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冒険の書  作者: siva5880


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38/54

潮喰らいの迷宮(4層)

アダマンタイトの解体を終え――。


 俺たちは、さらに奥へと続く階段を下りていった。


 一段、また一段。


 足を踏み下ろすたびに、周囲の空気が少しずつ変わっていく。


 そして――。


 最後の階段を下りきった、その瞬間だった。


「…………」


 俺たちは、思わず足を止めた。


 目の前に広がっていたのは、これまでの階層とはまるで違う光景だった。


 暗い。


 深い。


 まるで――海の底に立っているようだった。


 周囲には巨大な岩壁がそびえ立ち、淡い青色の光がそこかしこから漂っている。


 そして何より異様だったのは――。


 天井だ。


「……あれは……?」


 アリスが、上を見上げる。


 俺もつられて顔を上げた。


「…………魚?」


 天井の向こう。


 そこには、まるで本物の海が広がっていた。


 青く揺らめく水。


 ゆっくりと流れる海流。


 そして――。


 何匹もの魚が、その中を泳いでいる。


 小さな魚の群れだけではない。


 時折、俺たちの頭上を巨大な影が横切っていく。


 まるで、遥か深海を泳ぐ巨大な海洋生物のようだった。


「どうなってるんだ……ここは……」


 思わず呟く。


 天井があるはずなのに、その先には海がある。


 しかも、ただの幻影には見えない。


 魚の動きも、海流も、揺らめく光も――あまりにも自然だった。


 まるで俺たちは、本当に深海の底へ降りてきてしまったかのようだ。


 グリフも周囲を見渡しながら、低い声で呟く。


「……潮喰らいの迷宮って名前は、伊達じゃねぇみたいだな」


「ええ……」


 アリスも険しい表情で頷く。


「ですが……妙ですね」


「何が?」


「この海です」


 アリスは、天井をじっと見つめていた。


「これほど巨大な水塊が頭上に存在するなら、本来なら水圧も魔力の流れも感じるはずです。それなのに――」


 アリスが手を伸ばす。


 指先に淡い魔力の光が灯った。


「……何も感じません」


「何も?」


「ええ。まるで……」


 アリスは一度言葉を止める。


 そして、静かに続けた。


「この海そのものが、別の場所に存在しているような……そんな感覚です」


「別の場所……?」


 俺はもう一度、頭上を見上げる。


 その時だった。


 巨大な魚の影が、俺たちの真上を通り過ぎた。


 その影は――。


 あまりにも大きかった。


 俺たちは誰一人、言葉を発することができなかった。


 やがてその姿は、青い海の奥へと消えていく。


 静寂が戻った。


 ……ここは、ただのダンジョンじゃない。


 そんな予感が、胸の奥にじわりと広がっていった。


これまでの階層とは、明らかに構造が違っていた。


 今までの迷宮は、複雑に入り組んだ通路や分かれ道があり、どこへ進めばいいのかさえ分からない場所だった。


 だが――。


 この四層には、そんな迷路らしさがない。


 俺たちの目の前には、一本の道が伸びていた。


 左右に分かれることもない。


 隠された通路がある様子もない。


 ただひたすら、真っ直ぐに。


 深海の底を思わせる青い景色の中を、その道だけが奥へと続いている。


「……随分と分かりやすくなったな」


 俺が呟くと、グリフが苦笑する。


「分かりやすいって言っていいのか、これ……」


「まあ、罠じゃなければな」


 俺たちは警戒しながら、その一本道を進んでいく。


 そして――。


 しばらく歩いた先。


 道の終着点に、それはあった。


「……あれは」


 巨大な扉。


 俺たちの何倍もある高さの、重厚な石造りの扉だった。


 表面には、これまで見たことのない複雑な紋様が刻まれている。


 そして、その扉の向こうから――。


 微かに、魔力の気配が漂っていた。


 俺は扉を見上げる。


「……まあ」


 思わず苦笑が漏れた。


「どう考えても、ボス部屋だよな……」


「でしょうね」


 アリスも頷く。


 アンとカレン、グリフも巨大な扉を見上げていた。


 これまでの迷宮とは違う。


