優しい時間
魔族領の首都――ギース。
長い馬車旅を終えた俺たちは、ようやく宿を取ることができた。
食事を終え、それぞれが部屋でゆっくりと休んでいる。
そんな中、俺は以前から気になっていたことをアリスに尋ねることにした。
「なあ、アリス」
「なに?」
「少し、魔族について教えてくれないか?」
椅子に座っていたアリスが、こちらへ顔を向ける。
「魔族について?」
「ああ。俺は魔族領に来るのは初めてだからな」
俺は少し考えてから続けた。
「人族では、昔から魔族は敵だって話を聞くことがある」
「……そうね」
アリスは小さく頷いた。
「確かに、昔は人族と魔族が争っていた時代があったわ」
「やっぱり……」
「ええ。でも――」
アリスは穏やかな表情で首を横に振った。
「今の魔族は、人族の敵ではないわ」
「……そうなのか?」
「ええ」
アリスは紅茶を一口飲んでから、静かに語り始めた。
「人族と魔族は、かつて長い戦争をしていた。互いに領土を奪い合い、多くの命が失われたわ」
「……」
「けれど、その戦いにも終わりが来た」
アリスは窓の外へ視線を向ける。
「人族と魔族の間で、ある盟約が結ばれたの」
「盟約……」
「そう。互いの領土を尊重し、侵略しないこと。そして、二つの種族が共に生きていくことを約束する盟約よ」
「それが……今も続いているのか?」
「ええ」
アリスは頷いた。
「ただし――一度結んで終わりではないわ」
「どういうことだ?」
「百年に一度、両種族の代表が集まって盟約を確認するの」
「百年に一度……」
「そうよ」
アリスは微笑んだ。
「そして、その盟約は――もう数千年もの間、結ばれ続けているわ」
「……数千年?」
俺は思わず聞き返した。
「そんなに長いのか?」
「ええ」
アリスは静かに頷く。
「何度も時代が変わった。王も変わった。国そのものが滅び、新しい国が生まれたこともあったわ」
それでも――。
「人族と魔族の盟約だけは、途切れることなく受け継がれてきたの」
「……」
俺は言葉を失った。
数千年。
それは、俺たち人族にとっては想像することさえ難しい年月だ。
「だから、今の人族と魔族にとっては、共存することのほうが当たり前なのよ」
アリスはそう言って微笑んだ。
「もちろん、昔の戦争を知る者や、相手の種族を嫌う者が全くいないわけではないわ」
「それは……人族でも同じだな」
「ええ」
アリスは頷いた。
「魔族だから悪いわけでもない。人族だから善いわけでもない」
その言葉には、妙な重みがあった。
「魔族にも優しい者がいる。家族を大切にする者もいる。商売をする者も、冒険者として旅をする者もいる」
「……人族と変わらないな」
「そういうことよ」
アリスは笑った。
「だからレオン。魔族だからという理由だけで、相手を恐れる必要はないわ」
「ああ」
俺は頷いた。
魔族。
俺が昔聞いていた存在とは、随分と違う。
敵ではない。
怪物でもない。
同じように、この世界で生きている者たちなのだ。
「ただし――」
アリスが少しだけ真剣な表情になる。
「だからといって、誰も彼も信用していいという意味ではないわよ?」
「……結局そこは人族と同じか」
「ふふ。そういうこと」
アリスが笑う。
その隣では、話を聞いていたカレンが目を輝かせていた。
「じゃあ、魔族さんともお友達になれる?」
「ええ。きっとできるわよ」
「本当!?」
カレンが嬉しそうに声を上げる。
俺はそんなカレンを見て、思わず笑った。
数千年。
それだけ長い年月、人族と魔族は盟約を守り続けてきた。
百年に一度、改めて平和を誓いながら――。
過去の戦争を繰り返さないために。
そして、互いの存在を認め合うために。
それが今の人族と魔族の関係なのだ。
俺たちは今、その歴史が積み重なった場所――。
