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冒険の書  作者: siva5880


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24/61

旧友

船長室の扉に手を掛ける。


 ゆっくりと押し開けると――。


 ギィ……。


 古びた蝶番の音が、静かな船内に響いた。


 薄暗い船長室。


 その奥には、大きな机があった。


 そして――その机の前に、一人のアンデッドが静かに座っていた。


「……!」


 俺は反射的に盾へ手を伸ばす。


 だが、すぐに違和感に気づいた。


 敵意がない。


 こちらを襲う気配も、殺気もまったく感じられなかった。


 ただ静かに、そこに座っている。


 長く伸びた髭。


 その髭の先端は、宝石の付いた髪留めで丁寧に束ねられている。


 その姿を見た瞬間――。


「……え?」


 胸の奥が、大きく揺れた。


 頭の中に、遠い記憶が浮かび上がる。


 笑い声。


 酒を片手に語り合った夜。


 くだらないことで笑い合った日々。


 そして――。


 俺の肩を叩きながら、いつものように笑っていた男。


「……ヴァン……?」


 口から、その名前が零れた。


 隣にいたアリスも、同じように彼を見つめていた。


 そして――。


「……ヴァン……」


 アリスは両手で顔を覆った。


「遅くなって……ごめんなさい……」


 声が震えている。


 指の隙間から、涙が零れ落ちた。


「……っ」


 俺も、何も言えなかった。


 目の前にいるのは、確かにヴァンだった。


 姿は変わってしまっている。


 肌は朽ち、身体は死者となっている。


 それでも――。


 俺には分かった。


 あの髭も。


 髭の先を束ねている、あの髪留めも。


 何より――。


 あの優しい目も。


「……ヴァン……」


 もう一度、名前を呼ぶ。


 その瞬間、視界が滲んだ。


 涙が頬を伝う。


 俺は慌てて拭おうとした。


 けれど、止まらなかった。


「……会いたかった……」


 自分でも驚くほど、声が震えていた。


 ヴァンは何も言わない。


 ただ、静かに俺たちを見つめている。


 長い年月を越えて。


 死者となった旧友と、再び向き合っている。


 俺は盾から手を離した。


 もう、戦う理由なんてなかった。


 目の前にいるのは敵じゃない。


 かつて共に笑い、共に歩いた――。


 俺たちの、大切な友だった。


俺たちは、武器を構えなかった。


 盾にも手を掛けない。


 ただ、ゆっくりと――ヴァンへ歩み寄る。


 足音だけが、静まり返った船長室に響いていた。


 ヴァンは何も言わない。


 ただ、俺たちを静かに見つめている。


 そして――。


 ヴァンはゆっくりと立ち上がった。


 その手に握られていたものを見て、俺は息を呑んだ。


 一冊の大きな書物。


 何千年もの間、海底に沈んでいたとは到底思えないほど綺麗な本だった。


 表紙には傷一つなく、古びた様子すらない。


「……本?」


 俺が呟く。


 だが、ヴァンがもう一つ手にしていたものを見た瞬間――。


 俺の胸が大きく高鳴った。


「……それは……」


 一本の剣。


 鞘から僅かに覗く刀身には、まるで生きているかのような赤い光が宿っている。


 ヴァンがかつて愛用していた剣。


 その名は――。


「イグニスブレイド……」


 アリスが、震える声で呟いた。


 炎を纏いし剣。


 かつて多くの戦場を炎の海へと変えたと伝えられる、伝説の一振り。


 その名は、ドワーフの王国――イグニス王国から取られたものだ。


 刀身から感じる熱は、鞘越しでさえ分かる。


 まるで、今も炎がその中で眠っているようだった。


 ヴァンは何も語らない。


 ただ――。


 俺の前まで歩いてくる。


 そして、大切に抱えていた書物とイグニスブレイドを、ゆっくりと俺へ差し出した。


「……俺に?」


