潮喰らいの迷宮(4層)
アダマンタイトの解体を終え――。
俺たちは、さらに奥へと続く階段を下りていった。
一段、また一段。
足を踏み下ろすたびに、周囲の空気が少しずつ変わっていく。
そして――。
最後の階段を下りきった、その瞬間だった。
「…………」
俺たちは、思わず足を止めた。
目の前に広がっていたのは、これまでの階層とはまるで違う光景だった。
暗い。
深い。
まるで――海の底に立っているようだった。
周囲には巨大な岩壁がそびえ立ち、淡い青色の光がそこかしこから漂っている。
そして何より異様だったのは――。
天井だ。
「……あれは……?」
アリスが、上を見上げる。
俺もつられて顔を上げた。
「…………魚?」
天井の向こう。
そこには、まるで本物の海が広がっていた。
青く揺らめく水。
ゆっくりと流れる海流。
そして――。
何匹もの魚が、その中を泳いでいる。
小さな魚の群れだけではない。
時折、俺たちの頭上を巨大な影が横切っていく。
まるで、遥か深海を泳ぐ巨大な海洋生物のようだった。
「どうなってるんだ……ここは……」
思わず呟く。
天井があるはずなのに、その先には海がある。
しかも、ただの幻影には見えない。
魚の動きも、海流も、揺らめく光も――あまりにも自然だった。
まるで俺たちは、本当に深海の底へ降りてきてしまったかのようだ。
グリフも周囲を見渡しながら、低い声で呟く。
「……潮喰らいの迷宮って名前は、伊達じゃねぇみたいだな」
「ええ……」
アリスも険しい表情で頷く。
「ですが……妙ですね」
「何が?」
「この海です」
アリスは、天井をじっと見つめていた。
「これほど巨大な水塊が頭上に存在するなら、本来なら水圧も魔力の流れも感じるはずです。それなのに――」
アリスが手を伸ばす。
指先に淡い魔力の光が灯った。
「……何も感じません」
「何も?」
「ええ。まるで……」
アリスは一度言葉を止める。
そして、静かに続けた。
「この海そのものが、別の場所に存在しているような……そんな感覚です」
「別の場所……?」
俺はもう一度、頭上を見上げる。
その時だった。
巨大な魚の影が、俺たちの真上を通り過ぎた。
その影は――。
あまりにも大きかった。
俺たちは誰一人、言葉を発することができなかった。
やがてその姿は、青い海の奥へと消えていく。
静寂が戻った。
……ここは、ただのダンジョンじゃない。
そんな予感が、胸の奥にじわりと広がっていった。
これまでの階層とは、明らかに構造が違っていた。
今までの迷宮は、複雑に入り組んだ通路や分かれ道があり、どこへ進めばいいのかさえ分からない場所だった。
だが――。
この四層には、そんな迷路らしさがない。
俺たちの目の前には、一本の道が伸びていた。
左右に分かれることもない。
隠された通路がある様子もない。
ただひたすら、真っ直ぐに。
深海の底を思わせる青い景色の中を、その道だけが奥へと続いている。
「……随分と分かりやすくなったな」
俺が呟くと、グリフが苦笑する。
「分かりやすいって言っていいのか、これ……」
「まあ、罠じゃなければな」
俺たちは警戒しながら、その一本道を進んでいく。
そして――。
しばらく歩いた先。
道の終着点に、それはあった。
「……あれは」
巨大な扉。
俺たちの何倍もある高さの、重厚な石造りの扉だった。
表面には、これまで見たことのない複雑な紋様が刻まれている。
そして、その扉の向こうから――。
微かに、魔力の気配が漂っていた。
俺は扉を見上げる。
「……まあ」
思わず苦笑が漏れた。
「どう考えても、ボス部屋だよな……」
「でしょうね」
アリスも頷く。
アンとカレン、グリフも巨大な扉を見上げていた。
これまでの迷宮とは違う。
探索することすら許さず、ただ一つの場所へと俺たちを導くような構造。
まるで――。
