旧友
船長室の扉に手を掛ける。
ゆっくりと押し開けると――。
ギィ……。
古びた蝶番の音が、静かな船内に響いた。
薄暗い船長室。
その奥には、大きな机があった。
そして――その机の前に、一人のアンデッドが静かに座っていた。
「……!」
俺は反射的に盾へ手を伸ばす。
だが、すぐに違和感に気づいた。
敵意がない。
こちらを襲う気配も、殺気もまったく感じられなかった。
ただ静かに、そこに座っている。
長く伸びた髭。
その髭の先端は、宝石の付いた髪留めで丁寧に束ねられている。
その姿を見た瞬間――。
「……え?」
胸の奥が、大きく揺れた。
頭の中に、遠い記憶が浮かび上がる。
笑い声。
酒を片手に語り合った夜。
くだらないことで笑い合った日々。
そして――。
俺の肩を叩きながら、いつものように笑っていた男。
「……ヴァン……?」
口から、その名前が零れた。
隣にいたアリスも、同じように彼を見つめていた。
そして――。
「……ヴァン……」
アリスは両手で顔を覆った。
「遅くなって……ごめんなさい……」
声が震えている。
指の隙間から、涙が零れ落ちた。
「……っ」
俺も、何も言えなかった。
目の前にいるのは、確かにヴァンだった。
姿は変わってしまっている。
肌は朽ち、身体は死者となっている。
それでも――。
俺には分かった。
あの髭も。
髭の先を束ねている、あの髪留めも。
何より――。
あの優しい目も。
「……ヴァン……」
もう一度、名前を呼ぶ。
その瞬間、視界が滲んだ。
涙が頬を伝う。
俺は慌てて拭おうとした。
けれど、止まらなかった。
「……会いたかった……」
自分でも驚くほど、声が震えていた。
ヴァンは何も言わない。
ただ、静かに俺たちを見つめている。
長い年月を越えて。
死者となった旧友と、再び向き合っている。
俺は盾から手を離した。
もう、戦う理由なんてなかった。
目の前にいるのは敵じゃない。
かつて共に笑い、共に歩いた――。
俺たちの、大切な友だった。
俺たちは、武器を構えなかった。
盾にも手を掛けない。
ただ、ゆっくりと――ヴァンへ歩み寄る。
足音だけが、静まり返った船長室に響いていた。
ヴァンは何も言わない。
ただ、俺たちを静かに見つめている。
そして――。
ヴァンはゆっくりと立ち上がった。
その手に握られていたものを見て、俺は息を呑んだ。
一冊の大きな書物。
何千年もの間、海底に沈んでいたとは到底思えないほど綺麗な本だった。
表紙には傷一つなく、古びた様子すらない。
「……本?」
俺が呟く。
だが、ヴァンがもう一つ手にしていたものを見た瞬間――。
俺の胸が大きく高鳴った。
「……それは……」
一本の剣。
鞘から僅かに覗く刀身には、まるで生きているかのような赤い光が宿っている。
ヴァンがかつて愛用していた剣。
その名は――。
「イグニスブレイド……」
アリスが、震える声で呟いた。
炎を纏いし剣。
かつて多くの戦場を炎の海へと変えたと伝えられる、伝説の一振り。
その名は、ドワーフの王国――イグニス王国から取られたものだ。
刀身から感じる熱は、鞘越しでさえ分かる。
まるで、今も炎がその中で眠っているようだった。
ヴァンは何も語らない。
ただ――。
俺の前まで歩いてくる。
そして、大切に抱えていた書物とイグニスブレイドを、ゆっくりと俺へ差し出した。
「……俺に?」
ヴァンは答えない。
ただ、静かに俺を見つめている。
俺は震える手を伸ばした。
まず、大きな書物を受け取る。
そして――。
イグニスブレイドを受け取った。
その瞬間。
剣の中で、炎が揺らめいた。
「……っ」
俺は思わず息を止めた。
重い。
けれど、不思議と嫌な重さではなかった。
まるで――。
長い間、持ち主の帰りを待っていたかのような感覚だった。
俺は剣を見つめる。
そして、もう一度ヴァンを見る。
「……ヴァン」
涙が、また頬を伝った。
「どうして……」
その先の言葉が出てこない。
ヴァンは何も答えない。
ただ、ほんの僅かに――。
微笑んだように見えた。
イグニスブレイドと大きな書物を俺に託したヴァンは――。
まるで、それで全ての役目を終えたかのように、ゆっくりと顔を上げた。
船長室の天井。
