古き沈没船
港町カイゼル
カイゼルに到着して、俺たちが最初に向かったのは冒険者ギルドだった。
港町ということもあり、ギルドの中には漁師や船乗りらしき人たちの姿も多い。
俺たちはギルド関係者に簡単に挨拶を済ませると、依頼が貼り出されている掲示板へ向かった。
「……やっぱり、海に関する依頼が多いな」
掲示板に並んでいる依頼書を眺める。
漁船の護衛。
海岸に出没する魔物の討伐。
漁場に現れる海魔の調査。
そして――。
「灯台に集まる魔物の討伐……か」
俺の目を引いたのは、その依頼だった。
夜になると灯台周辺に魔物が集まり、船の出入りに支障が出ているらしい。
「これなら俺たちにもできそうだな」
そう思いながら依頼書を眺めていると――。
「……これ」
隣にいたアリスが、一枚の依頼書を手に取った。
「ん?」
俺はアリスの手元を覗き込む。
そこに書かれていたのは、つい先日の大きな嵐によって岩場へ打ち上げられた、古い沈没船の調査依頼だった。
「沈没船の調査?」
「うん」
依頼書には、船の特徴や発見された場所、回収してほしい積荷について書かれている。
そして、その船の名前には――。
「……ガウェイン……号?」
長い年月の中で文字が掠れているのか、船名の一部しか判別できない。
だが、アリスはその名前を見つめたまま動かなかった。
「アリス?」
声を掛けると、アリスはゆっくりと俺を見る。
「レオン。受けるなら……これにしたほうがいい」
「この依頼を?」
「うん」
アリスはそう言って、俺に依頼書を差し出した。
その表情は、いつもの穏やかなものとは少し違っていた。
「この船……知ってるのか?」
「……名前だけ」
アリスは一度、依頼書へ視線を戻す。
「でも、この船は――」
そこで言葉を止めた。
「……?」
何かを知っている。
俺には、そんなふうに見えた。
「どうして、この依頼なんだ?」
そう尋ねると、アリスは少しだけ迷ったあと、静かに答えた。
「この船……ただの沈没船じゃないと思う」
その言葉に、俺はもう一度依頼書を見た。
そこに書かれている船名。
――ガウェイン号。
それが一体、何を意味するのか。
俺にはまだ分からなかった。
ただ一つ分かるのは――。
アリスが、この船を知っている。
そして。
何かを隠しているということだった。
その依頼書を手に取った瞬間、俺は少しだけ引っかかりを覚えた。
「この依頼……」
俺は依頼書を持ったまま、受付へ向かった。
「すみません。この依頼を受けたいんですが」
「はい。確認いたします」
受付の女性に依頼書を手渡す。
続けて、腰に下げていた冒険者カードを取り出した。
王都ハルディオで発行された、王都の印が刻まれた冒険者カードだ。
「……王都の冒険者カード、ですね」
受付がカードを確認した瞬間、その表情が少し変わった。
何度かカードと俺の顔を見比べる。
「少々お待ちください」
「え?」
受付は依頼書と冒険者カードを持ったまま、奥へと引っ込んでいった。
しばらくして戻ってくるかと思ったが――。
「レオンさん。申し訳ありませんが、少しこちらへ」
そう言うと、受付の女性は慌ただしく立ち上がった。
「奥の部屋へご案内します」
「……奥の部屋?」
俺は思わずアリスを見る。
アリスも何かを感じ取ったのか、静かに受付の女性を見つめていた。
どうやら――。
この依頼、ただの魔物退治ではないらしい。
だが――。
その依頼書を手に取った瞬間、俺は少しだけ引っかかりを覚えた。
「この依頼……」
俺は依頼書を持ったまま、受付へ向かった。
「すみません。この依頼を受けたいんですが」
「はい。確認いたします」
受付の女性に依頼書を手渡す。
続けて、腰に下げていた冒険者カードを取り出した。
