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冒険の書  作者: siva5880


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帰還

第20話 帰還


 俺自身、戸惑っていた。


 このアンデッドはいったい何だったんだ……?


 倒したはずの身体は、黒い灰となって崩れ落ちていく。


 俺はただ、その場に立ち尽くしていた。


 その瞬間だった。


 黒い灰の中から――


 一つの光が浮かび上がった。


「……?」


 青く、紫色に輝く一文字のルーン文字。


 それはまるで意思を持っているかのように、ゆっくりと俺の目の前まで浮かび上がる。


「なんだ……これ……」


 手を伸ばそうとした。


 だが――


 ルーン文字は突然、俺の胸へと吸い込まれた。


「――っ!」


 胸の奥に、焼けるような熱が走った。


 思わず胸元を押さえる。


 すると、皮膚の下から淡い光が漏れ始めた。


 そこには――


 さっきのルーン文字が刻まれていた。


「……ルーン……?」


 その瞬間。


 頭の中に、知らないはずの光景が流れ込んできた。


 剣を握る俺。


 盾を構える俺。


 血に染まった大地。


 そして――


 魔神。


 俺は息を呑んだ。


「……俺……?」


 映像の中の俺は、今の俺とは違っていた。


 もっと多くの戦いを経験し。


 もっと多くのものを背負い。


 そして――


 魔神と戦っていた。


「……そうか」


 声が震えた。


 俺は知らなかった。


 いや――


 忘れていたんだ。


 このアンデッドは、過去の俺だった。


 そして俺は――


 かつて魔神を倒した。


 次々と記憶が蘇ってくる。


 共に戦った仲間たち。


 笑い合った時間。


 何度も背中を預けた仲間。


 そして――


「……アリス……」


 その名前が口からこぼれた。


 胸が締め付けられる。


 大切だった。


 確かに、大切だった。


 なのに――


 どうして俺は忘れていたんだ……?


 なぜ、俺は今まで何も思い出せなかった?


