魔物が使う魔法
「……それで」
腰を抜かしたまま、しばらく俺たちを見上げていたリリスが、恐る恐る口を開いた。
「一体……これから、何が始まるんですか?」
その声には、明らかな警戒心が滲んでいた。
無理もない。
ついさっきまでカイゼルにいたはずの俺たちが、突然、宮廷魔導士の塔の前に現れたのだ。
しかも、その原因が――。
「カレンがテレポーテーションを使ったのよ」
アリスがさらりと答える。
「…………」
リリスの顔が引きつった。
「……そうですか」
そして、ゆっくりと立ち上がる。
「それで……私のところへ来たということは、何かお願いがあるんですよね?」
「ええ」
アリスはにっこりと微笑んだ。
「リリス。少しだけ、あなたのお部屋を借りたいの」
「私の……部屋ですか?」
「ええ」
アリスはグリフのローブを手に取る。
「このローブに、魔法を付与したいの」
「魔法付与……」
リリスがローブを見る。
「それは構いませんが……一体、どんな魔法を?」
「闇属性の魔法よ」
「…………闇属性?」
リリスの眉がぴくりと動いた。
アリスは頷く。
「ええ。魔物が使う魔法」
「……魔物が?」
リリスの表情が変わった。
「カイゼルでオークの集落を見つけたでしょう? そこでオーク族の魔導書を手に入れたの」
「オーク族の……魔導書……」
「そこには、人間やエルフがほとんど知らない闇属性の魔法が記されていたわ」
アリスは楽しそうに続ける。
「その中でも特に興味深い術があったの」
「……どんな術です?」
「闇隠れの術」
「闇隠れ……?」
グリフが自分のローブを見下ろす。
「自分や対象に術をかけることで、周囲の者から姿を認識できなくする魔法よ」
「…………」
リリスは絶句した。
「そんな魔法が……?」
「ええ。そして――」
アリスはカレンを見る。
「カレンが使えたの」
「…………」
リリスの視線がカレンへ移る。
カレンは何も分かっていないような顔で、にこにこしている。
「カレンちゃんが……?」
「そう」
「…………」
リリスは頭を抱えた。
「もう驚くのにも疲れてきました……」
「ふふ」
アリスは楽しそうに笑う。
「だから、あなたの部屋を少し借りたいの」
「そこで魔法付与を?」
「それもあるわ」
アリスは一冊の魔導書を取り出す。
先ほどオークキングの部屋から見つけた、豪華な魔導書だ。
「それに――」
アリスの瞳が輝く。
「この魔導書に書かれている闇属性魔法を、あなたにも見せてあげる」
「…………!」
リリスの表情が変わった。
「……本当に?」
「ええ」
「魔物が使う闇属性魔法を……私に?」
「そうよ」
アリスは微笑む。
「あなたなら興味があるでしょう?」
「…………」
リリスは数秒、黙り込んだ。
そして――。
「……分かりました」
観念したように息を吐く。
「私の部屋へ案内します」
「ありがとう、リリス」
「ただし……」
リリスが俺たちを見回す。
「部屋の中で何をするのか、先に説明してくださいね?」
「もちろん」
アリスは笑顔で答える。
「まずはグリフのローブへの魔法付与。それから、闇属性魔法の研究」
「……研究」
その言葉を聞いた瞬間、リリスの顔が少し引きつった。
「アリス様が『研究』と言う時は……大抵、とんでもないことになるんですよね」
「そんなことないわよ」
「…………」
リリスは信用していない顔だった。
「では、こちらです」
そう言って、リリスは塔の中へ歩き始めた。
俺たちもその後をついていく。
カレンはアリスの手を握りながら、楽しそうに歩いている。
「お母さん、また魔法のお勉強?」
「ええ。今日はいっぱい勉強できそうね」
「うん!」
その二人を見ながら、俺は苦笑した。
――どうやら、王都へ戻ってきたと思ったら。
また新しい魔法の研究が始まるらしい。
そしてリリスだけは――。
「……今日は長い一日になりそうです」