 ヴァンは答えない。


 ただ、静かに俺を見つめている。


 俺は震える手を伸ばした。


 まず、大きな書物を受け取る。


 そして――。


 イグニスブレイドを受け取った。


 その瞬間。


 剣の中で、炎が揺らめいた。


「……っ」


 俺は思わず息を止めた。


 重い。


 けれど、不思議と嫌な重さではなかった。


 まるで――。


 長い間、持ち主の帰りを待っていたかのような感覚だった。


 俺は剣を見つめる。


 そして、もう一度ヴァンを見る。


「……ヴァン」


 涙が、また頬を伝った。


「どうして……」


 その先の言葉が出てこない。


 ヴァンは何も答えない。


 ただ、ほんの僅かに――。


 微笑んだように見えた。


イグニスブレイドと大きな書物を俺に託したヴァンは――。


 まるで、それで全ての役目を終えたかのように、ゆっくりと顔を上げた。


 船長室の天井。


 その先にある、遠い空を見上げるように。


 ヴァンは静かに目を閉じた。


「……ヴァン?」


 俺が声を掛けても、もうこちらを振り向かない。


 まるで――。


 ずっと待っていた何かを、ようやく終えることができたかのようだった。


 隣で、アリスが立ち尽くしている。


 そして――。


「……ヴァン……」


 涙で濡れた顔を上げる。


 アリスはゆっくりとヴァンへ歩み寄った。


 一歩。


 また一歩。


 そして――。


「ごめんなさい……!」


 アリスはヴァンに泣きついた。


「遅くなって……ごめんなさい……!」


 ヴァンの胸に顔を埋めるようにして、声を上げて泣く。


「ずっと……待っていたんだね……」


「ごめんなさい……ヴァン……」


「もっと早く……見つける事が出来れば……」


 ヴァンは何も言わない。


 ただ、静かにアリスを見つめていた。


 そして――。


 ゆっくりと、その手を上げる。


 骨ばった、死者の手。


 けれど、その動きは生前と何も変わらなかった。


 ヴァンの手が、アリスの頭に触れる。


 優しく。


 何度も。


 まるで、幼い子供を慰めるように。


「……ヴァン……」


 アリスの声が震える。


 その瞬間だった。


 ヴァンの身体から、淡い光が溢れ始めた。


「……浄化……」


 俺は呟いた。


 アリスが聖なる力を込める。


 眩い光が船長室を包み込んでいく。


 それでもヴァンは、最後までアリスの頭を撫で続けていた。


 身体が少しずつ光へと変わっていく。


 腕が。


 肩が。


 そして、長い髭が。


 その姿が少しずつ消えていく。


「嫌……」


 アリスが首を横に振る。


「まだ……」


「まだ一緒に……」


 けれど、ヴァンは何も言わない。


 ただ最後まで、優しくアリスの頭を撫でていた。


 そして――。


 最後に残った手が、アリスの髪をそっと撫でる。


 その手も、光の中へ消えていった。


「……ヴァン……」


 アリスの手が、空を掴む。


 そこにはもう、誰もいなかった。


 ただ、柔らかな光だけが静かに舞い落ちている。


 俺は何も言えなかった。


 胸に抱えたイグニスブレイドが、微かに熱を持つ。


 まるで――。


 ヴァンが最後に残した想いを、受け継いだかのように。


 長い、長い年月の果て。


 ようやくヴァンは、眠りにつくことができたのだ。


俺とアリスは、ゆっくりと沈没船から降りた。


 俺は、さっきまでヴァンがいた船長室を振り返った。


 もう、そこにヴァンの姿はない。


 けれど――。


 俺には分かる。


 あの船は、ヴァンが最後の時を過ごした場所だ。


 アリスも、岩場に座礁した船を静かに見つめていた。


 目は赤く腫れ、頬には涙の跡が残っている。


 しばらく黙って船を見つめたあと、アリスは小さく口を開いた。


「……この船も、浄化させる」


「船も……?」


「うん」


 アリスは頷いた。


「ヴァンが、何千年もの間……この船で眠って待ち続けた場所だから」