魔族領の首都ギースにいる。
明日は、この街を少し歩いてみよう。
そこで俺は――。
今まで知らなかった魔族たちの暮らしを、この目で見てみたいと思った。
闘技大会までは――まだ数週間ある。
大会に備えて訓練をすることも考えたが、せっかく魔族領の首都ギースまで来たのだ。
俺たちは話し合った結果、大会まではそれぞれ自由に過ごすことにした。
「じゃあ、私はグリフと一緒に街を見て回るわ」
アンがそう言うと、グリフも頷いた。
「魔族領でしか手に入らない素材もあるらしいからな。珍しい物が見つかるかもしれない」
「せっかくだもの。収集品も色々見てみたいわね」
二人はどうやら、ギースの商店や市場を巡るつもりらしい。
魔族領でしか採れない鉱石や薬草。
人族の国では珍しい魔物の素材。
さらには魔族独自の工芸品や装飾品まで――。
二人にとっては、まさに宝の山なのだろう。
「アリスはどうするんだ?」
俺が尋ねると、アリスは迷うことなく答えた。
「私は城へ行くわ」
「城?」
「ええ。ギースの城には、一般公開されている書庫があるのよ」
「一般公開されてるのか?」
「一部だけだけれどね。魔族の歴史や魔法、それに古い時代の書物も閲覧できるらしいわ」
アリスの目が、少しだけ輝いた。
……これは相当楽しみにしているな。
「数千年前の人族と魔族のことが書かれた資料も残っているかもしれないわ」
「なるほどな」
アリスなら、確かに本を読みに行くのが一番楽しそうだ。
すると――。
俺は隣にいたカレンを見る。
「カレンはどうする?」
「?」
「お母さんと一緒に、お城の書物を見に行くか?」
「…………」
カレンは少し考え込んだ。
アリスと一緒に行くか。
それとも――。
俺と街を見て回るか。
しばらく悩んだ後。
カレンはぱっと顔を上げた。
「……お父さんと街を見て回る!」
「俺と?」
「うん!」
カレンは嬉しそうに頷いた。
「魔族さんの街、見てみたい!」
「そうか」
俺は思わず笑った。
「じゃあ、二人で行くか」
「うん!」
カレンが嬉しそうに俺の手を握る。
「どこ行く?」
「そうだな……」
俺は少し考える。
魔族領に来たのは初めてだ。
せっかくなら、ギースという街をゆっくり見て回りたい。
市場を覗いてみるのもいい。
魔族の料理を食べてみるのもいい。
珍しい魔道具を探してみるのも面白そうだ。
「まずは街を歩いてみよう。面白そうなところを見つけたら、そこに入ってみるか」
「うん!」
カレンが満面の笑みを浮かべる。
「お父さんとお出かけ!」
「……そんなに嬉しいか?」
「嬉しい!」
即答だった。
その様子を見ていたアンが、くすくすと笑う。
「カレン、昨日からずっと魔族の街を見てみたいって言ってたものね」
「うん!」
「じゃあ、楽しんできなさい」
「お母さんは本をいっぱい読むの?」
「ええ。たぶん一日じゃ足りないくらいね」
「ふふっ」
アリスも笑った。
「じゃあ、夕方になったら宿で集合しましょう」
「ああ」
こうして――。
俺たちは、それぞれ別の時間を過ごすことになった。
アンとグリフは、ギースの市場や商店へ。
アリスは、城にある一般公開された書庫へ。
そして俺とカレンは――。
魔族領の首都ギースを、二人で歩き回る。
闘技大会までの数週間。
俺たちにとっては、久しぶりの自由な時間だった。
そして俺はまだ知らなかった。
このギースでの何気ない一日が――。
カレンにとって、とても大切な思い出の一つになることを。
俺とカレンは、宿を出るとさっそくギースの街を歩き始めた。
首都だけあって、通りには多くの魔族が行き交っている。
角の生えた者。
大きな牙を持つ者。
人族とは少し違った姿をした者も多い。
けれど――。
