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冒険の書  作者: siva5880


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己と向き合う時間

俺たちがオヴェリア姫の部屋へ入り、間もなくのことだった。


 コンコン――。


 扉がノックされる。


 そして入ってきたのは、見るからに厳しそうな高齢の女性だった。


 きっちりと整えられた白髪。

 背筋はぴんと伸び、その佇まいからも長年王宮に仕えてきたことが分かる。


 おそらく、メイド長なのだろう。


 彼女はルージュ姫の前まで歩み寄ると、静かに頭を下げた。


「オヴェリア様……お時間です」


「えっ……?」


 オヴェリア姫の顔から笑顔が消えた。


「お、お時間って……?」


「王族としての公務のお時間でございます」


「い、嫌です!」


 オヴェリア姫は慌てて立ち上がった。


「もう少し! もう少しだけ何とか時間を……‼︎」


「なりません」


「お願いします! あと少しだけでいいんです!」


 先ほどまでの気品ある王女様の姿はどこへやら。


 まるで遊びを終わらせたくない子供のように駄々をこねている。


 どうやら、これからアリスに教えてもらう障壁の魔法を、本当に楽しみにしていたらしい。


「アリス様……!」


 オヴェリア姫は助けを求めるようにアリスを見る。


「何とか言ってください! 私はこれから障壁の魔法を――」


「オヴェリア姫」


 アリスは穏やかな笑みを浮かべた。


「障壁の魔法を教える機会はいくらでもあります」


「……!」


「またいつか、遊びに来た時にでもお教えしましょう」


「…………」


 オヴェリア姫の表情が固まった。


「……また、いつか?」


「ええ」


 アリスは何でもないことのように頷く。


 すると――。


 オヴェリア姫の目が、みるみる潤んでいった。


「アリス様……」


「はい?」


「エルフにとっての『またいつか』って……」


 オヴェリア姫は恐る恐る尋ねる。


「人族で言うところの……数十年先とかではありませんよね?」


「……?」


「私がおばあちゃんになってから、『久しぶりですね』って会いに来るとか……そういう意味ではありませんよね?」


「…………」


 アリスは少し考え込んだ。


「……そういう意味ではありませんが」


「本当ですか・・・⁈」


 オヴェリア姫が食い気味に聞き返す。


「ええ。私としては、そんなに長く待たせるつもりはありません」


「…………よかった……」


 オヴェリア姫は胸を撫で下ろした。


 しかし――。


 アリスはふと窓の外へ視線を向ける。


「まあ……人族とエルフでは、時間の感じ方が少し違いますからね」


「…………」


 オヴェリア姫の顔が再び引きつった。


「……アリス様?」


「はい?」


「今の言葉……なんだか、とても不安になったのですが……」


 俺は思わず苦笑した。


 どうやらオヴェリア姫にとって、アリスとの「またいつか」は――かなり重要な問題らしい。


「オヴェリア様」


 メイド長が静かに声を掛ける。


「本当にお時間がございません」


「うぅ……分かりました……」


 オヴェリア姫は渋々と頷いた。


 そして部屋を出る直前、もう一度アリスを振り返る。


「アリス様……約束ですよ?」


「ええ」


 アリスは優しく微笑んだ。


「また会いましょう、オヴェリア姫」


「……はい!」


 今度こそ、オヴェリア姫はメイド長に連れられて部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 静かになった部屋の中で、俺はアリスに尋ねた。