 探索することすら許さず、ただ一つの場所へと俺たちを導くような構造。


 まるで――。


 この先へ来いと、迷宮そのものに誘われているようだった。


 俺は腰の剣に手を添える。


「……行くか」


 誰も反対しなかった。


 俺たちはゆっくりと、巨大な扉へと近づいていった。


俺たちは巨大な扉の前で、一度立ち止まった。


 そして――。


 各自、最後の装備確認を行う。


 剣。


 盾。


 防具。


 魔法具。


 すべてに問題がないことを確認する。


 俺は深く息を吸い込んだ。


「……よし」


 そして、扉へと手を伸ばす。


 重い。


 まるで、この先に何かを閉じ込めているかのような重厚な扉だった。


 俺たちは力を合わせ、ゆっくりと押し開いていく。


 ギィィィィィ――。


 重い音が、広大な空間へと響き渡った。


「…………」


 誰も、言葉を発しなかった。


 その先に広がっていたのは――。


 これまでの階層とは、比べ物にならないほど巨大な空間だった。


 天井は遥か高く、見上げればそこには深海そのものが広がっている。


 青い水が揺らめき、無数の魚が泳いでいる。


 まるで、海底に巨大な闘技場を作り出したような場所だった。


 そして――。


 その中央。


 巨大な影が蠢いていた。


 十本。


 いや――。


 正確には、十本の巨大な触手。


 一本一本が大木のように太く、ゆっくりと地面を這いながら、こちらへと伸びている。


 その中央に鎮座しているのは――。


 巨大なクラーケンだった。


 幾つもの吸盤が並ぶ触手。


 海そのものを思わせる巨大な身体。


 そして――。


 俺たちを見据える、巨大な瞳。


「…………」


 クラーケンは動かない。


 ただ、俺たちを見ている。


 それだけなのに――。


 空気が重い。


 肌が、ひりつく。


 これまで戦ってきた魔物とは、明らかに何かが違う。


 俺は無意識に盾を構えた。


 そして、目の前の怪物を見据えながら――。


「……これは」


 小さく呟く。


「とても……Bランクのダンジョンじゃないな」


 その言葉に、仲間たちも一斉に表情を引き締めた。


俺はクラーケンから視線を逸らさないまま、カレンへ声をかけた。


「カレン」


「なぁに? レオンお父さん」


 カレンが俺を見上げる。


 俺は少しだけ身を屈め、カレンと目線を合わせた。


「万が一の時は――カレンにお願いしたいことがある」


「……お願い?」


「ああ」


 俺はクラーケンを一瞥する。


 十本の巨大な触手。


 その中央に鎮座する巨体。


 これまで戦ってきた魔物とは、明らかに格が違う。


「もし、俺たちの誰か一人でも危なくなったら……」


 俺は静かに続けた。


「すぐにテレポーテーションを使ってくれ」


「テレポーテーション……?」


「ああ。俺たち全員を連れて、このダンジョンから脱出するんだ」


 カレンは少し驚いたように目を見開いた。


「でも……戦いは?」


「戦いはいい」


 俺ははっきりと言った。


「命のほうが大事だ」


 カレンはしばらく俺の顔を見つめていた。


 やがて、小さく頷く。


「……うん。わかった」


「頼んだぞ、カレン」


「任せて!」


 カレンは胸を張る。


 その小さな姿を見て、俺は僅かに笑った。


 そして――。


 再びクラーケンへと視線を戻す。


「……さて」


 俺は盾を構え、剣を握り直した。


「どれだけの化け物なのか……確かめさせてもらおうか」


 その瞬間。


 クラーケンの巨大な瞳が――ゆっくりと動いた。


俺は、クラーケンを睨みつけた。


 十本もの巨大なテンタクル。


 その一本一本が、俺たちを容易く叩き潰せるほどの大きさだ。


 ならば――。


 出し惜しみをする理由はない。


「……こういう時は」


イグニスブレイドを抜き放つ。


 刀身から、凄まじい熱気が迸った。


「開幕から出し惜しみしない」


 イグニスブレイドに、凄まじい炎が集束していく。


 赤い炎が刀身を包み込み、次第にその勢いを増していく。


 俺は剣を大きく振りかぶった。


「――爆炎衝……!」


 次の瞬間。


「――ッ!!」


 轟音とともに、巨大な炎の斬撃が放たれた。


 ゴォォォォォォッ!!


 一直線に駆け抜けた炎の刃が、クラーケンへと襲いかかる。


 ズバァァァン!!