王都ハルディオで発行された、王都の印が刻まれた冒険者カードだ。
「……王都の冒険者カード、ですね」
受付がカードを確認した瞬間、その表情が少し変わった。
何度かカードと俺の顔を見比べる。
「少々お待ちください」
「え?」
受付は依頼書と冒険者カードを持ったまま、奥へと引っ込んでいった。
しばらくして戻ってくるかと思ったが――。
「レオンさん。申し訳ありませんが、少しこちらへ」
そう言うと、受付の女性は慌ただしく立ち上がった。
「奥の部屋へご案内します」
「……奥の部屋?」
俺は思わずアリスを見る。
アリスも何かを感じ取ったのか、静かに受付の女性を見つめていた。
どうやら――。
この依頼、ただの魔物退治ではないらしい。
奥の部屋へ入る。
そこに立っていた人物を見た瞬間――。
「……海賊?」
思わず、そんな言葉が口から漏れた。
日に焼けた肌。
長い髪を後ろで束ね、鋭い眼差しをこちらへ向けている。
腰には立派な剣。
その姿は、どう見ても海を支配する海賊の船長そのものだった。
だが、よく見ると胸元には冒険者ギルドの紋章が刻まれている。
その女性は俺たちを見ると、豪快に笑った。
「ようこそ。私がこのギルドのギルドマスターだ」
そして、堂々と名乗った。
「マチルダだ」
「……ギルドマスター?」
俺は思わず聞き返した。
どう見ても、普通のギルドマスターには見えない。
むしろ、今にも船に乗って海へ出ていきそうな雰囲気だ。
マチルダはそんな俺の視線を気にする様子もなく、ニヤリと笑った。
「その顔……私を見て、海賊だと思っただろ?」
「……」
図星だった。
「はははっ! よく言われるんだよ!」
豪快な笑い声が部屋に響く。
隣にいたアリスは、相変わらず表情をほとんど変えずにマチルダを見つめていた。
俺は改めて、この女性を見る。
ギルドマスター、マチルダ。
そして――。
どうやら、俺が手にしたあの依頼書には、まだ何か裏があるらしい。
「……その船は、私たちが知っている船よ」
アリスが静かに口を開いた。
「ドワーフ――ヴァン・ガウェインが所有していた船」
「ヴァンの船……?」
マチルダが驚いたように眉を上げる。
アリスは小さく頷いた。
「ええ。私たちは、この船で多くの海路を共に冒険した」
俺も、少しずつ昔の記憶を思い出していた。
荒れた海を越えたこと。
見知らぬ港へ立ち寄ったこと。
甲板の上で仲間たちと食事をしたこと。
そして――魔神との戦いへ向かうため、この船で海を渡ったこと。
長い年月が経っても、この船に詰まった思い出まで消えることはない。
「船内の構造なら、今でも覚えているわ」
アリスはそう言って、依頼書へ目を落とした。
「だから……中に何がいるのかも、ある程度は想像できる」
「魔物のことか?」
俺が尋ねると、アリスはしばらく黙った。
そして――。
「きっと、魔物化した船員たちもいる」
「……」
部屋の空気が静かになる。
「長い年月を海底で過ごしたのなら、何らかの影響を受けていてもおかしくない」
アリスは俯き、静かに続けた。
「もし、本当にあの船の船員たちが魔物になっているのなら……」
その声には、僅かな寂しさが滲んでいた。
「その魂を、解放してあげたい」
俺は黙ってアリスを見つめた。
マチルダもすぐには答えなかった。
腕を組み、しばらく考え込んでいる。
やがて――。
「……分かった」
マチルダが顔を上げた。
「依頼を許可しよう」
「本当に?」
「ああ」
マチルダはアリスを見る。
「その船の構造を知っている。それだけじゃない。実際にその船で海を冒険していたんだろ?」
アリスは頷く。
「だったら、適任はあんたたち以上にいない」
マチルダは俺たちを真っ直ぐ見た。
