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冒険の書  作者: siva5880


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多くの戸惑いと発見

それは、もう初めてのことばかりだった。


 大賢者と呼ばれ、幾千もの魔法を知り尽くしていた私でも――どうすればいいのか分からないことばかりだった。


「カレン……どうしてそんなに悲しくて泣いているの……?」


 腕の中で泣き続ける小さな娘を、アリスは不安そうに抱き抱える。


 魔法の研究なら、どんな難題でも解き明かせる。


 古代魔法の解析も、失われた技術の復元も、私にとっては難しいことではなかった。


 けれど――。


「……泣き止んでくれない……」


 アリスは困ったようにカレンの顔を覗き込む。


 小さな身体。

 赤くなった頬。

 そして、止まらない涙。


 どうして泣いているのか。


 何を求めているのか。


 大賢者の知識を持つ私にも、それだけは分からなかった。


 すると、隣で見ていたレオンが静かに口を開いた。


「カレンは、お腹が減っているんだよ」


「……お腹が?」


 アリスが目を瞬かせる。


「ああ。たぶん、お腹が空いたから泣いているんだ」


「……そうなの?」


 アリスはもう一度、腕の中のカレンを見る。


「カレン……お腹が空いていたの?」


「……あぅ……」


 カレンは涙で濡れた瞳をアリスに向ける。


 その小さな声を聞いた瞬間――。


「……そう……」


 アリスの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。


「ごめんなさい、カレン。お母さん、気づいてあげられなかった……」


 そう言って、アリスは娘を優しく抱きしめる。


 そんな二人を見つめながら、俺は思わず微笑んだ。


 大賢者と呼ばれたアリス。


 世界中の誰もが憧れ、畏れさえ抱いた彼女が――。


 今は一人の母親として、娘のことで悩んでいる。


 それが、なんだかとても愛おしかった。


授乳が終わった後――。


 それは、アリスにとって一番大変な時間だった。


「……さて、カレン。今度は大丈夫かしら……?」


 アリスは少し緊張した様子で、腕の中のカレンを見つめる。


 授乳の後は、ゲップをさせなければならない。


 それくらいのことは、もう覚えていた。


 けれど――。


「……あっ」


 カレンが小さな身体をもぞもぞと動かした。


「カレン、待って……!」


 アリスは慌てて、慎重にカレンの身体を起こす。


 そして、自分の肩に小さな顔を乗せるように抱き上げた。


 片手でしっかりと身体を支え、もう片方の手で背中を優しくさする。


「ゆっくりでいいのよ……」


 とん、とん……。


 小さな背中を、優しく叩く。


「……お願いだから、今度は上手にしてね……?」


 アリスがそう囁いた、その瞬間だった。


「……げふっ」


「……!」


 小さな音が、アリスの肩元から聞こえた。


「……ゲップ……?」


 アリスは恐る恐るカレンの顔を覗き込む。


 カレンは何事もなかったかのように、すやすやとアリスの肩に顔を埋めている。


「……よかった……」


 アリスは胸を撫で下ろした。


 だが――。


 以前、ゲップを上手に出せなかった時のことを思い出す。


 その時は、カレンが突然――。


「……盛大に吹き出してしまったものね……」


 アリスは少し遠い目をする。


 大賢者として、どんな強大な魔法にも動じなかった私が。


 我が子の吐き戻し一つに、これほどまでに慌てることになるとは思わなかった。


「ふふ……」


 けれど今は違う。


 アリスの肩には、小さな娘の温もりがある。


 そして――。


「……可愛いゲップ」


 アリスは小さく微笑んだ。


 その顔には、大賢者としての威厳など少しもなかった。


 ただ、娘を愛する一人の母親の、幸せそうな笑顔だけがあった。


カレンは、とても好奇心旺盛な子だった。


 子供用の小さなベッドに寝かせると、いつも目を輝かせながら周りを見つめている。


 そんなカレンのために、私は魔法で小さな光を生み出した。


 淡い光はゆっくりと形を変え――。


 一匹のウサギになった。


 ぴょん、と跳ねる光のウサギ。


 その隣には、小さなリス。


 さらに少し離れたところには、優しい光を纏ったシカ。


「……あぅ……!」