その光景は、思っていたほど奇妙なものではなかった。
商人が客を呼び込み。
店の前では買い物をする者たちが立ち止まり。
子供たちは楽しそうに走り回っている。
人族の街と、そう大きく変わらない。
「お父さん、あっち!」
カレンが俺の手を引っ張る。
「ん?」
「あのお店、見てみたい!」
「はいはい」
俺は笑いながら、カレンの小さな手を握り直した。
そして――。
俺たちは、色々な店を見て回った。
市場には、見たこともない素材が並んでいた。
赤黒い鉱石。
青白く光る石。
奇妙な形をした魔物の角や牙。
さらには、何に使うのかさえ分からない魔道具まである。
「……これはすごいな」
思わず足を止める。
人族の国では見たことのないものばかりだ。
カレンも興味津々で商品を眺めている。
「お父さん、これなに?」
「俺にも分からないな」
すると――。
カレンは商品を売っている魔族の店員へ駆け寄った。
「これ、何に使うの?」
突然の質問にもかかわらず、店員は嫌な顔一つしなかった。
「それかい?」
優しい笑顔を浮かべる。
「それは魔獣の角を加工したものだよ。魔力を通しやすいから、魔道具を作る時に使うんだ」
「魔道具?」
「そう。杖の先につけたり、魔法陣の材料にしたりするんだよ」
「へぇー!」
カレンの目が輝く。
「じゃあ、これは?」
「それはね――」
店員はカレンの質問に、一つ一つ丁寧に答えてくれた。
カレンも楽しそうに頷きながら話を聞いている。
「ありがとう!」
「どういたしまして。気になるものがあったら、また聞いておいで」
「うん!」
カレンは元気よく返事をすると、俺のところへ戻ってきた。
「お父さん! あれはね――」
さっそく今聞いたばかりの話を、嬉しそうに俺へ教えてくれる。
俺はそんなカレンの姿を見ながら、ふと周囲を見渡した。
行き交う魔族たち。
店先で笑う商人。
買い物を楽しむ親子。
そして――。
俺たち人族にも、普通に声を掛けてくる者たち。
昨日、アリスが言っていた言葉を思い出す。
――魔族だから悪いわけでもない。
――人族だから善いわけでもない。
「……そういうことか」
俺は小さく呟いた。
魔族領へ来る前。
俺の中には、どこか魔族に対する警戒心があった。
昔、人族と魔族が争っていた。
そんな話を聞いていたからだ。
けれど――。
実際にこの街を歩いてみれば、そんな不安は少しずつ消えていった。
魔族も、人族と同じように笑う。
商売をする。
家族と買い物をする。
子供に優しく接する。
当たり前の日常を、当たり前のように生きている。
「お父さん?」
カレンが俺の顔を覗き込む。
「どうしたの?」
「……いや」
俺はカレンの手を握り直した。
「なんでもない」
そして、もう一度街を見渡す。
数千年もの間、人族と魔族は盟約を守り続けてきた。
百年に一度、平和を確認しながら。
今、この街で暮らす魔族たちにとって、人族と共に生きることは当たり前なのだ。
俺もようやく、それを実感し始めていた。
――魔族は、敵ではない。
そのことを、俺はこの街を歩きながら改めて認識した。
そんな中――。
俺の目に、一際気になるものが飛び込んできた。
「……なんだ、これ?」
店先に並べられていたのは、見たこともない果実だった。
木の実……なのか?
それとも果物なのか?
丸々とした奇妙な実が籠いっぱいに積まれている。
その横には、透明な瓶に入った飲み物が並べられていた。
「これは何ですか?」
俺が店員に尋ねると、魔族の店員が笑顔で答えてくれた。
「それはこの辺りで採れる果実ですよ。その実を絞って、少しだけ発酵させて作った飲み物です」
「発酵……?」
「ええ。甘くて、とても人気があるんですよ」
瓶の中では、細かな泡が次々と上へ昇っている。
栓を開けると――。
シュワッ!
