潮喰らいの迷宮(1層)
俺たちは今、港町カイゼルの冒険者ギルドに集まっていた。
今回の目的は――最近、この町の近くに突如として現れたダンジョン。
冒険者たちからは、こう呼ばれている。
――『潮喰らいの迷宮』。
それは、海沿いに広がる岩場の一角に、ここ最近になって突然姿を現したという。
奇妙なのは、その入口だった。
どうやら『潮喰らいの迷宮』は、潮の満ち引きによって姿を変えるらしい。
海が引いている干潮の時間帯には、岩場の奥にぽっかりと開いた巨大な入口が現れる。
しかし――。
満潮になると、その入口は海の中へと沈み、まるで最初から存在していなかったかのように姿を消してしまうという。
「……海の中に入口があるダンジョン、か」
俺はギルドの掲示板に貼られた依頼書を眺めながら呟いた。
これまでにも数多くのダンジョンを見てきたが、潮の満ち引きによって入口そのものが消えるという話は聞いたことがない。
「しかも、出来たばかりなんだよね?」
隣にいたアリスが、依頼書へ視線を落とす。
「ああ。だから内部がどうなっているのか、まだほとんど分かっていないらしい」
新しく生まれたダンジョン。
そこに何があるのか。
どこまで続いているのか。
そして――なぜ、この場所に突然現れたのか。
誰にも分かっていない。
俺は依頼書を手に取った。
「……面白そうだな」
こうして俺たちは、『潮喰らいの迷宮』へ向かうことになった。
俺たちは、さっそくギルドマスターのマチルダに呼ばれ、ギルドマスター室を訪れていた。
「待っていたよ」
部屋に入ると、マチルダは机の上に一枚の大きな紙を広げていた。
「これが……?」
「ああ。『潮喰らいの迷宮』の一層だ」
マチルダは紙の上を指でなぞりながら話し始めた。
「ダンジョンが出現してからしばらくの間、ギルドでは何組かのパーティーに内部の調査を依頼していた。まだ全てを把握できているわけじゃないが、少なくとも一層については、ある程度の地図が完成している」
俺たちは机を囲み、地図を覗き込んだ。
「……広いな」
思わず声が漏れる。
一層とは思えないほど広大だった。
いくつもの分岐があり、細い通路が複雑に入り組んでいる。
ところどころには、まだ調査の手が入っていない場所を示す印も付けられていた。
「これでも、調査できた場所だけさ」
マチルダが腕を組む。
「一層の全てを探索し終えたわけじゃない。奥へ進むほど魔物の数も増えている」
「魔物のランクは?」
俺が尋ねると、マチルダの表情が少しだけ険しくなった。
「……それが問題なんだ」
マチルダは地図の数か所を指差した。
「一層から、すでにCランクの魔獣が確認されている」
「一層から……?」
アリスが僅かに眉を寄せる。
「ああ。数はまだ少ない。だが、何組かのパーティーが遭遇している」
俺は地図へ視線を戻した。
普通のダンジョンなら、浅い階層には比較的弱い魔物が多い。
深く潜るほど強敵が現れる。
それが、これまで俺たちが経験してきたダンジョンの常識だった。
だが――。
この『潮喰らいの迷宮』は違う。
一層から、Cランク。
「……新しく出来たばかりのダンジョンとは思えないな」
俺が呟くと、マチルダは静かに頷いた。
「私もそう思っている」
そしてマチルダは、地図のさらに奥――まだ白紙になっている部分へ視線を向けた。
「だからこそ、あんたたちに頼みたい」
その言葉に、俺たちは顔を見合わせた。
「『潮喰らいの迷宮』……一体、何が眠っているんだろうね」
アリスが小さく呟いた。
その声に答える者は、誰もいなかった。
マチルダは、しばらく地図を見つめていた。
そして――重い口調で言った。
「このまま、この高難易度のダンジョンを放置しておくわけにはいかない」
「……どうして?」
俺が尋ねると、マチルダは地図から顔を上げた。
「――ダンジョンブレイクが起こる可能性があるからだ」
「ダンジョンブレイク……?」
聞き慣れない言葉に、俺たちは顔を見合わせる。
マチルダは静かに頷いた。
「ダンジョンは、魔物や魔力を内部に溜め込み続ける。だが、限界を超えれば……ダンジョンそのものが耐えられなくなる」
マチルダの指が、地図の上をゆっくりとなぞる。