「……なあ、アリス」


「何でしょう?」


「さっきの『またいつか』って、本当にどれくらい先の話なんだ?」


 アリスは少しだけ首を傾げた。


「さあ……?」


「…………」


 俺は何とも言えない顔で、閉じられた扉を見つめた。


 ――オヴェリア姫が心配するのも、無理はない気がした。


こうして、俺とアリスは王城での出来事を終えた。


 城を出ると、門の前には馬車が用意されていた。


 俺たちは馬車に乗り込み、いつもの宿屋まで送ってもらう。


 宿屋へ戻ると、アリスとはそこで別れることになった。


「では、レオン。また明日」


「ああ。また明日な、アリス」


 アリスはいつものように穏やかな笑みを浮かべ、自分の部屋へ戻っていった。


 俺も部屋へ戻ろうとした。


 だが――。


 なぜか、すぐには戻る気になれなかった。


 俺はそのまま酒場へ向かい、隅の席に腰を下ろした。


 酒場には、多くの冒険者たちがいた。


 笑い声。


 酒を酌み交わす音。


 今日の依頼について語り合う声。


 そんな喧騒の中で、俺は一人、今日の出来事を思い返していた。


 王城での出来事。


 古代から伝わる魔法。


 そして――アリスの圧倒的な魔法。


 あの力を目の前で見て、改めて思い知らされた。


 アリスは……強い。


 俺なんかとは比べものにならないほどに。


「…………」


 そして、もう一つ。


 俺は腰にある剣へ目を向けた。


「イグニスブレイド……」


 数日前、古き沈没船で出会ったドワーフ王ヴァン。


 最後に、ヴァンが俺へ託してくれた炎の剣。


 そして――炎龍の鎧。


 どちらも、俺にとって大切なものだ。


 ただ強力な装備を手に入れた。


 俺は、そんな簡単なことだとは思っていない。


 ヴァンから託された想い。


 炎龍の鎧に込められた力。


 それらを受け取ったからには――。


「……この装備に見合う強さを、身につけたい」


 そう思った。


 強い剣を持っているから強い。


 強い鎧を身につけているから強い。


 そんな冒険者にはなりたくない。


 俺自身が強くならなければ意味がない。


 そして――。


 アリスのことを考えた。


 これまでの冒険で、俺は何度もアリスに助けられてきた。


 危険な場面になれば、アリスが俺を支えてくれる。


 今日の王城でもそうだった。


 俺は、ただその圧倒的な魔法を見ていることしかできなかった。


「…………」


 俺は拳を握りしめた。


 今のままでは――。


「到底、アリスを守れない」


 その言葉が、胸に突き刺さる。


 俺は冒険者だ。


 剣と盾を手にして、危険な場所へ踏み込む。


 仲間を守るために強くなりたい。


 そう思って、ここまで来たはずだった。


 なのに――。


「俺は……アリスに助けられるだけの冒険者だ……」


 悔しかった。


 アリスに助けてもらうことが嫌なわけじゃない。


 むしろ、何度も救ってもらった。


 感謝している。


 だけど――。


 いつまでも守られているだけではいたくない。


 アリスが危険にさらされた時。


 今度は俺が前に出たい。


 アリスの背中を守れるくらいに。


 アリスが安心して、俺に背中を預けられるくらいに。


 俺は酒場の窓から、夜の王都を眺めた。


 まだまだ足りない。


 剣の技術も。


 盾の扱いも。


 身体の強さも。


 冒険者としての経験も。


 何もかもが足りない。


 だから――。


「もっと強くならないとな……」


 小さく呟いた。


 イグニスブレイドに見合う強さを。


 炎龍の鎧に見合う強さを。


 そして――。


 アリスを守れる強さを。


 俺は、これから身につけていく。


翌朝。


 俺は朝食を済ませると、アリスのもとへ向かった。


 昨日の夜から、ずっと考えていたことがある。


 アリスに話しておきたい。


 そう思っていた。


「アリス」


「どうしたのレオン」


 俺は一度だけ深く息を吸った。


 そして――真っ直ぐにアリスの目を見る。


「俺……もっと強くなりたい」