小さな音を立てて泡が溢れた。
「……いい匂いだな」
甘い果実の香りが、ふわりと鼻をくすぐる。
しかも――。
凄くよく泡立っている。
俺は興味を惹かれ、一杯購入してみることにした。
「じゃあ、一杯ください」
「毎度どうも」
受け取った杯を眺める。
黄金色の液体。
その中を無数の泡が踊っている。
「……いただきます」
俺は一口飲んでみた。
「……ん!」
思わず目を見開く。
「うまい!」
甘い。
それでいて、舌の上でシュワシュワと弾ける。
果実の爽やかな香りも広がって――。
「これは美味いな……」
俺がそう呟いていると、隣にいたカレンが不思議そうに俺の杯を見ていた。
「カレンも飲んでみるか?」
「えっ……」
カレンは杯を見つめる。
そして――。
少し嫌そうな顔をした。
「でも……なんか泡立ってるよ……」
「大丈夫だって」
「……ほんと?」
「凄く美味しいぞ」
俺はもう一口飲んでみせる。
「こんなに美味しいのに、飲まないなんてもったいないなぁ」
「…………」
カレンはしばらく杯を見つめていた。
やがて――。
「……ちょっとだけ」
恐る恐る杯を受け取る。
そして、小さな口を近づける。
「……んっ」
一口。
カレンの表情が固まった。
「…………」
「どうだ?」
俺が尋ねると――。
カレンの顔が、ぱっと明るくなった。
「美味しい!」
「だろ?」
「シュワシュワしてて美味しい!」
カレンは嬉しそうに、もう一口飲む。
「これ好き!」
「ははは」
どうやら、すっかり気に入ったらしい。
「お父さん、これもう一杯飲んでもいい?」
「……気に入ったな」
「うん!」
嬉しそうに笑うカレンを見て、俺も笑った。
魔族領には、まだまだ俺たちの知らないものがたくさんある。
こんな飲み物一つでも――。
この土地でしか味わえないものがあるのだ。
飲み物を楽しんだ俺たちは、そのまま街を歩き続けた。
「お父さん!」
「ん?」
「もっと高いところから見たい!」
カレンがそう言ったので――。
「仕方ないな」
俺はしゃがみ込み、カレンを肩に乗せた。
「わぁ!」
カレンが嬉しそうな声を上げる。
「高い!」
「落ちるなよ」
「うん!」
俺はカレンの足をしっかりと支えながら、再び街を歩き始めた。
肩の上から、カレンが楽しそうに辺りを見回している。
「お父さん、あれ何!?」
「ん?」
カレンが指差した先には――。
大きな口を開け、炎を吐き出している魔族がいた。
「……火を吹いてるな」
「すごーい!」
どうやら店先で何かの芸を披露しているらしい。
魔族は炎を器用に操り、集まった人々を楽しませている。
「お父さん、あっち!」
「今度は何だ?」
次に目に入ったのは――。
何本もの腕を持つ魔族だった。
その手には、それぞれ一本ずつ剣が握られている。
そして――。
まるでお手玉でもするかのように、剣を空中へ放り投げては、次々と別の手で受け止めている。
「すごい……」
俺も思わず足を止めた。
剣が宙を舞う。
一本。
二本。
三本。
それが次々と入れ替わっていく。
「どうやってるの!?」
カレンは目を輝かせながら、その光景に釘付けになっている。
「俺にも分からないな……」
その後も、俺たちは様々なものを見て回った。
人族とは違う姿をした魔族。
見たこともない料理。
珍しい魔道具。
街角で楽しそうに遊ぶ子供たち。
店先で客と笑いながら話す商人。
魔族の世界には、俺たちの知らない文化がたくさんあった。
「お父さん、あっちも見たい!」
「まだ行くのか?」
「うん!」
「元気だなぁ……」
俺は苦笑しながら、カレンを肩に乗せたまま歩き続ける。
肩の上から聞こえてくる、楽しそうな声。
小さな手が、時折俺の頭をぽんぽんと叩く。
「お父さん!」
「どうした?」
「今日、楽しいね!」
「ああ」