 カレンの瞳が、ぱっと輝いた。


 小さな両手を一生懸命に伸ばす。


 けれど、光の動物たちはカレンの手が届く直前で、ふわりと逃げていく。


「あはっ……!」


 カレンが声を上げて笑った。


 もう一度、両手を伸ばす。


 今度はウサギを追いかけるように、身体まで一生懸命に動かしている。


「ふふ……捕まえられるかしら?」


 私は思わず笑ってしまった。


 すると、光のウサギがカレンの小さな手のひらに触れるように近づく。


「……!」


 カレンは嬉しそうに両手をぱっと広げた。


 けれど、ウサギはその隙間をすり抜け、今度はリスへと姿を変える。


「あははっ!」


 また笑った。


 その笑顔を見ているだけで――胸の奥が温かくなる。


 大賢者と呼ばれていた頃。


 私は魔法を、人々を守るために使ってきた。


 失われた技術を蘇らせるため。


 誰かの命を救うため。


 魔物を退けるため。


 けれど今は――。


「……あなたが笑ってくれるなら、それだけでいい」


 私は小さく呟いた。


 カレンはそんな私の言葉など知らず、目の前を飛び回る光のシカに一生懸命手を伸ばしている。


 そしてまた――。


「あはっ……!」


 小さな笑い声が部屋に響いた。


 その声を聞いているだけで、私は幸せだった。


 こんなにも単純で。


 こんなにも温かい幸せが、この世界にあるなんて。


 私は、母になって初めて知った。


カレンには、お気に入りの場所がある。


 それは――私と共に成長し始めた、「始まりの木」。


 西の大森林で、最も大きな木。


 長い年月を生きるこの木は、私がこの森で暮らし始めた頃から、ずっとそこにあった。


 私がまだ何も知らなかった頃も。


 大賢者と呼ばれるようになった頃も。


 そして今――母親になった私を、変わらず見守ってくれている。


 不思議なことに、カレンはこの木の近くが大好きだった。


 夜泣きが止まらない時も。


 何をしても泣き止んでくれない時も。


「……どうしたの、カレン?」


 私はカレンを抱き上げ、始まりの木の下へ向かう。


 大きな幹に手を触れながら、ゆっくりと歩く。


 すると――。


「……あぅ」


 さっきまで泣いていたカレンが、ぴたりと泣き止んだ。


「……ふふ」


 私は思わず笑ってしまう。


 カレンは私の胸に頬を寄せながら、始まりの木をじっと見つめている。


 そして、しばらくすると――。


「……あぅ……!」


 嬉しそうな声を上げ、小さな手を伸ばした。


「この木が好きなの?」


 もちろん、答えは返ってこない。


 けれど、その表情を見れば分かる。


 ここに来ると、カレンはいつもご機嫌になる。


 私はカレンを抱いたまま、始まりの木の根元に腰を下ろした。


 葉の隙間から差し込む光。


 優しく揺れる木々。


 そして、どこまでも広がる森の静かな音。


 カレンは安心したように私の腕の中で笑っている。


「……不思議ね」


 私はカレンの髪を優しく撫でる。


「私にとっては、始まりの場所なのに……」


 この木と共に、私は成長してきた。


 そして今は――。


 この木の下で、カレンと一緒に時間を過ごしている。


「あなたにとっても、始まりの場所になるのかもしれないわね」


 そう呟き、私は娘を抱きしめる。


 始まりの木は何も語らない。


 ただ、大きく枝を広げ、私たちを優しく包み込むように佇んでいる。


 その姿を見上げながら、私は思った。


 これからカレンがどんな子に育っていくのか。


 どんな景色を見て、どんな人と出会い、どんな人生を歩んでいくのか。


 まだ何も分からない。


 けれど――。


「ずっと一緒に見ていきましょうね、カレン」


 私はそう囁き、腕の中の小さな娘を優しく抱きしめた。


 始まりの木の葉が、風に揺れていた。


人族というものは、本当に凄い。


 初めての子育てだというのに、レオンはほとんど動じることがない。


 もちろん、カレンのことを心配していないわけではない。


 むしろ誰よりも心配している。


 けれど、何か起きた時こそ冷静に行動するのだ。


 それを、私は身をもって知った。


 カレンが初めて熱を出し、風邪を引いた日のことだった。


「カレン……!」


 小さな身体が熱を帯びている。


 頬も赤く、いつも元気に動かしている手も、今日はほとんど動かない。


「どうしましょう……。どうすればいいの……?」


 私はすっかり取り乱していた。


 大賢者と呼ばれた私が、こんなにも慌てるなんて。


