は小さく頷いた。
「気が付けば、私は魔族領の赤土荒野を彷徨っていた」
そして――。
「生きている者すべてが憎かった」
その言葉に、俺は闘技場での戦いを思い出した。
彼女が何度も口にしていた言葉。
『憎い……』
「人間も、魔族も……他の魔物も。私には皆、同じだった」
憎しみに突き動かされ、彼女は赤土荒野を生きる者たちを襲い続けた。
「それが長い間続いた。そして……騎士団に捕らえられた」
彼女は苦笑する。
「殺されると思っていた」
だが、そうはならなかった。
「私の力を見た騎士団は、私を闘技大会へ出すことにしたらしい」
そうして――。
俺たちは、目の前の彼女が「双剣の戦鬼」と呼ばれるようになった理由を知った。
「……だから私は、あの闘技場で戦っていた」
彼女は静かに語った。
「勝つためでも、生き残るためでもない。ただ……誰かを傷つけている間だけは、胸の中にある憎しみを忘れられた」
しばらくの沈黙。
すると、カレンが彼女の手をぎゅっと握った。
「もう、大丈夫だよ」
「……カレン」
「カレンがいるから」
その小さな言葉に、彼女は驚いたようにカレンを見つめる。
そして――。
ほんの少しだけ、笑った。
しばらくの間、誰も口を開かなかった。
やがて――。
女ケンタウロスは、カレンへと視線を向けた。
「……私は、もう決めた」
「なにを?」
カレンが首を傾げる。
すると彼女は、カレンの小さな身体を優しく抱き上げた。
「この小さき友人のために……これからは生きていく」
「……!」
カレンの顔が、ぱっと明るくなる。
「うん!」
嬉しそうに笑うカレン。
その姿を見つめながら、俺は胸の奥が温かくなるのを感じていた。
そして俺は――彼女に全てを話すことにした。
過去の俺のこと。
何度も生と死を繰り返してきたこと。
そして――。
今も俺の魂に刻まれている、魔神ヴェルマゴートのルーンのことを。
彼女は何も口を挟まず、黙って俺の話を聞いていた。
俺がどれほどの時間を生きてきたのか。
どれほどの人を失ってきたのか。
そして、何度死んでも消えることのない魔神の呪い。
全てを話し終えると、彼女はしばらく黙っていた。
やがて――。
「……そうか」
静かな声だった。
「お前も……憎しみに苦しんできたのだな」
「……ああ」
俺が答える。
彼女は俺の目をまっすぐに見つめた。
「ならば、私にも分かる」
そして――。
「もし、お前の力が必要になる時が来たのなら……私は力を貸そう」
「……いいのか?」
「ああ」
彼女はカレンを抱いたまま、力強く頷いた。
「この小さき友人を救ってくれたお前のためでもある」
そう言って、彼女はカレンを見る。
「そして何より――」
カレンの頭を優しく撫でる。
「私はもう、憎しみのためには戦わない」
その言葉に、カレンは嬉しそうに笑った。
「お友達だもんね!」
「ああ」
彼女も、今度ははっきりと笑った。
「……私たちは、友達だ」
こうして――。
闘技大会、準決勝は幕を閉じた。
最後まで立っていたのは、俺たち――。
雷鳴の勇者パーティーだった。
そして今回の戦いで、俺たちには新しい仲間が加わった。
かつて「双剣の戦鬼」と呼ばれ、憎しみに囚われていた女ケンタウロス。
今では――。
カレンの大切なお友達だ。
「明日はお休みなんだよね!」
「ああ。決勝戦は明後日だ」
「やったー!」
カレンが嬉しそうに両手を上げる。
準決勝で負った傷を癒やし、身体を休めるために与えられた一日。
俺たちはその一日を、それぞれ自由に過ごすことになった。
そして――。
その翌日。
いよいよ大会は、決勝まで進んでいた。
決勝戦は一日後の朝から開催される予定となっており、大会参加者たちは一日だけの休日を過ごしていた。
そして、昨日カレンのお友達になった女ケンタウロス。
その名は――エルザ。
エルザもまた、俺たちと一緒に休日を過ごしていた。
「じゃあ、俺たちは街に行ってくるな!」
朝早く、アンとグリフは街へ出かけていった。
どうやら二人で食べ歩きをするらしい。
俺とアリスとカレン、そしてエルザは――。
街外れにある森へ来ていた。
木漏れ日が差し込む森の中は静かで、時折吹く風が木々の葉を揺らしている。
「エルザ、もっと速くー!」
「分かった!」
森の中を、カレンを背に乗せたエルザが駆けていく。
その後ろからは――。
六体のブラッドタイガーと妖狐が追いかけていた。