この先へ来いと、迷宮そのものに誘われているようだった。
俺は腰の剣に手を添える。
「……行くか」
誰も反対しなかった。
俺たちはゆっくりと、巨大な扉へと近づいていった。
俺たちは巨大な扉の前で、一度立ち止まった。
そして――。
各自、最後の装備確認を行う。
剣。
盾。
防具。
魔法具。
すべてに問題がないことを確認する。
俺は深く息を吸い込んだ。
「……よし」
そして、扉へと手を伸ばす。
重い。
まるで、この先に何かを閉じ込めているかのような重厚な扉だった。
俺たちは力を合わせ、ゆっくりと押し開いていく。
ギィィィィィ――。
重い音が、広大な空間へと響き渡った。
「…………」
誰も、言葉を発しなかった。
その先に広がっていたのは――。
これまでの階層とは、比べ物にならないほど巨大な空間だった。
天井は遥か高く、見上げればそこには深海そのものが広がっている。
青い水が揺らめき、無数の魚が泳いでいる。
まるで、海底に巨大な闘技場を作り出したような場所だった。
そして――。
その中央。
巨大な影が蠢いていた。
十本。
いや――。
正確には、十本の巨大な触手。
一本一本が大木のように太く、ゆっくりと地面を這いながら、こちらへと伸びている。
その中央に鎮座しているのは――。
巨大なクラーケンだった。
幾つもの吸盤が並ぶ触手。
海そのものを思わせる巨大な身体。
そして――。
俺たちを見据える、巨大な瞳。
「…………」
クラーケンは動かない。
ただ、俺たちを見ている。
それだけなのに――。
空気が重い。
肌が、ひりつく。
これまで戦ってきた魔物とは、明らかに何かが違う。
俺は無意識に盾を構えた。
そして、目の前の怪物を見据えながら――。
「……これは」
小さく呟く。
「とても……Bランクのダンジョンじゃないな」
その言葉に、仲間たちも一斉に表情を引き締めた。
俺はクラーケンから視線を逸らさないまま、カレンへ声をかけた。
「カレン」
「なぁに? レオンお父さん」
カレンが俺を見上げる。
俺は少しだけ身を屈め、カレンと目線を合わせた。
「万が一の時は――カレンにお願いしたいことがある」
「……お願い?」
「ああ」
俺はクラーケンを一瞥する。
十本の巨大な触手。
その中央に鎮座する巨体。
これまで戦ってきた魔物とは、明らかに格が違う。
「もし、俺たちの誰か一人でも危なくなったら……」
俺は静かに続けた。
「すぐにテレポーテーションを使ってくれ」
「テレポーテーション……?」
「ああ。俺たち全員を連れて、このダンジョンから脱出するんだ」
カレンは少し驚いたように目を見開いた。
「でも……戦いは?」
「戦いはいい」
俺ははっきりと言った。
「命のほうが大事だ」
カレンはしばらく俺の顔を見つめていた。
やがて、小さく頷く。
「……うん。わかった」
「頼んだぞ、カレン」
「任せて!」
カレンは胸を張る。
その小さな姿を見て、俺は僅かに笑った。
そして――。
再びクラーケンへと視線を戻す。
「……さて」
俺は盾を構え、剣を握り直した。
「どれだけの化け物なのか……確かめさせてもらおうか」
その瞬間。
クラーケンの巨大な瞳が――ゆっくりと動いた。
俺は、クラーケンを睨みつけた。
十本もの巨大なテンタクル。
その一本一本が、俺たちを容易く叩き潰せるほどの大きさだ。
ならば――。
出し惜しみをする理由はない。
「……こういう時は」
イグニスブレイドを抜き放つ。
刀身から、凄まじい熱気が迸った。
「開幕から出し惜しみしない」
イグニスブレイドに、凄まじい炎が集束していく。
赤い炎が刀身を包み込み、次第にその勢いを増していく。
俺は剣を大きく振りかぶった。
「――爆炎衝……!」
次の瞬間。
「――ッ!!」
轟音とともに、巨大な炎の斬撃が放たれた。
ゴォォォォォォッ!!
一直線に駆け抜けた炎の刃が、クラーケンへと襲いかかる。
ズバァァァン!!
