多くの戸惑いと発見
それは、もう初めてのことばかりだった。
大賢者と呼ばれ、幾千もの魔法を知り尽くしていた私でも――どうすればいいのか分からないことばかりだった。
「カレン……どうしてそんなに悲しくて泣いているの……?」
腕の中で泣き続ける小さな娘を、アリスは不安そうに抱き抱える。
魔法の研究なら、どんな難題でも解き明かせる。
古代魔法の解析も、失われた技術の復元も、私にとっては難しいことではなかった。
けれど――。
「……泣き止んでくれない……」
アリスは困ったようにカレンの顔を覗き込む。
小さな身体。
赤くなった頬。
そして、止まらない涙。
どうして泣いているのか。
何を求めているのか。
大賢者の知識を持つ私にも、それだけは分からなかった。
すると、隣で見ていたレオンが静かに口を開いた。
「カレンは、お腹が減っているんだよ」
「……お腹が?」
アリスが目を瞬かせる。
「ああ。たぶん、お腹が空いたから泣いているんだ」
「……そうなの?」
アリスはもう一度、腕の中のカレンを見る。
「カレン……お腹が空いていたの?」
「……あぅ……」
カレンは涙で濡れた瞳をアリスに向ける。
その小さな声を聞いた瞬間――。
「……そう……」
アリスの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「ごめんなさい、カレン。お母さん、気づいてあげられなかった……」
そう言って、アリスは娘を優しく抱きしめる。
そんな二人を見つめながら、俺は思わず微笑んだ。
大賢者と呼ばれたアリス。
世界中の誰もが憧れ、畏れさえ抱いた彼女が――。
今は一人の母親として、娘のことで悩んでいる。
それが、なんだかとても愛おしかった。
授乳が終わった後――。
それは、アリスにとって一番大変な時間だった。
「……さて、カレン。今度は大丈夫かしら……?」
アリスは少し緊張した様子で、腕の中のカレンを見つめる。
授乳の後は、ゲップをさせなければならない。
それくらいのことは、もう覚えていた。
けれど――。
「……あっ」
カレンが小さな身体をもぞもぞと動かした。
「カレン、待って……!」
アリスは慌てて、慎重にカレンの身体を起こす。
そして、自分の肩に小さな顔を乗せるように抱き上げた。
片手でしっかりと身体を支え、もう片方の手で背中を優しくさする。
「ゆっくりでいいのよ……」
とん、とん……。
小さな背中を、優しく叩く。
「……お願いだから、今度は上手にしてね……?」
アリスがそう囁いた、その瞬間だった。
「……げふっ」
「……!」
小さな音が、アリスの肩元から聞こえた。
「……ゲップ……?」
アリスは恐る恐るカレンの顔を覗き込む。
カレンは何事もなかったかのように、すやすやとアリスの肩に顔を埋めている。
「……よかった……」
アリスは胸を撫で下ろした。
だが――。
以前、ゲップを上手に出せなかった時のことを思い出す。
その時は、カレンが突然――。
「……盛大に吹き出してしまったものね……」
アリスは少し遠い目をする。
大賢者として、どんな強大な魔法にも動じなかった私が。
我が子の吐き戻し一つに、これほどまでに慌てることになるとは思わなかった。
「ふふ……」
けれど今は違う。
アリスの肩には、小さな娘の温もりがある。
そして――。
「……可愛いゲップ」
アリスは小さく微笑んだ。
その顔には、大賢者としての威厳など少しもなかった。
ただ、娘を愛する一人の母親の、幸せそうな笑顔だけがあった。
カレンは、とても好奇心旺盛な子だった。
子供用の小さなベッドに寝かせると、いつも目を輝かせながら周りを見つめている。
そんなカレンのために、私は魔法で小さな光を生み出した。
淡い光はゆっくりと形を変え――。
一匹のウサギになった。
ぴょん、と跳ねる光のウサギ。
その隣には、小さなリス。
さらに少し離れたところには、優しい光を纏ったシカ。
「……あぅ……!」
カレンの瞳が、ぱっと輝いた。
小さな両手を一生懸命に伸ばす。
けれど、光の動物たちはカレンの手が届く直前で、ふわりと逃げていく。