「こんっ!」
妖狐も楽しそうに走っている。
六体のブラッドタイガーも、大きな身体を揺らしながらエルザたちを追いかけていく。
「待ってー!」
カレンの楽しそうな声が森に響く。
エルザが木々の間を駆け抜ける。
カレンは落ちないようにエルザの身体にしっかりと掴まりながら、楽しそうに笑っていた。
そんな二人を追いかけるブラッドタイガーたち。
妖狐も負けじと駆けていく。
その光景を少し離れた場所から、俺とアリスは眺めていた。
「……楽しそうだな」
「ええ」
アリスが優しく微笑む。
俺も自然と笑みがこぼれた。
つい昨日まで、俺たちは闘技場で命懸けの戦いをしていた。
そして明日は――決勝戦。
それでも今だけは、そんなことを忘れていられる。
カレンの笑い声を聞きながら、アリスと並んで森の中で過ごす。
こんな穏やかな時間が、俺にはたまらなく幸せだった。
「……こういう時間も、いいな」
「うん」
アリスは俺の手をそっと握る。
遠くでは、カレンたちの楽しそうな声が響いている。
俺はその光景を眺めながら――。
この幸せな時間が、ずっと続けばいい。
そんなことを思っていた。
森で遊んだあとは、みんなで昼食を食べることにした。
朝、市場で買ってきたパンに、焼いた肉や新鮮な野菜を挟んでいく。
「はい、カレン」
「ありがとう、お父さん!」
俺が作ったパンを、カレンが嬉しそうに受け取る。
アリスも隣でパンを作り、エルザにも手渡した。
「エルザもどうぞ」
「……ありがとう」
エルザは少し驚いたような顔をしたあと、パンを受け取った。
「美味しそう!」
カレンは嬉しそうにパンを頬張る。
「んー! おいしい!」
その隣では、エルザもパンを食べていた。
「……美味いな」
「でしょ!」
カレンが嬉しそうに笑う。
「エルザ、一緒に食べるともっと美味しいね!」
「ああ。そうだな」
エルザも穏やかに笑った。
昨日まで闘技場で戦っていた二人とは思えない。
カレンとエルザは、すっかり仲良しになっていた。
「エルザ、これも食べる?」
カレンが自分のパンに挟んでいた肉を少し差し出す。
「いいのか?」
「うん!」
エルザは少し戸惑いながらも、その肉を受け取った。
「ありがとう、カレン」
「どういたしまして!」
そんな二人を見て、俺とアリスは顔を見合わせる。
「……本当に仲良しね」
「ああ」
俺は二人を眺めながら、自然と笑みを浮かべた。
昨日まで敵だった相手。
それが今では――。
カレンの隣で、一緒に食事をして笑っている。
こうして俺たちは、森の中で穏やかな昼食を楽しんだ。
明日は――いよいよ決勝戦。
だが今日だけは、戦いのことなど忘れて。
みんなで過ごす、この時間を楽しんでいた。
そして――。
いよいよ、決勝戦の日がやってきた。
今大会で最後まで勝ち残ったのは、二組だけだった。
一組目は――。
俺たち、雷鳴の勇者パーティー。
そしてもう一組は――。
帝国が誇る、最強の冒険者パーティー。
その名も――。
「竜殺しのダン」
幾度となく強大な魔物を討ち倒し、帝国内でもその名を知らぬ者はいないと言われるほどの冒険者たちだ。
会場には、両者の決勝進出を祝う大歓声が響き渡っていた。
「雷鳴の勇者ー!」
「竜殺しのダンー!」
観客たちがそれぞれの名を叫ぶ。
俺たちは闘技場へと足を踏み入れた。
そして――。
決勝戦の舞台。
俺たちの前に立っていたのは――。
一体のデュラハンナイトだった。
首のない巨大な騎士。
その身体には重厚な鎧が纏われ、手には巨大な槍。
そして、その隣には――。
首のない巨大な馬。
闘技場全体を威圧するような、凄まじい存在感。
観客席が、次第に静まり返っていく。
実況の声が会場中に響き渡った。
「決勝戦――!」
「雷鳴の勇者パーティーを待ち受ける最後の相手は――!」
一拍の間。
そして――。
「デュラハンナイト!」
「二つ名――!」
「『死を告げる者』!!」
その瞬間。
闘技場に、これまでとは比べものにならないほどの歓声が巻き起こった。
俺は槍を構えるデュラハンナイトを見つめる。
「……死を告げる者、か」
その二つ名が意味するものを――。
俺は、まだ知らなかった。
だが。
目の前の魔物が、これまで戦ってきた相手とは明らかに違うことだけは分かった。
決勝戦。
最後の戦いが――。
今、始まろうとしていた。