「ただし――気をつけな」
「……」
「長い年月、海底に沈んでいた船だ。何が起きているのか、私にも分からない」
マチルダは依頼書を俺へ差し出した。
「無理はするな。危険だと思ったら、すぐに引き返せ」
「分かった」
俺は依頼書を受け取った。
アリスも静かに頷く。
「ありがとう、マチルダ」
「礼を言うのは、船から無事に戻ってきてからにしな」
マチルダはそう言って、ニヤリと笑った。
ギルドを出ようとした、その時だった。
「……待って」
アリスが足を止めた。
「どうした?」
俺が振り返ると、アリスは先ほどの受付へ向かっていた。
「少し聞きたいことがあるの」
アリスは受付の女性に声を掛ける。
「この街に、教会はありますか?」
「教会ですか?」
受付の女性は少し考えてから頷いた。
「はい。街の外れにあります。少し歩きますが、それほど遠くはありません」
「そう……」
アリスは小さく頷いた。
「聖水と、清めの塩を購入したいのだけど。多めに用意できるかしら?」
「聖水と清めの塩を?」
「ええ」
受付の女性は少し驚いたような顔をした。
俺もアリスを見る。
「アリス、かなり用意するつもりなのか?」
「必要になると思う」
アリスは淡々と答えた。
「船の中にいるのが、ただの魔物だけとは限らないから」
「……なるほど」
俺はその言葉の意味を理解した。
もし本当に魔物化した船員たちがいるのなら――。
倒すだけでは終わらせない。
その魂を解放するために、聖水や清めの塩が必要になる。
「分かった。教会へ行こう」
「ええ」
アリスは頷いた。
俺たちはギルドを出る。
目指すのは、街の外れにある教会。
沈没船へ向かう前に、できる限りの準備を整えておく。
あの船で待っているのが、かつて共に海を冒険した船員たちなら――。
俺たちは、最後まで彼らを見捨てるつもりはなかった。
街の外れにある教会へ着くと、俺たちは中へ入った。
出迎えてくれたのは、穏やかな笑顔を浮かべた神父だった。
「何かお困りでしょうか?」
俺は、これから向かう沈没船のことを簡単に説明した。
長い年月を海底で過ごした船。
大嵐によって岩場へ打ち上げられたこと。
そして――船内に魔物化した船員がいる可能性があること。
「なるほど……」
神父は真剣な表情で話を聞いていた。
「それでしたら、聖水と清めの塩をお持ちください。魂を安らかにするために、きっと役に立つでしょう」
「ありがとうございます」
俺は用意していた銀貨を取り出した。
「これを、布施として」
「こんなに……?」
「必要なものを多めにいただきたいので」
神父は少し驚いたような顔をしたが、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。大切に使わせていただきます」
こうして俺たちは、十分な量の聖水と清めの塩を手に入れることができた。
準備を終え、教会を出ようとした――その時だった。
「ねえ、お姉ちゃん!」
「こっち、こっち!」
声のする方を見る。
教会の奥から、何人もの子供たちが駆けてくる。
どうやら、この教会では孤児たちも暮らしているらしい。
子供たちは俺たちの周りを楽しそうに走り回っていた。
「冒険者なの?」
「どこから来たの?」
「お姉ちゃん、エルフなんだよね?」
次々と質問を投げかけられ、俺は思わず苦笑する。
その隣では――。
「……ふふ」
アリスが微笑んでいた。
普段は感情をあまり表に出さないアリス。
そんな彼女が、子供たちに囲まれて穏やかな表情を浮かべている。
「お姉ちゃん、こっち!」
「私たちの畑を見せてあげる!」
子供たちはアリスの手を取る。
「え?」
そのまま、教会の裏手へと引っ張っていった。