「――ギィィィィィッ!!」


 巨大なテンタクルが二本、根元から斬り飛ばされた。


 さらに――。


 そのうち一本は、炎をまとったまま地面へと叩き落とされる。


 ドォォン!!


 轟々と燃え上がる業火。


 切断されたテンタクルが激しく蠢き、床を叩きつける。


「ギィィィィィィィッ!!」


 クラーケンが、凄まじい悲鳴を上げた。


 巨大な身体が大きく揺れ、残されたテンタクルが一斉に蠢き始める。


 俺は剣を構え直した。


「……効いてるな」


 だが――。


 クラーケンの巨大な瞳が、ゆっくりと俺を捉える。


 怒りに満ちたその眼差しを見て、俺は思わず息を呑んだ。


 ――まだ、終わっていない。


 むしろ。


 今の一撃で――。


 こいつを、本気にさせてしまったのかもしれない。


次の瞬間だった。


 クラーケンの残されたテンタクルが、一斉に動き出した。


「――来るぞ!」


 十本あったうち、二本は俺の爆炎衝によって切り落とした。


 それでも――まだ八本が残っている。


 そのテンタクルが、まるで意思を持っているかのように蠢いた。


 そして――。


 ズズズズズ……!


「なっ……!」


 テンタクルが、一斉に地面へと潜り込んでいく。


「どこから……!」


 次の瞬間。


 俺たちの足元が、大きく揺れた。


「――来るぞ!」


 ドォォォン!!


 地面を突き破り、巨大なテンタクルが俺たちの足元から一斉に突き出してきた。


「きゃっ!」


 カレンとアリスは、とっさに魔法を展開する。


 迫り来る衝撃から身を守るため、障壁を張った。


 ドゴォン!!


 巨大なテンタクルが障壁へと激突する。


「カレン! アリス!」


「大丈夫!」


 俺は叫びながら、すぐ隣にいたアンを抱き寄せた。


「アン、掴まってろ!」


「レオン!」


 次々と襲い掛かるテンタクルを、俺は盾で受け止める。


 ガァン!!


 凄まじい衝撃が盾を通して腕へと伝わってくる。


「ぐっ……!」


 一撃が重い。


 まるで巨大な岩石を正面から叩きつけられているようだ。


 それでも、俺はアンを離さない。


「――この程度!」


 盾を構え、さらに迫る一撃を受け流す。


 その一方で――。


 グリフは違った。


「そんな攻撃、当たるかよ!」


 地面から突き出してくるテンタクルを紙一重で躱し、後方へ飛び退く。


 着地と同時に弓を構えた。


 そして――。


「そこだ!」


 弦を引き絞る。


 放つ。


 一射。


 二射。


 三射――。


 間髪入れず、次々と矢を放っていく。


 狙うのは――クラーケン本体。


 その巨大な眼球だった。


「食らえぇぇぇっ!!」


 ヒュンッ!


 ヒュンッ!


 ヒュンッ!


 放たれた矢が、次々と空を切り裂いていく。


 クラーケンもそれに気づき、身体を動かして避けようとする。


 だが――。


「逃がすか!」


 グリフの連射は止まらない。


 そして、そのうちの数本が――。


 ズシュッ!!


「――ギィィィィィッ!!」


 クラーケンの巨大な眼球へと突き刺さった。


 ドシュッ!