その先にある、遠い空を見上げるように。
ヴァンは静かに目を閉じた。
「……ヴァン?」
俺が声を掛けても、もうこちらを振り向かない。
まるで――。
ずっと待っていた何かを、ようやく終えることができたかのようだった。
隣で、アリスが立ち尽くしている。
そして――。
「……ヴァン……」
涙で濡れた顔を上げる。
アリスはゆっくりとヴァンへ歩み寄った。
一歩。
また一歩。
そして――。
「ごめんなさい……!」
アリスはヴァンに泣きついた。
「遅くなって……ごめんなさい……!」
ヴァンの胸に顔を埋めるようにして、声を上げて泣く。
「ずっと……待っていたんだね……」
「ごめんなさい……ヴァン……」
「もっと早く……見つける事が出来れば……」
ヴァンは何も言わない。
ただ、静かにアリスを見つめていた。
そして――。
ゆっくりと、その手を上げる。
骨ばった、死者の手。
けれど、その動きは生前と何も変わらなかった。
ヴァンの手が、アリスの頭に触れる。
優しく。
何度も。
まるで、幼い子供を慰めるように。
「……ヴァン……」
アリスの声が震える。
その瞬間だった。
ヴァンの身体から、淡い光が溢れ始めた。
「……浄化……」
俺は呟いた。
アリスが聖なる力を込める。
眩い光が船長室を包み込んでいく。
それでもヴァンは、最後までアリスの頭を撫で続けていた。
身体が少しずつ光へと変わっていく。
腕が。
肩が。
そして、長い髭が。
その姿が少しずつ消えていく。
「嫌……」
アリスが首を横に振る。
「まだ……」
「まだ一緒に……」
けれど、ヴァンは何も言わない。
ただ最後まで、優しくアリスの頭を撫でていた。
そして――。
最後に残った手が、アリスの髪をそっと撫でる。
その手も、光の中へ消えていった。
「……ヴァン……」
アリスの手が、空を掴む。
そこにはもう、誰もいなかった。
ただ、柔らかな光だけが静かに舞い落ちている。
俺は何も言えなかった。
胸に抱えたイグニスブレイドが、微かに熱を持つ。
まるで――。
ヴァンが最後に残した想いを、受け継いだかのように。
長い、長い年月の果て。
ようやくヴァンは、眠りにつくことができたのだ。
俺とアリスは、ゆっくりと沈没船から降りた。
俺は、さっきまでヴァンがいた船長室を振り返った。
もう、そこにヴァンの姿はない。
けれど――。
俺には分かる。
あの船は、ヴァンが最後の時を過ごした場所だ。
アリスも、岩場に座礁した船を静かに見つめていた。
目は赤く腫れ、頬には涙の跡が残っている。
しばらく黙って船を見つめたあと、アリスは小さく口を開いた。
「……この船も、浄化させる」
「船も……?」
「うん」
アリスは頷いた。
「ヴァンが、何千年もの間……この船で眠って待ち続けた場所だから」
そう言って、アリスは聖水を取り出した。
岩場に座礁した古き船へ向け、静かに祈りを捧げる。
やがて――。
アリスの身体から、淡い光が溢れ始めた。
「……聖なる炎よ」
次の瞬間。
青い炎がアリスの手から放たれた。
炎は岩場を走り、座礁した沈没船を包み込んでいく。
青い炎に包まれた船体から、黒い靄がゆっくりと立ち昇った。
長い年月、船に染みついていた死の気配が――少しずつ消えていく。
俺は、その光景を黙って見つめていた。
そしてカバンから、一本の酒を取り出す。
栓を抜き、岩場の先から海へ少しだけ酒を注いだ。
「……ヴァン」
波が静かに酒をさらっていく。
「今まで、よく頑張ったな」
そして俺は、残った酒を一口飲んだ。
しばらくして、アリスへ瓶を差し出す。
「……飲むか?」
アリスは少し驚いたように俺を見る。
普段、酒を飲まない彼女は――。
今日だけは黙って瓶を受け取った。
「……今日だけは」
そう呟いて、一口だけゆっくりと酒を飲む。
俺たちは何も話さなかった。
ただ、青い炎に包まれていく古き船を見つめていた。
やがて――。
青い炎が静かに消えていく。
全てが灰となり、打ち付ける波に飲まれ海に帰っていった。
数千年もの間、海底で眠り続け。
大嵐によって、再びこの世界へ姿を現した船。
そして――。
俺たちがヴァンと再会するために、最後の場所としてここへ辿り着いた船。
「……じゃあな、ヴァン」