「あはっ……!」
カレンが声を上げて笑った。
もう一度、両手を伸ばす。
今度はウサギを追いかけるように、身体まで一生懸命に動かしている。
「ふふ……捕まえられるかしら?」
私は思わず笑ってしまった。
すると、光のウサギがカレンの小さな手のひらに触れるように近づく。
「……!」
カレンは嬉しそうに両手をぱっと広げた。
けれど、ウサギはその隙間をすり抜け、今度はリスへと姿を変える。
「あははっ!」
また笑った。
その笑顔を見ているだけで――胸の奥が温かくなる。
大賢者と呼ばれていた頃。
私は魔法を、人々を守るために使ってきた。
失われた技術を蘇らせるため。
誰かの命を救うため。
魔物を退けるため。
けれど今は――。
「……あなたが笑ってくれるなら、それだけでいい」
私は小さく呟いた。
カレンはそんな私の言葉など知らず、目の前を飛び回る光のシカに一生懸命手を伸ばしている。
そしてまた――。
「あはっ……!」
小さな笑い声が部屋に響いた。
その声を聞いているだけで、私は幸せだった。
こんなにも単純で。
こんなにも温かい幸せが、この世界にあるなんて。
私は、母になって初めて知った。
カレンには、お気に入りの場所がある。
それは――私と共に成長し始めた、「始まりの木」。
西の大森林で、最も大きな木。
長い年月を生きるこの木は、私がこの森で暮らし始めた頃から、ずっとそこにあった。
私がまだ何も知らなかった頃も。
大賢者と呼ばれるようになった頃も。
そして今――母親になった私を、変わらず見守ってくれている。
不思議なことに、カレンはこの木の近くが大好きだった。
夜泣きが止まらない時も。
何をしても泣き止んでくれない時も。
「……どうしたの、カレン?」
私はカレンを抱き上げ、始まりの木の下へ向かう。
大きな幹に手を触れながら、ゆっくりと歩く。
すると――。
「……あぅ」
さっきまで泣いていたカレンが、ぴたりと泣き止んだ。
「……ふふ」
私は思わず笑ってしまう。
カレンは私の胸に頬を寄せながら、始まりの木をじっと見つめている。
そして、しばらくすると――。
「……あぅ……!」
嬉しそうな声を上げ、小さな手を伸ばした。
「この木が好きなの?」
もちろん、答えは返ってこない。
けれど、その表情を見れば分かる。
ここに来ると、カレンはいつもご機嫌になる。
私はカレンを抱いたまま、始まりの木の根元に腰を下ろした。
葉の隙間から差し込む光。
優しく揺れる木々。
そして、どこまでも広がる森の静かな音。
カレンは安心したように私の腕の中で笑っている。
「……不思議ね」
私はカレンの髪を優しく撫でる。
「私にとっては、始まりの場所なのに……」
この木と共に、私は成長してきた。
そして今は――。
この木の下で、カレンと一緒に時間を過ごしている。
「あなたにとっても、始まりの場所になるのかもしれないわね」
そう呟き、私は娘を抱きしめる。
始まりの木は何も語らない。
ただ、大きく枝を広げ、私たちを優しく包み込むように佇んでいる。
その姿を見上げながら、私は思った。
これからカレンがどんな子に育っていくのか。
どんな景色を見て、どんな人と出会い、どんな人生を歩んでいくのか。
まだ何も分からない。
けれど――。
「ずっと一緒に見ていきましょうね、カレン」
私はそう囁き、腕の中の小さな娘を優しく抱きしめた。
始まりの木の葉が、風に揺れていた。
人族というものは、本当に凄い。
初めての子育てだというのに、レオンはほとんど動じることがない。
もちろん、カレンのことを心配していないわけではない。
むしろ誰よりも心配している。
けれど、何か起きた時こそ冷静に行動するのだ。
それを、私は身をもって知った。
カレンが初めて熱を出し、風邪を引いた日のことだった。
「カレン……!」
小さな身体が熱を帯びている。
頬も赤く、いつも元気に動かしている手も、今日はほとんど動かない。
「どうしましょう……。どうすればいいの……?」
私はすっかり取り乱していた。
大賢者と呼ばれた私が、こんなにも慌てるなんて。