 そう言って、アリスは聖水を取り出した。


 岩場に座礁した古き船へ向け、静かに祈りを捧げる。


 やがて――。


 アリスの身体から、淡い光が溢れ始めた。


「……聖なる炎よ」


 次の瞬間。


 青い炎がアリスの手から放たれた。


 炎は岩場を走り、座礁した沈没船を包み込んでいく。


 青い炎に包まれた船体から、黒い靄がゆっくりと立ち昇った。


 長い年月、船に染みついていた死の気配が――少しずつ消えていく。


 俺は、その光景を黙って見つめていた。


 そしてカバンから、一本の酒を取り出す。


 栓を抜き、岩場の先から海へ少しだけ酒を注いだ。


「……ヴァン」


 波が静かに酒をさらっていく。


「今まで、よく頑張ったな」


 そして俺は、残った酒を一口飲んだ。


 しばらくして、アリスへ瓶を差し出す。


「……飲むか?」


 アリスは少し驚いたように俺を見る。


 普段、酒を飲まない彼女は――。


 今日だけは黙って瓶を受け取った。


「……今日だけは」


 そう呟いて、一口だけゆっくりと酒を飲む。


 俺たちは何も話さなかった。


 ただ、青い炎に包まれていく古き船を見つめていた。


 やがて――。


 青い炎が静かに消えていく。


 全てが灰となり、打ち付ける波に飲まれ海に帰っていった。


 数千年もの間、海底で眠り続け。


 大嵐によって、再びこの世界へ姿を現した船。


 そして――。


 俺たちがヴァンと再会するために、最後の場所としてここへ辿り着いた船。


「……じゃあな、ヴァン」


 隣でアリスも、涙の跡を残した顔で静かに頭を下げる。


「……さようなら、ヴァン」


 海風が吹き抜ける。


 波が岩場を優しく打つ。


 まるで――。


 長い眠りについた友を、海そのものが見送っているようだった。


港町カイゼルへ続く浜辺を、俺とアリスは並んで歩いていた。


 夕暮れの海。


 水平線へ沈みゆく夕陽が、海面を赤く染めている。


 いつもなら綺麗だと思うはずの景色が――。


 今日は、どうしようもなく切なかった。


 俺たちは何も話さなかった。


 ただ、波の音を聞きながら歩く。


 頭の中に浮かぶのは、さっきまで一緒にいたヴァンの姿。


 そして――。


 あの船で、長い年月を過ごした船員たちの姿だった。


 どんな人生を送っていたのだろう。


 どんな想いを抱えて、あの船に乗っていたのだろう。


 そして最後に――。


 何を思っていたのだろう。


 答えは、もう分からない。


 ただ、彼らが確かに生きていたことだけは分かる。


 しばらく歩いていると、隣から小さな嗚咽が聞こえた。


 見ると、アリスが俯いていた。


 頬には、また一筋の涙が流れている。


 アリスは慌てて手で拭う。


 けれど、涙は止まらなかった。


 俺は何も言わなかった。


 ただ――。


 そっと、アリスの手を握った。


「……」


 アリスが少しだけ顔を上げる。


 俺は何も言わず、そのまま歩いた。


 アリスも、握られた手を振りほどかなかった。


 やがて、彼女の手がゆっくりと握り返してくる。


 夕陽が、二人の影を長く浜辺へ伸ばしていた。


 波が寄せては返す。


 海風が静かに吹き抜ける。


 俺たちは言葉を交わさないまま――。


 ただ、同じ景色を見つめながら歩いた。


 やがて遠くに、港町カイゼルの明かりが見えてくる。


 今日という一日が、終わろうとしていた。


 俺は最後に一度だけ、振り返った。


 遠くの海。


 もう沈没船の姿は見えない。


 けれど――。


 俺の胸には、ヴァンの姿が残っている。


「……またな」


 小さく呟く。


 隣では、アリスが静かに涙を拭っていた。


 そして俺たちは――。


 手を繋いだまま、ゆっくりと港町カイゼルへ帰っていった。


 夕陽に照らされた浜辺を、二人並んで歩きながら。


港町カイゼルへ戻った俺たちは、冒険者ギルドへの報告を明日にすることにした。


 今日は、もう十分すぎるほどの出来事があった。


 宿屋へ戻ると、部屋の中は静かだった。