 さらに一本。


 深々と眼球を貫く。


「ギャアアアアアアッ!!」


 クラーケンが絶叫した。


 巨大な身体が大きくのけ反り、傷ついた眼球から赤い血が流れ落ちていく。


「よしっ! 入った!」


 グリフが叫ぶ。


 俺は盾でテンタクルの攻撃を受け止めながら、クラーケンを睨みつけた。


 ――確かに傷は負わせた。


 だが。


 これだけの攻撃を受けても――。


 クラーケンは、まだ倒れない。


 むしろ、その巨大な瞳には――。


 先ほどまで以上の、凄まじい怒りが宿っていた。


クラーケンが苦痛に身をよじらせる中――。


 アリスは、周囲の空間へ意識を集中させていた。


「…………」


 戦いの最中だというのに、アリスは静かに目を閉じる。


 そして――。


 この部屋を満たす魔力の流れを探っていた。


「……やっぱり」


 アリスが目を開く。


「どうした、アリス?」


 俺が尋ねると、アリスは周囲を見渡した。


「この部屋……ほとんど魔力が流れていません」


「魔力が……?」


「ええ」


 アリスは頷く。


「外の海には膨大な魔力が存在しています。ですが、この空間にはそれがほとんど流れ込んでいない」


 アリスは、クラーケンへと視線を向ける。


 そして――。


「だからこそ、カレンの雷魔法がかなり有効に使えるはずです!」


「……カレンの雷が?」


「ええ!」


 アリスの声に、確かな確信が宿っていた。


「この部屋には魔力の流れを妨げるものがほとんどありません。カレンの雷なら、その力を存分に発揮できるはずです!」


 俺はカレンを見る。


 カレンも、アリスの言葉を聞いて目を輝かせていた。


「カレン……いけるか?」


「うん!」


 小さな拳を握りしめる。


「カレンの雷で、あのクラーケンをやっつける!」


 その言葉に、俺は頷いた。


「よし……!」


 俺は盾を構え直す。


「なら、俺たちでカレンが魔法を撃つ隙を作るぞ!」


 グリフも弓を構え直し、アンも杖を握りしめる。


 アリスはカレンの隣に立った。


 そして――。


 クラーケンもまた、ゆっくりとその巨大な身体を起こし始めていた。


 傷ついた眼球から血を流しながら――。


「ギィィィィ……」


 その巨体が、再び俺たちを睨みつける。


アリスは、クラーケンと俺たちの間を塞ぐように蠢くテンタクルを見つめていた。


「……ですが」


 アリスが静かに口を開く。


「今のままでは、カレンの雷魔法をクラーケン本体へ確実に届かせられるか分かりません」


「テンタクルが邪魔ってことか?」


「ええ。あれだけの数が動き回っていては、雷が途中でテンタクルへ落ちてしまう可能性があります」


 アリスは俺の手にあるショートスピアへ視線を向けた。


「そこで……レオン」


「俺の槍?」


「そのショートスピアをクラーケン本体へ突き刺せませんか?」


「……突き刺す?」


「はい。もしクラーケンの身体に直接刺すことができれば――」


 アリスは槍の先端を指差した。


「そこを、雷を呼び込むための避雷針にできるはずです」


「なるほど……」


 俺はショートスピアを握り直す。


 確かに、クラーケンの身体へ直接突き刺すことができれば、雷の狙いを定めやすくなる。


 だが――。


 問題は、その前に立ちはだかるテンタクルだ。


 まるで俺たちを近づけさせまいとするように、何本もの触手が蠢いている。


 すると――。


「だったらよ」


 グリフが弓を構えながら、ニヤリと笑った。


「邪魔なテンタクル、全部倒しちまおうぜ」


「グリフ……」


「レオンが槍を刺すまで、俺たちで道を作る」


 グリフはクラーケンを見据えた。


「カレンが雷を落とすなら――それまでの道を作ってやればいい」


 俺はグリフの言葉に頷いた。


「……ああ」


 ショートスピアを握りしめる。


「なら、俺がクラーケンに槍を刺す」


 カレンを見る。


「カレンはその準備をしてくれ」


「うん!」


 カレンが大きく頷いた。


 アリスも杖を構える。


 アンも静かに前を見据える。


 グリフが弓を引き絞った。


「よし……」


 俺は盾を構え、クラーケンへと視線を向ける。


「――一気にいくぞ!」


 次の瞬間。


 俺たちは一斉に動き出した。


最初に動いたのは――アンだった。


「……これなら」


 アンは腰から数本の投げナイフを取り出す。


 その刃には、彼女が調合した劇毒が仕込まれていた。


「試してみる」


 ヒュッ――!


 アンの手から、ナイフが次々と放たれる。


 狙いはテンタクル。


 ズシュッ!


 一本。


 ズシュッ!


 二本。


 さらにもう一本。


 テンタクルへと深々と突き刺さった。


「ギィィィィッ!」


 テンタクルが激しく暴れ回る。


 だが――。


 その動きが、徐々に鈍くなっていく。


 そして。


 ドサッ……。


 巨大なテンタクルが、地面へと崩れ落ちた。


「…………」


 俺は思わず目を見開いた。


 アンの劇毒。


 それは――凄まじい威力だった。


 生命というものを、あまりにも簡単に奪ってしまう。


 巨大なクラーケンの身体の一部であるテンタクルでさえ、ほんの数本のナイフを受けただけで、その命を絶たれてしまった。


「……すごいな」


 思わず呟く。


 アンは表情を変えず、次のナイフを手に取った。


「まだ終わってないよ」


 その声と同時に――。


「――俺もいくぜ!」


 グリフが前へ出た。


 弓を構える。


 そして――三本の矢を、同時に弦へと番えた。


「…………」


 グリフが弦を引く。


 ギリ……ギリギリギリ……!