魔物の群れに囲まれた時でさえ、ここまで心臓が騒いだことはなかった。
「アリス、大丈夫だ」
「でも……カレンが……!」
「だからこそ、今できることをしよう」
レオンはそう言って、落ち着いた声で私に告げた。
「大森林の近くに村があるだろう。あそこに教会がある」
「……教会?」
「ああ。シスター長なら、子供のことも詳しいはずだ」
そう言うと、レオンはすぐにカレンを抱き上げた。
「急ごう」
その声には、確かな心配が滲んでいた。
けれど、足取りには迷いがない。
私たちは大森林を出て、すぐ近くの村にある教会へ向かった。
そして――。
「まあ……この子、熱が出ているのですね」
シスター長はカレンの様子を丁寧に診てくれた。
その間、私はずっとカレンの小さな手を握っていた。
どうか……。
どうか、この子が元気になりますように。
祈ることしかできなかった。
しばらくして、シスター長が穏やかに微笑んだ。
「大丈夫ですよ。心配はいりません」
「……本当ですか?」
「ええ。しっかり休ませて、水分を取らせてあげてください。まだ小さいですから、今日はゆっくり眠らせてあげましょう」
「……よかった……」
その言葉を聞いた瞬間、身体から力が抜けた。
そして――。
教会を出てからしばらくすると、カレンの顔色が少しずつ良くなっていった。
「……あぅ」
小さな声。
「カレン……!」
私は思わず抱きしめた。
そして、レオンを見る。
「……ありがとう」
「俺は何もしてないよ」
「そんなことないわ」
私は首を横に振った。
「私が何も分からなくなっていた時、あなたはちゃんとカレンを助ける方法を見つけてくれた」
レオンは少し照れたように笑った。
「それに――」
私は腕の中のカレンを見る。
「人族って……凄いのね」
「……何が?」
「初めての子育てでも、ちゃんと子供を守る方法を知っている」
私は少しだけ笑った。
「少なくとも私は、大賢者なのに何も分からなかったもの」
レオンが苦笑する。
「アリスは魔法なら何でも知ってるのにな」
「……子育ての魔法なんて、誰も教えてくれなかったもの」
そう言って、私はカレンの小さな額にそっと口づけた。
もう熱はほとんどない。
穏やかな寝息を立てている。
「……元気になってくれて、本当によかった」
私はカレンを抱きしめながら、改めて思った。
大賢者として生きてきた私が知らなかったことを――。
今、母親になったことで一つずつ知っていく。
そしてその隣には、いつもレオンがいる。
それだけで、私は大丈夫な気がした。
大森林のすぐ近くに、小さくて古い教会がある。
決して立派な建物ではない。
壁には長い年月を感じさせる傷があり、木製の扉も少し軋む。
けれど――。
その教会には、いつも子どもたちの声が響いていた。
そこに勤めている、一人の高齢の人族の女性。
彼女の名は、クレア。
長い年月、この村で暮らしながら、孤児となった子どもたちを含め、数え切れないほど多くの子どもたちの面倒を見てきたという。
カレンを診てもらった時もそうだった。
クレアはカレンの身体を優しく撫でながら、何度も小さな声で話しかけていた。
「大丈夫よ。怖くないからね」
その声は穏やかで、温かかった。
カレンも、クレアの顔を見ると不思議そうに目を開き――やがて安心したように眠ってしまった。
私は、その光景をただ見つめていた。
魔法の知識なら、私の方が遥かに多い。
長い年月を生きてきた私には、人族が知らない古代魔法だって扱える。
それでも――。
目の前のクレアには、私にはないものがあった。
子どもが何を求めているのか。
どんな時に不安になるのか。
どんな言葉を掛ければ安心するのか。
それを、まるで魔法のように理解している。
「……凄い……」
思わず、そんな言葉が口から漏れた。
クレアが私を見る。
「どうしました?」
「いえ……」
私は首を横に振った。
そして、もう一度カレンを見る。
穏やかに眠る小さな娘。
その隣で優しく微笑むクレア。
私は思った。
この人は――。
「子どもの……大賢者……」
「え?」