 俺とアリスは向かい合って座り、ヴァンから託された大きな書物を机の上に置いた。


「……開いてみよう」


「うん」


 アリスが、そっと表紙に手を触れる。


 何千年もの間、海底に沈んでいたとは思えないほど、その書物は綺麗な状態を保っていた。


 ゆっくりとページを開く。


「……これは……」


 最初に目に飛び込んできたのは、古い時代の地図だった。


 そこには――。


 今では存在しない国の名前が記されている。


 そして、ページを読み進めるにつれて、その内容に俺たちは言葉を失っていった。


 そこに記されていたのは――。


 イグニス王国の生誕。


 王国がどのように築かれ、どんな歴史を歩んできたのか。


 そして、ドワーフたちの間で語り継がれてきた英雄たちの物語。


 さらに――。


 今では失われてしまった、ドワーフの技術についても詳細に記されていた。


「……凄い」


 アリスがページをめくる。


「こんな技術……今の時代には残っていない」


 俺も、書かれている内容を覗き込む。


 武器の鍛造技術。


 特殊な鉱石の精錬方法。


 魔力を金属へ定着させる技術。


 そして、現代では作り方すら分からなくなった魔道具の記録。


 どれも、ただの古文書ではない。


 失われた歴史そのものだった。


「ヴァンは……これをずっと持っていたのか」


「たぶん……」


 アリスは静かに答えた。


「だから、私たちに託したんだと思う」


 俺は、もう一度その書物を見る。


 これは、ただの本じゃない。


 何千年という時間を越えて残された――。


 イグニス王国とドワーフたちの記憶そのものだ。


 そして俺は、ふと思う。


 ヴァンはこの書物を守るために、最後まで船を離れなかったのかもしれない。


 そう考えると――。


 胸の奥が、また少しだけ苦しくなった。


 俺たちはその夜、遅くまで書物を読み続けた。


 ページをめくるたびに、遠い昔の世界が少しずつ姿を現していった。


ページをめくるアリスの手が、ふと止まった。


 その指先が、わずかに震えている。


「……レオン」


「どうした?」


 アリスは書物を見つめたまま、静かに口を開いた。


「これは……とても貴重な、大陸の歴史。」


 声が震えていた。


「すでに失われたドワーフの歴史。そして、今では誰も知ることのできない技術まで記されている……」


 アリスは一度、深く息を吐く。


「こんなもの……私たちが持っていていい物じゃない」


 俺も、黙って書物を見る。


 何千年もの時を越えて残された記録。


 もしこの本が失われれば、二度と知ることのできない歴史が、この世界から消えてしまう。


「王都へ持っていきましょう」


 アリスが言った。


「そして、然るべき場所で慎重に保管してもらうべきです」


「……ああ」


 俺も頷いた。


「俺もそう思う」


 この書物は、俺たちが冒険の途中で持ち歩くような物じゃない。


 まして、金になるからと売っていい物でもない。


 これは――。


 ヴァンが何千年もの間、守り続けたものなのだから。


 俺は表紙へそっと手を置いた。


「ヴァンが俺たちに託したんだ」


「うん……」


 アリスも静かに頷く。


「だからこそ……大切にしないと」


 部屋の中に、静かな時間が流れる。


 俺たちはその書物を閉じた。


 そして、ヴァンから託されたもう一つのもの――。


 イグニスブレイドへ視線を向ける。


 失われた王国の歴史。


 そして、その王国を生きた英雄の剣。


 俺はそれらを見つめながら思った。


 ヴァンが俺たちに託したものは、ただの書物と剣じゃない。


 きっと――。


 遠い過去から未来へ残すための、大切な記憶なのだ。


翌朝。


 俺とアリスは、港町カイゼルの冒険者ギルドを訪れていた。


 受付へ向かうと、昨日と同じようにマチルダが受付に立っている。


「おはようございます」


「あら……?」


 俺たちの姿を見た瞬間、マチルダが目を丸くした。


「もう戻ってきたんですか?」