隣でアリスも、涙の跡を残した顔で静かに頭を下げる。
「……さようなら、ヴァン」
海風が吹き抜ける。
波が岩場を優しく打つ。
まるで――。
長い眠りについた友を、海そのものが見送っているようだった。
港町カイゼルへ続く浜辺を、俺とアリスは並んで歩いていた。
夕暮れの海。
水平線へ沈みゆく夕陽が、海面を赤く染めている。
いつもなら綺麗だと思うはずの景色が――。
今日は、どうしようもなく切なかった。
俺たちは何も話さなかった。
ただ、波の音を聞きながら歩く。
頭の中に浮かぶのは、さっきまで一緒にいたヴァンの姿。
そして――。
あの船で、長い年月を過ごした船員たちの姿だった。
どんな人生を送っていたのだろう。
どんな想いを抱えて、あの船に乗っていたのだろう。
そして最後に――。
何を思っていたのだろう。
答えは、もう分からない。
ただ、彼らが確かに生きていたことだけは分かる。
しばらく歩いていると、隣から小さな嗚咽が聞こえた。
見ると、アリスが俯いていた。
頬には、また一筋の涙が流れている。
アリスは慌てて手で拭う。
けれど、涙は止まらなかった。
俺は何も言わなかった。
ただ――。
そっと、アリスの手を握った。
「……」
アリスが少しだけ顔を上げる。
俺は何も言わず、そのまま歩いた。
アリスも、握られた手を振りほどかなかった。
やがて、彼女の手がゆっくりと握り返してくる。
夕陽が、二人の影を長く浜辺へ伸ばしていた。
波が寄せては返す。
海風が静かに吹き抜ける。
俺たちは言葉を交わさないまま――。
ただ、同じ景色を見つめながら歩いた。
やがて遠くに、港町カイゼルの明かりが見えてくる。
今日という一日が、終わろうとしていた。
俺は最後に一度だけ、振り返った。
遠くの海。
もう沈没船の姿は見えない。
けれど――。
俺の胸には、ヴァンの姿が残っている。
「……またな」
小さく呟く。
隣では、アリスが静かに涙を拭っていた。
そして俺たちは――。
手を繋いだまま、ゆっくりと港町カイゼルへ帰っていった。
夕陽に照らされた浜辺を、二人並んで歩きながら。
港町カイゼルへ戻った俺たちは、冒険者ギルドへの報告を明日にすることにした。
今日は、もう十分すぎるほどの出来事があった。
宿屋へ戻ると、部屋の中は静かだった。
俺とアリスは向かい合って座り、ヴァンから託された大きな書物を机の上に置いた。
「……開いてみよう」
「うん」
アリスが、そっと表紙に手を触れる。
何千年もの間、海底に沈んでいたとは思えないほど、その書物は綺麗な状態を保っていた。
ゆっくりとページを開く。
「……これは……」
最初に目に飛び込んできたのは、古い時代の地図だった。
そこには――。
今では存在しない国の名前が記されている。
そして、ページを読み進めるにつれて、その内容に俺たちは言葉を失っていった。
そこに記されていたのは――。
イグニス王国の生誕。
王国がどのように築かれ、どんな歴史を歩んできたのか。
そして、ドワーフたちの間で語り継がれてきた英雄たちの物語。
さらに――。
今では失われてしまった、ドワーフの技術についても詳細に記されていた。
「……凄い」
アリスがページをめくる。
「こんな技術……今の時代には残っていない」
俺も、書かれている内容を覗き込む。
武器の鍛造技術。
特殊な鉱石の精錬方法。
魔力を金属へ定着させる技術。
そして、現代では作り方すら分からなくなった魔道具の記録。
どれも、ただの古文書ではない。
失われた歴史そのものだった。
「ヴァンは……これをずっと持っていたのか」
「たぶん……」
アリスは静かに答えた。
「だから、私たちに託したんだと思う」
俺は、もう一度その書物を見る。
これは、ただの本じゃない。
何千年という時間を越えて残された――。
イグニス王国とドワーフたちの記憶そのものだ。
そして俺は、ふと思う。
ヴァンはこの書物を守るために、最後まで船を離れなかったのかもしれない。
そう考えると――。
胸の奥が、また少しだけ苦しくなった。
俺たちはその夜、遅くまで書物を読み続けた。
ページをめくるたびに、遠い昔の世界が少しずつ姿を現していった。
ページをめくるアリスの手が、ふと止まった。