「――ギィィィィィッ!!」
巨大なテンタクルが二本、根元から斬り飛ばされた。
さらに――。
そのうち一本は、炎をまとったまま地面へと叩き落とされる。
ドォォン!!
轟々と燃え上がる業火。
切断されたテンタクルが激しく蠢き、床を叩きつける。
「ギィィィィィィィッ!!」
クラーケンが、凄まじい悲鳴を上げた。
巨大な身体が大きく揺れ、残されたテンタクルが一斉に蠢き始める。
俺は剣を構え直した。
「……効いてるな」
だが――。
クラーケンの巨大な瞳が、ゆっくりと俺を捉える。
怒りに満ちたその眼差しを見て、俺は思わず息を呑んだ。
――まだ、終わっていない。
むしろ。
今の一撃で――。
こいつを、本気にさせてしまったのかもしれない。
次の瞬間だった。
クラーケンの残されたテンタクルが、一斉に動き出した。
「――来るぞ!」
十本あったうち、二本は俺の爆炎衝によって切り落とした。
それでも――まだ八本が残っている。
そのテンタクルが、まるで意思を持っているかのように蠢いた。
そして――。
ズズズズズ……!
「なっ……!」
テンタクルが、一斉に地面へと潜り込んでいく。
「どこから……!」
次の瞬間。
俺たちの足元が、大きく揺れた。
「――来るぞ!」
ドォォォン!!
地面を突き破り、巨大なテンタクルが俺たちの足元から一斉に突き出してきた。
「きゃっ!」
カレンとアリスは、とっさに魔法を展開する。
迫り来る衝撃から身を守るため、障壁を張った。
ドゴォン!!
巨大なテンタクルが障壁へと激突する。
「カレン! アリス!」
「大丈夫!」
俺は叫びながら、すぐ隣にいたアンを抱き寄せた。
「アン、掴まってろ!」
「レオン!」
次々と襲い掛かるテンタクルを、俺は盾で受け止める。
ガァン!!
凄まじい衝撃が盾を通して腕へと伝わってくる。
「ぐっ……!」
一撃が重い。
まるで巨大な岩石を正面から叩きつけられているようだ。
それでも、俺はアンを離さない。
「――この程度!」
盾を構え、さらに迫る一撃を受け流す。
その一方で――。
グリフは違った。
「そんな攻撃、当たるかよ!」
地面から突き出してくるテンタクルを紙一重で躱し、後方へ飛び退く。
着地と同時に弓を構えた。
そして――。
「そこだ!」
弦を引き絞る。
放つ。
一射。
二射。
三射――。
間髪入れず、次々と矢を放っていく。
狙うのは――クラーケン本体。
その巨大な眼球だった。
「食らえぇぇぇっ!!」
ヒュンッ!
ヒュンッ!
ヒュンッ!
放たれた矢が、次々と空を切り裂いていく。
クラーケンもそれに気づき、身体を動かして避けようとする。
だが――。
「逃がすか!」
グリフの連射は止まらない。
そして、そのうちの数本が――。
ズシュッ!!
「――ギィィィィィッ!!」
クラーケンの巨大な眼球へと突き刺さった。
ドシュッ!