「俺は……」


 胸に刻まれたルーン文字を見つめる。


 その奥から、さらに記憶が蘇ってくる。


 魔神との最後の戦い。


 仲間たちの姿。


 そして――


 最後に残った、あの光景。


「……そうだったのか」


 俺はゆっくりと目を閉じた。


 失われていたと思っていたものは、消えていたわけじゃない。


 ずっと俺の中に残っていた。


 ただ――


 思い出せなかっただけだ。


 俺は胸に手を当てる。


 そこには、青紫色のルーン文字が静かに輝いていた。


「……俺は、一体……何者なんだ」


 答えは、まだ分からない。


 けれど――


 一つだけ、確かなことがある。


 俺の中に眠っていた「記録」は、今、確かに動き始めた。


 そして俺はまだ知らない。


 このルーン文字が――


 これから始まる長い旅の中で、再び失われた記憶を呼び覚ましていくことを。


俺が胸に刻まれたルーン文字を見つめていると――


 少し離れた場所にいたヘルメス、リン、そしてヘクトルの三人が、黙ったまま俺を見つめていた。


 誰も、何も言わない。


 さっきまで戦いの音が響いていた迷宮が、嘘のように静まり返っている。


 リンは不安そうな表情で俺の胸元を見つめていた。


 ヘルメスも、いつもの軽い笑みを浮かべてはいない。


 そして――


 あのヘクトルですら、何も言わず俺を見ていた。


「……」


 俺も、何を言えばいいのか分からなかった。


 やがて、ヘクトルが口を開く。


「レオン……お前は、一体……」


 そこまで言って、ヘクトルは言葉を止めた。


 そして、ふっと息を吐く。


「……いや、今はいい!」


「え……?」


「そんな事!」


 ヘクトルは大きな声を上げると、俺の肩を力強く叩いた。


「俺たちは勝ったんだから!」


 その言葉に、俺は一瞬呆気に取られた。


「……ヘクトル」


「細かいことは後だ、後!」


 そう言って、ヘクトルは豪快に笑った。


「今は生きて帰る。それで十分だろ!」


 ヘルメスが小さく笑う。


「……まあ、確かに。聞きたいことは山ほどあるけどね」


 リンも、まだ不安そうな顔をしながら頷いた。


「うん……。でも、今は……それでいいと思う」


 俺は三人を見つめた。


 胸に刻まれたルーン文字。


 蘇った過去の記憶。


 そして、まだ思い出せない大切なもの。


 分からないことばかりだった。


 それでも――


 今、俺には一緒に戦ってくれた仲間がいる。


「……そうだな」


 俺は小さく笑った。


「帰ろう」


ヘクトルとヘルメスは、何かに気づいているようだった。


 あのアンデッドの正体を――。


 だが、二人とも何も言わない。


 俺も、今は聞かなかった。


 アンデッドが立っていた場所には、黒い灰といくつかの装備だけが残されていた。


 だが、それも時間が経つにつれて崩れ始める。


 鎧も。


 手甲も。


 脚甲も。


 そのほとんどが、アンデッドの身体と同じように朽ち果て、黒い灰へと変わっていった。


 けれど――


「……あれ?」


 俺は一つのものに目を止めた。


 兜。


 アンデッドが身につけていた兜だけが、そこに残っていた。


 朽ちることもなく。


 形を失うこともなく。


 まるで、最初からそこに置かれていたかのように、その姿を保っている。


「この兜……」


 俺が手に取った瞬間だった。


 再び、記憶が蘇った。


 ――これは。


「……アリス」


 その名前が、自然と口からこぼれた。


 エルフの少女。


 俺の大切な仲間。


 過去の俺と共に戦っていた――アリス。


 そして、この兜を俺に贈ってくれた人。


 記憶の中のアリスが、笑っている。


『レオン。これ、あなたにあげる』


 彼女はこの兜を、特殊な魔法で強化した。


 見た目からは想像もできないほどの防御力。


 どんな攻撃を受けても、持ち主を守るための特別な魔法。


 そして――


 俺が身につければ、どんなに身体つきが変わっても。


 どんな姿になろうとも。


 まるで俺のためだけに作られたかのように、ぴったりと頭に収まる。


 そんな魔法まで込められていた。


 記憶の中のアリスが、俺を見つめる。


 そして、少し照れたように笑って言った。


『どんな姿になろうと、この兜はレオン――あなたを守るから』


「……」


 俺は、兜を強く握りしめた。


 胸の奥が痛い。