小さく呟きながら、自分の部屋へと俺たちを案内していた。
宮廷魔導士の塔へ向かう途中――。
グリフは、自分が身に纏っているローブへそっと手を触れた。
このローブは――。
ジェイさんが冒険者を引退した時、俺に譲ってくれたものだ。
ずっと昔。
ジェイさんが冒険者として活動していた頃に討伐した、テラーウルフ。
その名の通り、非常に珍しく、凶暴なウルフ型の魔物。
ジェイさんが現役時代に倒した魔物の中でも、最も強かったと言っていた。
その毛皮から作られたのが、このローブだった。
何度も冒険を共にしてきた。
雨の日も。
雪の日も。
魔物に襲われた時も。
このローブは、ずっと俺を守ってくれた。
「……」
グリフは、もう一度ローブを握りしめる。
闇隠れの術を付与すれば、きっと今まで以上に強力な装備になる。
レンジャーとしては、これ以上ないほど魅力的な力だ。
それでも――。
「……俺は、このローブを使い続けたい」
小さく呟く。
新しい装備に買い替えるという選択肢もあった。
もっと強い素材を使ったローブを作ることだってできるかもしれない。
だけど――。
これは、ただのローブじゃない。
ジェイさんが冒険者として生きてきた証。
そして、その想いを俺に託してくれた大切なものだ。
「……思い出が詰まってるんだ」
グリフはローブを見つめる。
「だから俺は――このローブをずっと使いたい」
その言葉を聞いていたアリスが、静かに振り返った。
「……そう」
アリスは微笑む。
「なら、なおさら大切にしないとね」
「ああ」
グリフは頷いた。
「このローブに闇隠れの術を付与する。強くするだけじゃない」
そして、ローブをそっと撫でる。
「これからも、このローブと一緒に冒険したいんだ」
その表情には、いつもの軽さはなかった。
そこにあったのは――。
大切な仲間から受け継いだものを、これからも守り続けたいという、グリフの静かな決意だった。
リリスの部屋へ入ると――。
「アリス様が戻られたぞ!」
その声を聞きつけたのか、宮廷魔導士たちが次々と集まってきた。
「一体何が始まるんだ?」
「闇属性の魔法を見せてくれるという話だぞ」
「本当に魔物の魔法なのか?」
あっという間に、部屋の中は宮廷魔導士たちでいっぱいになった。
「……ずいぶん集まったわね」
アリスが苦笑する。
「申し訳ありません。皆、アリス様が戻られたと聞いて……」
リリスも少し困ったように周囲を見渡す。
だが、アリスは気にした様子もなく、カレンを自分の隣へ呼んだ。
「カレン。せっかくだから、もう一つ教えてあげるわ」
「なあに?」
「ドワーフ族の魔法付与についてよ」
「うん!」
カレンが嬉しそうに頷く。
アリスは集まった宮廷魔導士たちへ向き直った。
「魔法付与というのは、単純に魔力を物へ流し込めばいいというものではありません」
その声に、部屋の空気が変わった。
宮廷魔導士たちが一斉に耳を傾ける。
「素材そのものが持つ性質。そこへ込める魔力。そして、それを受け止める器となる金属。この三つの調和が重要なの」
「なるほど……」
「素材の性質を魔法として引き出すのか……」
魔導士たちは食い入るようにアリスの手元を見つめている。
アリスは用意されていた小さな金属片を手に取った。
「では、実際にやってみましょう」
アリスが魔力を集中させる。
金属片の周囲に淡い光が集まり――。
やがて、その光が金属の中へ吸い込まれていく。
「…………」
静寂。
そして――。
キィン――。
澄んだ音が部屋に響いた。
「おおーー!」
「魔力が定着した!」
「こんな短時間で……!」
宮廷魔導士たちから一斉に歓声が上がった。
「まだよ」
アリスは次の素材を手に取る。
「今度は素材の性質を強く残してみるわ」
再び魔力が流れ込む。
すると――。
金属の表面に淡い紋様が浮かび上がった。
「おおおーー!」
「素晴らしい!」
「これは一体どういう術式なんだ!?」