さらに一本。
深々と眼球を貫く。
「ギャアアアアアアッ!!」
クラーケンが絶叫した。
巨大な身体が大きくのけ反り、傷ついた眼球から赤い血が流れ落ちていく。
「よしっ! 入った!」
グリフが叫ぶ。
俺は盾でテンタクルの攻撃を受け止めながら、クラーケンを睨みつけた。
――確かに傷は負わせた。
だが。
これだけの攻撃を受けても――。
クラーケンは、まだ倒れない。
むしろ、その巨大な瞳には――。
先ほどまで以上の、凄まじい怒りが宿っていた。
クラーケンが苦痛に身をよじらせる中――。
アリスは、周囲の空間へ意識を集中させていた。
「…………」
戦いの最中だというのに、アリスは静かに目を閉じる。
そして――。
この部屋を満たす魔力の流れを探っていた。
「……やっぱり」
アリスが目を開く。
「どうした、アリス?」
俺が尋ねると、アリスは周囲を見渡した。
「この部屋……ほとんど魔力が流れていません」
「魔力が……?」
「ええ」
アリスは頷く。
「外の海には膨大な魔力が存在しています。ですが、この空間にはそれがほとんど流れ込んでいない」
アリスは、クラーケンへと視線を向ける。
そして――。
「だからこそ、カレンの雷魔法がかなり有効に使えるはずです!」
「……カレンの雷が?」
「ええ!」
アリスの声に、確かな確信が宿っていた。
「この部屋には魔力の流れを妨げるものがほとんどありません。カレンの雷なら、その力を存分に発揮できるはずです!」
俺はカレンを見る。
カレンも、アリスの言葉を聞いて目を輝かせていた。
「カレン……いけるか?」
「うん!」
小さな拳を握りしめる。
「カレンの雷で、あのクラーケンをやっつける!」
その言葉に、俺は頷いた。
「よし……!」
俺は盾を構え直す。
「なら、俺たちでカレンが魔法を撃つ隙を作るぞ!」
グリフも弓を構え直し、アンも杖を握りしめる。
アリスはカレンの隣に立った。
そして――。
クラーケンもまた、ゆっくりとその巨大な身体を起こし始めていた。
傷ついた眼球から血を流しながら――。
「ギィィィィ……」
その巨体が、再び俺たちを睨みつける。
アリスは、クラーケンと俺たちの間を塞ぐように蠢くテンタクルを見つめていた。
「……ですが」
アリスが静かに口を開く。
「今のままでは、カレンの雷魔法をクラーケン本体へ確実に届かせられるか分かりません」
「テンタクルが邪魔ってことか?」
「ええ。あれだけの数が動き回っていては、雷が途中でテンタクルへ落ちてしまう可能性があります」
アリスは俺の手にあるショートスピアへ視線を向けた。
「そこで……レオン」
「俺の槍?」
「そのショートスピアをクラーケン本体へ突き刺せませんか?」
「……突き刺す?」
「はい。もしクラーケンの身体に直接刺すことができれば――」
アリスは槍の先端を指差した。
「そこを、雷を呼び込むための避雷針にできるはずです」
「なるほど……」
俺はショートスピアを握り直す。
確かに、クラーケンの身体へ直接突き刺すことができれば、雷の狙いを定めやすくなる。
だが――。
問題は、その前に立ちはだかるテンタクルだ。
まるで俺たちを近づけさせまいとするように、何本もの触手が蠢いている。
すると――。
「だったらよ」
グリフが弓を構えながら、ニヤリと笑った。
「邪魔なテンタクル、全部倒しちまおうぜ」
「グリフ……」
「レオンが槍を刺すまで、俺たちで道を作る」
グリフはクラーケンを見据えた。
「カレンが雷を落とすなら――それまでの道を作ってやればいい」
俺はグリフの言葉に頷いた。
「……ああ」
ショートスピアを握りしめる。
「なら、俺がクラーケンに槍を刺す」
カレンを見る。
「カレンはその準備をしてくれ」
「うん!」
カレンが大きく頷いた。
アリスも杖を構える。
アンも静かに前を見据える。
グリフが弓を引き絞った。
「よし……」
俺は盾を構え、クラーケンへと視線を向ける。
「――一気にいくぞ!」
次の瞬間。
俺たちは一斉に動き出した。
最初に動いたのは――アンだった。
「……これなら」
アンは腰から数本の投げナイフを取り出す。
その刃には、彼女が調合した劇毒が仕込まれていた。
「試してみる」
ヒュッ――!
アンの手から、ナイフが次々と放たれる。
狙いはテンタクル。
ズシュッ!
一本。
ズシュッ!
二本。
さらにもう一本。
テンタクルへと深々と突き刺さった。
「ギィィィィッ!」
テンタクルが激しく暴れ回る。
だが――。
その動きが、徐々に鈍くなっていく。
そして。
ドサッ……。
巨大なテンタクルが、地面へと崩れ落ちた。
「…………」
俺は思わず目を見開いた。
アンの劇毒。
それは――凄まじい威力だった。
生命というものを、あまりにも簡単に奪ってしまう。
巨大なクラーケンの身体の一部であるテンタクルでさえ、ほんの数本のナイフを受けただけで、その命を絶たれてしまった。
「……すごいな」
思わず呟く。
アンは表情を変えず、次のナイフを手に取った。
「まだ終わってないよ」
その声と同時に――。
「――俺もいくぜ!」
グリフが前へ出た。
弓を構える。
そして――三本の矢を、同時に弦へと番えた。
「…………」
グリフが弦を引く。
ギリ……ギリギリギリ……!