俺も後を追う。
そこには、小さな畑があった。
畑にはいくつかの作物が植えられている。
だが――。
どれも少し元気がない。
土に十分な肥料が撒かれていないのか、茎は細く、葉も小さい。
それでも子供たちは、そんなことなど気にしていない。
「これね! もっと大きくなるんだよ!」
「大きくなったら、美味しい実ができるの!」
「こっちの野菜もね、いっぱい採れるんだよ!」
子供たちは嬉しそうに説明している。
アリスはしゃがみ込み、子供たちと同じ目線になった。
「そう……」
小さな芽を優しく見つめる。
その時だった。
「こらこら。冒険者様たちを困らせてはいけませんよ」
慌てた様子で神父がこちらへやってくる。
「申し訳ありません。いつもこうして……」
「いえ、大丈夫ですよ」
俺が答えるより先に、アリスが立ち上がった。
そして――。
畑の中央へ歩いていく。
「アリス?」
何をするつもりなのか分からない。
アリスは畑の真ん中に静かに立つと、目を閉じた。
小さく息を吸う。
「……」
そして、聞き慣れない言葉を紡ぎ始めた。
それは、魔法の詠唱だった。
しばらくすると――。
ふわり。
畑を優しい風が通り抜けた。
「……暖かい」
思わず呟く。
冷たさのない、春の日差しのような風だった。
風は畑を撫で、そのまま教会の周囲へ広がっていく。
すると――。
「……え?」
最初に変化したのは、目の前の作物だった。
弱々しかった茎が、みるみるうちに太くなっていく。
小さかった葉が広がり、青々とした葉を茂らせていく。
そして――。
「わぁ……!」
子供の一人が声を上げた。
畑一面に、瑞々しい野菜や果実が実っていく。
さらに周囲に植えられていたリンゴの木までもが、枝を大きく伸ばしていく。
花が咲き――。
その花が散ると、次々と小さな実が膨らみ始めた。
赤く色づいていく。
まるで季節そのものを、一気に進めたかのようだった。
「りんごだ!」
「すごい!」
「いっぱいなってる!」
子供たちは大喜びでアリスの周りを走り回る。
「お姉ちゃん、すごい!」
「魔法なの!?」
「こんなにいっぱい!」
アリスは子供たちを見ながら、穏やかに微笑んでいる。
その光景を見ていた俺は、ただ呆然としていた。
「……これが、大賢者の魔法……」
そして――。
隣を見ると、神父が両手を胸の前で組んでいた。
驚きに目を見開きながら、静かに祈りを捧げている。
「……神よ」
その声は震えていた。
俺はもう一度、畑を見る。
さっきまで弱々しかった作物は、今では立派に実っている。
子供たちの笑い声が、教会の庭いっぱいに響いていた。
アリスはそんな子供たちを見つめながら――。
ただ静かに、微笑んでいた。
教会を後にした俺たちは、そのまま商店街へ向かった。
沈没船へ向かう前に、必要な物資を揃えておく。
保存食に水、松明。
それに、教会で手に入れた聖水と清めの塩も、念のため多めに用意した。
必要なものを一通り買い揃えると、俺たちは商店街にある魚料理店へ入った。
「この街の名物らしいな」
「ええ。せっかくだもの」
店に入ると、香ばしく焼かれた魚の匂いが食欲を刺激する。
注文した料理が運ばれてくる。
焼き魚に、魚介を使った煮込み料理。
どれも新鮮な魚を使っているらしく、普段食べている料理とはまた違った味わいだった。
「……美味いな」
「ええ」
アリスも珍しく、箸を止めることなく料理を口に運んでいる。
食事を終え、宿へ戻る頃には、すっかり日が暮れていた。
明日は早い。
海沿いを進んだ先にある岩場。
そこに、長い年月を海底で眠っていた一隻の船が打ち上げられている。
かつて俺たちと共に魔神と戦い、多くの海路を冒険した船。
ヴァン・ガウェインの愛船――。