「そして――崩壊する」
「崩壊……」
「そうだ。ただの崩落じゃない」
マチルダの表情が険しくなる。
「ダンジョンが崩壊すると同時に、中にいる魔物が一斉に外へ解き放たれる」
部屋の空気が、一瞬で重くなった。
「……一斉に?」
「ああ」
マチルダは短く答えた。
「何十体……場合によっては、何百体もの魔物が一度に外へ溢れ出す」
俺は思わず、窓の外へ目を向けた。
その先にあるのは、港町カイゼル。
多くの人々が暮らし、漁師たちが海へ出て、商人たちが行き交う町だ。
そこへ、ダンジョンの魔物が押し寄せれば――。
「……町が、危ない」
アリスが静かに呟いた。
「その通りだ」
マチルダは頷く。
「ダンジョンブレイクは、冒険者だけの問題じゃない。町そのものが戦場になる」
新しく現れたダンジョン。
まだ一層しか調査されていないというのに、そこにはすでにCランクの魔獣が存在している。
そして、その奥には――まだ誰も知らない未知の領域が広がっている。
俺は、もう一度地図を見つめた。
「……つまり」
俺はゆっくりと口を開いた。
「ダンジョンブレイクが起こる前に、俺たちが攻略しなきゃならないってことか」
マチルダは静かに頷いた。
「そういうことだ」
その声には、いつもの落ち着きがなかった。
それほどまでに――このダンジョンは危険なのだ。
「……なるほどな」
俺は、思わず小さく笑った。
「だからマチルダさん、俺たちをあんなに必死になって呼び止めたのか」
ここへ来るまでのことを思い出す。
突然呼び出されたと思えば、ギルドマスター室へ来るなり、いつになく真剣な顔で話を始めたマチルダ。
その理由が、ようやく分かった。
「はは……そういうことだ」
マチルダも苦笑を浮かべた。
「本当にすまないとは思っているよ。せっかくカイゼルでゆっくりしてもらおうと思っていたんだがね」
「いや、仕方ないさ」
俺は肩をすくめる。
「町が危ないっていうなら、放っておくわけにもいかないだろ」
「……助かるよ」
マチルダはそう言って、少しだけ安堵したように笑った。
だが――。
俺の視線は、再び机の上の地図へと戻っていた。
『潮喰らいの迷宮』。
まだ誰も知らない、未知のダンジョン。
その一層ですら、Cランクの魔獣が徘徊している。
そして、その奥には――。
俺たちはまだ知らない。
何が待ち受けているのかを。
俺は隣にいるアリスへ視線を向けた。
「アリス、念のため備えておくんだろ?」
「ええ」
アリスは小さく頷いた。
「聖水と清めの塩を、ね」
「やっぱりか」
俺が笑うと、アリスも僅かに口元を緩めた。
「備えておけば、対処できるものもあるでしょう?」
「ああ。何が出てくるか分からないからな」
新しく出現したダンジョン。
Cランクの魔獣が確認されている以上、警戒するに越したことはない。
それに――ダンジョンの奥で待っているのが、普通の魔物だけとは限らない。
俺たちは以前、沈没船ガウェイン号で死者たちと戦った。
だからこそ、俺たちは知っている。
魔物には、生きているものだけではない。
アンデッドが潜んでいる可能性だってある。
「聖水も、清めの塩も、少し多めに持っていきましょう」
アリスはそう言って、穏やかに笑った。
「ええ。備えあれば憂いなし、ですから」
「……そうだな」
俺も笑いながら頷いた。
こうして俺たちは、『潮喰らいの迷宮』攻略の準備を始めることになった。
俺たちは準備を整えるため、街外れにある教会へ向かった。
以前にも世話になった神父に事情を話すと――。
「なるほど……新しく現れたダンジョンですか」
神父は少し驚いた顔をしたものの、すぐに納得したように頷いた。
「それでしたら、こちらをお持ちください」
そう言って、俺たちのために聖水をいくつも用意してくれた。
さらに、清めの塩も十分な量を分けてもらう。
「これだけあれば、しばらくは安心でしょう」
「ありがとうございます。助かります」
俺は深く頭を下げた。
そして――。
今回ばかりは、いつも以上に多くのお布施を教会へ納めることにした。
「こんなに……よろしいのですか?」
神父が目を丸くする。
「ああ。聖水も塩も、俺たちのために用意してくれたものだからな」