尋常ではない力が込められていく。
弓が大きくしなり、三本の矢が震える。
「――シューティングレイ!」
次の瞬間。
弦が解き放たれた。
――ズドォォォン!!
三本の矢が、まるで一本の巨大な光線のような勢いで飛翔する。
その速度は、目で追うことすら難しい。
「――ギィッ!?」
ズガァァン!!
三本の矢が、迫り来るテンタクルへ突き刺さる。
だが――。
それだけでは止まらない。
三本の矢はテンタクルを貫通し――。
そのまま、その後ろにあったもう一本のテンタクルまでも貫いた。
ドシュッ!!
ドシュッ!!
二本の巨大なテンタクルを、まとめて貫通させる。
「ギィィィィィィッ!!」
クラーケンが再び悲鳴を上げた。
テンタクルが力を失い、ゆっくりと地面へ崩れ落ちる。
「どうだ!」
グリフが叫ぶ。
俺はその光景を見ながら、思わず笑みを浮かべた。
――道が、開いた。
俺の前には、クラーケン本体へ続く一筋の道ができていた。
残る問題は――。
俺が、あの巨体へショートスピアを突き刺せるかどうか。
俺は槍を握り直した。
「……行くぞ」
そして――。
クラーケン本体へ向かって、駆け出した。
「……来い」
俺は、静かに呟いた。
「――俺の死の力」
その瞬間だった。
――世界が、止まった。
いや。
正確には――。
俺の周囲だけが、時間の流れから切り離されたように、極端に遅くなっていた。
舞い上がった水滴が空中で止まり、クラーケンのテンタクルも、まるで時間を失ったかのようにゆっくりと動いている。
俺はショートスピアを強く握りしめた。
「……行くぞ、クラーケン」
一気に踏み込む。
――ドンッ!
地面を蹴り、クラーケンへ向かって一直線に駆ける。
そして、その勢いを殺さず――。
俺は高く跳び上がった。
世界が、ゆっくりと流れている。
目の前には、クラーケンの巨大な眼。
その瞳が、ゆっくりと動いていく。
俺の姿を捉えようとしている。
「……遅い」
俺は円型の盾を前へ突き出した。
――視界を塞ぐ。
クラーケンから見れば、俺の姿は盾の向こうへ完全に消えた。
ほんの一瞬。
それだけでいい。
視界から消える。
死角を作る。
そして――。
俺は盾の陰から、一気に身体を捻った。
ショートスピアを握る腕へ、全身の力を乗せる。
「――飛影閃突!!」
――ズガァァァァッ!!
槍が、クラーケンの巨大な眼球へと深々と突き刺さった。
「――ギィィィィィィィィィッ!!」
凄まじい絶叫が、広大なボス部屋を震わせた。
俺は槍を握ったまま、クラーケンの眼球へと食い込ませる。
血が噴き出す。
クラーケンの巨体が激しくのたうち回る。
だが――。
俺は槍を離さなかった。
これで――。
カレンの雷を、この怪物へ叩き込むための「避雷針」ができた。
「……カレン!」
俺は叫んだ。
「今だ!!」
俺の叫びが、ボス部屋に響き渡った。
「今だ――カレン!!」
「…………うん!」
カレンは静かに目を閉じた。
いつもの無邪気な表情は、そこにはなかった。
ただ――。
目の前のクラーケンを倒すために、全神経を集中させている。
「…………」
カレンの身体から、凄まじい魔力が溢れ始めた。
――バチッ。
小さな電流が走る。
次の瞬間。
バチバチバチバチッ!!