 魔物の群れに囲まれた時でさえ、ここまで心臓が騒いだことはなかった。


「アリス、大丈夫だ」


「でも……カレンが……!」


「だからこそ、今できることをしよう」


 レオンはそう言って、落ち着いた声で私に告げた。


「大森林の近くに村があるだろう。あそこに教会がある」


「……教会?」


「ああ。シスター長なら、子供のことも詳しいはずだ」


 そう言うと、レオンはすぐにカレンを抱き上げた。


「急ごう」


 その声には、確かな心配が滲んでいた。


 けれど、足取りには迷いがない。


 私たちは大森林を出て、すぐ近くの村にある教会へ向かった。


 そして――。


「まあ……この子、熱が出ているのですね」


 シスター長はカレンの様子を丁寧に診てくれた。


 その間、私はずっとカレンの小さな手を握っていた。


 どうか……。


 どうか、この子が元気になりますように。


 祈ることしかできなかった。


 しばらくして、シスター長が穏やかに微笑んだ。


「大丈夫ですよ。心配はいりません」


「……本当ですか?」


「ええ。しっかり休ませて、水分を取らせてあげてください。まだ小さいですから、今日はゆっくり眠らせてあげましょう」


「……よかった……」


 その言葉を聞いた瞬間、身体から力が抜けた。


 そして――。


 教会を出てからしばらくすると、カレンの顔色が少しずつ良くなっていった。


「……あぅ」


 小さな声。


「カレン……!」


 私は思わず抱きしめた。


 そして、レオンを見る。


「……ありがとう」


「俺は何もしてないよ」


「そんなことないわ」


 私は首を横に振った。


「私が何も分からなくなっていた時、あなたはちゃんとカレンを助ける方法を見つけてくれた」


 レオンは少し照れたように笑った。


「それに――」


 私は腕の中のカレンを見る。


「人族って……凄いのね」


「……何が?」


「初めての子育てでも、ちゃんと子供を守る方法を知っている」


 私は少しだけ笑った。


「少なくとも私は、大賢者なのに何も分からなかったもの」


 レオンが苦笑する。


「アリスは魔法なら何でも知ってるのにな」


「……子育ての魔法なんて、誰も教えてくれなかったもの」


 そう言って、私はカレンの小さな額にそっと口づけた。


 もう熱はほとんどない。


 穏やかな寝息を立てている。


「……元気になってくれて、本当によかった」


 私はカレンを抱きしめながら、改めて思った。


 大賢者として生きてきた私が知らなかったことを――。


 今、母親になったことで一つずつ知っていく。


 そしてその隣には、いつもレオンがいる。


 それだけで、私は大丈夫な気がした。


大森林のすぐ近くに、小さくて古い教会がある。


 決して立派な建物ではない。


 壁には長い年月を感じさせる傷があり、木製の扉も少し軋む。


 けれど――。


 その教会には、いつも子どもたちの声が響いていた。


 そこに勤めている、一人の高齢の人族の女性。


 彼女の名は、クレア。


 長い年月、この村で暮らしながら、孤児となった子どもたちを含め、数え切れないほど多くの子どもたちの面倒を見てきたという。


 カレンを診てもらった時もそうだった。


 クレアはカレンの身体を優しく撫でながら、何度も小さな声で話しかけていた。


「大丈夫よ。怖くないからね」


 その声は穏やかで、温かかった。


 カレンも、クレアの顔を見ると不思議そうに目を開き――やがて安心したように眠ってしまった。


 私は、その光景をただ見つめていた。


 魔法の知識なら、私の方が遥かに多い。


 長い年月を生きてきた私には、人族が知らない古代魔法だって扱える。


 それでも――。


 目の前のクレアには、私にはないものがあった。


 子どもが何を求めているのか。


 どんな時に不安になるのか。


 どんな言葉を掛ければ安心するのか。


 それを、まるで魔法のように理解している。


「……凄い……」


 思わず、そんな言葉が口から漏れた。


 クレアが私を見る。


「どうしました?」


「いえ……」


 私は首を横に振った。


 そして、もう一度カレンを見る。


 穏やかに眠る小さな娘。


 その隣で優しく微笑むクレア。


 私は思った。


 この人は――。


「子どもの……大賢者……」


「え?」


「あ……いえ、何でもないわ」


 私は小さく笑った。


 私が大賢者と呼ばれるようになるまでには、長い年月と数え切れないほどの努力が必要だった。