俺がそう答えると、神父は穏やかな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。神の御加護が、皆様と共にありますように」
「ありがとうございます」
俺たちは神父に見送られながら、教会を後にした。
これで準備は整った。
あとは――。
海が引く時間を待つだけだ。
俺たちは、マチルダから聞いていたダンジョンの入口付近までやって来ていた。
海岸沿いに広がる岩場。
今はまだ、入口の姿は見えない。
俺たちは岩場に腰を下ろし、潮が引いていくのを静かに待っていた。
波が少しずつ遠ざかっていく。
さっきまで海水に覆われていた岩肌が、ゆっくりと姿を現していく。
そして――。
「……見えてきた」
グリフが呟いた。
俺も海の方へ目を向ける。
徐々に海水が引いていくにつれ、岩場の奥から黒い穴が姿を現した。
まるで、海そのものが隠していたかのように――。
巨大な岩壁にぽっかりと開いた、禍々しい入口。
その奥は光を一切通さず、ただ暗闇だけが広がっている。
「……本当に不気味ね」
アンが腕を組みながら呟いた。
「ああ。あれが最近できたダンジョンとは思えないな」
グリフも苦笑する。
やがて入口の全貌が姿を現す。
波の音だけが響く海岸に、ぽっかりと口を開ける漆黒の穴。
まるで――何かを待っているようにも見えた。
「……」
俺はその入口をじっと見つめた。
その時だった。
「お父さん、見て!」
振り返ると、カレンが小さな手のひらをこちらへ向けていた。
「カニさん!」
「おお、上手に捕まえたな」
「うん!」
カレンは嬉しそうに笑った。
その隣では、アリスも岩場にしゃがみ込み、小さな貝を拾っている。
「カレン、こっちにもありますよ」
「ほんとだ!」
「こっちの貝は少し変わった形をしていますね」
「お母さん、こっちのカニさんは大きいよ!」
二人は拾ったカニや貝を見せ合いながら、楽しそうに笑っていた。
「……あいつら、緊張感ねえな」
グリフが呆れたように呟く。
アンも苦笑する。
「まあ……カレンにとっては、ダンジョンよりカニや貝のほうが興味深いんでしょうね」
俺はそんな二人を見て、思わず笑った。
禍々しいダンジョンの入口。
そのすぐ隣で、楽しそうに笑うカレンとアリス。
なんとも不思議な光景だった。
やがて――。
潮が完全に引いた。
「……そろそろ行くか」
俺が立ち上がる。
みんなもそれぞれ装備を整え始めた。
アリスとカレンも立ち上がる。
「カレン、カニさんはどうする?」
「……連れていく!」
「ふふっ。では、少しだけ海へ返してあげましょう」
「うん!」
アリスとカレンは、捕まえたカニをそっと岩場へ戻した。
そして俺たちは――。
目の前に現れた『潮喰らいの迷宮』へと、足を踏み入れた。
『潮喰らいの迷宮』へ足を踏み入れる。
中へ入った瞬間――。
「……ひんやりしてるな」
思わず呟いた。
外の暑さが嘘のように、ダンジョンの中はひんやりとしていた。
壁や床は湿っており、ところどころに水滴が滴っている。
そして――。
「やっぱり、海の匂いがするな……」
鼻を澄ませると、微かに磯の匂いがした。
海岸からそのまま続いているかのような、潮の香り。
不思議なことに、ダンジョンの中だというのに、その匂いはどこか懐かしく感じられた。
「本当に海の中みたいね」
アンが周囲を見回す。
すると、岩陰から小さなカニが一匹、こちらを警戒するように顔を出した。
「あ、カニだ」
グリフが気付く。
さらに先へ進むと、壁際には小さな貝がいくつも張り付いていた。
どうやらこのダンジョンには、魔物だけではなく、海に生息する生き物も入り込んでいるらしい。
「……」
ふと横を見る。
カレンがじっと岩陰を見つめていた。
先ほどから、カニや貝を見つけるたびに視線を奪われている。
「カレン」
アリスが優しく声をかける。
「……うん」
カレンは返事をしながらも、視線は小さなカニから離れない。
アリスと手を繋いで歩いているカレンの目の前を、一匹のカニが横歩きで通り過ぎていった。
カニはそのまま岩陰へ逃げていく。
「……」
カレンはその姿を、首を動かしながらじっと目で追っていた。