宮廷魔導士たちは興奮を隠せない。
その様子を見ていたカレンも楽しそうに笑っていた。
「お母さん、すごい!」
「ふふ。カレンも覚えておくといいわ」
「うん!」
アリスはさらにいくつかの素材を使い、魔法付与を実演していく。
炎の性質を宿した金属。
冷気を帯びた鉱石。
魔力を蓄える宝石。
素材によって魔力の流し方を変え、性質を引き出していく。
そのたびに――。
「おおーー!」
「また変化した!」
「これほど精密な魔力操作が……!」
宮廷魔導士たちから驚きの声が上がった。
リリスも目を輝かせながら、その一部始終を見つめている。
「……これが、ドワーフ族の魔法付与……」
これまで失われていた技術。
かつてドワーフ王ヴァンが残した技術を、今こうして目の前で見ることができる。
そして――。
アリスは最後に、グリフのローブへ視線を向けた。
「さて……」
グリフがローブを差し出す。
「こいつが本番だな」
アリスは頷いた。
「ええ。ここからは、少し難しくなるわ」
宮廷魔導士たちが一斉に身を乗り出す。
グリフは大切なローブを見つめる。
ジェイから受け継いだ、思い出の詰まったローブ。
それがこれから――。
魔物だけが使う闇属性魔法を、その身に宿そうとしていた。
アリスは、グリフのローブを手に取る前に――。
「カレン。まずは簡単なものから練習してみましょう」
「うん!」
アリスは小さな金属片と、魔力を宿した鉱石をいくつか用意した。
「これは普通の魔法を付与するための素材よ」
「これに魔法を入れるの?」
「ええ。私がさっき見せたように、魔力を素材へ流してみて」
「分かった!」
カレンは金属片を両手で持つ。
そして――。
首元のルーンが淡く輝いた。
「……!」
周囲の宮廷魔導士たちが息を呑む。
「始まったぞ……」
「ルーンが……」
カレンはそんな周囲の反応など気にすることなく、楽しそうに魔力を集中させる。
「えっと……こうして……」
小さな手から魔力が流れ込む。
金属片が淡い光に包まれ――。
次の瞬間。
キィン――。
澄んだ音が響いた。
「できた!」
カレンが嬉しそうに笑った。
「…………」
部屋が静まり返った。
誰も言葉を発しない。
そして――。
「おおおおおおーーー!」
一斉に歓声が上がった。
「成功したぞ!」
「一度で!?」
「今の魔力操作を見たか!?」
「信じられない……!」
宮廷魔導士たちがざわめき始める。
リリスも目を見開いたまま、カレンの手元を見つめていた。
「……嘘でしょう」
普段なら冷静なリリスでさえ、驚きを隠せない。
「初めてで……あれほど綺麗に魔力を定着させた……?」
アリスはそんな周囲の反応を見ながら、微笑んでいる。
「カレン、上手よ」
「えへへ!」
カレンは嬉しそうに笑う。
「もう一回やっていい?」
「もちろん」
「やった!」
カレンは次の素材を手に取る。
そして――。
また、あっさりと魔法付与を成功させた。
「…………」
宮廷魔導士たちが再び固まる。
「また……」
「一切迷っていない……」
「まるで何年も修練した職人のようだ……」
リリスは思わず額に手を当てた。
「……カレンちゃん」
「なあに?」
「あなた……魔法付与をしたこと、本当に初めて?」
「うん!」
即答だった。
「お母さんが教えてくれたから!」
「…………」
リリスはアリスを見る。
「アリス様……」
「何かしら?」
「この子……一体どうなっているんですか?」
「私にも分からないわ」
アリスは苦笑する。
「ただ――」
アリスは嬉しそうに魔法付与を続けるカレンを見る。
「この子には、魔法に対する特別な才能がある。それだけは確かね」
カレンはそんな二人の会話を気にすることもなく――。
「お母さん、次はこれやってみたい!」
「ええ。やってみましょう」
再び素材を手に取る。
その小さな指先から魔力が流れ込んでいく。
そしてまた――。