全身を覆うように、幾筋もの稲妻が駆け巡った。
髪が逆立ち、周囲の空気そのものが震えている。
「……この魔力……」
アリスが思わず息を呑む。
カレンの魔力は――。
これまでとは、明らかに違っていた。
圧倒的だった。
そして――。
クラーケンの真上に、巨大な魔力の渦が生まれ始める。
ゴォォォォォ……。
空間そのものが唸っているような音。
渦の中心に、無数の稲妻が集束していく。
青白い光が、次第に強くなっていく。
「……いくよ」
カレンが、小さく呟いた。
次の瞬間――。
「――――ッ!!」
轟音が、ボス部屋全体を震わせた。
ズドォォォォォォォォン!!
クラーケンの真上から――。
凄まじい雷撃が、落ちた。
閃光。
轟音。
そして――。
クラーケンの身体へ、幾千もの稲妻が一斉に走る。
俺の突き刺したショートスピアを伝い、雷がクラーケンの巨体を駆け巡っていく。
「――ギィィィィィィィィィッ!!」
クラーケンの絶叫が響き渡る。
そして、その瞬間――。
俺たちの視界は、すべて――。
真っ白な閃光に包まれた。
どれくらいの時間が経ったのか――。
俺は、ゆっくりと目を開いた。
「…………」
視界が、徐々に戻っていく。
そして――。
目の前に広がっていた光景を見て、俺は息を吐いた。
クラーケンは――。
完全に息絶えていた。
あれほど猛威を振るっていた十本のテンタクルも、今は力なく地面へと横たわっている。
「……やったな」
俺が呟くと――。
「やったぜ!!」
グリフが満面の笑みを浮かべて、こちらへ駆け寄ってきた。
「レオン!」
「ああ!」
俺たちは拳を合わせ――。
パチンッ!
そのままハイタッチを交わした。
「やったぜ!」
「やったな!」
その様子を見ていたカレンも――。
「やったぁ!」
嬉しそうに声を上げる。
そして、アリスとアンのところへ駆けていった。
「お母さん! アン姉ちゃん!」
「ええ。よくやったわ、カレン」
「カレンちゃん、すごかったよ」
カレンは嬉しそうに二人へ手を差し出す。
パチンッ!
アリスとカレンがハイタッチ。
続いて――。
パチンッ!
アンともハイタッチ。
「えへへ!」
カレンは満面の笑みを浮かべている。
――だが。
俺はふと、カレンの頭を見た。
「…………カレン」
「なぁに? レオンお父さん」
「髪……」
「え?」
カレンが首を傾げる。
雷魔法の影響なのか――。
カレンの髪の毛は、見事なまでに逆立っていた。
まるで頭の上に、小さな雷雲でも乗っているかのようだ。
「……ふふっ」
それを見たアンが、思わず吹き出した。
「カレンちゃん……ふふっ、髪が……」
「え?」
カレンは自分の髪を触る。
だが、自分ではどうなっているのか分からない。
「そんなに変?」
「ううん」
アンは笑いながら首を横に振った。
「すごく可愛い」
「ほんと?」
「うん」
カレンもつられて笑った。
「えへへ!」
その笑顔を見て――。
俺も、思わず笑ってしまった。
さっきまで命懸けで戦っていたことが、嘘のようだった。
静まり返ったボス部屋に――。
俺たちの笑い声だけが、響いていた。
戦いが終わると――。
アンはすぐさま行動を開始した。
「さて……」
腰から解体用のナイフを取り出す。
そして、倒れ伏したテンタクルスへ近づいていく。
「これは……かなり良い素材が取れそう」
さっそくテンタクルスの解体を始めるアン。
巨大な身体を前にしても、その手際には一切の迷いがない。
そんなアンを横目に――。
「カレン、おいで」
「うん!」
アリスがカレンを抱き抱えた。
そして、逆立った髪を優しく撫で始める。
「ふふ……すごいことになってるわね」
「なおる?」
「ええ。少しずつ落ち着かせましょう」
アリスは指先でカレンの髪を整えていく。
だが――。
ふわっ。
撫でつけたはずの髪が、また元気よく跳ね上がる。
「……あら?」
もう一度、撫でる。
ふわっ。
やっぱり戻る。
「ふふふ……」