 忘れていた。


 俺は、この言葉さえ忘れていた。


「……アリス」


 もう一度、その名前を呟く。


 どうして忘れていたんだ。


 こんなにも大切なものを。


 こんなにも大切な人を。


 俺は兜を見つめた。


 あれほど激しい戦いの中でも、朽ちることなく残った兜。


 まるで――


 アリスが今も俺を守っているかのようだった。


俺が兜を見つめていると、ヘクトルが静かに口を開いた。


「その兜は……レオン、お前の物だ」


「……俺の?」


「ああ」


 ヘクトルは迷いなく頷いた。


 リンも。


 ヘルメスも。


 何も言わず、静かに頷いている。


 俺はもう一度、手の中の兜を見つめた。


 過去の自分が身につけていた兜。


 そして――アリスが、過去の俺に贈った兜。


「……そうだな」


 俺はゆっくりと兜を頭に被った。


 その瞬間――


 兜が淡い光を放った。


「……っ」


 まるで生き物のように兜の形が変わっていく。


 俺の頭に合わせて、ほんの僅かに形を変え――


 ぴたり。


 最初から俺のために作られていたかのように、頭へ収まった。


「……本当に、ぴったりだ」


 ヘルメスが呟く。


 俺は兜に触れた。


 不思議と懐かしい感覚があった。


 まるで、遠い昔から知っているものを再び身につけたような――そんな感覚だった。


 だが、その直後。


「……っ」


 左手に激しい痛みが走った。


 過去の自分との戦いで負傷した左手。


 戦っている最中は気にしている余裕もなかったが、戦いが終わった今になって痛みが一気に押し寄せてきた。


「レオン、大丈夫か?」


 ヘルメスが駆け寄ってくる。


「……ああ。少し、やったみたいだ」


 そう答えたものの、左手にはほとんど力が入らない。


「無理するな。肩を貸す」


「悪い」


 ヘルメスが俺の右側に回り、肩を貸してくれる。


 俺はその肩に身体を預けた。


 ヘクトルが迷宮の奥を振り返る。


「ここに長居する理由はない。帰るぞ」


「うん」


 リンも頷いた。


 俺たちは、早々に迷宮からの脱出を始めた。


 歩きながら、俺は何度も兜に触れた。


 胸に刻まれたルーン。


 蘇った過去の記憶。


 そして――


 アリスが残した、この兜。


 まだ分からないことばかりだ。


 過去の俺は何者だったのか。


 なぜ俺は、その記憶を失っているのか。


 あのアンデッドは、なぜ迷宮の奥にいたのか。


 そして――


 アリスは今、どこにいるのか。


 答えは何一つ分からない。


 それでも。


 俺はもう、過去から目を背けることはできなかった。


 俺たちは無言のまま、迷宮の出口へ向かって歩き続けた。


 やがて――


 遠くに、出口から差し込む光が見えた。

俺たちは何度も休憩を挟みながら、迷宮の出口を目指した。


 左手の痛みは酷く、ヘルメスに肩を借りなければ歩くことすら難しかった。


 それでも――


 俺たちは無事に古代の迷宮を脱出した。


 その後も無理をせず、休み休み王都への道を進んだ。


 そして――


 ようやく王都ハルディオへ帰還した。


 俺たちは、その足で冒険者ギルドへ向かった。


「古代の迷宮から帰還しました」


 ギルドの受付でそう告げた瞬間だった。


「……え?」


 受付嬢が目を見開く。


 次の瞬間――


「古代の迷宮から……帰還!?」


 その声がギルド内に響き渡った。


 ざわっ――


 周囲にいた冒険者たちが一斉にこちらを見る。


「おい、あいつら……」


「本当に帰ってきたのか?」


「古代の迷宮だぞ……?」


 ギルド内が一気に慌ただしくなっていく。


 職員たちが駆け寄ってきた。


「負傷者は!?」


「治癒師を呼んで!」


「薬師にも連絡を!」


 まるで大きな事故でも起きたかのようだった。


「俺です」


 俺が左手を上げる。


 その瞬間、ヘルメスが俺の身体を支えていることに気づいた職員が顔をしかめた。


「その怪我……すぐに治療します!」


 ほどなくして、ギルドに呼ばれた治癒師と薬師がやってきた。


 俺は椅子に座らされ、左手の状態を確認される。


「かなりの負傷ですね」


「治せますか?」


「完全に治すには時間が必要です。ただ、今できる処置をすれば痛みはかなり抑えられます」


 治癒師が傷に手をかざす。


 淡い光が左手を包み込んだ。


「……っ」