「おおーー!」
宮廷魔導士たちから驚きの声が響き渡った。
本人にとっては、ただの楽しい魔法の練習。
そして――。
いよいよ、本番だった。
アリスはグリフのローブを手に取り、カレンの前へ差し出した。
「カレン」
「なあに?」
「このローブに――闇隠れの術を魔法付与できるかしら?」
カレンはローブを見つめる。
そして――。
「出来るよ!」
嬉しそうに答えた。
「本当に……?」
グリフが思わず声を漏らす。
「うん!」
カレンは笑顔で頷いた。
アリスからローブを受け取る。
その瞬間――。
グリフの表情が少しだけ変わった。
これは、ただのローブではない。
ジェイさんから譲り受けた、大切なもの。
冒険者だった頃のジェイさんが命懸けで倒した、テラーウルフの毛皮から作られたローブ。
何度も冒険を共にしてきた。
だからこそ――。
「……頼む」
グリフは小さく呟いた。
「こいつを、これからも使わせてくれ」
カレンはその言葉を聞くと、ローブをぎゅっと抱えた。
「うん!」
そして――。
カレンの周囲の空気が変わった。
「……!」
アリスが目を見開く。
先ほどまでの魔法付与とは、明らかに違う。
カレンの身体から溢れ出す魔力が、凄まじい勢いで膨れ上がっていく。
床に置かれていた魔法道具が、微かに震え始めた。
「な、なんだ……この魔力は……」
「さっきまでとは桁が違う……!」
宮廷魔導士たちが後ずさる。
リリスでさえ、思わず息を呑んだ。
「……これが、カレンちゃんの本当の魔力……?」
カレンの首元。
そこに刻まれたルーンが、強烈な光を放ち始める。
その光は次第に濃くなり――。
やがて、カレンの全身を覆っていった。
「…………」
グリフは黙ってカレンを見つめていた。
怖さはなかった。
ただ――。
この小さな身体の中に、一体どれほどの力が眠っているのか。
それだけが、恐ろしく思えるほどだった。
カレンがゆっくりと両手を広げる。
すると――。
部屋の中央に置かれていたオークキングの素材が、ふわりと宙へ浮かび上がった。
「……!」
さらに、その隣に置かれていた巨大なオニキスの宝石もゆっくりと浮かび上がる。
闇を象徴するかのような、深い黒色の宝石。
オークキングの素材。
オニキス。
そして――。
グリフのローブ。
三つが、ゆっくりとカレンの前で重なっていく。
「……何て魔力……」
アリスが呟く。
カレンの周囲に渦巻く魔力は、先ほどまでとは比べ物にならない。
そしてカレンは――。
人族の言葉ではない、聞き慣れない言葉を口にした。
それは――。
オーク族が使っていた魔物の言葉だった。
「…………」
宮廷魔導士たちは、誰一人として声を出せなかった。
カレンの言葉に呼応するように、ローブが淡い光を帯びる。
オークキングの素材が光へと変わり――。
オニキスから黒い光が溢れ出す。
その二つの力がローブへ吸い込まれていく。
「――――」
カレンはさらに魔力を込める。
首元のルーンが一層強く輝く。
そして――。
ドクン。
まるでローブそのものが鼓動したかのように、一度だけ大きく震えた。
次の瞬間。
ローブの表面に、黒い紋様が浮かび上がった。
「……!」
アリスが目を見開く。
魔法付与が――。
完成した。
カレンは満面の笑みを浮かべる。
「できたよ!」
その一言と同時に、部屋を包んでいた凄まじい魔力が、嘘のように消えていった。
「…………」
誰も言葉を発しない。
宮廷魔導士たちは、ただ完成したローブを見つめていた。
グリフも――。
しばらく言葉が出なかった。
やがて、ゆっくりとローブを受け取る。
「……凄いな」
指先でローブを撫でる。
昔と変わらない。
ジェイさんから受け継いだ、あのローブだ。
けれど――。
今はその中に、オークキングの力と闇隠れの術が宿っている。
「……ありがとう、カレン」
「どういたしまして!」
カレンは嬉しそうに笑った。