「ふふ……」
アリスが小さく笑う。
「気になるの?」
「……うん」
カレンは素直に頷いた。
「でも、今は冒険ですよ」
「……わかってる」
そう言いながらも、カレンはもう一度だけ、カニが消えていった岩陰を振り返った。
俺は思わず笑ってしまう。
「カレン、帰りにまだいたら見てみような」
「ほんと!?」
「ああ」
「うん!」
カレンの顔がぱっと明るくなった。
そして俺たちは、再び迷宮の奥へと歩き始める。
ひんやりとした空気。
漂う磯の匂い。
岩陰に潜む小さなカニや貝。
まだ魔物の姿はない。
しばらく進んでみると、ダンジョンの構造は、マチルダが見せてくれた地図の通りだった。
いくつもの分岐があり、岩壁に囲まれた通路が複雑に続いている。
「今のところ、地図に間違いはなさそうだな」
俺がそう呟くと、アリスが静かに目を閉じた。
「では――少し先まで調べてみましょう」
アリスの周囲に、淡い風が生まれる。
それは一陣の風となって、俺たちのいる通路から迷宮の奥へと流れていった。
風は壁をすり抜け、分岐した通路を進み、さらにその先へと広がっていく。
「……」
アリスは目を閉じたまま、風から伝わってくる情報を感じ取っている。
「右手の通路に魔物が三体。……こちらへ近づいてきています」
「三体?」
「ええ。ですが、強くはありません」
アリスがさらに風を広げる。
「その先に広い空間があります。宝箱が一つ」
「もう宝箱まで分かるのか」
グリフが驚いたように声を上げる。
「ええ。風が触れたものなら、大まかな形や位置を把握できます」
アリスはそう言って、さらに奥へ意識を伸ばしていく。
「……こちらの分岐は行き止まりですね」
「じゃあ、こっちは?」
アンが別の通路を指差す。
「少し待ってください」
再び風が走る。
「……魔物が二体。その先に下へ続く階段があります」
アリスが目を開く。
「どうやら、次の階層へ続いているようです」
俺たちは顔を見合わせた。
マチルダから渡された地図。
そして今、アリスの風の魔法によって得られた情報。
それらを照らし合わせていくことで、俺たちは一層の構造を少しずつ把握していった。
「これなら、迷う心配はなさそうだな」
俺が笑うと、アリスも小さく微笑んだ。
「ええ。ですが――」
アリスは迷宮の奥へ視線を向ける。
「まだ、すべてを確認できたわけではありません」
その言葉に、俺は再び気を引き締めた。
地図に記された一層。
そこにはまだ、誰も足を踏み入れていない場所が残されている。
「向かってくる敵は……マーマンが三体ですね」
アリスが静かに告げた。
「マーマンか」
俺が前方へ視線を向ける。
まだ姿は見えない。
だが、アリスの風が捉えた魔物たちは、こちらへゆっくりと近づいてきているようだった。
「なら――俺が行く」
グリフが一歩前へ出た。
身にまとっているのは、以前手に入れた《闇隠れ》の術が付与されたローブ。
その姿が、薄暗い迷宮の中へ溶け込んでいく。
「奇襲をかける」
グリフはそれだけ告げると、音もなく走り出した。
気配が消える。
俺たちの目の前から、グリフの姿が完全に消えた。
やがて――。
前方から、マーマンたちの足音が聞こえてきた。
ざり……ざり……。
三体のマーマンが、何も知らずにこちらへ近づいてくる。
そして、その最後尾にいた一体の背後へ――。
グリフが現れた。
「……っ!」
マーマンが振り返るより早く、グリフの短剣がその急所へ突き込まれる。
一瞬。
それだけだった。
マーマンは声を上げることすらできず、その場へ崩れ落ちた。
「一体」
グリフは倒れたマーマンから短剣を抜く。
残りの二体が異変に気付き、慌てて武器を構えようとする。
だが――遅い。
グリフはすでに懐へ飛び込んでいた。
「二体目」
短剣が閃く。
マーマンの攻撃を紙一重でかわし、そのまま喉元へ刃を走らせる。
そして、もう一体。
「最後だ」
身体を低く沈め、相手の懐へ潜り込む。
短剣が一閃した。
三体目のマーマンも、その場に倒れる。
――静寂。
戦いは、ほんの僅かな時間で終わった。
「……終わったぞ」
グリフが短剣を収める。
そこには、三体のマーマンが倒れていた。