 じわりと、熱が傷口へ染み込んでくる。


 続いて薬師が薬を塗り、包帯を巻いていく。


「これでしばらくは楽になるでしょう」


「……ありがとうございます」


 治療が終わると、先ほどまで焼けるようだった痛みが、明らかに軽くなっていた。


 完全に治ったわけではない。


 左手を動かそうとすれば、まだ痛みが走る。


 それでも――


「……かなり楽になった」


 俺は左手を見つめた。


 そして、胸元へ視線を移す。


 そこには、あの青紫色のルーン文字が刻まれている。


 古代の迷宮で起きたこと。


 過去の自分。


 アリス。


 そして、あの兜。


 俺たちはまだ、何一つ詳しいことをギルドに話していない。


 だが――


 これから始まる報告で、俺たちが古代の迷宮で何を見たのか。


 その全てを話さなければならなかった。


治療を終えた、その時だった。


 ギルドの入り口が勢いよく開かれた。


「レオン……帰ったか!」


 聞き覚えのある声。


 振り返る。


「……団長」


 そこにいたのは、騎士団長ゼクスだった。


 その後ろには副団長レイラ。


 そして、何人もの騎士団員が続いている。


 全員、慌ただしい様子だった。


「無事か!」


 ゼクスが俺のもとへ駆け寄ってくる。


「はい。左手を少し負傷しましたが……大丈夫です」


「そうか……」


 ゼクスは安堵したように息を吐いた。


 だが、その表情はすぐに引き締まる。


「古代の迷宮で何があった?」


 俺が答えようとした、その時。


「団長」


 ギルド職員が声を掛ける。


「ギルドマスターがお待ちです」


 ゼクスが頷いた。


「分かった。レオンたちも一緒に来てもらう」


 俺たちはギルド職員に案内され、ギルドの奥へと進んだ。


 廊下を抜け、重厚な扉の前で足を止める。


「こちらです」


 扉が開かれた。


「失礼します」


 部屋の奥。


 一人の男が座っていた。


 白髪。


 細身の身体。


 年齢は分からない。


 だが――


 俺は、その男を見た瞬間に理解した。


「……強い」


 思わず息を呑む。


 筋肉が大きいわけでもない。


 威圧するような態度を取っているわけでもない。


 ただ、そこに座っているだけ。


 それなのに――


 空気が違う。


 長い年月を生き、幾つもの修羅場を潜り抜けてきた。


 そんな男だけが持つ、静かな迫力があった。


 白髪の男がゆっくりと顔を上げる。


 鋭い目が俺たちを捉えた。


「……君が、レオンか」


「はい」


 俺が答える。


 男はしばらく俺を見つめ――


 ほんの僅かに目を細めた。


「そうか」


 それだけ言って、椅子から立ち上がる。


 細身の身体からは想像もつかないほどの圧が、部屋の中に広がった。


「私は、この王都ハルディオの冒険者ギルドを預かる者だ」


 男は静かに名乗った。


「ギルドマスター――グレイだ」


 俺はその名前を、心の中で繰り返した。


 グレイ。


 この男もまた――


 ただ者ではない。


 俺は直感的にそう感じていた。


俺は、単刀直入に言った。


「……俺は、生と死を何度も繰り返している」


「……え?」


 リンが目を見開いた。


 レイラも、驚きを隠せない。


 ヘルメスとヘクトルですら、言葉を失って俺を見つめている。


 部屋の中が、静まり返った。


 俺は胸に手を当てる。


 そこには、青紫色のルーン文字が刻まれている。


「俺が、いつの時代からそれを繰り返しているのか……それは分かりません」


 自分でも、まだ理解しきれていない。


 何度生まれ。


 何度死んだのか。


 その始まりさえ、俺には分からない。


「ただ……一つだけ、はっきりと思い出したことがあります」


 俺はゆっくりと顔を上げた。


「俺は過去に、人類の存亡を脅かした魔神を倒している」


「……魔神を?」


 レイラが呟く。


「はい」


 その戦いの光景が、脳裏に浮かぶ。


 燃え上がる大地。


 共に戦った仲間たち。


 そして――魔神。


「その時の戦いで……俺の魂に、ルーンが刻まれた」


 胸のルーン文字が、淡く光る。


「このルーンが、俺を何度もこの世界へ転生させている」


 リンが息を呑んだ。


 ヘクトルは眉を寄せ、腕を組んだまま黙っている。


 ヘルメスも、いつもの軽い表情を完全に消していた。


 そしてゼクスは――