俺は笑った。
「俺も楽しいよ」
その言葉を口にした瞬間――。
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
これまでの旅では、戦いも多かった。
危険な場所へ行き、何度も命を懸けた。
失ったものもある。
辛いことも、数え切れないほどあった。
それでも――。
今、俺の肩にはカレンがいる。
楽しそうに笑いながら、俺と一緒に街を見ている。
ただ、それだけのことが――。
どうしようもなく嬉しかった。
「……カレン」
「なに?」
「今日はいっぱい楽しもうな」
「うん!」
カレンの元気な返事が返ってくる。
俺はその声を聞きながら、ゆっくりと歩き続けた。
魔族領の首都ギース。
この街で過ごした一日は――。
きっと、いつまでも忘れない。
カレンと手を繋ぎ。
カレンを肩車して。
一緒に笑いながら歩いた時間。
それは、これまでの冒険とはまったく違う――。
何気なくて、穏やかで。
そして、とても優しい時間だった。
その一日が、俺の心に深く刻まれていった。
街を歩き続けていると――。
いつの間にか、昼を過ぎていた。
「……カレン」
「なに?」
「なんだか、お腹が空いてきたな」
「……お腹すいたぁ」
カレンも同じだったらしい。
俺の肩の上で、お腹を押さえている。
「何か食べるか」
「うん!」
俺たちは市場の中を歩きながら、食べ物を探すことにした。
しばらく進んでいると――。
「……あそこ、人が多いな」
一軒の店の前に、大勢の魔族と人族が集まっている。
店先には炭火が置かれ、その上で大量の串焼きが焼かれていた。
ジュウゥゥ……。
肉から脂が落ちるたび、炭火が赤く燃え上がる。
「カレン、あそこにするか?」
「うん!」
俺たちは店の前にできた列の最後尾へ並んだ。
カレンはまだ俺の肩の上だ。
「カレン、串焼きが焼けてるところ、見えるか?」
「うん!」
カレンが俺の頭越しに店先を覗き込む。
「……あ!」
「どうした?」
「あのお肉!」
カレンが指を差す。
「あれ、何かの生き物の尻尾みたいだよ!」
「尻尾?」
俺も焼き台へ視線を向ける。
確かに――。
串に刺さっている肉の中には、細長く巻かれたような形をしたものがある。
「……何の肉だろうな」
「クマさんのお肉?」
「いやいや、それは食べないぞ」
「ふふっ」
カレンが笑う。
そんなやり取りをしている間にも――。
ジュウゥゥ……。
串焼きから香ばしい匂いが漂ってくる。
炭火で焼かれた肉の香り。
甘辛そうなタレの匂い。
そして、香ばしく焼けた皮の匂い。
「…………」
「…………」
俺とカレンは、同時に黙り込んだ。
ぐぅぅぅ……。
「……」
「……」
俺のお腹が鳴った。
すると――。
ぐぅぅぅ……。
今度はカレンのお腹も鳴る。
俺とカレンは顔を見合わせた。
「……カレン」
「……なに?」
「今の、聞こえたぞ」
「お父さんも鳴ったよ」
「……そうだな」
俺たちは思わず顔を見合わせ――。
「ふふっ」
「ははは」
二人で笑った。
串焼きの焼ける音。
市場を行き交う魔族と人族の声。
そして――。
食欲を刺激する、香ばしい匂い。
俺たちの順番が来るまで、まだ少し時間がある。
けれど――。
もう、待ちきれそうになかった。
そして――。
ついに、その時が来た。
「次のお客さん、どうぞ!」
「はい!」
俺たちの番だ。
俺はカレンを肩から降ろし、店先の串焼きを改めて眺める。
「すみません」
「はい、何でしょう?」
「これは……何のお肉ですか?」
俺が指差したのは、さっきカレンが尻尾みたいだと言っていた串焼きだ。
店員はニヤリと笑った。
「お客さん、お目が高いねぇ」
そして、串を一本持ち上げる。
「これは――ボボっていう草食獣の尻尾の肉でさぁ」
「ボボ?」