ヴァン・ガウェイン号。
明日の明朝。
俺たちは、あの船へ向かう。
どんな姿になっているのか。
そして――。
船の中で、何が俺たちを待っているのか。
今はまだ、分からない。
ただ一つだけ確かなことがある。
明日、俺たちは再び――。
かつての仲間と過ごした、あの船に足を踏み入れる。
そして翌朝。
まだ太陽が高く昇る前、俺とアリスは宿を出た。
目指すのは、海沿いを進んだ先にある岩場。
そこに眠る――古き沈没船。
俺たちは浜辺へ出ると、並んで歩き始めた。
朝の海は静かだった。
寄せては返す波の音。
遠くから時折聞こえてくる、海鳥の鳴き声。
潮の香りを含んだ風が、頬を優しく撫でていく。
「……気持ちいいな」
「ええ」
アリスが隣で答える。
俺たちは、それ以上言葉を交わさなかった。
ただ、同じ景色を眺めながら歩く。
それだけなのに、不思議と心が穏やかだった。
アリスは時折、海へ視線を向けている。
その横顔には、いつもの落ち着いた表情。
けれど――。
胸の奥では、別のことを考えていた。
――こんな時間が、ずっと続けばいいのに。
波の音を聞きながら、レオンと並んで歩く。
何も起こらない。
ただ隣にいる。
それだけの時間が、今のアリスにはとても大切だった。
――このまま……幸せな時間が続けばいいのに。
アリスは、その想いを口には出さなかった。
ただ静かに、隣を歩くレオンを見つめる。
そして――。
再び前を向いた。
遠くの岩場。
そこに、少しずつ船の姿が見えてきていた。
岩場へ辿り着くまでの間、アリスはずっと幸せそうな顔をしていた。
海から吹く風に髪を揺らしながら、俺の隣を歩く。
その表情は穏やかで――どこか嬉しそうだった。
俺も、そんなアリスの様子を見ながら歩いていた。
やがて、目的地である岩場が近づいてくる。
そして――。
「……ん?」
岩場へ足を踏み入れた、その直後だった。
「レオン」
「分かってる」
岩陰から、何かが姿を現した。
青白い肌。
魚のような顔。
手には簡素な武器を握っている。
「マーマンだ」
数体。
海辺では珍しくない魔物だ。
ランク自体はそれほど高くない。
だが、水の魔法を使うことで知られている。
「数は――」
俺が背中の盾に手を伸ばし、ショートスピアを構えようとした。
その時だった。
「……」
隣にいたアリスの雰囲気が変わった。
「アリス?」
返事はない。
ただ、マーマンたちを見つめている。
その表情からは――先ほどまでの穏やかさが完全に消えていた。
「……」
アリスが、ゆっくりと片手を上げる。
「え?」
次の瞬間――。
ゴォォォッ!!
凄まじい風が岩場を駆け抜けた。
「ギャッ――!」
「グアアッ!」
マーマンたちが吹き飛ばされる。
いや――。
ただ吹き飛ばされただけではない。
鋭い風の刃が、その身体を切り裂いていく。
一瞬だった。
数体のマーマンがその場に倒れ、動かなくなる。
「…………」
俺は槍を構えたまま、固まっていた。
アリスは静かに手を下ろす。
そして――。
「……邪魔」
「アリス……?」
「せっかくの時間だったのに」
小さく呟く。
その声は静かだった。
だが、明らかに怒っている。
どうやら――。
幸せな時間を壊したマーマンたちが、よほど気に入らなかったらしい。
「……まあ、いいか」
アリスは何事もなかったかのように歩き始める。
「行きましょう、レオン」
「……あ、ああ」
俺は倒れたマーマンを一度だけ見てから、慌ててアリスの後を追った。
――大賢者様。
普段は穏やかで、感情をあまり表に出さない。
そんなアリスを怒らせてはいけない。
俺は、今日それを改めて思い知らされた。
「ア、アリス!」
先を歩くアリスに、俺は慌てて声を掛けた。