グリフはローブをしっかりと握りしめる。
これなら――。
これからも、このローブと一緒に冒険を続けられる。
ジェイさんから受け継いだこの大切なローブを――。
もっと長く、もっと遠くまで。
俺は使い続けていける。
そんな思いが、グリフの胸の奥に静かに込み上げていた。
グリフは完成したローブを手に取った。
「……じゃあ、試してみるか」
ジェイさんから譲り受けた、大切なローブ。
それをゆっくりと身体に纏う。
「どう?」
アリスが尋ねる。
「今から確かめてみる」
グリフは一歩、部屋の中央へ進んだ。
そして――。
フッ。
「…………え?」
俺は目を疑った。
さっきまで、確かに目の前にいたグリフが――。
消えた。
「グリフ!?」
「ど、どこへ行ったんです!?」
リリスが慌てて立ち上がる。
宮廷魔導士たちも一斉に周囲を見回した。
「いないぞ!」
「部屋の外へ出たのか!?」
「いや、扉は開いていない!」
「まさか、テレポーテーションまで……!?」
「違うわ!」
アリスがすぐに否定する。
「グリフは、この部屋にいる!」
「どこにですか!?」
リリスが半ば叫ぶ。
誰もグリフの姿を見つけられない。
しかし――。
「……いるぞ」
俺のすぐ近くから声が聞こえた。
「え?」
「ここだ」
「グリフ!?」
声は確かに聞こえる。
けれど、姿が見えない。
宮廷魔導士たちがざわめき始める。
「本当に見えない……」
「気配まで薄くなっているぞ」
「いや、気配は感じる。だが視認できない……」
「これが闇隠れの術……」
リリスは口を開けたまま固まっていた。
「……信じられません」
その時だった。
「じゃあ、これならどうだ?」
グリフの声が聞こえる。
すると――。
ローブの袖口から、ゆっくりと手が伸びてきた。
「うわぁぁぁぁっ!?」
リリスが飛び上がる。
「手が! 手だけが浮いてます!」
目の前には――。
何もない空間から伸びている、グリフの手。
「はははっ!」
グリフが楽しそうに笑う。
「ちゃんと俺の手だけは見えるみたいだな」
手がゆっくりと動く。
指を一本ずつ曲げたり、手を振ったりしている。
「……なるほど」
アリスが興味深そうに観察する。
「ローブそのものが術の効果範囲になっていて、外へ出た部分には効果が及ばないのね」
「つまり、ローブに覆われている部分は認識できなくなる……」
宮廷魔導士の一人が呟く。
「それなら、顔を出した瞬間に顔だけ見えるということか」
「ええ」
アリスが頷く。
「完全な透明化ではないから、術の効果範囲が非常に分かりやすいわ」
「……凄い」
リリスもようやく落ち着きを取り戻し、グリフのいるはずの場所を見つめる。
「本当に……姿だけが認識できなくなっている」
「どうだ?」
グリフの声が響く。
「これならレンジャーとして最高だろ?」
「ええ」
アリスが微笑む。
「素晴らしいわ。成功ね」
「よっしゃ!」
見えない場所から、グリフの嬉しそうな声が聞こえた。
俺も思わず笑う。
「グリフ、良かったな」
「ああ!」
返事だけが聞こえる。
その直後――。
「……でも、これ」
リリスが恐る恐る呟いた。
「敵からしたら、とんでもなく恐ろしい魔法ですよね?」
「確かにな」
俺は苦笑する。
姿の見えないレンジャー。
それは――。
敵にとって、これ以上ないほど厄介な存在になるだろう。
その時――。
「……ところで」
アリスが、先ほどの魔導書を手に取った。
「リリス」
「はい?」
「これを、あなたに預けようと思うの」
アリスが差し出したのは、オークの集落で見つけた魔導書だった。
「これは魔物が使う闇属性について記された、とても貴重な魔導書よ」
「…………!」
リリスの目が大きく見開かれる。
「闇属性……」
「ええ。私たちが普段研究している魔法体系とは異なるものが記されているわ」
アリスは魔導書をリリスへ手渡した。