 目を閉じたまま、何も言わない。


 ただ静かに、俺の話を聞いている。


「俺は……何度も生まれ変わっている」


 俺は自分の手を見つめた。


「その度に、何かを失う‥それが体の一部だったり、時には過去の記憶を失って……また、この世界で生きている」


 そこで俺は一度、言葉を止めた。


 そして――


 あの迷宮での戦いを思い出す。


 目の前に現れたアンデッド。


 異様なほど自分に似ていた動き。


 戦いの中で感じた、言葉では説明できない既視感。


 そして、最後に浮かび上がったルーン。


「……そして」


 俺は静かに口を開いた。


「あのアンデッドが、なぜ俺と同じ動きをしていたのか……」


 誰もが俺を見る。


「なぜ、あいつを見た瞬間から……俺は、あいつを知っているような気がしたのか」


 胸に刻まれたルーン文字を見る。


「今なら……分かります」


 一呼吸。


 そして――


「……あれは、過去の俺だった」


 リンの目が大きく見開かれた。


 レイラも息を呑む。


 ヘルメスとヘクトルですら、驚きを隠せなかった。


 部屋の中に、再び深い沈黙が落ちた。


 俺は、自分自身の過去と戦っていた。


 そしてその過去が――


 今の俺に、再びルーンを刻んだのだ。


重い沈黙が、部屋を包んでいた。


 しばらくして――


 ギルドマスターのグレイが、重い口を開いた。


「……信じ難い話だが」


 その声には、いつもの落ち着きがなかった。


「君の話を、全て作り話だと切り捨てることもできない」


 グレイは俺の胸に刻まれたルーンへ視線を向ける。


「そのルーン……そして古代の迷宮で発見されたもの。君が語った魔神の存在……どれも無視できるものではない」


 俺は黙って聞いていた。


 すると――


 それまで目を閉じ、黙っていたゼクスが口を開いた。


「実際に……西の大森林に暮らす大賢者、アリスが彼にそう話した」


「……!」


 グレイがゼクスを見る。


「大賢者……アリス?」


 ゼクスはゆっくりと目を開いた。


「ああ」


 その声には、迷いがなかった。


「アリス・グランノーア様だ」


「……!」


 俺は息を呑んだ。


 アリス。


 あの記憶の中にいた、エルフの少女。


 俺に兜をくれた、大切な仲間。


 そして――


 ゼクスは、アリスの正体を知っている。


「団長……」


 俺が呟く。


 ゼクスは俺を見る。


「以前、君とアリスが話していたことを聞いていた。だから私は、君の話を聞いても驚かなかった」


 その言葉に、リンが突然声を上げた。


「大賢者様……!?」


 リンは驚きのあまり立ち上がりそうになった。


「アリス・グランノーア様って……あの大賢者様ですか!?」


 ゼクスは黙って頷く。


「過去の古文に記されている……魔を、英雄たちと共に倒したという……あの!?」


 リンの声が震える。


「そんな……」


 レイラも驚いた表情でゼクスを見る。


 ヘルメスとヘクトルも、互いに顔を見合わせていた。


 俺は――


 ただ、呆然としていた。


「……アリスが……大賢者?」


 俺の中に蘇った記憶。


 俺に兜を渡してくれた少女。


 仲間たちと共に笑っていたエルフ。


 そのアリスが――


 この世界で「大賢者」と呼ばれている。


 そして、ゼクスはそのことを知っていた。


 俺の胸に刻まれたルーンが、再び淡く輝いた。


 まるで――


 遠い過去に残された何かが、今の俺へ答えを伝えようとしているかのように。


「大賢者様は……」


 リンが興奮を抑えきれない様子で話し始めた。


「この時代でも、年に一度……冬の終わりを告げていると聞いています」


 俺は黙ってリンを見る。


「西の大森林から春風の魔法を大陸全土へ吹かせて、春の訪れと豊かな実りをもたらしている……」


 リンの言葉に、俺は息を呑んだ。


 知っている。


 その話を――俺は知っている。


 ただの伝承ではない。


 アリスが今も続けていることには、別の意味がある。


 俺には、その理由が分かった。


 あの春風は――


 俺を探している。


 大森林から吹き渡る春風。


 その風に乗せられる、花粉。


 種。


 実りをもたらす植物。


 そして、大地に生きる無数の昆虫たち。


 アリスはそれらを使っている。


 大陸全土を巡らせて――


 俺の魂を探している。


「……」