 尋常ではない力が込められていく。


 弓が大きくしなり、三本の矢が震える。


「――シューティングレイ!」


 次の瞬間。


 弦が解き放たれた。


 ――ズドォォォン!!


 三本の矢が、まるで一本の巨大な光線のような勢いで飛翔する。


 その速度は、目で追うことすら難しい。


「――ギィッ!?」


 ズガァァン!!


 三本の矢が、迫り来るテンタクルへ突き刺さる。


 だが――。


 それだけでは止まらない。


 三本の矢はテンタクルを貫通し――。


 そのまま、その後ろにあったもう一本のテンタクルまでも貫いた。


 ドシュッ!!


 ドシュッ!!


 二本の巨大なテンタクルを、まとめて貫通させる。


「ギィィィィィィッ!!」


 クラーケンが再び悲鳴を上げた。


 テンタクルが力を失い、ゆっくりと地面へ崩れ落ちる。


「どうだ!」


 グリフが叫ぶ。


 俺はその光景を見ながら、思わず笑みを浮かべた。


 ――道が、開いた。


 俺の前には、クラーケン本体へ続く一筋の道ができていた。


 残る問題は――。


 俺が、あの巨体へショートスピアを突き刺せるかどうか。


 俺は槍を握り直した。


「……行くぞ」


 そして――。


 クラーケン本体へ向かって、駆け出した。


「……来い」


 俺は、静かに呟いた。


「――俺の死の力」


 その瞬間だった。


 ――世界が、止まった。


 いや。


 正確には――。


 俺の周囲だけが、時間の流れから切り離されたように、極端に遅くなっていた。


 舞い上がった水滴が空中で止まり、クラーケンのテンタクルも、まるで時間を失ったかのようにゆっくりと動いている。


 俺はショートスピアを強く握りしめた。


「……行くぞ、クラーケン」


 一気に踏み込む。


 ――ドンッ!


 地面を蹴り、クラーケンへ向かって一直線に駆ける。


 そして、その勢いを殺さず――。


 俺は高く跳び上がった。


 世界が、ゆっくりと流れている。


 目の前には、クラーケンの巨大な眼。


 その瞳が、ゆっくりと動いていく。


 俺の姿を捉えようとしている。


「……遅い」


 俺は円型の盾を前へ突き出した。


 ――視界を塞ぐ。


 クラーケンから見れば、俺の姿は盾の向こうへ完全に消えた。


 ほんの一瞬。


 それだけでいい。


 視界から消える。


 死角を作る。


 そして――。


 俺は盾の陰から、一気に身体を捻った。


 ショートスピアを握る腕へ、全身の力を乗せる。


「――飛影閃突!!」


 ――ズガァァァァッ!!


 槍が、クラーケンの巨大な眼球へと深々と突き刺さった。


「――ギィィィィィィィィィッ!!」


 凄まじい絶叫が、広大なボス部屋を震わせた。


 俺は槍を握ったまま、クラーケンの眼球へと食い込ませる。


 血が噴き出す。


 クラーケンの巨体が激しくのたうち回る。


 だが――。


 俺は槍を離さなかった。


 これで――。


 カレンの雷を、この怪物へ叩き込むための「避雷針」ができた。


「……カレン!」


 俺は叫んだ。


「今だ!!」


俺の叫びが、ボス部屋に響き渡った。


「今だ――カレン!!」


「…………うん!」


 カレンは静かに目を閉じた。


 いつもの無邪気な表情は、そこにはなかった。


 ただ――。


 目の前のクラーケンを倒すために、全神経を集中させている。


「…………」


 カレンの身体から、凄まじい魔力が溢れ始めた。


 ――バチッ。


 小さな電流が走る。


 次の瞬間。


 バチバチバチバチッ!!