「……」


「イグニスブレイドも、炎龍の鎧も……俺にはまだ、使いこなせない」


 言葉を選びながら、ゆっくりと続ける。


「昨日、王城でアリスの魔法を見て……改めて思ったんだ」


 俺は拳を握った。


「今の俺じゃ、アリスを守れない」


「…………」


「いつもアリスに助けてもらってる」


 悔しさを隠さず、俺は言った。


「だから……」


 一度、言葉を止める。


 そして、もう一度アリスを見る。


「俺は、アリスを守れる男になりたい」


 アリスは何も言わなかった。


 ただ、じっと俺の目を見つめている。


 その瞳を見て――俺は、ふと思い出した。


 初めてアリスと出会った時のこと。


 あの時も、アリスはこんな目をしていた。


 何も恐れず、真っ直ぐに俺を見つめる瞳。


 あの時と変わらない。


 まっすぐな瞳だった。


「…………」


 やがて、アリスは少しだけ視線を逸らした。


 そして――ほんの少し頬を赤くする。


「……そうか」


「アリス?」


「レオンが……そう望むのなら」


 アリスは小さく息を吐き、再び俺を見る。


「私が訓練をつけてあげます」


「……本当か?」


「ええ」


 そして、アリスは穏やかに微笑んだ。


「西の大森林へ行きましょう」


「西の大森林……?」


「そこなら、レオンを鍛えるには十分です」


 その言葉には、大賢者としての揺るぎない自信があった。


「森で生きる術。


 魔物との戦い方。


 魔力の扱い。


 そして――」


 アリスは俺を真っ直ぐに見つめる。


「レオン自身が、今より強くなるための修行を」


「…………」


「私が教えます」


 胸の奥が熱くなった。


 ずっと望んでいた。


 ただ強くなるだけじゃない。


 アリスの隣に立てる自分になることを。


「……頼む、アリス」


「はい」


 アリスは微笑んだ。


「覚悟してくださいね、レオン」


「え?」


「私の訓練は――少し厳しいですよ」


 その笑顔を見て、俺は思わず苦笑した。


「……望むところだ」


 こうして俺は――。


 アリスと共に、西の大森林へ向かうことになった。


「……アリス」


「何ですか?」


「この森って……最初からこんなに大きかったのか?」


 俺が尋ねると、アリスは少しだけ微笑んだ。


「いいえ」


「……え?」


「この森も、最初はもっと小さかった」


 アリスは周囲に広がる巨大な木々を見渡す。


「エルフは、生まれてすぐに自分の森を作ります」


「生まれて……すぐに?」


「ええ」


 アリスが頷く。


「最初は小さな森です。一本の木と、僅かな草花。それだけのこともあります」


 俺は周囲を見渡した。


 今では、どこまでも続いているように思える巨大な森林。


 それが、最初は小さな森だったという。


「そして、そのエルフが生きている間……森も共に成長していきます」


「じゃあ……」


「私が生きてきた時間だけ、この森も成長してきたということです」


 俺は言葉を失った。


 数千年。


 その途方もない年月を、アリスはこの森と共に生きてきた。


「だから、エルフ一人に対して森は一つだけ」


「一つだけ……?」


「はい」


 アリスは静かに頷いた。


「エルフが亡くなると、その森も枯れてしまいます」


「…………」


 森を守るのではない。


 森と共に生きる。


 俺には、その言葉の方が相応しく思えた。


「だから、エルフにとって森は故郷であり……自分自身でもあるのです」


 アリスは一本の巨大な木へ手を触れた。


 その手つきは、とても優しかった。


「そして――」


 アリスは森の奥を見つめる。


「長く生きたエルフほど、その森は大きくなります」


「……だから、この大森林なのか」


「ええ」


 アリスは小さく笑った。


「私が長く生きてきた証です」


 俺は改めて西の大森林を見渡した。


 遥か彼方まで続く木々。


 幾重にも重なる生命。


 この森そのものが――アリスの生きてきた年月なのだ。


「じゃあ……この森が枯れる時って」