 けれどクレアは違う。


 彼女は魔法を使わない。


 杖も持たない。


 ただ、長い年月を子どもたちと過ごし、その一人一人に寄り添ってきた。


 それだけで――。


 私には、彼女が誰よりも偉大な存在に見えた。


 大賢者と呼ばれてきた私だからこそ、分かる。


 知識だけでは、人を救えない。


 そして――。


 子どもを救うための知恵もまた、一つの偉大な力なのだ。


「クレア……」


 私はその名を、心の中でそっと刻んだ。


 私にとって彼女は――。


 魔法を使わない、もう一人の大賢者だった。


大森林のすぐ近くにある、この小さな村。


 そこに住む人々とは、レオンがよく交流している。


 私は最初、それほど気にしていなかった。


 けれど、ある日気づいた。


 レオンは大森林で狩った獲物を、村人たちに分けているのだ。


 ボアの肉。


 ウサギの肉。


 鹿の肉。


 時には毛皮や薬草まで。


「こんなにもらっていいのかい?」


「俺たちだけじゃ食べきれないからな。よかったら使ってくれ」


 そんなふうに言いながら、レオンは笑っている。


 村人たちも、そんなレオンをとても親しげに迎えていた。


「いつも助かるよ、レオン!」


「今度、畑で採れた野菜を持っていくからね!」


「カレンちゃんにも食べられるようになったら、たくさん持っていってあげるよ」


 そんな会話を交わす姿を見ていると、自然と頬が緩んでしまう。


 そして、この村にはもう一つ大きな特徴がある。


 農村であることだ。


 畑では毎年、多くの作物が育てられている。


 けれど――。


 農作物には病気が付き物だ。


 葉が枯れたり、実がうまく育たなくなったり。


 人族の知識だけでは、どうしても対処できないこともある。


 そんな時は、私の出番だった。


「この畑の病気なら、原因は土に残った魔力の偏りね」


 私は畑に手をかざす。


 淡い光が大地へと染み込んでいく。


「これで大丈夫。しばらくすれば、また元気に育つわ」


「ありがとうございます、アリス様!」


 村人たちは、いつも嬉しそうに頭を下げる。


 最初は、ただ困っているから助けていただけだった。


 けれど、いつの間にか――。


 村の人たちと私たちは、お互いに助け合うようになっていた。


 レオンが森から食料を届ける。


 私は畑を守る。


 村人たちは、その代わりに育てた野菜や果物を分けてくれる。


 誰かが困っていれば、誰かが手を差し伸べる。


 そんな関係が、いつの間にか当たり前になっていた。


「……いい村ね」


 私は村を見渡しながら呟く。


 大森林と共に生きる人々。


 そして、その森に暮らす私たち。


 種族は違っても――。


 こうして互いに支え合って生きていける。


 それが、とても心地よかった。


 そして今では、この村の人たちも。


 私たちにとって、大切な隣人になっている。


 きっとカレンが大きくなったら、この村の人たちにもたくさん可愛がってもらうのだろう。


 そう思うと――。


 私は、なんだか少しだけ嬉しくなった。


数年の年月が経った。


 カレンは、すくすくと成長していた。


 ハーフエルフであるカレンの成長は、人族とは少し違う。


 エルフ族は、生まれてから数年ほどで、人族でいう少年や少女くらいの姿へと成長する。


 身体だけではない。


 言葉を覚え、物事を理解し、自分で考える知恵も身につけていく。


 けれど――。


 そこから先の成長は、とてもゆっくりになる。


 まるで――木のように。


「カレン、こっちへいらっしゃい」


「はーい!」


 少し離れた場所から、カレンが元気よく駆けてくる。


 小さかった身体は、いつの間にか少女と呼べるほどになっていた。


 その姿を見るたびに、私は不思議な気持ちになる。


 ほんの少し前まで、腕の中にすっぽり収まっていた小さな赤ん坊だった。


 泣いている理由も分からず、私を慌てさせていたあの子が――。


 今では自分の足で森を駆け回り、私に色々なことを尋ねてくる。


「お母さん! 今日ね、始まりの木のところでリスを見つけたの!」


「そう。よかったわね」


「うん!」


 嬉しそうに笑うカレン。


 私はその笑顔を見つめながら、ふと思う。


 エルフの成長は、木に似ている。


 最初は一気に芽吹き、枝を伸ばす。


 そして、ある程度まで大きくなった後は、長い年月をかけてゆっくりと成長していく。


 カレンもきっとそうなのだろう。