「三体とも……グリフ一人で?」
アンが驚いたように呟く。
「ああ」
俺も思わず笑みを浮かべる。
「さすがだな、グリフ」
「まあな」
グリフは照れくさそうに笑った。
アリスも穏やかに微笑んでいる。
「奇襲からの動きに、無駄がありませんでしたね」
「アリスに敵の位置を教えてもらえたからな」
グリフはそう言いながら、闇に溶け込むローブへ視線を落とした。
新しい装備。
そして積み重ねてきた経験。
グリフの戦い方は、以前とは比べものにならないほど洗練されていた。
俺たちは倒れたマーマンを横目に、さらに迷宮の奥へと進んでいった。
その後も俺たちは、迷宮の中を進んでいった。
魔物の数は、思っていたほど多くない。
だが――。
「……広いな」
俺は周囲を見回した。
一層とは思えないほど広大な空間が、迷宮の奥へと続いている。
いくつもの分岐を進み、アリスの風で周囲を確認しながら歩いていると――。
「ここですね」
アリスが足を止めた。
そこには、他の場所とは少し違った広い部屋があった。
そして部屋の中央に、一つの宝箱が置かれている。
「宝箱か」
グリフが嬉しそうに近づく。
「よし、開けてみるか?」
そう言って、グリフが宝箱へ手を伸ばした。
「待って」
その時だった。
「この子、魔物だよ」
「……え?」
カレンが宝箱を指差していた。
俺とグリフは顔を見合わせる。
「魔物……?」
次の瞬間。
俺とグリフは反射的に身構えた。
「アン、下がって!」
「え……?」
突然のことに、アンが驚いた表情を浮かべる。
だが、カレンはそんな俺たちを見ながら、落ち着いた様子で宝箱を見つめていた。
そして――。
カレンの首元に刻まれたルーンが、淡く輝き始める。
「カレン……?」
アリスが見守る中、カレンはルーンへ魔力を集めていく。
小さな身体から溢れた魔力が、ルーンへと吸い込まれていく。
そして――。
「えいっ!」
カレンが宝箱へ向かって、その魔力を解き放った。
淡い光が宝箱を包み込む。
次の瞬間。
宝箱の表面に――。
カレンの首元に刻まれているものと、まったく同じ形のマークが浮かび上がった。
「なっ……!」
グリフが目を見開く。
宝箱が、ゆっくりと震え始めた。
そして――。
ガタンッ!
蓋が大きく開いた。
「……!」
俺は剣へ手を掛ける。
だが、宝箱から飛び出してきたのは攻撃ではなかった。
その身体を小刻みに震わせながら、まるでカレンの命令を待つように、その場でじっとしている。
「やっぱり……」
アリスが呟いた。
「この子、ミミックですね」
「ミミック……?」
俺は目の前の宝箱を見つめる。
それは、宝箱に擬態して冒険者を襲う魔物――ミミックだった。
けれど今は、その表面にカレンと同じルーンの印が刻まれている。
「……カレン」
俺が声をかける。
「この子、悪い子じゃないよ」
カレンはそう言って、ミミックへ近づいていく。
ミミックもカレンへ向かって、蓋を小さく開閉した。
まるで――返事をしているようだった。
「……仲間にしたのか?」
グリフが呆然と呟く。
「うん!」
カレンは嬉しそうに笑った。
俺は思わず苦笑する。
まさか、ダンジョンに入って最初に仲間になるのが――。
宝箱に擬態していたミミックだとは。
『潮喰らいの迷宮』での冒険は、どうやら俺たちの想像していたものとは少し違う方向へ進み始めていた。
ミミックは、しばらくカレンのことを見つめていた。
そして――。
とことことカレンの近くまで歩いていく。
「……?」
カレンが首を傾げる。
するとミミックは、カレンの足元へ身体を寄せ――。
すりすり。
「ふふっ」
まるで甘えるように、カレンへ身体を擦りつけている。
「いい子、いい子」
カレンは嬉しそうに笑いながら、ミミックの身体を優しく撫でてあげる。
ミミックも気持ちよさそうに、その場でじっとしている。
「どうやら、友達になれたみたいだな」
俺が笑うと、カレンは嬉しそうに頷いた。
「うん! お友達!」
その時だった。
ミミックの身体が、突然淡く光り始めた。
「……?」
カレンが驚いて手を止める。
次の瞬間――。
宝箱だったミミックの姿が、ゆっくりと形を変えていく。