「あ……いえ、何でもないわ」
私は小さく笑った。
私が大賢者と呼ばれるようになるまでには、長い年月と数え切れないほどの努力が必要だった。
けれどクレアは違う。
彼女は魔法を使わない。
杖も持たない。
ただ、長い年月を子どもたちと過ごし、その一人一人に寄り添ってきた。
それだけで――。
私には、彼女が誰よりも偉大な存在に見えた。
大賢者と呼ばれてきた私だからこそ、分かる。
知識だけでは、人を救えない。
そして――。
子どもを救うための知恵もまた、一つの偉大な力なのだ。
「クレア……」
私はその名を、心の中でそっと刻んだ。
私にとって彼女は――。
魔法を使わない、もう一人の大賢者だった。
大森林のすぐ近くにある、この小さな村。
そこに住む人々とは、レオンがよく交流している。
私は最初、それほど気にしていなかった。
けれど、ある日気づいた。
レオンは大森林で狩った獲物を、村人たちに分けているのだ。
ボアの肉。
ウサギの肉。
鹿の肉。
時には毛皮や薬草まで。
「こんなにもらっていいのかい?」
「俺たちだけじゃ食べきれないからな。よかったら使ってくれ」
そんなふうに言いながら、レオンは笑っている。
村人たちも、そんなレオンをとても親しげに迎えていた。
「いつも助かるよ、レオン!」
「今度、畑で採れた野菜を持っていくからね!」
「カレンちゃんにも食べられるようになったら、たくさん持っていってあげるよ」
そんな会話を交わす姿を見ていると、自然と頬が緩んでしまう。
そして、この村にはもう一つ大きな特徴がある。
農村であることだ。
畑では毎年、多くの作物が育てられている。
けれど――。
農作物には病気が付き物だ。
葉が枯れたり、実がうまく育たなくなったり。
人族の知識だけでは、どうしても対処できないこともある。
そんな時は、私の出番だった。
「この畑の病気なら、原因は土に残った魔力の偏りね」
私は畑に手をかざす。
淡い光が大地へと染み込んでいく。
「これで大丈夫。しばらくすれば、また元気に育つわ」
「ありがとうございます、アリス様!」
村人たちは、いつも嬉しそうに頭を下げる。
最初は、ただ困っているから助けていただけだった。
けれど、いつの間にか――。
村の人たちと私たちは、お互いに助け合うようになっていた。
レオンが森から食料を届ける。
私は畑を守る。
村人たちは、その代わりに育てた野菜や果物を分けてくれる。
誰かが困っていれば、誰かが手を差し伸べる。
そんな関係が、いつの間にか当たり前になっていた。
「……いい村ね」
私は村を見渡しながら呟く。
大森林と共に生きる人々。
そして、その森に暮らす私たち。
種族は違っても――。
こうして互いに支え合って生きていける。
それが、とても心地よかった。
そして今では、この村の人たちも。
私たちにとって、大切な隣人になっている。
きっとカレンが大きくなったら、この村の人たちにもたくさん可愛がってもらうのだろう。
そう思うと――。
私は、なんだか少しだけ嬉しくなった。
数年の年月が経った。
カレンは、すくすくと成長していた。
ハーフエルフであるカレンの成長は、人族とは少し違う。
エルフ族は、生まれてから数年ほどで、人族でいう少年や少女くらいの姿へと成長する。
身体だけではない。
言葉を覚え、物事を理解し、自分で考える知恵も身につけていく。
けれど――。
そこから先の成長は、とてもゆっくりになる。
まるで――木のように。
「カレン、こっちへいらっしゃい」
「はーい!」
少し離れた場所から、カレンが元気よく駆けてくる。
小さかった身体は、いつの間にか少女と呼べるほどになっていた。
その姿を見るたびに、私は不思議な気持ちになる。
ほんの少し前まで、腕の中にすっぽり収まっていた小さな赤ん坊だった。
泣いている理由も分からず、私を慌てさせていたあの子が――。
今では自分の足で森を駆け回り、私に色々なことを尋ねてくる。
「お母さん! 今日ね、始まりの木のところでリスを見つけたの!」
「そう。よかったわね」
「うん!」
嬉しそうに笑うカレン。