「はい」


 アリスが頷く。


 マチルダは俺たちの後ろを確認するように視線を動かした。


「……あの、古の沈没船の調査ですよね?」


「そうです」


「えっ……」


 マチルダの表情が固まった。


「昨日、依頼を受けたばかりですよね?」


「ああ」


「それなのに、もう帰ってきたんですか?」


「はい」


 あまりにも早い帰還に、マチルダは驚きを隠せない様子だった。


「何かあったんですか? まさか、途中で引き返したとか……」


「いえ」


 俺は首を横に振った。


「沈没船には、ちゃんと辿り着きました」


「では……?」


 俺は昨日の出来事を、一つずつ説明した。


 大嵐によって海底から姿を現し、岩場に座礁していた古い船。


 そして、船内で俺たちが出会った――。


 ヴァンのことを。


「……ヴァン?」


 その名前を聞いたマチルダが、僅かに目を見開いた。


「はい。船長だったようです」


 アリスが静かに答える。


「そして……船員たちの魂が、長い間あの船に残っていました」


 マチルダは黙って俺たちの話を聞いている。


「でも、戦闘はありませんでした」


 俺は続けた。


「敵意を向けてくる者もいなかった。だから、アリスが浄化を行いました」


「……浄化を?」


「はい」


 アリスが頷く。


「ヴァンも、最後には浄化されました」


 マチルダはしばらく言葉を失っていた。


 そして、静かに息を吐く。


「……そうでしたか」


 俺はカバンへ手を入れる。


「それと、もう一つ報告があります」


 取り出したのは――。


 ヴァンから託された、大きな書物。


 机の上へ置いた瞬間、マチルダの表情が変わった。


「これは……?」


「ヴァンから預かりました」


 アリスが説明する。


「イグニス王国の生誕や、王国に伝わる英雄伝。そして、今では失われているドワーフの技術まで記録されています」


「……そんなものが……」


 マチルダが書物を見つめる。


「これは私たちが持っているべき物ではありません」


 アリスが続けた。


「大陸の歴史そのものです。ですから、王都へ持っていき、然るべき場所で慎重に保管してもらいたいと思っています」


「……分かりました」


 マチルダはゆっくりと頷いた。


「この件は、ギルドからも王都へ報告しましょう」


 俺も頷く。


 こうして――。


 古の沈没船に関する依頼は、戦闘一つ起こることなく終わった。


 けれど俺たちが持ち帰ったものは、依頼の報酬などとは比べものにならないほど大きなものだった。


 数千年の時を越えて残された――。


 失われた王国の歴史だった。


報告を終えると、マチルダはすぐに動いてくれた。


「王都までの馬車を手配しておきます」


「ありがとうございます」


 俺は頭を下げる。


 ヴァンから託された大切な書物を、できるだけ早く王都へ届ける必要がある。


 こうして、俺たちは出発の準備を整えた。


 港町カイゼルを離れる前、俺は街を振り返る。


 昨日まで、ここでヴァンとの再会を果たすなんて、考えもしなかった。


「……王都を出て、カイゼルに着いて……」


 俺は苦笑する。


「すぐにまた、王都へ戻るとはな」


「ふふっ」


 隣にいたアリスが、小さく笑った。


「旅って、そういうものだよ」


「そういうものか?」


「うん」


 アリスは、少しだけ楽しそうに空を見上げる。


「思い通りにいかないからこそ、思いもしなかった場所へ行けるんだと思う」


「……なるほどな」


 俺も笑った。


 昨日まで知らなかった場所。


 そこで、何千年もの時を越えて旧友と再会した。


 そして今度は、彼が残したものを届けるために王都へ戻る。


 旅というのは、本当に不思議なものだ。


 やがて、手配された馬車が到着した。


 俺たちは荷物を積み込み、御者へ礼を告げて乗り込む。


「それじゃあ、行こう」


「ああ」


 馬車がゆっくりと動き出す。


 車輪が街道を踏みしめる音が響く。


 俺は窓から、遠ざかっていく港町カイゼルを眺めた。