 胸が締め付けられた。


 何百年。


 いや――


 それよりも長い時間なのかもしれない。


 俺が何度生まれ変わっても。


 どこで生まれても。


 どんな姿になっていても。


 アリスは探し続けている。


 俺の魂を。


 俺を――。


「レオン?」


 リンの声で、我に返った。


「……なんでもない」


 いつか再び、俺に会うために。


「……アリス」


 小さく名前を呟く。


 記憶の中の彼女は、あの頃と何も変わらない笑顔で俺を見ていた。


 けれど――


 俺が忘れている間も。


 彼女は、ずっと俺を探していた。


 毎年、春が来るたびに。


 この大陸のどこかで――


 俺を探し続けている。


俺は、しばらく黙っていた。


 そして、みんなの顔を見渡す。


「……俺は、もう一度アリスに会わないといけない」


 自分でも驚くほど、言葉ははっきりしていた。


「今の俺には、まだ分からないことが多すぎる」


 胸に刻まれたルーンへ手を当てる。


「俺がなぜ何度も転生しているのか」


「なぜ記憶を失うのか」


「そして……アリスが、なぜ今も俺を探し続けているのか」


 一つずつ確かめなければならない。


 その答えを知っているのは――


 きっと、アリスだ。


 部屋に沈黙が落ちる。


 ゼクスは目を閉じたまま、しばらく考えていた。


 グレイも腕を組み、俺を見つめている。


 やがて――


「……そのようだな」


 ゼクスが静かに口を開いた。


 グレイも頷く。


「私も同意見だ」


 その言葉に、俺は顔を上げた。


「西の大森林へ向かうべきだろう」


 グレイが続ける。


「ただし――今すぐではない」


 視線が俺の左手へ向く。


「その身体では、まともに旅をすることもできないだろう」


「……はい」


「まずは傷を癒せ」


 ゼクスが言った。


「身体が戻ったら、西の大森林を目指せ」


「分かりました」


 俺は静かに頷いた。


 西の大森林。


 そこに――アリスがいる。


 俺が忘れてしまっていた過去を知る者。


 そして、今も俺を探し続けている者。


「……待っていてくれ、アリス」


 俺は小さく呟いた。


 いつかではない。


 必ず――


 もう一度、会いに行く。


 こうして俺の次なる目的地は決まった。


 西の大森林。


 そして――


 俺自身の失われた記録を取り戻す旅が、始まろうとしていた。


ギルドでの話が一段落すると、俺は早々に宿へ戻ることにした。


 迷宮で手に入れた装備品や魔道書、宝石やメダル、その他の収集品。


 これらはこれからギルドで一つずつ鑑定が行われるらしい。


 だが――


 今の俺には、それを待っている余裕はなかった。


 身体が重い。


 特に左手は、治癒師の治療を受けたとはいえ、まだ痛みが残っている。


「今日は休んだ方がいいな」


 ヘルメスが言った。


「ああ……そうする」


「宿まで付き添うよ」


「悪いな」


「気にするなって」


 俺はヘルメスに肩を借りながら、王都の街を歩いた。


 迷宮を出てから、ずっと張り詰めていたものが少しずつ抜けていく。


 アリスのこと。


 過去の自分。


 転生。


 そして、俺自身の魂に刻まれたルーン。


 考えれば考えるほど、頭の中が混乱してくる。


 だから今は――


 休もう。


 そう思った。


 しばらく歩き、ようやくいつもの宿屋が見えてきた。


 扉を開ける。


 すると――


「レオンさん、おかえりなさーい!」


 元気のいい声が飛んできた。


「……」


 俺は思わず足を止めた。


 聞き慣れた声。


 いつもの明るい笑顔。


 その瞬間、張り詰めていた気持ちが少しだけ緩んだ。


「……ただいま」


 俺がそう返すと、ヘルメスが隣で小さく笑った。


「なんだ。ちゃんと帰る場所があるじゃないか」


「……ああ」


 俺は宿の中を見渡した。


 迷宮から帰ってきた。


 いろんなことが起きた。


 自分の過去を知った。


 そして、これから西の大森林へ向かうことになる。


 それでも今は――


 この場所で少しだけ休もう。


 俺はヘルメスに支えられながら、ゆっくりと階段を上っていった。


部屋に戻ると、俺はまず装備を外した。


 身体に残った疲労が、一気に押し寄せてくる。


 宿に用意されていたバケツに水を汲み、布を濡らして身体を拭いていく。