私はその笑顔を見つめながら、ふと思う。
エルフの成長は、木に似ている。
最初は一気に芽吹き、枝を伸ばす。
そして、ある程度まで大きくなった後は、長い年月をかけてゆっくりと成長していく。
カレンもきっとそうなのだろう。
これから先、どれほど長い年月をかけて成長していくのか。
私にはまだ分からない。
けれど――。
「お母さん?」
「……何でもないわ」
私はカレンの頭を優しく撫でる。
「ただ、あなたが大きくなったなって思っていたの」
「そうかな?」
「ええ。とても大きくなったわ」
カレンは少し照れたように笑った。
その姿を見て、私は始まりの木へ視線を向ける。
私と共に成長してきた、大森林で最も大きな木。
そして今、その木のそばで――。
私とレオンの娘が成長している。
なんだか、それがとても嬉しかった。
木が一年、一年とゆっくり年輪を刻むように。
カレンもまた、長い年月をかけて自分だけの人生を刻んでいくのだろう。
私はその姿を、できる限り長く見守っていたい。
「……ゆっくりでいいのよ、カレン」
「?」
「あなたの時間で、大きくなっていけばいいの」
カレンは意味が分からないという顔をした後――。
「うん!」
いつものように、元気な笑顔を見せてくれた。
その笑顔を見て、私はまた幸せな気持ちになった。
カレンは、とてもおてんばな子だった。
「カレン。大森林から勝手に出てはいけませんよ」
「うん!」
元気よく返事をする。
その返事を聞いて、私は安心する。
――けれど。
数時間後。
「……カレン?」
気配がない。
家の中にもいない。
始まりの木の周辺にもいない。
「まさか……」
私はすぐに魔法を使った。
森の上空を飛ぶ鳥と視界を繋ぐ。
鳥の目を借りて、大森林の周辺を探していく。
そして――。
「……いた」
大森林のすぐ近くにある村。
その広場で、カレンは村の子供たちと楽しそうに遊んでいた。
「カレン……!」
思わず額に手を当てる。
約束したばかりなのに。
どうして、こうも簡単に約束を破るのかしら。
けれど、カレンはそんな私の心配など知る由もなく、村の子供たちと走り回っている。
「カレン! こっち!」
「待ってー!」
楽しそうな笑い声。
私は鳥の目を通して、その様子をじっと見守る。
これが、私の日課になっていた。
カレンが森の外へ出ていないか。
危険な場所へ行っていないか。
魔物に遭遇していないか。
私は毎日のように、鳥たちに視界を借りて娘を見守っていた。
ある日、そのことをレオンに話した。
「またカレン、村に行っていたわ」
「そうか」
「約束したのに……」
私は少し困った顔で言う。
「どうしてあの子は、こうも言いつけを守らないのかしら」
するとレオンは、楽しそうに笑った。
「子供って、そういうものだろ」
「……そういうもの?」
「ああ。遊びたいんだよ」
「でも、大森林から出ないって約束したのよ?」
「まあ、そこはちゃんと叱らないとな」
そう言いながらも、レオンは笑っている。
「レオンは心配じゃないの?」
「もちろん心配だよ」
「……本当に?」
「本当だ」
レオンは笑みを浮かべたまま、私の頭を優しく撫でる。
「でも、あれだけ楽しそうに遊んでるんだ。少しくらいはいいだろ」
「……もう」
私は呆れながらも、再び鳥の目を通してカレンを見る。
村の子供たちと笑い合っている。
転んでは立ち上がり、また走っていく。
その姿を見ていると――。
「……楽しそうね」
「ああ」
「……仕方ないわね」
私は小さく笑った。
もちろん、帰ってきたらきちんと言わなければならない。
約束を破ったことも。
心配をかけたことも。
けれど――。
今はもう少しだけ。
あの子の楽しそうな顔を見ていたかった。
大賢者と呼ばれた私が、毎日鳥の目を借りて娘を見守っている。
そんな自分が、少しおかしくて――。
私は一人で小さく笑った。
大森林で、アリスに訓練をつけてもらうようになってから――数十年の年月が流れた。
気がつけば、俺も三十歳ほどになっていた。
この大森林では、本当に色々なことが起きた。