「まだ解読できていない部分も多いけれど、あなたならきっと研究できるでしょう」
「よ、よろしいのですか!?」
リリスは恐る恐る魔導書を受け取る。
「ええ。宮廷魔導士であるあなたに預けたほうが、この本にとっても良いと思うわ」
「……!」
リリスは魔導書を両手で抱きしめるように持った。
「ありがとうございます!」
そして――。
「すぐに研究してみます!」
先ほどまで腰を抜かしていたとは思えないほどの勢いで、魔導書を開く。
「これは……!」
ページをめくるたびに、リリスの瞳が輝いていく。
周囲の宮廷魔導士たちも、その様子を興味深そうに覗き込んでいた。
「ただし――」
アリスがもう一冊の魔導書を手に取る。
オークキングの部屋から見つけた、豪華な装丁の魔導書。
こちらは先ほどの魔導書とは比べものにならないほど、強い魔力を感じさせる。
リリスがその本に気づく。
「……そ、それは?」
「これはオークキングが持っていた魔導書ね」
「…………!」
リリスの目がさらに輝く。
「ま、まさか……それも……?」
「これはもう少し私が読んでからにするわ」
「…………」
リリスが固まる。
「内容をある程度確認したら――」
アリスは微笑んだ。
「あなたにも貸してあげる」
「おおおおおっ!」
リリスが思わず声を上げた。
「本当ですか!?」
「ええ」
「ありがとうございます、アリス様!」
リリスは嬉しそうに頭を下げる。
「必ず大切に扱います! そして、徹底的に研究します!」
リリスたちへの挨拶を終え、俺たちは宮廷魔導士の塔を後にした。
「それじゃあ、またね!」
カレンが宮廷魔導士たちへ手を振る。
「ええ。またいつでも来てください!」
リリスも笑顔で手を振り返す。
そして俺たちは、宮廷魔導士の塔にある広い訓練場へと移動した。
「ここなら、周りを気にせず使えるわね」
アリスが周囲を見渡す。
「じゃあ、カレン。お願いできる?」
「うん!」
カレンは元気よく頷いた。
俺たちはカレンを中心に集まる。
グリフ。
アン。
アリス。
そして俺。
「カイゼルに戻ればいいんだよね?」
「ああ」
俺が答える。
「昨日までいた港町カイゼルへ」
「分かった!」
カレンが目を閉じる。
すると――。
首元のルーンが淡く輝き始めた。
小さな身体から溢れ出した魔力が、俺たち全員を包み込んでいく。
「……何度見ても凄いな」
グリフが呟く。
「本当にね」
アンも苦笑する。
「これじゃあ、もう馬車なんて必要ないんじゃない?」
「……確かに」
俺も思わず笑った。
次の瞬間――。
視界が一瞬だけ歪んだ。
身体がふわりと浮かび上がるような感覚。
そして――。
――フッ。
周囲の景色が一瞬で変わった。
「……着いたよ!」
カレンの声が聞こえる。
目を開ける。
そこは――。
港町カイゼルの訓練場だった。
「…………」
俺は思わず周囲を見渡す。
確かに、つい先ほどまで俺たちは王都ハルディオにいた。
それが今では、潮の香りが漂う港町カイゼルにいる。
「……凄いな」
グリフが呆れたように呟く。
「昨日まで何時間もかけて移動してたのが、馬鹿らしく思えてくるぜ」
「グリフ、それは言わないほうがいいわ」
アンが笑う。
アリスもカレンを見つめながら、優しく微笑んでいた。
「ありがとう、カレン」
「えへへ!」
カレンは嬉しそうに笑う。
俺は港町の景色を見渡した。
潮風。
港から聞こえる船の音。
行き交う人々の声。
ほんの一瞬前まで王都にいたというのが、まるで嘘のようだった。
「さて……」
俺は皆を見る。
「カイゼルに戻ってきたことだし、次はどうする?」
グリフが新しく闇隠れの術を得たローブを撫でる。
アンは大量に手に入れた魔物素材のことを考えているのか、楽しそうに笑っている。
そしてカレンは――。
「次はどこ行くの?」
期待に満ちた目で俺を見上げていた。
王都とカイゼルを一瞬で行き来できるようになった俺たちの冒険は――。