「なに?」
振り返ったアリスの表情は、まだ少し険しい。
俺は一瞬だけ言葉に詰まった。
けれど、思ったことをそのまま口にした。
「古の沈没船の探索が終わったら……またカイゼルまでの海沿いを、二人で歩こう」
「……」
アリスが目を瞬かせる。
「また……?」
「ああ。今度は邪魔されないようにな」
そう言って笑う。
アリスはしばらく俺を見つめていた。
やがて――。
「……ふふ」
小さく笑った。
「ええ。約束ね」
さっきまでの険しい表情が、嘘のように消えていく。
アリスは再び俺の隣へ戻ってきた。
「楽しみだわ」
「……機嫌、直った?」
「最初から怒ってなんていないわ」
「いや、かなり怒ってたと思うけど……」
「気のせいよ」
そう言いながら、アリスは少しだけ笑っていた。
俺たちは再び並んで歩き始める。
目の前には――。
岩場に打ち上げられた、古き沈没船。
かつて多くの海路を共に冒険した、ヴァン・ガウェイン号。
これから、その船へ足を踏み入れる。
けれど今は――。
隣を歩くアリスの穏やかな横顔を見ながら、俺は思った。
この探索が終わったら。
また二人で、この海沿いを歩こう。
今度は、ゆっくりと。
岩場を進んだ先――。
ついに、俺たちは目的の場所へ辿り着いた。
「……これが」
目の前に現れたのは、想像していたよりも遥かに大きな船だった。
長い年月を海底で過ごしていたとは思えないほど、その船体は原型を残している。
ただし、船底には大きな穴が開いていた。
海底で何かにぶつかったのか。
それとも、大嵐の影響なのか。
そこからなら、船内へ入ることができそうだった。
「ここから入れそうだな」
俺が船体へ近づく。
その時――。
船体に取り付けられた古い金属製のプレートが目に入った。
長い年月によって錆びつき、文字の一部は欠けている。
だが、残された文字を追っていくと――。
「……ン・ガウェ……ン号」
「……ヴァン・ガウェ……?」
俺が呟く。
アリスがプレートへ近づいた。
そして、しばらくその文字を見つめる。
「……間違いない」
アリスの声が、静かに響いた。
「ヴァンの船よ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に懐かしい感覚が蘇ってきた。
かつて、この船で俺たちは何度も海を渡った。
多くの港を訪れ、仲間たちと笑い、時には命を懸けて戦った。
その思い出を乗せた船が――。
今、目の前にある。
「……久しぶりだな」
俺は船体へ手を触れた。
冷たい金属の感触が伝わってくる。
アリスも、そっと船体へ手を添えた。
「ええ……」
その表情は、どこか懐かしそうだった。
けれど――。
俺たちが入ろうとしているのは、長い年月を海底で過ごした船。
中で何が待っているのかは、まだ分からない。
「行こう、アリス」
「ええ」
俺は盾を構え、ショートスピアを握る。
そして俺たちは――。
ヴァン・ガウェイン号の船底に開いた大穴から、ゆっくりと船内へ足を踏み入れた。
ヴァン・ガウェイン。
かつて魔神と戦った、俺たちの仲間の一人。
そして――。
ドワーフ王国を治めていた、王でもあった。
当時のドワーフたちは、他の種族とは比べものにならないほど優れた技術を持っていた。
武器。
防具。
船。
魔道具。
彼らが生み出す物は、他の種族の技術を遥かに先へ進んでいた。
その頂点に立っていたのが、ヴァン・ガウェインだった。
王でありながら、自ら鍛冶場に立ち、武器を作り、船を造り、数々の技術を生み出した。
だが――。
ドワーフには、大きな問題があった。
もともと大陸に暮らすドワーフの数は、決して多くなかった。
そして、ドワーフの女性がほとんど生まれなかった。