アリスと出会い。
共に暮らし。
そして、結婚した。
やがて俺たちの間には、カレンという娘も生まれた。
小さかったカレンも、今ではすっかり少女らしく成長している。
そんな長い年月を、俺たちはこの森で過ごしてきた。
穏やかな日々だった。
けれど――俺には、まだやり残していることがある。
ルーンを探すこと。
これまでの旅で何度も目にしてきた、古代の力。
レインさんから受け継いだ冒険者の書とも、何か深い繋がりがある。
俺は、その答えを自分の目で確かめたかった。
だから、ある日の夕暮れ。
俺はアリスに話すことにした。
「アリス」
「なに?」
始まりの木の下で、アリスはカレンを眺めていた。
「これからのことなんだけど……」
アリスが俺を見る。
「俺、一人でルーンを探そうと思っている」
「……一人で?」
「ああ。アリスやカレンを危険な目に遭わせたくない」
そう告げると、アリスは少しだけ目を細めた。
「あなた……」
そして、静かに俺を見つめる。
「そのために、あなたは今まで力をつけたのでしょ?」
「……」
言葉が出なかった。
「私があなたに何十年も訓練をつけたのは、あなたを一人で危険な場所へ行かせるためじゃないわ」
アリスは優しく微笑む。
「大切な人を守りながら、自分の信じた道を歩けるようになるためでしょう?」
「アリス……」
「だから――」
アリスは迷うことなく言った。
「あなたが行くなら、私も行くわ」
「いや、でも――」
「カレンも一緒に」
「カレンも?」
俺は思わず娘を見る。
カレンは少し離れた場所で、こちらの話を聞いていたらしい。
「私も行く!」
即座に声が返ってきた。
「だって、お父さんだけ冒険に行くなんてずるい!」
カレンは頬を膨らませる。
俺は思わず苦笑した。
「危険なんだぞ?」
「大丈夫!」
カレンは胸を張る。
「お母さんがいるもの!」
「……」
俺はアリスを見る。
アリスは当然とばかりに頷いた。
「そういうことよ」
「いや……そういうことって……」
アリスは俺の手をそっと握る。
「私たちは家族でしょう?」
「ああ」
「なら、あなた一人で背負わなくていいの」
その言葉が、胸に深く響いた。
数十年前。
俺は一人で冒険の旅をしていた。
仲間と出会い、別れ、たくさんのものを失った。
けれど、今は違う。
俺には――。
共に歩いてくれる家族がいる。
「……分かった」
俺は二人を見つめ、笑った。
「三人で行こう」
「ええ」
「やった!」
カレンが嬉しそうに跳ねる。
始まりの木の葉が、夕暮れの風に揺れていた。
こうして俺たちは――。
再び旅へ出ることになった。
今度は一人ではない。
俺とアリス。
そして、俺たちの娘――カレン。
三人で、新たな冒険へ。
それから数日後――。
旅立ちの準備を終えた俺たちは、大森林の近くにある村へ向かった。
まずは、村の人々に別れを告げるためだ。
「しばらく、ここを離れることになった」
俺がそう告げると、村人たちは驚いた顔をした。
「そうか……ついに旅に出るんだな」
「ああ。少し探したいものがあってな」
「気をつけて行くんだよ」
村の人々は、俺たちを笑顔で送り出してくれた。
野菜や保存食まで持たせてくれた。
「これは道中で食べな」
「ありがとうございます」
アリスが頭を下げる。
「カレンちゃんも、元気でね」
「うん!」
カレンは大きく手を振った。
何人もの村人が手を振り返してくれる。
その光景を見ていると、ここで過ごした年月が蘇ってくる。
笑った日も。
困った日も。
カレンが村の子供たちと遊んでいたことも。
どれも大切な思い出だった。
「それじゃあ、行くか」
「ええ」
俺たちは村を後にした。
目指すのは――王都ハルディオ。
まずはそこへ向かい、次の旅の準備を整える。
そして、ルーンを探す。
俺とアリス。
そしてカレン。
三人で歩き始めた。
俺とアリスの間には、カレンがいる。
カレンは両手をそれぞれ俺とアリスに握られながら、楽しそうに歩いていた。
「ねえ、お父さん! 王都ってどんなところ?」
「そうだな……人がたくさんいる大きな街だ」