これまでとは、少し違うものになりそうだった。
カイゼルの街へ戻ってきた俺たちは、しばらく街を歩いた。
昨日から続いたオークの討伐。
シーサーペントの討伐と解体。
王都への突然の移動。
そして、グリフのローブへの闇隠れの術の付与。
振り返ってみれば――随分と慌ただしい二日間だった。
「今日は一日、ゆっくり休もう」
俺がそう言うと、皆も頷いた。
「賛成!」
アンが嬉しそうに手を上げる。
「さすがに私も疲れたわ」
グリフも肩を回しながら笑う。
「明日はどうするの?」
アリスが尋ねる。
「明日はいよいよ――」
俺は港町の外へ視線を向けた。
「急に出現したっていう、あのダンジョンを探索してみよう」
「ダンジョン!」
カレンの目が輝く。
「うん。明日はそこへ向かおう」
そう話していると――。
「それなら今日はしっかり休んでもらわないとな!」
後ろから声が聞こえた。
振り返ると、そこにはカイゼルのギルドマスター、マチルダが立っていた。
「マチルダさん」
「お前たちには世話になったからな。今日は私から食事に招待させてもらうよ」
「食事?」
「ああ。断るなよ?」
マチルダは豪快に笑った。
そして俺たちは、マチルダに案内されて街の大きな食堂へ向かった。
扉を開けた瞬間――。
「おお……!」
思わず声が漏れた。
広い食堂の中央には、所狭しと料理が並べられていた。
焼かれたシーサーペントの肉。
香草と一緒に焼き上げられたもの。
色とりどりの野菜と合わせた料理。
大きな鍋にはシーサーペントの身を使ったスープまである。
見たこともないほど豪華な料理の数々だった。
「今日は街の皆で食べるんだ!」
マチルダが胸を張る。
「昨日、お前たちが倒してくれたシーサーペントだ。せっかく手に入ったんだ、皆で美味しくいただこうじゃないか!」
「いただきます!」
カレンが真っ先に料理へ手を伸ばした。
「こら、カレン。ゆっくり食べなさい」
アリスが笑いながら注意する。
「だって、美味しそうなんだもん!」
「はははっ!」
周囲から笑い声が起こる。
「さあ、食べてくれ!」
「遠慮するなよ!」
「シーサーペントなんて滅多に食えないぞ!」
街の人々が次々と料理を取り分けてくれる。
俺も一切れの肉を口に運んだ。
「……美味い!」
肉は思っていた以上に柔らかく、噛むほどに旨味が広がっていく。
「本当に美味しいわね」
アリスも嬉しそうに微笑む。
「これなら解体を頑張った甲斐があったわ!」
アンは料理を頬張りながら満足そうに頷いている。
「アンは解体してただけじゃないか」
「細かいことはいいの!」
グリフが笑う。
「それにしても……」
グリフは周囲を見渡した。
食堂には、冒険者だけではない。
漁師。
商人。
子供たち。
昨日まで俺たちが知らなかった、この街の人々がいる。
皆、楽しそうに料理を囲み、笑い合っている。
「……こういうのも、悪くないな」
グリフがぽつりと呟いた。
俺も頷く。
「ああ」
今回の討伐で手に入れたものは、素材や金だけじゃない。
こうして――。
街の人々と一緒に笑い、食事をする時間もまた、冒険の大切な一部なのだと思った。
「お父さん! これ美味しいよ!」
カレンが大きな肉を持ち上げる。
「どれ?」
「はい!」
カレンが俺の口元へ差し出してくる。
「……ありがとう」
俺は笑いながら一口食べた。
「うん、美味いな」
「でしょ!」
カレンが嬉しそうに笑う。
その隣でアリスも楽しそうに笑っている。
マチルダも酒を片手に、街の人々と楽しそうに話していた。
こうして――。
カイゼルの夜は、笑い声と美味しい料理に包まれていった。
明日はいよいよ――。
突然この地に出現したという、謎のダンジョンへ向かう。
どんな場所なのか。
どんな魔物が待っているのか。
そして――。
その奥には、一体何が眠っているのか。
期待と少しの緊張を胸に抱きながら今日を生きる。