その指先が、わずかに震えている。
「……レオン」
「どうした?」
アリスは書物を見つめたまま、静かに口を開いた。
「これは……とても貴重な、大陸の歴史。」
声が震えていた。
「すでに失われたドワーフの歴史。そして、今では誰も知ることのできない技術まで記されている……」
アリスは一度、深く息を吐く。
「こんなもの……私たちが持っていていい物じゃない」
俺も、黙って書物を見る。
何千年もの時を越えて残された記録。
もしこの本が失われれば、二度と知ることのできない歴史が、この世界から消えてしまう。
「王都へ持っていきましょう」
アリスが言った。
「そして、然るべき場所で慎重に保管してもらうべきです」
「……ああ」
俺も頷いた。
「俺もそう思う」
この書物は、俺たちが冒険の途中で持ち歩くような物じゃない。
まして、金になるからと売っていい物でもない。
これは――。
ヴァンが何千年もの間、守り続けたものなのだから。
俺は表紙へそっと手を置いた。
「ヴァンが俺たちに託したんだ」
「うん……」
アリスも静かに頷く。
「だからこそ……大切にしないと」
部屋の中に、静かな時間が流れる。
俺たちはその書物を閉じた。
そして、ヴァンから託されたもう一つのもの――。
イグニスブレイドへ視線を向ける。
失われた王国の歴史。
そして、その王国を生きた英雄の剣。
俺はそれらを見つめながら思った。
ヴァンが俺たちに託したものは、ただの書物と剣じゃない。
きっと――。
遠い過去から未来へ残すための、大切な記憶なのだ。
翌朝。
俺とアリスは、港町カイゼルの冒険者ギルドを訪れていた。
受付へ向かうと、昨日と同じようにマチルダが受付に立っている。
「おはようございます」
「あら……?」
俺たちの姿を見た瞬間、マチルダが目を丸くした。
「もう戻ってきたんですか?」
「はい」
アリスが頷く。
マチルダは俺たちの後ろを確認するように視線を動かした。
「……あの、古の沈没船の調査ですよね?」
「そうです」
「えっ……」
マチルダの表情が固まった。
「昨日、依頼を受けたばかりですよね?」
「ああ」
「それなのに、もう帰ってきたんですか?」
「はい」
あまりにも早い帰還に、マチルダは驚きを隠せない様子だった。
「何かあったんですか? まさか、途中で引き返したとか……」
「いえ」
俺は首を横に振った。
「沈没船には、ちゃんと辿り着きました」
「では……?」
俺は昨日の出来事を、一つずつ説明した。
大嵐によって海底から姿を現し、岩場に座礁していた古い船。
そして、船内で俺たちが出会った――。
ヴァンのことを。
「……ヴァン?」
その名前を聞いたマチルダが、僅かに目を見開いた。
「はい。船長だったようです」
アリスが静かに答える。
「そして……船員たちの魂が、長い間あの船に残っていました」
マチルダは黙って俺たちの話を聞いている。
「でも、戦闘はありませんでした」
俺は続けた。
「敵意を向けてくる者もいなかった。だから、アリスが浄化を行いました」
「……浄化を?」
「はい」
アリスが頷く。
「ヴァンも、最後には浄化されました」
マチルダはしばらく言葉を失っていた。
そして、静かに息を吐く。
「……そうでしたか」
俺はカバンへ手を入れる。
「それと、もう一つ報告があります」
取り出したのは――。
ヴァンから託された、大きな書物。
机の上へ置いた瞬間、マチルダの表情が変わった。
「これは……?」
「ヴァンから預かりました」
アリスが説明する。
「イグニス王国の生誕や、王国に伝わる英雄伝。そして、今では失われているドワーフの技術まで記録されています」
「……そんなものが……」
マチルダが書物を見つめる。
「これは私たちが持っているべき物ではありません」
アリスが続けた。
「大陸の歴史そのものです。ですから、王都へ持っていき、然るべき場所で慎重に保管してもらいたいと思っています」
「……分かりました」
マチルダはゆっくりと頷いた。
「この件は、ギルドからも王都へ報告しましょう」
俺も頷く。
こうして――。
古の沈没船に関する依頼は、戦闘一つ起こることなく終わった。