 俺が言葉を止める。


 アリスは何も答えなかった。


 ただ、静かに森を見つめていた。


 その横顔を見て、俺はそれ以上尋ねることができなかった。


「……寂しくないのか?」


 俺が尋ねると、アリスはしばらく答えなかった。


 やがて、静かに森を見渡す。


「……寂しいのかもしれない」


 アリスは小さく呟いた。


「かつては、この世界のどこかに私と同じエルフたちがいた」


 けれど――。


 今、その多くはもういない。


 長い年月の中で、少しずつ姿を消していった。


「そして……私が死ねば、この森も消える」


「……え?」


 俺は思わずアリスを見る。


「エルフにとって、自分の森は命そのものなの」


 アリスは一本の大樹に手を触れた。


「私が生きているから、この森も生きている」


「じゃあ……アリスが死んだら?」


「この森も、ゆっくりと枯れていく」


 淡々とした言葉だった。


 だが、その事実は俺の胸に重く響いた。


 目の前に広がる、果てしなく続く大森林。


 何千年もの時を生きてきた木々。


 花も、草も、動物たちも。


 この森にあるすべてが――アリスと共に生きている。


「だから、この森があるということは……」


 アリスは少しだけ笑った。


「私がまだ生きているということでもあるの」


「…………」


「私が死ねば、この森も役目を終える」


 あまりにも静かな言葉だった。


 まるで、自分の死を遠い未来の出来事として受け入れているように。


 俺は森を見渡した。


 こんなにも大きな森が、一人のエルフの命と繋がっている。


 そして――。


 この森が失われる時、アリスもまたこの世界から消える。


「……そんなの」


 思わず言葉が漏れた。


「どうしたの?」


「いや……」


 俺は拳を握った。


 まだ何も決まっていない。


 アリスは今、生きている。


 この大森林も、生きている。


 だったら――。


「……何でもない」


 俺はそう答えた。


 けれど胸の奥には、昨日までとは違う感情が生まれていた。


 アリスを守りたい。


 ただそれだけじゃない。


 この森も――。


 アリスが数千年をかけて育ててきた、この世界も守りたい。


 俺は、そう思った。


大森林の中心には、ひときわ大きな木があった。


 空を覆うほどに枝を広げ、その幹は何人もの人間が手を繋いでも囲めないほど太い。


 そして、その巨大な木の中には――アリスの家があった。


 今日から俺は、この場所でアリスに訓練をつけてもらう。


 最初は、剣術や盾の扱いを教えてもらうのだと思っていた。


 だが――。


「レオン」


 アリスが森の奥へ手を向ける。


「これから、この森を訓練場にします」


「……この森全部を?」


「ええ」


 次の瞬間だった。


 アリスの身体から、とてつもない魔力が放たれた。


 森全体が淡い光に包まれる。


 そして――。


 大森林を覆い尽くすほどの濃い霧が、瞬く間に広がっていった。


「……なんだ、これ」


 数歩先すら見えない。


 静かだった森が、まるで別の世界へ変わっていく。


「この霧の中では、私の幻術が働きます」


 アリスの声だけが、霧の向こうから聞こえる。


「幻術……?」


「ええ。これからレオンには、この森に現れる魔物と戦ってもらいます」


「どんな魔物なんだ?」


 アリスは少しだけ微笑んだ。


「レオンが今まで戦ってきた魔物より、ずっと強いものです」


「…………」


 嫌な予感がした。


 その直後――。


 森の奥から、地面を揺らすような咆哮が響いた。


「――グォォォォ‼︎」


 木々が震える。


 俺は反射的に盾を構え、イグニスブレイドを抜いた。


 霧の向こうから、巨大な影がゆっくりと近づいてくる。


「……あれと戦うのか?」


「ええ」


 アリスは平然と答えた。


「倒してください」


「……分かった」


 俺は剣を握り直した。


 そして――戦いが始まった。


 幻術によって生み出された魔物は、現実の魔物と変わらない。