 海から吹く風が、最後に頬を撫でる。


 俺は心の中で、もう一度だけ呟いた。


 ――さようなら、ヴァン。


 そして俺たちは、ヴァンから託された書物を大切に抱えながら――。


 王都ハルディオへ向け、足早に帰路についた。


王都ハルディオへ到着した。


 正門をくぐろうとした、その時だった。


「……あれ?」


 門番の一人が、俺たちの姿を見て目を見開いた。


「レオンさん……? それに、アリスさん……?」


 次の瞬間。


 門番たちは慌ただしく動き始めた。


「すぐに報告を!」


「騎士団へ連絡を!」


「冒険者ギルドにもだ!」


「宮廷魔導士にも知らせろ!」


「えっ?」


 俺は思わず足を止めた。


「何でそんな大事になってるんだ?」


 どうやら、俺たちがカイゼルへ向かったことは王都でも知られていたらしい。


 そして、想定していたよりも早く戻ってきた俺たちを見て、何か大きな出来事があったと判断したようだった。


 俺とアリスはそのまま王都へ入った。


 すると――。


「レオンさん!」


「アリス様!」


「少しお話を!」


 少し歩いただけで、今度は様々な職員たちが次々と駆け寄ってきた。


「沈没船で何が――」


「古代の資料が発見されたと――」


「騎士団への報告を――」


「宮廷魔導士からも確認が――」


「ちょ、ちょっと待ってくれ!」


 あまりの勢いに、俺は困惑する。


 しかし――。


 隣にいたアリスが、ゆっくりと振り返った。


「…………」


 無言。


 そして、ほんの少しだけ眉を寄せている。


 その顔を見た職員たちは――。


「……あ」


「……また後ほど」


「そうですね」


「失礼しました!」


 まるで申し合わせたかのように、一斉に引いていった。


「……え?」


 俺は呆然と、その場に残された。


「アリス……?」


「何?」


「いや……何でもない」


 俺は苦笑した。


 どうやら今のアリスに、余計な話をするのは危険らしい。


 アリスはというと――。


「早く行こう、レオン」


「どこへ?」


「書物を保管してもらうところ」


 その目は真剣だった。


「ヴァンが残した大切なものだから。できるだけ早く、安全な場所へ届けないと」


「ああ、そうだな」


 アリスの頭の中には、今はそれしかないらしい。


 俺たちは足早に王都の中心へ向かった。


 こうして俺たちは、再び王都ハルディオへ戻ってきた。


 けれど――。


 どうやら、俺たちが思っていた以上に、今回の出来事は王都を騒がせることになりそうだった。


俺たちが向かったのは、王立大書庫だった。


 馬車が王都の大通りを進んでいく。


 そして、ふと後ろを見ると――。


「……なんだ、あれ?」


 馬車の後ろには、いつの間にか大勢の職員たちが続いていた。


 騎士団。


 冒険者ギルド。


 宮廷魔導士。


 そして、どこから聞きつけたのか分からない役人たちまでいる。


 皆、我先にと馬車へ追いつこうとして、早足でついてきていた。


「おい、押すな!」


「そっちこそ!」


「私たちが先に話を聞くんだ!」


「いや、これは宮廷魔導士が確認するべきだ!」


 後ろから、そんな声まで聞こえてくる。


「……何でこんなことになってるんだ?」


 俺は馬車の中で呟いた。


 アリスはというと――。


「…………」


 完全に無言だった。


 ただ、膝の上に置いたヴァンの書物を大切そうに抱えている。


 そして――。


 少し不機嫌そうだった。


「アリス……」


「何?」


「……いや、何でもない」


 俺はそれ以上、何も言わなかった。


 やがて馬車は、王立大書庫へ到着した。


 馬車が止まると同時に、書庫の職員たちが慌てて駆け寄ってくる。


「お待ちしておりました!」


「こちらへ!」


「貴重な資料と伺っています!」


 俺たちはすぐに書庫の中へ案内された。


 通されたのは、来賓用と思われる豪華な部屋だった。


 壁には古い絵画。


 天井には美しい装飾。