けれど俺たちが持ち帰ったものは、依頼の報酬などとは比べものにならないほど大きなものだった。
数千年の時を越えて残された――。
失われた王国の歴史だった。
報告を終えると、マチルダはすぐに動いてくれた。
「王都までの馬車を手配しておきます」
「ありがとうございます」
俺は頭を下げる。
ヴァンから託された大切な書物を、できるだけ早く王都へ届ける必要がある。
こうして、俺たちは出発の準備を整えた。
港町カイゼルを離れる前、俺は街を振り返る。
昨日まで、ここでヴァンとの再会を果たすなんて、考えもしなかった。
「……王都を出て、カイゼルに着いて……」
俺は苦笑する。
「すぐにまた、王都へ戻るとはな」
「ふふっ」
隣にいたアリスが、小さく笑った。
「旅って、そういうものだよ」
「そういうものか?」
「うん」
アリスは、少しだけ楽しそうに空を見上げる。
「思い通りにいかないからこそ、思いもしなかった場所へ行けるんだと思う」
「……なるほどな」
俺も笑った。
昨日まで知らなかった場所。
そこで、何千年もの時を越えて旧友と再会した。
そして今度は、彼が残したものを届けるために王都へ戻る。
旅というのは、本当に不思議なものだ。
やがて、手配された馬車が到着した。
俺たちは荷物を積み込み、御者へ礼を告げて乗り込む。
「それじゃあ、行こう」
「ああ」
馬車がゆっくりと動き出す。
車輪が街道を踏みしめる音が響く。
俺は窓から、遠ざかっていく港町カイゼルを眺めた。
海から吹く風が、最後に頬を撫でる。
俺は心の中で、もう一度だけ呟いた。
――さようなら、ヴァン。
そして俺たちは、ヴァンから託された書物を大切に抱えながら――。
王都ハルディオへ向け、足早に帰路についた。
王都ハルディオへ到着した。
正門をくぐろうとした、その時だった。
「……あれ?」
門番の一人が、俺たちの姿を見て目を見開いた。
「レオンさん……? それに、アリスさん……?」
次の瞬間。
門番たちは慌ただしく動き始めた。
「すぐに報告を!」
「騎士団へ連絡を!」
「冒険者ギルドにもだ!」
「宮廷魔導士にも知らせろ!」
「えっ?」
俺は思わず足を止めた。
「何でそんな大事になってるんだ?」
どうやら、俺たちがカイゼルへ向かったことは王都でも知られていたらしい。
そして、想定していたよりも早く戻ってきた俺たちを見て、何か大きな出来事があったと判断したようだった。
俺とアリスはそのまま王都へ入った。
すると――。
「レオンさん!」
「アリス様!」
「少しお話を!」
少し歩いただけで、今度は様々な職員たちが次々と駆け寄ってきた。
「沈没船で何が――」
「古代の資料が発見されたと――」
「騎士団への報告を――」
「宮廷魔導士からも確認が――」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
あまりの勢いに、俺は困惑する。
しかし――。
隣にいたアリスが、ゆっくりと振り返った。
「…………」
無言。
そして、ほんの少しだけ眉を寄せている。
その顔を見た職員たちは――。
「……あ」
「……また後ほど」
「そうですね」
「失礼しました!」
まるで申し合わせたかのように、一斉に引いていった。
「……え?」
俺は呆然と、その場に残された。
「アリス……?」
「何?」
「いや……何でもない」
俺は苦笑した。
どうやら今のアリスに、余計な話をするのは危険らしい。
アリスはというと――。
「早く行こう、レオン」
「どこへ?」
「書物を保管してもらうところ」
その目は真剣だった。
「ヴァンが残した大切なものだから。できるだけ早く、安全な場所へ届けないと」
「ああ、そうだな」
アリスの頭の中には、今はそれしかないらしい。
俺たちは足早に王都の中心へ向かった。
こうして俺たちは、再び王都ハルディオへ戻ってきた。
けれど――。
どうやら、俺たちが思っていた以上に、今回の出来事は王都を騒がせることになりそうだった。
俺たちが向かったのは、王立大書庫だった。
馬車が王都の大通りを進んでいく。
そして、ふと後ろを見ると――。
「……なんだ、あれ?」
馬車の後ろには、いつの間にか大勢の職員たちが続いていた。
騎士団。