 これから先、どれほど長い年月をかけて成長していくのか。


 私にはまだ分からない。


 けれど――。


「お母さん?」


「……何でもないわ」


 私はカレンの頭を優しく撫でる。


「ただ、あなたが大きくなったなって思っていたの」


「そうかな?」


「ええ。とても大きくなったわ」


 カレンは少し照れたように笑った。


 その姿を見て、私は始まりの木へ視線を向ける。


 私と共に成長してきた、大森林で最も大きな木。


 そして今、その木のそばで――。


 私とレオンの娘が成長している。


 なんだか、それがとても嬉しかった。


 木が一年、一年とゆっくり年輪を刻むように。


 カレンもまた、長い年月をかけて自分だけの人生を刻んでいくのだろう。


 私はその姿を、できる限り長く見守っていたい。


「……ゆっくりでいいのよ、カレン」


「?」


「あなたの時間で、大きくなっていけばいいの」


 カレンは意味が分からないという顔をした後――。


「うん!」


 いつものように、元気な笑顔を見せてくれた。


 その笑顔を見て、私はまた幸せな気持ちになった。


カレンは、とてもおてんばな子だった。


「カレン。大森林から勝手に出てはいけませんよ」


「うん!」


 元気よく返事をする。


 その返事を聞いて、私は安心する。


 ――けれど。


 数時間後。


「……カレン?」


 気配がない。


 家の中にもいない。


 始まりの木の周辺にもいない。


「まさか……」


 私はすぐに魔法を使った。


 森の上空を飛ぶ鳥と視界を繋ぐ。


 鳥の目を借りて、大森林の周辺を探していく。


 そして――。


「……いた」


 大森林のすぐ近くにある村。


 その広場で、カレンは村の子供たちと楽しそうに遊んでいた。


「カレン……!」


 思わず額に手を当てる。


 約束したばかりなのに。


 どうして、こうも簡単に約束を破るのかしら。


 けれど、カレンはそんな私の心配など知る由もなく、村の子供たちと走り回っている。


「カレン! こっち!」


「待ってー!」


 楽しそうな笑い声。


 私は鳥の目を通して、その様子をじっと見守る。


 これが、私の日課になっていた。


 カレンが森の外へ出ていないか。


 危険な場所へ行っていないか。


 魔物に遭遇していないか。


 私は毎日のように、鳥たちに視界を借りて娘を見守っていた。


 ある日、そのことをレオンに話した。


「またカレン、村に行っていたわ」


「そうか」


「約束したのに……」


 私は少し困った顔で言う。


「どうしてあの子は、こうも言いつけを守らないのかしら」


 するとレオンは、楽しそうに笑った。


「子供って、そういうものだろ」


「……そういうもの?」


「ああ。遊びたいんだよ」


「でも、大森林から出ないって約束したのよ?」


「まあ、そこはちゃんと叱らないとな」


 そう言いながらも、レオンは笑っている。


「レオンは心配じゃないの?」


「もちろん心配だよ」


「……本当に?」


「本当だ」


 レオンは笑みを浮かべたまま、私の頭を優しく撫でる。


「でも、あれだけ楽しそうに遊んでるんだ。少しくらいはいいだろ」


「……もう」


 私は呆れながらも、再び鳥の目を通してカレンを見る。


 村の子供たちと笑い合っている。


 転んでは立ち上がり、また走っていく。


 その姿を見ていると――。


「……楽しそうね」


「ああ」


「……仕方ないわね」


 私は小さく笑った。


 もちろん、帰ってきたらきちんと言わなければならない。


 約束を破ったことも。


 心配をかけたことも。


 けれど――。


 今はもう少しだけ。


 あの子の楽しそうな顔を見ていたかった。


 大賢者と呼ばれた私が、毎日鳥の目を借りて娘を見守っている。


 そんな自分が、少しおかしくて――。


 私は一人で小さく笑った。


大森林で、アリスに訓練をつけてもらうようになってから――数十年の年月が流れた。


 気がつけば、俺も三十歳ほどになっていた。


 この大森林では、本当に色々なことが起きた。


 アリスと出会い。


 共に暮らし。


 そして、結婚した。


 やがて俺たちの間には、カレンという娘も生まれた。


 小さかったカレンも、今ではすっかり少女らしく成長している。


 そんな長い年月を、俺たちはこの森で過ごしてきた。


 穏やかな日々だった。


 けれど――俺には、まだやり残していることがある。