アリスの口元から、思わず笑みがこぼれた。
「なかなか手強いわね」
「えへへ」
カレンも楽しそうに笑っている。
アリスは何度も優しく髪を撫で続ける。
それでも、雷を浴びたように逆立った髪は、なかなか元に戻らない。
「カレン、今日は随分と元気な髪ね」
「カレンの髪、言うこと聞かないの!」
「ふふっ……そうみたいね」
その様子を見ながら、俺は思わず笑った。
すぐ隣ではアンが真剣な表情でクラーケンの解体を続けている。
その一方で――。
アリスに抱き抱えられたカレンは、楽しそうに笑っている。
激しい戦いの直後とは思えないほど――。
穏やかな時間が、ボス部屋に流れていた。
クラーケンの解体を終え――。
俺たちは、ボス部屋のさらに奥へと進んだ。
そこには――。
もう一つの扉があった。
巨大な扉を開く。
その先に待っていたものを見て――。
「…………」
俺たちは、しばらく言葉を失った。
そこは――宝物庫だった。
部屋いっぱいに、財宝が積み上げられている。
金貨。
銀貨。
宝石。
見たこともない装飾品。
中には、何に使うのかさえ分からないほど古い魔道具まである。
「……これは凄い量だな」
グリフが目を丸くする。
そして、山のように積まれた金貨を見ながら――。
「もう一生、お金には困らないんじゃないのか?」
そう言って笑った。
「確かに……」
俺も思わず苦笑する。
だが、アリスは財宝の山を眺めながら、何かを思い出したように口を開いた。
「一説によると――」
「一説?」
「ええ」
アリスは、宝物の中に混じる古びた金貨を手に取った。
「クラーケンには、海底へ落ちてくる『光るもの』を集める習性があると言われています」
「光るもの?」
「金貨や宝石……あるいは装飾品などですね」
アリスは部屋を見渡す。
「その習性のためでしょう。この財宝の大半も、海底へ沈んだものを集めたのだと思います」
「なるほど……」
俺は改めて財宝の山を見る。
確かに、これだけの量をクラーケンが自分で集めたのなら、その年月は相当なものになるだろう。
すると、アリスは少し表情を曇らせた。
「そして――恐ろしい話もあります」
「恐ろしい話?」
「ええ」
アリスは静かに続ける。
「クラーケンは時として、海を行き交う船を襲うことがあります」
その視線が、財宝の山へ向けられる。
「テンタクルスを使って船を海へ引きずり込み……そのまま沈没させてしまうのです」
「…………」
俺は言葉を失った。
足元に積まれた金貨の一枚一枚。
その中には――。
もしかすると、かつて誰かが大切にしていたものもあるのかもしれない。
そして、その船に乗っていた人々の人生までもが――。
この場所へ沈んできた。
「……だから、これほどの財宝が」
俺が呟く。
アリスは小さく頷いた。
「ええ。ここにあるものは、何十年……あるいは何百年という時間をかけて、クラーケンが海底へ集め続けたものなのかもしれません」
俺たちは、改めて宝物庫を見渡した。
さっきまで「凄い量だ」と思っていた財宝が――。
今は少しだけ、違って見えた。
宝物庫に眠っていた金貨や銀貨、宝石、様々な財宝を、俺たちは手分けして魔法バッグへと詰め込んでいった。
それでも――。
あまりの量に、魔法バッグの中身はあっという間に膨れ上がっていく。
「……本当に全部持って帰れるのか?」
グリフが苦笑する。
「大丈夫だ。カレンのテレポーテーションがある」
俺はそう言って、カレンを見る。
「カレン、頼めるか?」
「うん!」
カレンが頷く。
俺たちは互いに顔を見合わせると、カレンの周囲へ集まった。
「それじゃあ――帰ろう!」
カレンが両手を広げる。
淡い魔力の光が、俺たち全員を包み込んでいく。
次の瞬間――。
視界が大きく歪んだ。
そして――。
「…………」
目を開ける。
そこは、港町カイゼルの入口だった。
潮の香り。
行き交う人々の声。
遠くから聞こえてくる港の喧騒。
「……戻ってきたな」