 大きな机と椅子まで用意されている。


「……ここまでしなくても」


 俺が呟く。


 しかし、俺たちが部屋へ入ると――。


「待ってください!」


「私も確認します!」


「いや、まず私が――」


 ぞろぞろぞろ……。


 さっきまで馬車の後ろをついてきていた職員たちまで、大書庫の中へ我先にと入ってきた。


「おい、押すな!」


「あなたこそ!」


「この資料は歴史学的に――」


「魔導技術については私たちが――」


「ちょっと!」


 しまいには、職員同士で言い争いまで始まってしまった。


 俺とアリスは、ただ呆然とその様子を眺める。


 その時――。


「…………お静かに」


 静かな声が部屋に響いた。


 全員が一瞬で黙った。


 そこに立っていたのは、一人の女性の書庫員だった。


 眼鏡を掛け、きちんとした服装をした彼女は、困ったように職員たちを見回している。


「ここは王立大書庫です」


 女性書庫員が静かに言う。


「大切な資料を扱う場所ですから……お静かにお願いします」


「…………」


「…………はい」


「すみません……」


 さっきまで我先にと争っていた職員たちが――。


 まるで叱られた子供のように、揃ってシュンとなった。


 俺は思わずアリスを見る。


 アリスも少しだけ目を丸くしていた。


 そして――。


 ほんの少しだけ笑った。


「……ここなら、安心できそう」


「俺もそう思う」


 俺は机の上に、ヴァンから託された大きな書物をそっと置いた。


 何千年もの時を越えて残された、失われた歴史。


 今日、ようやく――。


 その記録を守るための場所へ辿り着いたのだった。


女性の書庫員は、しばらく書物を見つめていた。


 そして――。


「……少々、お待ちください」


 そう言うと、彼女は奥から白い手袋を持ってきた。


 両手に手袋をはめる。


 その動作一つ一つから、この書物がどれほど重要なものなのかが伝わってきた。


「それでは……確認させていただきます」


 女性書庫員は、慎重に表紙へ手を添えた。


 そして――。


 ゆっくりと、最初のページを開く。


「…………」


 言葉が出てこない。


 俺もアリスも、黙ってその様子を見守っていた。


 一枚。


 また一枚。


 ページをめくるたびに、女性書庫員の目が大きく見開かれていく。


 そこには、今では失われた時代の美しい絵が描かれていた。


 精密な文字。


 見たこともない装飾。


 ドワーフたちが築いた王国の街並み。


 王たちの姿。


 英雄たちの物語。


 そして――。


 現代では失われてしまった技術の記録。


 どのページも、まるで一枚の芸術作品のようだった。


「……信じられない……」


 女性書庫員の声が震えている。


 さらに一枚。


 また一枚。


 彼女は決して急ぐことなく、ページの端を傷つけないよう、細心の注意を払いながら確認していく。


 やがて――。


 その手が止まった。


「……これほどの資料が……」


 震える指先。


 彼女は書物から目を離せない。


「失われたイグニス王国の……」


 言葉が続かない。


 何千年もの時を越えて残された記録。


 歴史書。


 英雄譚。


 技術書。


 そして、当時の人々の暮らしまで記録されている。


 それは一冊の本というには、あまりにも価値が大きかった。


「……こんなものが、現代まで残っていたなんて……」


 女性書庫員は、震えながら次のページをめくる。


 俺はその姿を見ながら思った。


 ヴァンは――。


 何千年もの間、この書物を守り続けていたのだ。


 誰にも知られることなく。


 誰にも読まれることなく。


 ただいつか、誰かに託すその日まで。


 そして今。


 その役目は、俺たちへ受け継がれた。


 女性書庫員の手が、また一枚のページをめくる。


 その瞳には、歴史を目の前にした者の畏敬が浮かんでいた。


女性書庫員は、しばらく書物を見つめたまま動かなかった。


 そして――。