そしてそこに現れたのは――。
「……ポーチ?」
小さな革製のポーチだった。
しかも、カレンが身に着けられる大きさになっている。
「わぁ……!」
カレンの顔が一気に明るくなった。
「お父さん! 見て!」
「ああ。可愛いポーチだな」
「これ、ミミックなの?」
「どうやらそうみたいだ」
カレンは嬉しそうにポーチを抱きしめる。
「お友達がポーチになった!」
「ふふっ」
その様子を見ていたアリスが、興味深そうにポーチを眺めていた。
「なるほど……」
アリスはポーチへそっと手を伸ばす。
「ミミックは宝箱の姿だけではなく、他の物にも変身することができるんですね……」
「そうみたいだな」
「興味深いです」
アリスの瞳が、研究者らしい輝きを帯びる。
「擬態能力の応用なのか、それとも本人の意思で姿を変えているのか……。とても面白い魔物ですね」
「お母さん、難しい話してる」
カレンが不思議そうにアリスを見上げる。
「ふふ、ごめんなさい」
アリスは微笑み、カレンの頭を優しく撫でた。
「でも、カレン。とても素敵なお友達ができましたね」
「うん!」
カレンはポーチになったミミックを嬉しそうに身に着けた。
どうやら『潮喰らいの迷宮』では――。
宝箱を一つ開けただけで、思いがけない仲間が増えたようだ。
カレンはさっそく、ミミックのポーチを腰に着けた。
ポーチには、ミミック自身を模した可愛らしい模様が描かれている。
「かわいい……!」
カレンは嬉しそうにポーチを眺めると、何かを思い出したように自分の荷物を探り始めた。
「これ!」
取り出したのは――一枚のカード。
そこに描かれているのは、ワイルドベア。
カレンがいつも「クマさん」と呼んでいる、大切な仲間のカードだった。
「クマさんも一緒!」
カレンは大事そうにカードをポーチへしまう。
そしてポーチを両手でぽんぽんと叩いた。
「これで大丈夫!」
満足そうに笑うカレン。
「ふふっ。大切なものを入れたんですね」
アリスも嬉しそうに微笑んでいる。
「うん!」
カレンはミミックのポーチを眺めながら、何度も嬉しそうに頷いた。
新しくできたお友達。
そして、大切なクマさんのカード。
カレンにとっては――それだけで、このダンジョンに来た甲斐があったのかもしれない。
さて――。
俺たちは、さらに奥へと進んでいた。
「この先の部屋だな」
俺は手元の地図を確認する。
「この部屋を抜ければ、下の階層へ続く階段があるはずだ」
「それと……」
アリスが静かに続ける。
「Cランクの魔物も、この部屋にいるようです」
「分かった」
俺たちは互いに頷き合った。
さっきのマーマンとは違う。
今回はCランクの魔物だ。
俺は剣と盾を構え、グリフも短剣へ手を添える。
アンは魔法をいつでも放てるように身構え、アリスも周囲へ風を広げる。
そして――。
俺たちは慎重に部屋へ足を踏み入れた。
広い空間。
湿った岩肌。
床には薄く水が溜まっている。
その奥で――何かが動いた。
「……来るぞ」
俺が身構える。
岩陰から姿を現したのは――。
「……なんだ、あれ」
グリフが目を見開いた。
巨大なハサミ。
硬そうな甲殻。
そして、俺たちの身長を軽く超えるほどの巨体。
「Cランク……ビッグハンマークラブ」
アリスが静かに告げる。
俺は巨大なカニを見上げた。
「……デッカいカニだな」
「デッカいカニだな……」
グリフも、ほとんど同時に呟いた。
その瞬間――。
「……!」
俺は後ろから伝わってくる気配に気付いた。
振り返る。
「……カレン?」
カレンが口をぽかんと開けて、巨大なカニを見つめていた。
その瞳は――。
キラキラと輝いている。
「…………」
カレンは一歩、前へ出ようとする。
「カレン?」
「お友達……」
小さな声が聞こえた。
そして、さらにもう一歩。
「カレン、待って」
アリスが慌てて手を握る。
「……お友達にしたい」
カレンは巨大なハサミを持つビッグハンマークラブを見上げながら、今にも飛び出していきそうな勢いで訴えていた。
「いやいやいや……!」
グリフが慌てて声を上げる。
「カレン、あれCランクだぞ!?」
だが――。
カレンの視線は、もうビッグハンマークラブから離れなかった。