 全身を覆うように、幾筋もの稲妻が駆け巡った。


 髪が逆立ち、周囲の空気そのものが震えている。


「……この魔力……」


 アリスが思わず息を呑む。


 カレンの魔力は――。


 これまでとは、明らかに違っていた。


 圧倒的だった。


 そして――。


 クラーケンの真上に、巨大な魔力の渦が生まれ始める。


 ゴォォォォォ……。


 空間そのものが唸っているような音。


 渦の中心に、無数の稲妻が集束していく。


 青白い光が、次第に強くなっていく。


「……いくよ」


 カレンが、小さく呟いた。


 次の瞬間――。


「――――ッ!!」


 轟音が、ボス部屋全体を震わせた。


 ズドォォォォォォォォン!!


 クラーケンの真上から――。


 凄まじい雷撃が、落ちた。


 閃光。


 轟音。


 そして――。


 クラーケンの身体へ、幾千もの稲妻が一斉に走る。


 俺の突き刺したショートスピアを伝い、雷がクラーケンの巨体を駆け巡っていく。


「――ギィィィィィィィィィッ!!」


 クラーケンの絶叫が響き渡る。


 そして、その瞬間――。


 俺たちの視界は、すべて――。


 真っ白な閃光に包まれた。


どれくらいの時間が経ったのか――。


 俺は、ゆっくりと目を開いた。


「…………」


 視界が、徐々に戻っていく。


 そして――。


 目の前に広がっていた光景を見て、俺は息を吐いた。


 クラーケンは――。


 完全に息絶えていた。


 あれほど猛威を振るっていた十本のテンタクルも、今は力なく地面へと横たわっている。


「……やったな」


 俺が呟くと――。


「やったぜ!!」


 グリフが満面の笑みを浮かべて、こちらへ駆け寄ってきた。


「レオン!」


「ああ!」


 俺たちは拳を合わせ――。


 パチンッ!


 そのままハイタッチを交わした。


「やったぜ!」


「やったな!」


 その様子を見ていたカレンも――。


「やったぁ!」


 嬉しそうに声を上げる。


 そして、アリスとアンのところへ駆けていった。


「お母さん! アン姉ちゃん!」


「ええ。よくやったわ、カレン」


「カレンちゃん、すごかったよ」


 カレンは嬉しそうに二人へ手を差し出す。


 パチンッ!


 アリスとカレンがハイタッチ。


 続いて――。


 パチンッ!