冒険者ギルド。
宮廷魔導士。
そして、どこから聞きつけたのか分からない役人たちまでいる。
皆、我先にと馬車へ追いつこうとして、早足でついてきていた。
「おい、押すな!」
「そっちこそ!」
「私たちが先に話を聞くんだ!」
「いや、これは宮廷魔導士が確認するべきだ!」
後ろから、そんな声まで聞こえてくる。
「……何でこんなことになってるんだ?」
俺は馬車の中で呟いた。
アリスはというと――。
「…………」
完全に無言だった。
ただ、膝の上に置いたヴァンの書物を大切そうに抱えている。
そして――。
少し不機嫌そうだった。
「アリス……」
「何?」
「……いや、何でもない」
俺はそれ以上、何も言わなかった。
やがて馬車は、王立大書庫へ到着した。
馬車が止まると同時に、書庫の職員たちが慌てて駆け寄ってくる。
「お待ちしておりました!」
「こちらへ!」
「貴重な資料と伺っています!」
俺たちはすぐに書庫の中へ案内された。
通されたのは、来賓用と思われる豪華な部屋だった。
壁には古い絵画。
天井には美しい装飾。
大きな机と椅子まで用意されている。
「……ここまでしなくても」
俺が呟く。
しかし、俺たちが部屋へ入ると――。
「待ってください!」
「私も確認します!」
「いや、まず私が――」
ぞろぞろぞろ……。
さっきまで馬車の後ろをついてきていた職員たちまで、大書庫の中へ我先にと入ってきた。
「おい、押すな!」
「あなたこそ!」
「この資料は歴史学的に――」
「魔導技術については私たちが――」
「ちょっと!」
しまいには、職員同士で言い争いまで始まってしまった。
俺とアリスは、ただ呆然とその様子を眺める。
その時――。
「…………お静かに」
静かな声が部屋に響いた。
全員が一瞬で黙った。
そこに立っていたのは、一人の女性の書庫員だった。
眼鏡を掛け、きちんとした服装をした彼女は、困ったように職員たちを見回している。
「ここは王立大書庫です」
女性書庫員が静かに言う。
「大切な資料を扱う場所ですから……お静かにお願いします」
「…………」
「…………はい」
「すみません……」
さっきまで我先にと争っていた職員たちが――。
まるで叱られた子供のように、揃ってシュンとなった。
俺は思わずアリスを見る。
アリスも少しだけ目を丸くしていた。
そして――。
ほんの少しだけ笑った。
「……ここなら、安心できそう」
「俺もそう思う」
俺は机の上に、ヴァンから託された大きな書物をそっと置いた。
何千年もの時を越えて残された、失われた歴史。
今日、ようやく――。
その記録を守るための場所へ辿り着いたのだった。
女性の書庫員は、しばらく書物を見つめていた。
そして――。
「……少々、お待ちください」
そう言うと、彼女は奥から白い手袋を持ってきた。
両手に手袋をはめる。
その動作一つ一つから、この書物がどれほど重要なものなのかが伝わってきた。
「それでは……確認させていただきます」
女性書庫員は、慎重に表紙へ手を添えた。
そして――。
ゆっくりと、最初のページを開く。
「…………」
言葉が出てこない。
俺もアリスも、黙ってその様子を見守っていた。
一枚。
また一枚。
ページをめくるたびに、女性書庫員の目が大きく見開かれていく。
そこには、今では失われた時代の美しい絵が描かれていた。
精密な文字。
見たこともない装飾。
ドワーフたちが築いた王国の街並み。
王たちの姿。
英雄たちの物語。
そして――。
現代では失われてしまった技術の記録。
どのページも、まるで一枚の芸術作品のようだった。
「……信じられない……」
女性書庫員の声が震えている。
さらに一枚。
また一枚。
彼女は決して急ぐことなく、ページの端を傷つけないよう、細心の注意を払いながら確認していく。
やがて――。
その手が止まった。
「……これほどの資料が……」
震える指先。
彼女は書物から目を離せない。
「失われたイグニス王国の……」
言葉が続かない。
何千年もの時を越えて残された記録。
歴史書。
英雄譚。
技術書。
そして、当時の人々の暮らしまで記録されている。
それは一冊の本というには、あまりにも価値が大きかった。