 ルーンを探すこと。


 これまでの旅で何度も目にしてきた、古代の力。


 レインさんから受け継いだ冒険者の書とも、何か深い繋がりがある。


 俺は、その答えを自分の目で確かめたかった。


 だから、ある日の夕暮れ。


 俺はアリスに話すことにした。


「アリス」


「なに?」


 始まりの木の下で、アリスはカレンを眺めていた。


「これからのことなんだけど……」


 アリスが俺を見る。


「俺、一人でルーンを探そうと思っている」


「……一人で?」


「ああ。アリスやカレンを危険な目に遭わせたくない」


 そう告げると、アリスは少しだけ目を細めた。


「あなた……」


 そして、静かに俺を見つめる。


「そのために、あなたは今まで力をつけたのでしょ?」


「……」


 言葉が出なかった。


「私があなたに何十年も訓練をつけたのは、あなたを一人で危険な場所へ行かせるためじゃないわ」


 アリスは優しく微笑む。


「大切な人を守りながら、自分の信じた道を歩けるようになるためでしょう?」


「アリス……」


「だから――」


 アリスは迷うことなく言った。


「あなたが行くなら、私も行くわ」


「いや、でも――」


「カレンも一緒に」


「カレンも?」


 俺は思わず娘を見る。


 カレンは少し離れた場所で、こちらの話を聞いていたらしい。


「私も行く!」


 即座に声が返ってきた。


「だって、お父さんだけ冒険に行くなんてずるい!」


 カレンは頬を膨らませる。


 俺は思わず苦笑した。


「危険なんだぞ?」


「大丈夫!」


 カレンは胸を張る。


「お母さんがいるもの!」


「……」


 俺はアリスを見る。


 アリスは当然とばかりに頷いた。


「そういうことよ」


「いや……そういうことって……」


 アリスは俺の手をそっと握る。


「私たちは家族でしょう?」


「ああ」


「なら、あなた一人で背負わなくていいの」


 その言葉が、胸に深く響いた。


 数十年前。


 俺は一人で冒険の旅をしていた。


 仲間と出会い、別れ、たくさんのものを失った。


 けれど、今は違う。


 俺には――。


 共に歩いてくれる家族がいる。


「……分かった」


 俺は二人を見つめ、笑った。


「三人で行こう」


「ええ」


「やった!」


 カレンが嬉しそうに跳ねる。


 始まりの木の葉が、夕暮れの風に揺れていた。


 こうして俺たちは――。


 再び旅へ出ることになった。


 今度は一人ではない。


 俺とアリス。


 そして、俺たちの娘――カレン。


 三人で、新たな冒険へ。


それから数日後――。


 旅立ちの準備を終えた俺たちは、大森林の近くにある村へ向かった。


 まずは、村の人々に別れを告げるためだ。


「しばらく、ここを離れることになった」


 俺がそう告げると、村人たちは驚いた顔をした。


「そうか……ついに旅に出るんだな」


「ああ。少し探したいものがあってな」


「気をつけて行くんだよ」


 村の人々は、俺たちを笑顔で送り出してくれた。


 野菜や保存食まで持たせてくれた。


「これは道中で食べな」


「ありがとうございます」


 アリスが頭を下げる。


「カレンちゃんも、元気でね」


「うん!」


 カレンは大きく手を振った。


 何人もの村人が手を振り返してくれる。


 その光景を見ていると、ここで過ごした年月が蘇ってくる。


 笑った日も。


 困った日も。


 カレンが村の子供たちと遊んでいたことも。


 どれも大切な思い出だった。


「それじゃあ、行くか」


「ええ」


 俺たちは村を後にした。


 目指すのは――王都ハルディオ。


 まずはそこへ向かい、次の旅の準備を整える。


 そして、ルーンを探す。


 俺とアリス。


 そしてカレン。


 三人で歩き始めた。


 俺とアリスの間には、カレンがいる。


 カレンは両手をそれぞれ俺とアリスに握られながら、楽しそうに歩いていた。


「ねえ、お父さん! 王都ってどんなところ?」


「そうだな……人がたくさんいる大きな街だ」


「お店もいっぱいある?」


「たくさんあると思うぞ」


「じゃあ、お母さん! 美味しいものもある?」


「ええ。きっとね」


「楽しみ!」


 カレンは満面の笑みを浮かべた。


 右手には俺の手。


 左手にはアリスの手。


 その小さな手を握りながら、カレンは嬉しそうに俺たちの間を歩いている。


 俺はそんな娘を見下ろした。