「お店もいっぱいある?」
「たくさんあると思うぞ」
「じゃあ、お母さん! 美味しいものもある?」
「ええ。きっとね」
「楽しみ!」
カレンは満面の笑みを浮かべた。
右手には俺の手。
左手にはアリスの手。
その小さな手を握りながら、カレンは嬉しそうに俺たちの間を歩いている。
俺はそんな娘を見下ろした。
昔は腕の中にすっぽり収まっていた小さな子だった。
それが今では、自分の足で俺たちと並んで歩いている。
アリスも同じことを思っているのだろう。
ふと目が合う。
俺たちは何も言わず、微笑み合った。
そして――。
俺たち三人は、ゆっくりと王都ハルディオへの道を進んでいった。
長い年月を過ごした大森林を背にして。
新たな冒険へ向かって。
数時間ほど歩いたところで――。
遠くに、大きな城壁が見えてきた。
「……見えてきたな」
俺は足を止める。
その向こうにそびえ立つのは――王都ハルディオ。
昔と変わらない。
巨大な城壁。
その奥に見える王城。
そして、城壁の周囲に広がる大きな街。
「わぁ……!」
カレンが目を輝かせる。
「大きい……!」
「ああ。昔から変わらないな」
俺は懐かしさを覚えながら、王都を見つめた。
数十年ぶりに見るハルディオ。
街そのものは、昔と変わらないように見える。
けれど――。
その中で生きる人々も、時代も、大きく変わっている。
俺が最後にこの王都を訪れた頃とは、情勢も大きく変わっていた。
かつてこの国を治めていた王は、すでに王位を退いている。
そして現在、王都を取り仕切っているのは――。
「ルージュ姫……」
俺がその名を口にすると、アリスが隣で頷いた。
「もう姫ではないわね」
「ああ」
かつて俺たちが出会った、あのルージュ姫。
今では王女として、この国を支えている。
「どんな人になったのかな?」
カレンが尋ねる。
「きっと立派になっているさ」
俺はそう答えた。
すると、王都の方から大きな歓声が聞こえてきた。
「……なんだ?」
耳を澄ます。
街の至るところから、人々の声が響いている。
色とりどりの旗が掲げられ、通りには飾り付けが施されている。
「お祭りみたいね」
アリスが目を細める。
王都は、かつて見たことがないほどの賑わいを見せていた。
今年は――。
王都ハルディオ建国百年祭。
王都にとって節目となる、大きな祭りの年だった。
「百年祭……!」
カレンの顔が、さらに輝く。
「お父さん! お祭りなの?」
「ああ。どうやら、そうみたいだな」
「見てみたい!」
カレンは俺とアリスの手を握り、嬉しそうに笑った。
俺はそんな娘を見て、思わず笑う。
数十年ぶりに戻ってきた王都。
かつて俺が一人で歩いたこの街に――。
今度は、アリスとカレンと一緒に来た。
そして、俺たちを待っているのは、王都の百年祭。
「行こうか」
「ええ」
「うん!」
三人で顔を見合わせる。
こうして俺たちは――。
大きな歓声に包まれる王都ハルディオへと、足を踏み入れていった。
王都に入った俺たちが、まず向かったのは――。
昔から世話になっていた宿屋だった。
ハルゥの宿屋。
数十年ぶりに見る看板は、少し古びてはいたが、昔と変わらない場所にあった。
「……ここだ」
俺は懐かしさを感じながら、扉を開ける。
カラン――。
小さな鐘の音が響いた。
「いらっしゃいませ――」
奥から女性の声が聞こえてくる。
そして、こちらへ顔を向けた瞬間。
その女性の動きが止まった。
「…………」
俺も、思わず立ち止まる。
見覚えのある顔だった。
けれど――。
記憶の中にある姿とは、あまりにも違う。
昔、この宿屋で働いていた小さな少女。
元気いっぱいで、いつも忙しそうに店の中を走り回っていたハルゥ。
その少女が――。
今はすっかり大人の女性になっていた。
「……ハルゥ?」
俺が名前を呼ぶ。
女性の瞳が大きく開かれた。
「……え?」
そして、俺の顔をじっと見つめる。
数十年という時間が流れている。
それでも――。
彼女は俺のことを覚えていた。
「レ……レオンさん……?」
震える声。
俺は思わず笑った。
「ああ。久しぶりだな、ハルゥ」