 牙も。


 爪も。


 殺気も。


 そして――俺を殺そうとする力も。


 少しでも判断を誤れば、死ぬ。


 そのたびに俺は追い詰められた。


 そして――。


 俺に死が迫った瞬間。


 魂に刻まれたルーンが発動する。


「――っ!」


 世界が止まった。


 舞い上がった砂埃。


 宙を舞う木の葉。


 魔物の爪。


 すべてが静止している。


 その中を、俺だけが動く。


 死を免れる。


 だが――。


 それで終わりではない。


「立って、レオン」


 霧の向こうからアリスの声が聞こえる。


「まだ終わっていません」


「…………」


 俺は震える脚で立ち上がる。


 そして、また剣を構える。


 次の魔物が現れる。


 また戦う。


 また追い詰められる。


 また――ルーンが発動する。


 一度。


 二度。


 三度。


 幾度となく。


 それほどまでに――。


 アリスの訓練は、想像を遥かに超える過酷さを極めていた。


 一体、どれほど戦っているのだろう……。


 来る日も、来る日も。


 俺はひたすら戦い続けた。


 アリスの幻術によって現れる、強力な魔物たち。


 何度も剣を振り、盾を構え、命を懸けて立ち向かった。


 倒したこともある。


 だが――敗北したことの方が、遥かに多かった。


 何度地面に倒れたのか。


 何度、死を目前にしたのか。


 もう数えることすらできない。


 そのたびに――。


 魂に刻まれたルーンが発動する。


 周囲の時間が止まったように感じる。


 そして俺は、その僅かな瞬間を使って死を逃れ、再び立ち上がった。


 また戦う。


 倒す。


 敗北する。


 立ち上がる。


 そして――また戦う。


 それを、何度も繰り返した。


 気がつけば、季節がいくつも移り変わっていた。


 春が来て。


 夏になり。


 秋を迎え。


 そして、冬が訪れる。


 それが何度も繰り返された。


「……一体、どれくらい経ったんだ……」


 そんな疑問すら、いつしか考えなくなっていた。


 俺には時間を気にしている余裕なんてなかった。


 ただ一つだけ、俺の中に残っていたものがある。


 ――アリスに認めてもらう。


 それだけだった。


 どれだけ強い魔物が現れても。


 どれだけ敗北しても。


 どれだけ身体が動かなくなっても。


 俺は立ち上がった。


「……まだだ」


 剣を握る。


「まだ……終われない」


 そして、再び霧の中へ踏み込む。


 何度敗北しても。


 何度死を覚悟しても。


 俺は戦い続けた。


 アリスが――。


 「もう十分だ」


 そう言ってくれる、その日まで。


 俺はひたすら、戦い続けた。


 いつしか――俺の身体は、人族で言う青年から、完全な成人へと変わっていた。


 もともと冒険者として鍛えていた。


 剣を振り、盾を構え、魔物と戦ってきたことで、それなりに鍛えられた身体ではあった。


 だが――。


 アリスの訓練を受け始めてから、その身体は明らかに変わっていった。


 身長は少し伸びた。


 そして、全身の筋肉は以前とは比べものにならないほど発達していた。


 ただ大きくなったわけではない。


 無駄のない、鋼のような身体。


 剣を振るため。


 盾を構えるため。


 そして、どんな強敵と対峙しても立ち続けるための身体へと変わっていった。


 それでも――。


 俺自身は、自分がどれほど変わったのか、よく分かっていなかった。


 毎日、戦っていたからだ。


 目の前の敵を倒す。


 敗北する。


 立ち上がる。


 また戦う。


 ただ、それだけを繰り返してきた。


 そして気がつけば――。


 長い月日が流れていた。


 俺はアリスと共に、この大森林で暮らしていた。


 朝になれば訓練をする。


 昼になれば森を歩き、魔物と戦う。


 夜になれば、アリスの家へ戻る。


 そんな毎日だった。


 最初は何も知らなかった森のことも、少しずつ分かるようになった。


 どこに危険な魔物がいるのか。