 昔は腕の中にすっぽり収まっていた小さな子だった。


 それが今では、自分の足で俺たちと並んで歩いている。


 アリスも同じことを思っているのだろう。


 ふと目が合う。


 俺たちは何も言わず、微笑み合った。


 そして――。


 俺たち三人は、ゆっくりと王都ハルディオへの道を進んでいった。


 長い年月を過ごした大森林を背にして。


 新たな冒険へ向かって。


数時間ほど歩いたところで――。


 遠くに、大きな城壁が見えてきた。


「……見えてきたな」


 俺は足を止める。


 その向こうにそびえ立つのは――王都ハルディオ。


 昔と変わらない。


 巨大な城壁。


 その奥に見える王城。


 そして、城壁の周囲に広がる大きな街。


「わぁ……!」


 カレンが目を輝かせる。


「大きい……!」


「ああ。昔から変わらないな」


 俺は懐かしさを覚えながら、王都を見つめた。


 数十年ぶりに見るハルディオ。


 街そのものは、昔と変わらないように見える。


 けれど――。


 その中で生きる人々も、時代も、大きく変わっている。


 俺が最後にこの王都を訪れた頃とは、情勢も大きく変わっていた。


 かつてこの国を治めていた王は、すでに王位を退いている。


 そして現在、王都を取り仕切っているのは――。


「ルージュ姫……」


 俺がその名を口にすると、アリスが隣で頷いた。


「もう姫ではないわね」


「ああ」


 かつて俺たちが出会った、あのルージュ姫。


 今では王女として、この国を支えている。


「どんな人になったのかな?」


 カレンが尋ねる。


「きっと立派になっているさ」


 俺はそう答えた。


 すると、王都の方から大きな歓声が聞こえてきた。


「……なんだ?」


 耳を澄ます。


 街の至るところから、人々の声が響いている。


 色とりどりの旗が掲げられ、通りには飾り付けが施されている。


「お祭りみたいね」


 アリスが目を細める。


 王都は、かつて見たことがないほどの賑わいを見せていた。


 今年は――。


 王都ハルディオ建国百年祭。


 王都にとって節目となる、大きな祭りの年だった。


「百年祭……!」


 カレンの顔が、さらに輝く。


「お父さん! お祭りなの?」


「ああ。どうやら、そうみたいだな」


「見てみたい!」


 カレンは俺とアリスの手を握り、嬉しそうに笑った。


 俺はそんな娘を見て、思わず笑う。


 数十年ぶりに戻ってきた王都。


 かつて俺が一人で歩いたこの街に――。


 今度は、アリスとカレンと一緒に来た。


 そして、俺たちを待っているのは、王都の百年祭。


「行こうか」


「ええ」


「うん!」


 三人で顔を見合わせる。


 こうして俺たちは――。


 大きな歓声に包まれる王都ハルディオへと、足を踏み入れていった。


王都に入った俺たちが、まず向かったのは――。


 昔から世話になっていた宿屋だった。


 ハルゥの宿屋。


 数十年ぶりに見る看板は、少し古びてはいたが、昔と変わらない場所にあった。


「……ここだ」


 俺は懐かしさを感じながら、扉を開ける。


 カラン――。


 小さな鐘の音が響いた。


「いらっしゃいませ――」


 奥から女性の声が聞こえてくる。


 そして、こちらへ顔を向けた瞬間。


 その女性の動きが止まった。


「…………」


 俺も、思わず立ち止まる。


 見覚えのある顔だった。


 けれど――。


 記憶の中にある姿とは、あまりにも違う。


 昔、この宿屋で働いていた小さな少女。


 元気いっぱいで、いつも忙しそうに店の中を走り回っていたハルゥ。


 その少女が――。


 今はすっかり大人の女性になっていた。


「……ハルゥ?」


 俺が名前を呼ぶ。


 女性の瞳が大きく開かれた。


「……え?」


 そして、俺の顔をじっと見つめる。


 数十年という時間が流れている。


 それでも――。


 彼女は俺のことを覚えていた。


「レ……レオンさん……?」


 震える声。


 俺は思わず笑った。


「ああ。久しぶりだな、ハルゥ」


「……っ」


 ハルゥの目に、みるみる涙が浮かんでいく。


「本当に……レオンさん……?」


「ああ」


 ハルゥは信じられないものを見るように、俺の顔を見つめ続けている。


「……懐かしい……」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の胸にも込み上げてくるものがあった。