「……っ」
ハルゥの目に、みるみる涙が浮かんでいく。
「本当に……レオンさん……?」
「ああ」
ハルゥは信じられないものを見るように、俺の顔を見つめ続けている。
「……懐かしい……」
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸にも込み上げてくるものがあった。
あの頃は、俺もまだ若かった。
この宿屋で何度も世話になり、ここから冒険へ向かった。
そして今――。
俺はアリスと結婚し、娘までいる。
隣ではアリスが穏やかに微笑み、カレンが不思議そうにハルゥを見つめている。
「レオンさん……本当に、帰ってきたんですね」
「ああ。久しぶりに、この街に戻ってきた」
「……嬉しいです」
ハルゥは涙を拭いながら笑った。
「本当に……嬉しい」
俺はその笑顔を見て、改めて思った。
長い年月が流れた。
街も変わった。
人も変わった。
俺自身も変わった。
それでも――。
こうして再び会える人がいる。
それだけで、帰ってきたのだと実感できた。
ハルゥの宿屋に荷物を置いた俺たちは、さっそく冒険者ギルドへ向かった。
数十年ぶりの王都。
当然、冒険者ギルドも昔とは随分と様子が変わっている。
それでも、あの頃と同じように多くの冒険者たちが行き交っていた。
「懐かしいな……」
俺は受付へ向かい、冒険者カードを取り出した。
「これを確認してもらえるか?」
「はい。お預かりします」
受付の職員がカードを受け取り、端末にかざす。
そして――。
「…………」
「……?」
職員の動きが止まった。
「どうした?」
「い、いえ……少々お待ちください」
職員は何度もカードを確認している。
やがて、困ったような顔を俺に向けた。
「申し訳ありませんが……こちらの冒険者カードは有効期限が切れております」
「……あ」
完全に忘れていた。
そういえば――。
冒険者は半年以上、依頼を受けていないと冒険者資格が失効する。
「……そうだった」
俺は思わず額に手を当てた。
大森林でアリスと暮らし、カレンが生まれてからは冒険者として活動していなかった。
当然と言えば当然だ。
「すまない。すっかり忘れていた」
「い、いえ……」
ところが。
受付の職員は、まだ俺の冒険者カードを見つめている。
そして――。
「……レオン……?」
小さく呟いた。
その瞬間だった。
「え?」
「レオンって……あの?」
周囲にいた職員たちがざわつき始める。
「まさか……?」
「ちょっと待って。カードの記録を確認して!」
「嘘……本人なの?」
受付周辺が、急に騒がしくなった。
「……?」
俺には何が起きているのか分からない。
ただ、職員たちは俺の名前を確認するたびに、驚いた表情を浮かべている。
「レオンさん……」
一人の職員が恐る恐る口を開いた。
「少々、お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「ああ」
「ギルドマスターがお会いしたいとのことです」
「ギルドマスター?」
「はい」
職員は緊張した様子で頭を下げた。
「グレイ・ギルドマスターのもとへ、ご案内いたします」
「……グレイ?」
その名前を聞いて、俺は少し驚いた。
懐かしい名前だった。
まだ、あのグレイがギルドマスターをしているのだろうか。
「分かった」
俺はアリスとカレンを見る。
「二人も来るか?」
「もちろん」
アリスは迷うことなく答えた。
「私たち家族でしょう?」
「うん!」
カレンも元気よく頷いた。
こうして俺たちは、冒険者ギルドの奥へと案内されていく。
数十年ぶりに戻ってきた王都。
そして――。
かつての仲間や知人たちが、今どうなっているのか。
俺はまだ、その答えを知らなかった。
やがて職員が、一つの扉の前で足を止める。
「こちらです」
扉には、こう書かれていた。
――ギルドマスター室。
俺は懐かしさと、少しの緊張を胸に抱えながら、その扉を見つめた。
「……久しぶりだな」
そして――。
俺たちは、グレイの待つ部屋へと足を踏み入れた。