まるで――。
巨大なカニを見つけたことが、嬉しくて仕方がないと言わんばかりに。
「でも……」
アンが巨大なビッグハンマークラブを眺めながら、ぽつりと呟いた。
「あのカニ……絶対美味しいよ? カレンちゃん!」
「えっ」
カレンが目を丸くする。
「食べるのか……!」
俺も思わず声を上げた。
グリフも驚いたようにアンを見る。
「おいおい、アン……Cランクの魔物だぞ?」
「だって、あんなに立派なカニよ?」
アンは真剣な顔で巨大なハサミを見つめている。
「身もたくさん詰まってそうだし……」
「そこじゃないだろ!」
俺が突っ込む。
するとカレンは、慌てたようにアンの服を掴んだ。
「アン姉ちゃん!」
「ん?」
「あの子、いい子だよ!」
カレンは必死に訴える。
「あの子はお友達なの!」
「でもね、カレンちゃん……」
「食べちゃダメ!」
カレンは両手を広げるようにして、ビッグハンマークラブを庇う。
「この子、きっと冒険の役に立ってくれるよ!」
「……役に立つ?」
アンが首を傾げる。
「うん!」
カレンは大きく頷いた。
「だって、あんなに大きなハサミがあるんだよ! 悪い魔物もやっつけてくれるよ!」
「なるほど……」
アンが少し考え込む。
「それは……確かに頼もしいかも」
「でしょ!」
カレンは嬉しそうに笑った。
その隣で、グリフが小さくため息をつく。
「……まったく。カレンは本当に魔物が好きだな」
俺も苦笑する。
「ミミックの次は、Cランクの巨大カニか……」
目の前では、ビッグハンマークラブが巨大なハサミをゆっくりと持ち上げている。
その姿を見たカレンの瞳は、さらにキラキラと輝いていた。
「お友達になろう!」
カレンが元気よく声を上げる。
……さて。
この巨大なカニを、本当に仲間にできるのだろうか。
ビッグハンマークラブは、困惑したように両方の目を左右へ動かしていた。
近づいてくるアンを見る。
そして――カレンを見る。
またアンを見る。
そして、カレンを見る。
どうやら、自分が今どんな状況に置かれているのか分かっていないらしい。
カレンはそんなビッグハンマークラブをじっと見つめると、小さな声で話しかけた。
「ねえ……」
ビッグハンマークラブがカレンを見る。
「カレンのお友達にならなかったら……」
カレンはちらりとアンを見る。
アンは巨大なカニを見ながら、まだどこか残念そうな顔をしている。
「……食べられちゃうよ?」
「……!」
ビッグハンマークラブの目が、僅かに揺れた。
「だから……」
カレンは優しく笑った。
「カレンとお友達になろう?」
そして――。
カレンの首元に刻まれたルーンが、淡い光を放ち始めた。
「カレン……?」
アリスが見守る中、カレンは身体の奥から魔力を引き出していく。
小さな身体から溢れた魔力がルーンへ集まり、次第に強い光へと変わっていく。
「いくよ……!」
カレンが手を伸ばす。
次の瞬間――。
集められた魔力が、ビッグハンマークラブへ向かって放たれた。
光が巨大な甲殻を包み込む。
そして――。
ビッグハンマークラブの額に、カレンのものと同じルーンが浮かび上がった。
「……!」
俺たちは息を呑んだ。
やがて光が収まる。
ビッグハンマークラブはしばらく動かなかったが――。
ゆっくりとカレンへ近づいていく。
「……お友達?」
カレンが尋ねる。
ビッグハンマークラブは巨大なハサミを小さく動かした。
「やったぁ!」
カレンが嬉しそうに笑う。
「お友達になれた!」
その瞬間――。
「……ああ……」
背後から、アンの残念そうな声が聞こえた。
「せっかくのご馳走が……」
「アン……」
俺は苦笑する。
「食べる気だったのかよ」
「だって……あんなに大きなカニなのよ?」
アンは名残惜しそうにビッグハンマークラブを見つめている。
「……絶対、美味しかったのに」
「もうお友達だからね!」
カレンはそう言って、ビッグハンマークラブの大きな甲殻を嬉しそうに撫で始めた。
巨大なCランク魔物。
本来なら、俺たちが命懸けで戦うはずだった相手。
それが今では――。
カレンの新しいお友達になっていた。
そして俺たちは下の階層へと続く階段を降りて行った。