「……外にいる方々を、ここへ」


 静かな声だった。


「全員……ですか?」


「はい」


 女性書庫員は頷いた。


「魔法協会の方々と、宮廷魔導士の方々をお願いします」


 しばらくして――。


 先ほどまで廊下で待機していた職員たちが、次々と部屋へ入ってきた。


「一体、何が――」


「この資料を見てください」


 女性書庫員は、一冊のページを開いた。


 そこには――。


 複雑な魔法陣。


 金属の精錬方法。


 宝石へ魔力を定着させるための工程。


 そして、それらを組み合わせるための術式が、細かく記されていた。


「…………」


 宮廷魔導士の一人が、言葉を失った。


「これは……」


 別の魔導士が、震える手でページへ近づく。


「魔法付与……?」


「はい」


 女性書庫員が答える。


「金属や宝石そのものに、魔法を付与する技術です」


「……そんな……」


 魔法協会の職員がページを凝視する。


「現代の付与魔法とは、まるで違う……」


 そこに記されていたのは、単純に魔力を込めるだけの技術ではなかった。


 金属そのものの性質を変化させる術式。


 宝石に魔力を蓄積させる方法。


 さらに、複数の素材を組み合わせることで、長期間にわたって魔法効果を維持する技術。


 今の時代には失われている――。


 ドワーフたちの魔法技術だった。


「……これが本物なら……」


 一人の宮廷魔導士が、震える声で呟いた。


「魔法道具の歴史そのものが、変わるぞ……」


 その場にいた別の魔導士は、あまりの衝撃に腰から力が抜けたように、その場へ座り込んでしまった。


「おい、大丈夫か!?」


「……大丈夫なわけがない……」


 床に座り込んだ魔導士は、震えながらページを見上げる。


「こんなものが……今まで失われていたなんて……」


 俺は、黙ってその光景を見ていた。


 アリスも、驚いた表情で書物を見つめている。


 ヴァンが俺たちに託した一冊の本。


 それは――。


 ただの歴史書ではなかった。


 失われた王国の記憶。


 そして、現代の誰も知らない魔法技術。


 何千年もの間、海の底で眠っていたそれは――。


 今、再びこの世界へ戻ってきたのだった。


女性書庫員は、震える手で最後のページをそっと押さえた。


 その目には、驚きと感動が入り混じっている。


 そして――。


「……ドワーフという種が滅んでから、数千年……」


 震える声が、静かな書庫に響いた。


「でも……こうして、ドワーフの技術が残っている」


 女性書庫員は、大きな書物へそっと手を添える。


「いえ……」


 一度、言葉を詰まらせた。


 そして、涙を浮かべながら続ける。


「ドワーフ族が……また、この大陸に蘇るんですね」


「…………」


 その言葉に、俺は胸を打たれた。


 隣を見ると、アリスも目に涙を浮かべている。


 何千年もの間、海の底で眠っていたヴァン。


 彼が最後まで守り続けたもの。


 それは、ただの古い書物ではなかった。


 ドワーフたちが生きていた証。


 彼らが築き上げた技術。


 そして――。


 未来へ受け継ぐことのできる、希望だった。


「……ああ」


 俺は小さく呟いた。


「きっと……そうなんだろうな」


 アリスも静かに頷く。


「うん……」


 涙を拭いながら、微笑んだ。


 失われたと思われていた種族。


 その記憶と技術が、数千年という時を越えて現代へ蘇った。


 ヴァンが守り続けたものは、決して無駄ではなかった。


 俺たちは、もう一度その書物を見つめる。


 そして――。


 その瞬間、俺はヴァンの最後の微笑みを思い出していた。


 まるで、こう言っているようだった。


 ――これで、いい。


 俺は目を閉じる。


 胸の奥に、温かなものが込み上げてきた。


 ヴァン。


 お前が守ったものは――。


 ちゃんと、未来へ繋がっていくよ。

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