 あの頃は、俺もまだ若かった。


 この宿屋で何度も世話になり、ここから冒険へ向かった。


 そして今――。


 俺はアリスと結婚し、娘までいる。


 隣ではアリスが穏やかに微笑み、カレンが不思議そうにハルゥを見つめている。


「レオンさん……本当に、帰ってきたんですね」


「ああ。久しぶりに、この街に戻ってきた」


「……嬉しいです」


 ハルゥは涙を拭いながら笑った。


「本当に……嬉しい」


 俺はその笑顔を見て、改めて思った。


 長い年月が流れた。


 街も変わった。


 人も変わった。


 俺自身も変わった。


 それでも――。


 こうして再び会える人がいる。


 それだけで、帰ってきたのだと実感できた。


ハルゥの宿屋に荷物を置いた俺たちは、さっそく冒険者ギルドへ向かった。


 数十年ぶりの王都。


 当然、冒険者ギルドも昔とは随分と様子が変わっている。


 それでも、あの頃と同じように多くの冒険者たちが行き交っていた。


「懐かしいな……」


 俺は受付へ向かい、冒険者カードを取り出した。


「これを確認してもらえるか?」


「はい。お預かりします」


 受付の職員がカードを受け取り、端末にかざす。


 そして――。


「…………」


「……?」


 職員の動きが止まった。


「どうした?」


「い、いえ……少々お待ちください」


 職員は何度もカードを確認している。


 やがて、困ったような顔を俺に向けた。


「申し訳ありませんが……こちらの冒険者カードは有効期限が切れております」


「……あ」


 完全に忘れていた。


 そういえば――。


 冒険者は半年以上、依頼を受けていないと冒険者資格が失効する。


「……そうだった」


 俺は思わず額に手を当てた。


 大森林でアリスと暮らし、カレンが生まれてからは冒険者として活動していなかった。


 当然と言えば当然だ。


「すまない。すっかり忘れていた」


「い、いえ……」


 ところが。


 受付の職員は、まだ俺の冒険者カードを見つめている。


 そして――。


「……レオン……?」


 小さく呟いた。


 その瞬間だった。


「え?」


「レオンって……あの?」


 周囲にいた職員たちがざわつき始める。


「まさか……?」


「ちょっと待って。カードの記録を確認して!」


「嘘……本人なの?」


 受付周辺が、急に騒がしくなった。


「……?」


 俺には何が起きているのか分からない。


 ただ、職員たちは俺の名前を確認するたびに、驚いた表情を浮かべている。


「レオンさん……」


 一人の職員が恐る恐る口を開いた。


「少々、お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」


「ああ」


「ギルドマスターがお会いしたいとのことです」


「ギルドマスター?」


「はい」


 職員は緊張した様子で頭を下げた。


「グレイ・ギルドマスターのもとへ、ご案内いたします」


「……グレイ?」


 その名前を聞いて、俺は少し驚いた。


 懐かしい名前だった。


 まだ、あのグレイがギルドマスターをしているのだろうか。


「分かった」


 俺はアリスとカレンを見る。


「二人も来るか?」


「もちろん」


 アリスは迷うことなく答えた。


「私たち家族でしょう?」


「うん!」


 カレンも元気よく頷いた。


 こうして俺たちは、冒険者ギルドの奥へと案内されていく。


 数十年ぶりに戻ってきた王都。


 そして――。


 かつての仲間や知人たちが、今どうなっているのか。


 俺はまだ、その答えを知らなかった。


 やがて職員が、一つの扉の前で足を止める。


「こちらです」


 扉には、こう書かれていた。


 ――ギルドマスター室。


 俺は懐かしさと、少しの緊張を胸に抱えながら、その扉を見つめた。


「……久しぶりだな」


 そして――。


 俺たちは、グレイの待つ部屋へと足を踏み入れた。

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