俺は深く息を吐いた。
長かった探索も、ようやく終わった。
俺たちは巨大なダンジョンを踏破し、クラーケンを倒した。
そして――。
大量の財宝まで手に入れた。
「よし!」
グリフが大きく伸びをする。
「まずは飯だな!」
「ふふっ、グリフらしいわね」
アンが笑う。
その隣では、カレンがまだ少し逆立った髪のまま、嬉しそうに笑っていた。
「お腹すいた!」
「そうだな」
俺も笑う。
こうして俺たちは――。
潮喰らいの迷宮から、無事に帰還したのだった。
俺たちがカイゼルの入口へ戻ってくると――。
「……えっ!?」
門番の一人が、目を大きく見開いた。
「お、お前たちは……!」
驚いた門番が、慌ててこちらへ駆け寄ってくる。
「無事だったのか!?」
「ああ。なんとか戻ってこられた」
俺たちは門番に、潮喰らいの迷宮で起きたことを簡単に説明した。
四層で遭遇したクラーケン。
そして――。
俺たちが、そのクラーケンを討伐したこと。
「クラーケンを……!?」
門番は、信じられないといった表情を浮かべる。
「あの迷宮の四層まで行ったのか……」
「詳しい話は、あとでギルドに報告する」
俺がそう告げると、門番も何度も頷いた。
だが――。
「……それより」
グリフが腹を押さえる。
「腹減ったな」
「私も……」
カレンも小さなお腹を押さえた。
「お腹すいたぁ……」
どうやら、あれだけの魔法を使ったことで、カレンもすっかり腹を空かせているらしい。
「ふふっ」
アリスが微笑む。
「それなら、まずは食事にしましょうか」
「うん!」
カレンの顔が一気に明るくなる。
「まずはご飯!」
「決まりだな」
俺たちは笑いながら、カイゼルの街へと歩き出した。
門番はそんな俺たちの背中を見送りながら――。
「……本当に、クラーケンを倒したのか……?」
呆然と呟いていた。
俺たちは、そのままカイゼルの街にある食事処へ向かった。
扉を開けると、香ばしい料理の匂いが鼻をくすぐる。
「いらっしゃ――」
店員が声をかけようとした、その時だった。
俺たちの後ろから、何人かの人影が駆け込んでくる。
「レオンさん!」
「皆さん、無事だったんですね!」
振り返ると――。
カイゼルの冒険者ギルドの職員たちだった。
どうやら俺たちが戻ってきたという知らせを聞き、急いで追いかけてきたらしい。
「まずは座ってください!」
「え?」
「話は食事をしながらで構いません! こちらも聞きたいことが山ほどありますから!」
俺たちは顔を見合わせる。
「……じゃあ、そうさせてもらおう」
席に着くと、すぐに料理が運ばれてきた。
カレンは料理が目の前に置かれると――。
「いただきます!」
元気よく食べ始めた。
よほどお腹が空いていたのだろう。
アリスが微笑みながらカレンを見守っている。
そんな中、俺たちは食事をしながら、少しずつ今回の出来事を話していった。
「まず、四層まで進みました」
俺が話し始めると、職員たちは一斉に手を止める。
「四層……!?」
「ああ」
俺は頷いた。
「そこで――クラーケンと遭遇した」
「…………」
職員たちの表情が固まる。
そしてグリフが、料理を口に運びながら続けた。
「かなりデカかったぜ。テンタクルスが十本もあってな」
「十本……」
職員の一人が呟く。
「それで……討伐されたんですか?」
「ああ」
俺が答える。
「カレンの雷魔法でな」
「雷……?」
職員たちが、一斉にカレンを見る。
「うん!」
カレンは口いっぱいに料理を頬張りながら、嬉しそうに頷いた。
「すっごい雷を落としたの!」
「…………」
職員たちは、しばらく言葉を失っていた。
俺たちはそんな彼らに苦笑しながら――。
食事を続ける。
今回の冒険について話すことは、まだまだ山ほどあった。
だが――。
それは急ぐ必要はない。
こうして無事に帰ってこられたのだから。
まずは腹を満たす。
それが今の俺たちにとって、一番大切なことだった。