「ええ。魔族領じゃ有名な食材ですよ」
店員は自信満々に胸を張った。
「脂が乗ってるのにしつこくなくてね。噛めば噛むほど旨味が出るんです」
「へぇ……」
カレンも興味津々で串を見ている。
すると店員が、少し声を落として言った。
「……これを食べたら、他のお肉は食べられなくなっちまいますぜ」
「そんなに?」
「ええ。保証しますよ」
随分と自信満々だ。
俺は思わず笑ってしまった。
「じゃあ……二本ください」
「毎度!」
焼き上がったばかりの串焼きを受け取る。
「ほら、カレン」
「わぁ……!」
カレンの目が輝く。
俺たちは串焼きを手に、そのまま市場を歩きながら食べることにした。
「じゃあ、いただきます」
「いただきます!」
まずは俺が一口。
「…………」
噛んだ瞬間――。
口いっぱいに肉の旨味が広がった。
外側は香ばしく焼けていて、中は驚くほど柔らかい。
脂の甘み。
肉そのものの濃厚な旨味。
そして炭火の香ばしさ。
「……うまい!」
思わず声が出た。
これは――。
本当に美味い。
「カレンも食べてみろ」
「うん!」
カレンも恐る恐る串にかぶりつく。
「……!」
目が大きく開く。
「おいしい!」
そのまま、もう一口。
「すっごくおいしい!」
「だろ?」
「うん!」
俺も再び串焼きを頬張る。
これは確かに――。
店員が言っていたことも頷ける。
こんな肉を食べてしまったら、他の肉が物足りなく感じてしまうかもしれない。
「お父さん!」
「ん?」
「これ、また食べたい!」
「俺もそう思ってる」
二人で笑いながら、市場を歩いていく。
串焼きから漂う香ばしい匂い。
行き交う魔族たちの笑い声。
活気に満ちた市場。
その中を、俺とカレンは並んで歩いていた。
魔族領に来る前には、こんな時間を過ごすことになるなんて想像もしていなかった。
けれど――。
こうしてみれば、人族の街と何も変わらない。
美味しいものを食べて。
笑って。
大切な人と一緒に歩く。
そんな当たり前の日常が、ここにもある。
俺は串焼きを頬張りながら、隣で嬉しそうに笑うカレンを見た。
今日という一日が――。
ますます好きになっていく気がした。
俺とカレンが串焼きを食べながら市場を歩いていると――。
「あ……」
前から歩いてくる二人の姿が目に入った。
見覚えのある顔。
グリフとアンだった。
「……やっぱり」
俺がそう呟く。
向こうもこちらに気付いたようだった。
「……あ」
グリフが足を止める。
アンも俺たちの手元へ視線を向けた。
そして――。
俺たちの手にある串焼き。
グリフとアンの手にある串焼き。
互いに、同じものを食べ歩いている。
「…………」
「…………」
一瞬、四人の間に沈黙が流れた。
そして――。
「ふっ」
「ふふっ」
どちらからともなく笑いがこぼれた。
「お前たちもか」
グリフが串焼きを掲げる。
「ああ。さっき見つけてな」
俺も自分の串焼きを見せる。
「まあ、俺たちもなんだが」
アンが笑った。
「この匂いには勝てなかったわ」
「うん!」
カレンも嬉しそうに串焼きを掲げる。
「これ、すっごく美味しいよ!」
「だろうな」
グリフが笑う。
「俺たちも今食べたところだ」
「本当に美味しいわね、これ」
アンも満足そうに頷いた。
俺たちは顔を見合わせ――。
また笑った。
それぞれ自由に街を歩いていたはずなのに。
結局、同じ店で串焼きを買って、同じように食べ歩きをしている。
なんとも俺たちらしい。
「せっかくだし、一緒に回るか?」
俺がそう言うと――。
「もちろん!」
アンが笑顔で答えた。
「カレン、次はどこへ行く?」
「うーん……」
カレンは少し考え――。
「あっち!」
元気よく市場の奥を指差した。
「じゃあ、行ってみるか」
俺たちは再び歩き始めた。