少しずつ。
それでも確実に。
ドワーフという種族は、数を減らし続けていた。
そんな彼らの存在に目をつけたのが――魔神だった。
強大な技術を持ちながら、数の少ない種族。
魔神にとって、ドワーフ王国を滅ぼすことは難しいことではなかった。
魔神は軍勢を送り込み――。
ドワーフ王国そのものを、容赦なく滅ぼした。
多くのドワーフが命を奪われた。
王国も失われた。
そして――。
ヴァン・ガウェインもまた、故郷を失った。
それでも彼は生き残った。
そして俺たちと出会い、魔神と戦った。
あの頃、ヴァンはよく笑っていた。
「俺の作った武器がありゃあ、魔神だってぶっ飛ばせる!」
そんなことを豪快に言いながら。
俺たちと共に海を渡り、この船で多くの場所を冒険した。
その船が――。
今、俺たちの目の前にある。
長い年月を海底で眠り続けた、ヴァン・ガウェイン号。
俺は船内へ続く暗い穴を見つめた。
「……ヴァン」
アリスも何も言わない。
ただ、静かに船を見つめている。
かつての仲間が残した船。
そこにはきっと、俺たちが知らない過去が眠っている。
そして――。
もしかしたら、今もこの船から離れられずにいる者たちがいるのかもしれない。
俺は盾を握り直した。
「行こう、アリス」
「ええ」
俺たちは、暗い船内へと足を踏み入れた。
船内へ足を踏み入れた瞬間――。
俺は言葉を失った。
かつて、この船にあったはずの豪華さも。
仲間たちの笑い声も。
賑やかな食事の時間も。
何も残っていなかった。
床は腐り、壁は崩れ、天井からは古びた木材が垂れ下がっている。
長い年月、海底に沈んでいたせいだろう。
船内は海水と泥に汚れ、あちこちに苔が生えていた。
「……ここが、あの船なのか」
思わず呟く。
アリスは答えなかった。
ただ、目の前の光景を静かに見つめている。
そして――。
「……いるわ」
暗闇の奥から、何かがこちらへ近づいてくる。
カタ……。
カタカタ……。
骨が擦れるような音。
次の瞬間、暗闇から一体のアンデッドが姿を現した。
その身体には、ボロボロになった船員服が残っている。
「……船員」
俺は息を呑んだ。
さらに奥からも、次々と姿を現す。
アンデッド。
死霊。
そして、かつて船員だったと思われる者たち。
ここはもう――。
魔物の巣窟と化していた。
アリスが悲しそうに目を伏せる。
「……ヴァンの船員たち」
その声は小さかった。
俺は盾を構えた。
だが、アリスが俺の前に手を出す。
「待って」
「アリス?」
「この人たちは……倒すだけでは駄目」
アリスは聖水の入った瓶を取り出した。
「魂を解放するの」
俺も腰の袋から清めの塩を取り出した。
そして――。
俺たちは船内の浄化を始めた。
まずは聖水を床や壁へ撒く。
アリスが古い船員服を身につけたアンデッドへ聖水を振りかけると――。
青白い炎のようなものが身体から浮かび上がった。
「……!」
死霊が苦しそうに身を震わせる。
だが、やがてその身体から黒い瘴気が抜けていった。
最後に清めの塩を周囲へ撒く。
「……もう、眠っていいのよ」
アリスが静かに呟く。
すると、アンデッドの身体がゆっくりと崩れ落ちた。
残ったのは――。
一着の古びた船員服だけだった。
「……」
俺はその服を見つめた。
この船で働き。
ヴァンと共に海を渡り。
そして、長い年月をここで過ごした。
そんな人たちだったのだろう。
俺たちは一体ずつ、船内を進みながら浄化していった。
聖水を撒き。
清めの塩を撒き。
時には死霊を鎮めるため、アリスが魔法を使う。
戦いというより――。
これは、この船に残された魂を送るための旅だった。
そして俺たちは、少しずつ。
かつての仲間たちが眠る、この古い船を清めていった。