 アンともハイタッチ。


「えへへ!」


 カレンは満面の笑みを浮かべている。


 ――だが。


 俺はふと、カレンの頭を見た。


「…………カレン」


「なぁに? レオンお父さん」


「髪……」


「え?」


 カレンが首を傾げる。


 雷魔法の影響なのか――。


 カレンの髪の毛は、見事なまでに逆立っていた。


 まるで頭の上に、小さな雷雲でも乗っているかのようだ。


「……ふふっ」


 それを見たアンが、思わず吹き出した。


「カレンちゃん……ふふっ、髪が……」


「え?」


 カレンは自分の髪を触る。


 だが、自分ではどうなっているのか分からない。


「そんなに変?」


「ううん」


 アンは笑いながら首を横に振った。


「すごく可愛い」


「ほんと?」


「うん」


 カレンもつられて笑った。


「えへへ!」


 その笑顔を見て――。


 俺も、思わず笑ってしまった。


 さっきまで命懸けで戦っていたことが、嘘のようだった。


 静まり返ったボス部屋に――。


 俺たちの笑い声だけが、響いていた。


戦いが終わると――。


 アンはすぐさま行動を開始した。


「さて……」


 腰から解体用のナイフを取り出す。


 そして、倒れ伏したテンタクルスへ近づいていく。


「これは……かなり良い素材が取れそう」


 さっそくテンタクルスの解体を始めるアン。


 巨大な身体を前にしても、その手際には一切の迷いがない。


 そんなアンを横目に――。


「カレン、おいで」


「うん!」


 アリスがカレンを抱き抱えた。


 そして、逆立った髪を優しく撫で始める。


「ふふ……すごいことになってるわね」


「なおる?」


「ええ。少しずつ落ち着かせましょう」


 アリスは指先でカレンの髪を整えていく。


 だが――。


 ふわっ。


 撫でつけたはずの髪が、また元気よく跳ね上がる。


「……あら?」


 もう一度、撫でる。


 ふわっ。


 やっぱり戻る。


「ふふふ……」


 アリスの口元から、思わず笑みがこぼれた。


「なかなか手強いわね」


「えへへ」


 カレンも楽しそうに笑っている。


 アリスは何度も優しく髪を撫で続ける。


 それでも、雷を浴びたように逆立った髪は、なかなか元に戻らない。


「カレン、今日は随分と元気な髪ね」


「カレンの髪、言うこと聞かないの!」


「ふふっ……そうみたいね」


 その様子を見ながら、俺は思わず笑った。


 すぐ隣ではアンが真剣な表情でクラーケンの解体を続けている。


 その一方で――。


 アリスに抱き抱えられたカレンは、楽しそうに笑っている。


 激しい戦いの直後とは思えないほど――。


 穏やかな時間が、ボス部屋に流れていた。


クラーケンの解体を終え――。


 俺たちは、ボス部屋のさらに奥へと進んだ。


 そこには――。


 もう一つの扉があった。


 巨大な扉を開く。


 その先に待っていたものを見て――。


「…………」


 俺たちは、しばらく言葉を失った。


 そこは――宝物庫だった。


 部屋いっぱいに、財宝が積み上げられている。


 金貨。


 銀貨。


 宝石。


 見たこともない装飾品。


 中には、何に使うのかさえ分からないほど古い魔道具まである。


「……これは凄い量だな」


 グリフが目を丸くする。


 そして、山のように積まれた金貨を見ながら――。


「もう一生、お金には困らないんじゃないのか?」


 そう言って笑った。


「確かに……」


 俺も思わず苦笑する。


 だが、アリスは財宝の山を眺めながら、何かを思い出したように口を開いた。


「一説によると――」


「一説?」


「ええ」


 アリスは、宝物の中に混じる古びた金貨を手に取った。


「クラーケンには、海底へ落ちてくる『光るもの』を集める習性があると言われています」


「光るもの?」


「金貨や宝石……あるいは装飾品などですね」


 アリスは部屋を見渡す。


「その習性のためでしょう。この財宝の大半も、海底へ沈んだものを集めたのだと思います」


「なるほど……」


 俺は改めて財宝の山を見る。


 確かに、これだけの量をクラーケンが自分で集めたのなら、その年月は相当なものになるだろう。


 すると、アリスは少し表情を曇らせた。


「そして――恐ろしい話もあります」


「恐ろしい話?」


「ええ」


 アリスは静かに続ける。


「クラーケンは時として、海を行き交う船を襲うことがあります」


 その視線が、財宝の山へ向けられる。


「テンタクルスを使って船を海へ引きずり込み……そのまま沈没させてしまうのです」


「…………」


 俺は言葉を失った。


 足元に積まれた金貨の一枚一枚。


 その中には――。


 もしかすると、かつて誰かが大切にしていたものもあるのかもしれない。


 そして、その船に乗っていた人々の人生までもが――。


 この場所へ沈んできた。


「……だから、これほどの財宝が」


 俺が呟く。


 アリスは小さく頷いた。


「ええ。ここにあるものは、何十年……あるいは何百年という時間をかけて、クラーケンが海底へ集め続けたものなのかもしれません」


 俺たちは、改めて宝物庫を見渡した。


 さっきまで「凄い量だ」と思っていた財宝が――。


 今は少しだけ、違って見えた。