「ちょっと、そこの人族の方々! これなんてどうだい?」
声を掛けられ、俺たちは足を止めた。
露店に並べられていたのは、見たことのない小物ばかり。
その中でも、店主が手に取ったのは――。
「これさ。キーホルダーなんだけどね」
差し出されたそれを見て、俺は思わず首を傾げた。
「……なんだ、これ?」
丸っこい身体。
妙に大きな目。
短い手足。
そして、なんとも言えない表情。
正直に言えば――。
かなりヘンテコな見た目だった。
「これはね、魔族領に生息する魔物、クルルっていう魔物を模して作ったものなんだ」
「クルル?」
カレンが興味深そうに覗き込む。
店主は嬉しそうに頷いた。
「そう。クルルは小さな魔物でね。普段は家族みんなで暮らしてるんだ」
「家族で?」
「ああ。それで、危険が近づくと、家族みんなで警戒しながら巣を守るんだよ」
店主はキーホルダーを指先でつまみながら続ける。
「だから魔族領じゃ、クルルは家族や仲間の象徴として有名なのさ」
「へぇ……」
俺は改めてキーホルダーを見る。
実物のクルルを一生懸命真似して作ったのだろう。
だが――。
「……なんか、変な顔してるね」
カレンがじっと見つめる。
「ははは! よく言われるよ!」
店主は豪快に笑った。
「でもね、そのヘンテコなところが可愛いって評判なんだ!」
「…………」
カレンはキーホルダーを見つめたまま動かない。
その隣では――。
「……これ、可愛いわね」
アンまで気に入ってしまったらしい。
「え?」
俺は二人を見る。
「本当に?」
「うん!」
カレンが即答した。
「カレン、これ欲しい!」
「私も欲しいかも」
アンまで頷く。
「……」
俺はグリフを見る。
グリフも俺を見る。
「……嫌な予感がするな」
「奇遇だな。俺もだ」
そう言った直後――。
「レオン、買おう!」
「グリフ、私も!」
二人の声が重なった。
「…………」
「…………」
俺とグリフは、もう一度顔を見合わせる。
そして――。
「……何個だ?」
「五個だろうな」
「そうなるよな……」
結局。
俺とグリフで、五人分のクルルのキーホルダーを買うことになった。
「ありがとうございます!」
店主が満面の笑みで袋を渡してくる。
カレンは早速、自分のキーホルダーを嬉しそうに眺めていた。
「へへ……可愛い!」
アンも自分のキーホルダーを手にして微笑んでいる。
俺は手の中に残ったキーホルダーを見る。
やっぱり――。
「……ヘンテコだな」
「ふふっ」
隣でアンが笑う。
「でも、家族や仲間の象徴なんでしょう?」
「ああ」
俺は改めてクルルの姿を見る。
不思議な形をした、小さな魔物。
それでも――。
家族を守るために、みんなで巣を守る。
そう聞くと、なんだか少しだけ愛着が湧いてきた。
「……まあ、悪くないな」
俺がそう呟くと――。
「でしょ?」
カレンが嬉しそうに笑った。
買ったクルルのキーホルダーを手に、俺たちは再び商店街を歩き始めた。
俺は自分の分を――。
盾の裏側に取り付けることにした。
盾を構えれば見えない場所だが、こういう小さな物を身につけるのも悪くない。
一方、カレンはというと――。
「ここ!」
嬉しそうに声を上げながら、ポーチさんの紐の部分にキーホルダーを取り付けていた。
「どう? ポーチさん!」
カレンが見せると――。
ポーチさんから生えている二本の闇の手が、ゆらゆらと揺れる。
「ふふっ。気に入ったみたいだな」
俺が笑う。
「うん!」
カレンも満面の笑みを浮かべた。
その後も俺たちは商店街を歩き回った。
珍しい魔族領の食べ物を見つければ買ってみる。
見たことのない道具があれば立ち止まって眺める。
時には店主に使い方を聞いたりしながら――。
気が付けば、かなりの時間が経っていた。
「今日はいっぱい食べたね!」
カレンが満足そうにお腹をさする。