船内を進んでいく。
不思議なことに――。
これまで出会った死霊やアンデッドたちは、俺たちに襲いかかってこなかった。
こちらを見つめるだけ。
敵意は、一切感じられない。
まるで――。
俺たちが来るのを、ずっと待っていたかのように。
アリスが聖水を振りかけ、清めの塩を撒く。
すると、死霊たちは抵抗することもなく、静かに浄化されていった。
「……みんな、待っていたのかもしれないな」
俺が呟く。
アリスは何も答えなかった。
ただ、悲しそうに頷いた。
そして――。
船の奥へ進んだ時だった。
暗闇の向こうに、大きな人影が立っている。
「……?」
かなり大きな身体。
ボロボロになった船員服。
長い年月を感じさせる、朽ちた身体。
そして――。
「……あれは」
俺は足を止めた。
顔を見つめる。
片方の目に残された、特徴的な義眼。
「……あぁ」
胸の奥が締め付けられる。
「義眼のジョー……」
間違いない。
何度も酒を交わした。
一緒に酔っ払って、くだらない話をして。
そして――。
酒が入ると決まって始まる腕相撲。
「ジョー……お前とは、一度も勝てなかったな」
思わず笑ってしまう。
あの大きな腕。
どれだけ本気を出しても、俺の手をびくとも動かさなかった。
「もう一回くらい……勝負したかったよ」
ジョーは何も言わない。
ただ、そこに立っている。
その義眼だけが、昔と変わらず俺を見つめていた。
敵意はない。
武器を構えることもない。
ただ――。
俺たちを待っていた。
アリスが静かにジョーへ近づく。
「ジョー……」
その声には、僅かな震えがあった。
アリスが聖水を手に取る。
そして、ジョーの身体へゆっくりと振りかけた。
シュゥゥ……。
黒い瘴気が身体から抜けていく。
ジョーの身体が、ゆっくりと崩れていく。
その瞬間――。
俺には、ほんの一瞬だけ見えた気がした。
昔のジョーが。
酒を片手に豪快に笑っている姿が。
「……またな、ジョー」
俺は静かに呟いた。
そして――。
義眼のジョーは、長い眠りについた。
俺たちは、徹底的に船内を回った。
船底。
甲板。
船員室。
食堂。
倉庫や機関室――。
かつて多くの船員たちが行き交い、笑い声が響いていた場所を、一つずつ確かめていった。
そこに残されていたのは、魔物と化したかつての仲間たち。
けれど、誰一人として俺たちに敵意を向けることはなかった。
アリスと俺は、聖水と清めの塩を使いながら、一人ずつ浄化していった。
時には、名前を思い出した。
時には、共に酒を飲んだ夜を思い出した。
くだらないことで笑い合ったこと。
海で魔物と戦ったこと。
長い航海の中で、仲間たちと過ごした時間。
その一つ一つが、俺の中に蘇ってくる。
そして――。
最後の船員を浄化した。
「……終わったな」
俺が呟く。
船内には、もう魔物の気配はない。
静寂だけが残っている。
長い年月を経て、ようやくこの船に平穏が戻ったのだ。
俺はゆっくりと周囲を見渡した。
壊れた壁。
朽ちた床。
海水に侵食された木材。
それでも、かつての面影が僅かに残っている。
「……」
アリスも静かに船内を見つめていた。
そして――。
俺たちの前に、一つの扉が残されている。
古びた木製の扉。
その向こうにあるのは――。
「船長室……」
アリスが小さく呟いた。
俺は扉へ近づく。
ここだけは、まだ開けていない。
ヴァン・ガウェインが船長として過ごした場所。
俺たちが何度も訪れた場所。
そして――。
この船で最後に残された場所。
俺は扉の前で立ち止まった。
「……行こうか、アリス」
「ええ」
二人で顔を見合わせる。
そして俺は――。
ゆっくりと、船長室の扉へ手を伸ばした。