宝物庫に眠っていた金貨や銀貨、宝石、様々な財宝を、俺たちは手分けして魔法バッグへと詰め込んでいった。


 それでも――。


 あまりの量に、魔法バッグの中身はあっという間に膨れ上がっていく。


「……本当に全部持って帰れるのか?」


 グリフが苦笑する。


「大丈夫だ。カレンのテレポーテーションがある」


 俺はそう言って、カレンを見る。


「カレン、頼めるか?」


「うん!」


 カレンが頷く。


 俺たちは互いに顔を見合わせると、カレンの周囲へ集まった。


「それじゃあ――帰ろう!」


 カレンが両手を広げる。


 淡い魔力の光が、俺たち全員を包み込んでいく。


 次の瞬間――。


 視界が大きく歪んだ。


 そして――。


「…………」


 目を開ける。


 そこは、港町カイゼルの入口だった。


 潮の香り。


 行き交う人々の声。


 遠くから聞こえてくる港の喧騒。


「……戻ってきたな」


 俺は深く息を吐いた。


 長かった探索も、ようやく終わった。


 俺たちは巨大なダンジョンを踏破し、クラーケンを倒した。


 そして――。


 大量の財宝まで手に入れた。


「よし!」


 グリフが大きく伸びをする。


「まずは飯だな!」


「ふふっ、グリフらしいわね」


 アンが笑う。


 その隣では、カレンがまだ少し逆立った髪のまま、嬉しそうに笑っていた。


「お腹すいた!」


「そうだな」


 俺も笑う。


 こうして俺たちは――。


 潮喰らいの迷宮から、無事に帰還したのだった。


俺たちがカイゼルの入口へ戻ってくると――。


「……えっ!?」


 門番の一人が、目を大きく見開いた。


「お、お前たちは……!」


 驚いた門番が、慌ててこちらへ駆け寄ってくる。


「無事だったのか!?」


「ああ。なんとか戻ってこられた」


 俺たちは門番に、潮喰らいの迷宮で起きたことを簡単に説明した。


 四層で遭遇したクラーケン。


 そして――。


 俺たちが、そのクラーケンを討伐したこと。


「クラーケンを……!?」


 門番は、信じられないといった表情を浮かべる。


「あの迷宮の四層まで行ったのか……」


「詳しい話は、あとでギルドに報告する」


 俺がそう告げると、門番も何度も頷いた。


 だが――。


「……それより」


 グリフが腹を押さえる。


「腹減ったな」


「私も……」


 カレンも小さなお腹を押さえた。


「お腹すいたぁ……」


 どうやら、あれだけの魔法を使ったことで、カレンもすっかり腹を空かせているらしい。


「ふふっ」


 アリスが微笑む。


「それなら、まずは食事にしましょうか」


「うん!」


 カレンの顔が一気に明るくなる。


「まずはご飯!」


「決まりだな」


 俺たちは笑いながら、カイゼルの街へと歩き出した。


 門番はそんな俺たちの背中を見送りながら――。


「……本当に、クラーケンを倒したのか……?」


 呆然と呟いていた。


俺たちは、そのままカイゼルの街にある食事処へ向かった。


 扉を開けると、香ばしい料理の匂いが鼻をくすぐる。


「いらっしゃ――」


 店員が声をかけようとした、その時だった。


 俺たちの後ろから、何人かの人影が駆け込んでくる。


「レオンさん!」


「皆さん、無事だったんですね!」


 振り返ると――。


 カイゼルの冒険者ギルドの職員たちだった。


 どうやら俺たちが戻ってきたという知らせを聞き、急いで追いかけてきたらしい。


「まずは座ってください!」


「え?」


「話は食事をしながらで構いません! こちらも聞きたいことが山ほどありますから!」


 俺たちは顔を見合わせる。


「……じゃあ、そうさせてもらおう」


 席に着くと、すぐに料理が運ばれてきた。


 カレンは料理が目の前に置かれると――。


「いただきます!」


 元気よく食べ始めた。


 よほどお腹が空いていたのだろう。


 アリスが微笑みながらカレンを見守っている。


 そんな中、俺たちは食事をしながら、少しずつ今回の出来事を話していった。


「まず、四層まで進みました」


 俺が話し始めると、職員たちは一斉に手を止める。


「四層……!?」


「ああ」


 俺は頷いた。


「そこで――クラーケンと遭遇した」


「…………」


 職員たちの表情が固まる。


 そしてグリフが、料理を口に運びながら続けた。


「かなりデカかったぜ。テンタクルスが十本もあってな」


「十本……」


 職員の一人が呟く。


「それで……討伐されたんですか?」


「ああ」


 俺が答える。


「カレンの雷魔法でな」


「雷……?」


 職員たちが、一斉にカレンを見る。


「うん!」


 カレンは口いっぱいに料理を頬張りながら、嬉しそうに頷いた。


「すっごい雷を落としたの!」


「…………」


 職員たちは、しばらく言葉を失っていた。


 俺たちはそんな彼らに苦笑しながら――。


 食事を続ける。


 今回の冒険について話すことは、まだまだ山ほどあった。


 だが――。


 それは急ぐ必要はない。


 こうして無事に帰ってこられたのだから。


 まずは腹を満たす。


 それが今の俺たちにとって、一番大切なことだった。

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