 どの植物が食べられるのか。


 どこに水が湧いているのか。


 そして――。


 どの場所に行けば、アリスが機嫌を良くするのかまで。


「レオン、今日は少し休みましょうか」


「……珍しいな。アリスからそんなことを言うなんて」


「失礼ね」


 アリスが頬を膨らませる。


 俺は思わず笑った。


 そんな何気ない時間も、いつしか当たり前になっていた。


 長い年月を、俺たちは共に過ごした。


 人族にとっては、決して短くない時間。


 けれど――。


 数千年を生きるアリスにとっては、きっとほんの一部なのだろう。


 それでも俺は思う。


 この森で過ごした日々は――。


 俺の人生の中で、決して忘れることのできない時間になっていた。


 長い年月を、俺たちはこの大森林で共に過ごした。


 訓練の日々。


 魔物との戦い。


 何気ない食事。


 くだらない会話。


 そんな毎日を積み重ねているうちに、俺の中には一つの想いが生まれていた。


 この先も――きっと、多くの困難が俺たちを待っている。


 魔神のこと。


 俺自身の過去。


 そして、まだ知らないこの世界の脅威。


 これから先、何が起こるのか分からない。


 それでも。


 俺はアリスと共にいたかった。


 そして――。


 アリスに、何かを残したかった。


 数千年という途方もない時間を生きる彼女にとって、人族である俺と過ごす時間は、きっと長くはない。


 だからこそ――。


 俺は、形に残したかった。


 俺たちが共に生きた証を。


 俺はアリスの前に立った。


「アリス」


「……どうしたの? レオン」


 俺は、真っ直ぐにアリスを見つめた。


「俺と……結婚してほしい」


「…………」


 アリスの瞳が大きく開いた。


「……結婚?」


「ああ」


 アリスは何も言わなかった。


 しばらくの間、ただ俺を見つめている。


 やがて、困ったように視線を逸らした。


「……私、結婚というものが……よく分からないの」


「分かってる」


 俺は頷いた。


「だから、今すぐ答えを出してくれなくてもいい」


「…………」


「ただ……俺はアリスと一緒にいたい」


 それだけは、はっきりと伝えたかった。


「この先、何が起こるか分からない。俺たちに、どんな困難が待っているのかも分からない」


 俺はアリスの手を取った。


「だからこそ、俺はアリスとの間に、何か形を残したい」


「……形」


「ああ」


「それが……結婚なの?」


「俺にとっては、そうだ」


 アリスは俺の手を見つめた。


 そして、ゆっくりと顔を上げる。


 その瞳には、戸惑いがあった。


 けれど――。


 同時に、どこか嬉しそうな色も浮かんでいた。


「……不思議ね」


「何が?」


「数千年も生きてきた私が……今になって、こんなことで悩むなんて」


 アリスは小さく笑った。


「人族の恋愛も、結婚も……ずっと分からなかった」


 そして――。


 俺の手を、優しく握り返した。


「でも……」


 アリスは俺を真っ直ぐに見つめる。


「レオンと一緒にいたい」


「……アリス」


「だから――」


 少しだけ頬を赤くしながら。


「私でよければ……お願いします」


 その瞬間、胸の奥が熱くなった。


 俺はアリスをそっと抱きしめた。


 アリスも、俺の背中へ腕を回す。


 長い年月を生きてきたエルフと、一人の人族。


 本来なら、交わることすらなかったかもしれない二人。


 それでも俺たちは――。


 同じ時間を過ごし、同じ場所で生き、そして互いを選んだ。


 こうして俺たちは――。


 夫婦となった。


 いつか、この先に待ち受ける困難に立ち向かうために。


 そして――。


 俺たちが共に生きた証を、この世界に残すために。


むしろ、それからもアリスは容赦がなかった。


 幾度となく、過酷な訓練を繰り返した。


 森を駆け抜け、強力な魔物と戦い、限界まで身体を鍛える。


 そして時には――。


「今日は私と一対一で戦いましょう」


 アリス自身が、俺の前に立った。