「そうだな。俺も結構食べた気がする」
「私もよ」
アンが笑う。
グリフも苦笑しながら頷いた。
「さすがに少し休みたいくらいだな」
「じゃあ、最後に冒険者ギルドだけ寄ってみるか」
俺がそう言うと――。
「冒険者ギルド?」
カレンが首を傾げる。
「ああ。掲示板を見るだけだ」
俺たちはそのまま冒険者ギルドへ向かった。
ギルドに入ると、まず目に入ったのは壁一面に並べられた依頼書だった。
「……結構あるな」
グリフが掲示板を見上げる。
俺も一枚ずつ目を通していく。
すると――。
「……ん?」
見慣れない名前がいくつも目に入った。
『グルグル鳥の羽根採取』
『砂喰いトカゲの討伐』
『夜泣き狼の巣の調査』
『ボルガの抜け殻回収』
どれも俺たちが今まで聞いたことのない魔物ばかりだ。
「……知らない魔物が多いな」
グリフが興味深そうに依頼書を眺める。
「ああ」
俺も頷いた。
人族の領域では見たことのない魔物。
当然、依頼内容も俺たちが今まで受けてきたものとは少し違う。
採取依頼の中には、魔族領特有の植物や素材を求めるものもある。
「これは……面白くなりそうだな」
思わず口元が緩んだ。
「だろ?」
グリフも楽しそうに笑う。
「まだ闘技大会までは時間がある」
「ああ」
俺は掲示板に並ぶ依頼書をもう一度見渡した。
「……ギルドの依頼を受けるのも、視野に入れるか」
「俺も賛成だ」
グリフが頷く。
「魔族領の魔物なら、見たことのない素材も手に入るかもしれないしな」
「それに――」
俺は依頼書の一枚に目を留めた。
そこには、聞いたこともない魔物の名前が書かれている。
「知らない場所なら、知らない冒険がある」
そう呟くと――。
なんだか胸が少しだけ高鳴った。
闘技大会までの時間は、まだ十分にある。
ならば――。
せっかく魔族領まで来たんだ。
ここでしかできない冒険を、少しくらい楽しんでもいいだろう。
「カレン、どうする?」
俺が振り返ると――。
カレンはポーチさんに付いたクルルのキーホルダーを眺めながら、楽しそうに笑っていた。
「カレンも冒険したい!」
「そうか」
俺も笑う。
こうして俺たちは――。
闘技大会までの間、魔族領の冒険者ギルドで依頼を受けることを決めた。
冒険者ギルドを後にした俺たちは、宿へ戻ることにした。
その途中で――。
「そういえば、アリスの分も買っていこう」
「あっ、そうだね!」
俺たちはアリスの分の食べ物と飲み物を買ってから、宿へと戻った。
宿の部屋の扉を開ける。
「ただいまー!」
カレンが元気よく声を上げた。
部屋の中を見ると――。
アリスはすでに窓際の椅子に座り、一冊の本を開いていた。
窓から差し込む夕暮れの光に照らされながら、静かにページをめくっている。
「おかえりなさい」
アリスが本から顔を上げる。
その瞬間――。
「お母さん!」
カレンが駆け寄った。
「ただいまー!」
そのままアリスに抱きつく。
「おかえりなさい、カレン」
アリスは優しく微笑み、カレンの頭をそっと撫でた。
「今日は楽しかった?」
「うん! いっぱい歩いた!」
カレンは嬉しそうに答える。
俺は持っていた袋をテーブルへ置いた。
「アリス、ご飯買ってきたよ」
「まあ……ありがとう」
アリスは優しく微笑んだ。
「みんなで食べましょうか」
「ああ」
俺たちは荷物を置き、ようやく一息つく。
今日一日、街を歩き回った。
珍しい食べ物を食べて、変わった品物を見て、クルルのキーホルダーまで買った。
そして最後には冒険者ギルドで、魔族領ならではの依頼まで見つけた。
賑やかだった一日も、もうすぐ終わる。
窓の外では、ギースの街に少しずつ夜の帳が下り始めていた。
そんな穏やかな時間の中で――。
俺たちは家族と仲間と共に、ゆっくりと夕食を始めた。