「……こんなものが、現代まで残っていたなんて……」
女性書庫員は、震えながら次のページをめくる。
俺はその姿を見ながら思った。
ヴァンは――。
何千年もの間、この書物を守り続けていたのだ。
誰にも知られることなく。
誰にも読まれることなく。
ただいつか、誰かに託すその日まで。
そして今。
その役目は、俺たちへ受け継がれた。
女性書庫員の手が、また一枚のページをめくる。
その瞳には、歴史を目の前にした者の畏敬が浮かんでいた。
女性書庫員は、しばらく書物を見つめたまま動かなかった。
そして――。
「……外にいる方々を、ここへ」
静かな声だった。
「全員……ですか?」
「はい」
女性書庫員は頷いた。
「魔法協会の方々と、宮廷魔導士の方々をお願いします」
しばらくして――。
先ほどまで廊下で待機していた職員たちが、次々と部屋へ入ってきた。
「一体、何が――」
「この資料を見てください」
女性書庫員は、一冊のページを開いた。
そこには――。
複雑な魔法陣。
金属の精錬方法。
宝石へ魔力を定着させるための工程。
そして、それらを組み合わせるための術式が、細かく記されていた。
「…………」
宮廷魔導士の一人が、言葉を失った。
「これは……」
別の魔導士が、震える手でページへ近づく。
「魔法付与……?」
「はい」
女性書庫員が答える。
「金属や宝石そのものに、魔法を付与する技術です」
「……そんな……」
魔法協会の職員がページを凝視する。
「現代の付与魔法とは、まるで違う……」
そこに記されていたのは、単純に魔力を込めるだけの技術ではなかった。
金属そのものの性質を変化させる術式。
宝石に魔力を蓄積させる方法。
さらに、複数の素材を組み合わせることで、長期間にわたって魔法効果を維持する技術。
今の時代には失われている――。
ドワーフたちの魔法技術だった。
「……これが本物なら……」
一人の宮廷魔導士が、震える声で呟いた。
「魔法道具の歴史そのものが、変わるぞ……」
その場にいた別の魔導士は、あまりの衝撃に腰から力が抜けたように、その場へ座り込んでしまった。
「おい、大丈夫か!?」
「……大丈夫なわけがない……」
床に座り込んだ魔導士は、震えながらページを見上げる。
「こんなものが……今まで失われていたなんて……」
俺は、黙ってその光景を見ていた。
アリスも、驚いた表情で書物を見つめている。
ヴァンが俺たちに託した一冊の本。
それは――。
ただの歴史書ではなかった。
失われた王国の記憶。
そして、現代の誰も知らない魔法技術。
何千年もの間、海の底で眠っていたそれは――。
今、再びこの世界へ戻ってきたのだった。
女性書庫員は、震える手で最後のページをそっと押さえた。
その目には、驚きと感動が入り混じっている。
そして――。
「……ドワーフという種が滅んでから、数千年……」
震える声が、静かな書庫に響いた。
「でも……こうして、ドワーフの技術が残っている」
女性書庫員は、大きな書物へそっと手を添える。
「いえ……」
一度、言葉を詰まらせた。
そして、涙を浮かべながら続ける。
「ドワーフ族が……また、この大陸に蘇るんですね」
「…………」
その言葉に、俺は胸を打たれた。
隣を見ると、アリスも目に涙を浮かべている。
何千年もの間、海の底で眠っていたヴァン。
彼が最後まで守り続けたもの。
それは、ただの古い書物ではなかった。
ドワーフたちが生きていた証。
彼らが築き上げた技術。
そして――。
未来へ受け継ぐことのできる、希望だった。
「……ああ」
俺は小さく呟いた。
「きっと……そうなんだろうな」
アリスも静かに頷く。
「うん……」
涙を拭いながら、微笑んだ。
失われたと思われていた種族。
その記憶と技術が、数千年という時を越えて現代へ蘇った。
ヴァンが守り続けたものは、決して無駄ではなかった。
俺たちは、もう一度その書物を見つめる。
そして――。
その瞬間、俺はヴァンの最後の微笑みを思い出していた。
まるで、こう言っているようだった。
――これで、いい。
俺は目を閉じる。
胸の奥に、温かなものが込み上げてきた。
ヴァン。
お前が守ったものは――。
ちゃんと、未来へ繋がっていくよ。