「……本気で?」


「もちろん」


 俺は剣と盾を構える。


 相手は、数千年を生きるエルフの大賢者。


 それでも、俺は何度も挑んだ。


 剣を交え。


 盾で魔法を受け。


 隙を見つけては踏み込む。


 だが――。


 一度も勝つことはできなかった。


 何度挑んでも。


 何年続けても。


 結果は変わらなかった。


 それでも、俺は諦めなかった。


「もう一度、お願いします」


「……ふふ。いいでしょう」


 アリスは微笑む。


 そして、また構える。


 俺は剣を握り直した。


 負けることは分かっている。


 それでも――挑戦した。


 少しでもアリスとの距離を縮めるために。


 少しでも、強くなるために。


 そしていつか――。


「一度くらいは、アリスに勝ってみせる」


 そう言うと、アリスは楽しそうに笑った。


「ええ。楽しみにしています」


 結婚してからも、俺たちの修行の日々は続いた。


 戦って。


 倒れて。


 立ち上がって。


 また戦う。


 そんな日々を、俺たちは何度も繰り返した。


 それは過酷な訓練だった。


 けれど――。


 不思議と、嫌ではなかった。


 アリスと共に過ごす時間そのものが、俺にとって大切なものになっていたからだ。


 ふと、俺は自分の手を見つめた。


 この訓練が始まる前――。


 俺は確か、十七歳か十八歳だったはずだ。


 あれから、いったいどれほどの時間が経ったのだろう。


「……二十五……いや、二十六?」


 自分でも分からない。


「二十七……くらいか?」


 思わず苦笑する。


 季節が何度も巡った。


 何年経ったのか、もう正確には数えていなかった。


 俺にとっては、間違いなく長い年月だった。


 けれど――。


 隣にいるアリスを見る。


 数千年を生きる彼女にとっては、この時間さえもほんの僅かなものなのかもしれない。


「アリスにとっては……数週間とか、数ヶ月くらいの感覚なのかな」


「ふふ……そうかもしれないわね」


 アリスは微笑んだ。


 だが――。


 その表情には、以前とは少し違う柔らかさがあった。


「どうした?」


「……ううん」


 アリスは自分のお腹へ、そっと手を添えた。


 俺は、その仕草を見て首を傾げる。


「アリス?」


「レオン……」


 アリスは少しだけ恥ずかしそうに俺を見る。


「私……あなたに伝えたいことがあるの」


「何だ?」


 アリスは一度だけ深く息を吸った。


 そして――。


「私……赤ちゃんができました」


「…………え?」


 頭の中が、一瞬真っ白になった。


「赤ちゃん……?」


「ええ」


 アリスは頬を赤くしながら、小さく頷いた。


「私たちの……子供よ」


 俺は言葉を失った。


 数千年を生きるエルフ。


 子孫を残すという概念さえ、長い年月の中で失われていった種族。


 そんなアリスが――。


 俺との間に、新しい命を授かった。


「……本当に?」


「ええ」


 アリスは優しく微笑む。


 その手は、まだ目立たないお腹をそっと包んでいた。


 俺はゆっくりと、その手に自分の手を重ねた。


「……俺たちの子供……」


 その言葉を口にした瞬間。


 胸の奥から、これまで感じたことのない感情が込み上げてきた。


 嬉しい。


 そして――少し怖い。


 これから、この子を守っていかなければならない。


 俺はアリスを見る。


 アリスもまた、俺を見つめていた。


「レオン」


「ああ」


「私……今、とても幸せよ」


 その言葉を聞いて、俺は強く頷いた。


「俺もだ」


 こうして――。


 長い修行の日々の中で、俺たちのもとに新しい命が訪れた。


 アリスから、子供を授かったと聞いてから――。


 俺は、さらに訓練に打ち込むようになった。


 アリスを守る。


 そして――。


 生まれてくる子供を守る。


 そのために、もっと強くならなければならない。


 アリスとの一対一の勝負にも、何度も挑んだ。


 相変わらず、一度も勝てない。


 それでも俺は立ち上がった。


 何度倒されても。


 何度打ちのめされても。


 また剣を握った。


 そして、長い年月の訓練の中で――。


 俺自身の中にも、変化が起きていた。


 古代の迷宮で宿った、最初のルーン。


 あの時から俺の身体に宿っていた力。


 そのルーンの効果は――身体能力の強化だった。


「……っ!」


 身体に力を込める。


 すると、全身の奥から凄まじい力が湧き上がってくる。


 腕。


 脚。


 背中。


 すべての筋肉が、自分の身体ではないかと思うほど強くなる。


 まるで――。


 鬼神族の怪力が、自分の身体に宿ったかのような感覚。


 最初は、その力を扱うことすらできなかった。


 だが、アリスとの長い訓練によって、少しずつ制御できるようになった。


 力を出す。


 抑える。


 必要な瞬間だけ引き出す。


 今では、自分の意思で使える。


 そして――もう一つ。


 俺の魂に刻まれたルーン。


 死を間近にした時だけ発動していた、あのルーンだ。


 発動すると、世界が止まったかのように感じる。


 その中で、俺だけが動くことができる。


 かつては、死の直前に偶然発動するだけだった。


 だが――。


 長い修行の中で、俺はその感覚を何度も経験した。


 何度も死の瀬戸際に立たされ。


 何度もルーンの力に触れた。


 そして、いつしか――。


「……できる」


 俺は静かに呟いた。


 今なら、自分の意思でその力を引き出せる。


 ほんの僅かな時間だけ。


 世界が止まったような感覚。


 その中で、自分だけが動く。


 まだ完全ではない。


 長時間使えるわけでもない。


 それでも――。


 死を間近にしなくても、その力を自分の意思で使えるようになった。


 俺は剣を握り直した。


 身体能力を極限まで引き上げる最初のルーン。


 そして――。


 時が止まったかのような世界を駆け抜ける、魂のルーン。


 二つの力。


 それらを自分の力として、少しずつ使いこなせるようになっていた。


「まだだ……」


 俺は森の奥を見つめる。


 俺には守るものができた。


 アリス。


 そして――まだ見ぬ、俺たちの子供。


「もっと強くならないと」


 再び剣を構える。


 そして俺は――。


 今日もまた、アリスとの過酷な訓練へ挑んでいった。


 そして――月日は流れていった。


 厳しい冬が終わりを告げ、暖かな風が西の大森林を吹き抜ける。


 木々の間から差し込む陽の光も、少しずつ暖かくなっていた。


 春の始まり。


 その日、俺たちのもとに――新しい命が生まれた。


「……女の子よ」


 アリスが、腕の中に小さな赤ん坊を抱いている。


 俺は、初めて見る我が子の姿に言葉を失っていた。


 小さな手。


 小さな指。


 そして、まだ何も知らないような穏やかな寝顔。


「……可愛いな」


 それしか言葉が出てこなかった。


 俺は恐る恐る、その小さな手に指を近づける。


 すると――。


 小さな手が、俺の指をぎゅっと握った。


「……っ」


 胸の奥が熱くなる。


 この子を守る。


 何があっても。


 そう、強く思った。


 アリスが赤ん坊を見つめながら、静かに微笑んでいる。


「名前は……どうしましょう?」


 俺は窓の外へ目を向けた。


 森には、春の訪れを告げる花が咲き始めていた。


 淡い色の花々が、長い冬を終えた大地を彩っている。


「……カレン」


「カレン?」


「ああ」


 俺は小さな娘を見つめる。


「春を告げる花から取ったんだ」


 アリスはその名前を口にする。


「……カレン」


 そして、優しく微笑んだ。


「素敵な名前ね」


「だろ?」


「ええ」


 アリスはカレンを胸に抱き寄せた。


「今日から、この子はカレンね」


「ああ」


 こうして――。


 俺たちの娘は、カレンと名付けられた。


 春の始まりに生まれた、俺たちの大切な娘。

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