 迷宮の中で付いた汗や汚れを落とすだけでも、少しだけ身体が軽くなった気がした。


 それから普段着に着替える。


「……疲れた」


 ベッドに腰を下ろす。


 左手にはまだ痛みが残っている。


 けれど、今はそれを気にする余裕すらなかった。


 俺はそのままベッドへ横になる。


 天井を見上げながら、今日起きたことを思い返す。


 過去の自分。


 ルーン。


 魔神。


 そして――アリス。


「……アリス」


 小さく名前を呟く。


 いつか、必ず会わなければならない。


 そう思いながら、俺はゆっくりと目を閉じた。


 次第に意識が遠のいていく。


 そして俺は――


 深い眠りへと落ちていった。


その少年との出会いは――


 もう何百年……。


 いや。


 何千年前のことだっただろうか。


 長い時を生きる私にとって、年月というものは曖昧になっていく。


 けれど――


 あの少年と出会った日のことだけは、今でも鮮明に覚えている。


 初めてその少年を見たのは、西の大森林だった。


 小さな人族の少年。


 まだ幼く、何も知らないような顔をしていた。


 その少年は、大森林の奥へ入ろうとしていた。


「……人族?」


 私は遠くから、その姿を眺めていた。


 この森には、私が幾重にも魔法をかけている。


 幻術。


 そして、濃い霧の魔法。


 大森林の奥へ進もうとしても、決して辿り着くことはできない。


 森の中を歩いているつもりでも、気がつけば森の外へ戻っている。


 そういう魔法だ。


 だから――


 この森の奥へ辿り着ける人間など、いるはずがなかった。


 少年が霧の中へ入っていく。


 私は静かに見守った。


 やがて――


 少年の姿が霧の向こうへ消えた。


「……」


 しばらく待つ。


 そして。


 霧の中から少年が現れた。


 だが――


 入ってきた場所とは、まったく違う場所からだった。


 少年は不思議そうに周囲を見渡している。


「……あれ?」


 私は思わず笑った。


 もちろん、少年には私の姿は見えていない。


 それでも、何度も森へ入ろうとする。


 そして何度も、森の外へ戻される。


「どうして、この森に入りたいのかしら?」


 私は木の陰から少年を見つめていた。


 その時は、まだ知らなかった。


 この小さな少年が――


 私の長い人生の中で、最も大切な存在になることを。


 そして――


 何度生まれ変わっても、私が探し続けることになる魂だということを。


それから――


 少年は何度も森へやって来た。


 毎日。


 毎週。


 毎月。


 そして――毎年。


 何度追い返されても、諦めることなく大森林へ挑んでくる。


「また来たのね……」


 私は木の上から、その姿を眺めていた。


 最初の頃は、ただの暇つぶしだった。


 長い年月を生きる私にとって、時間はあまりにも多い。


 森へ迷い込んでくる小さな人族の少年。


 何度挑んでも外へ戻される少年を眺めているだけでも、それなりに面白かった。


 けれど――


 少年は諦めなかった。


 霧に迷わされても。


 同じ場所を何度も歩かされても。


 森の外へ戻されても。


 また次の日には、何事もなかったかのようにやって来る。


「どうして、そこまでして入りたいのかしら?」


 私は、少しずつ興味を持つようになった。


 そして少年は――


 学び始めた。


 霧の流れ。


 木々の位置。


 魔力の濃淡。


 自分がどこで同じ場所を回っているのか。


 私がかけた魔法の特徴を、少年なりに観察していた。


 それには、数年かかった。


 それでも――


 少年は少しずつ、森の奥へ進むようになった。


「……なるほど」


 私は思わず感心した。


 ただ闇雲に進んでいるわけではない。


 失敗するたびに、何かを覚えている。


 そして、次に生かしている。


 気がつけば――


 少年は、以前なら決して辿り着けなかった場所まで来ていた。


 けれど。


 まだ先がある。


 この先には、さらに強力な幻術の魔法が待っている。


 そこを越えることは、できない。


「ここまでね」


 私はそう思っていた。


 この先の幻術を受ければ――


 きっと、もう来なくなる。


 自分がどこにいるのかすら分からなくなり、何も得られないまま森の外へ戻される。


 そうなれば、さすがの少年も諦めるだろう。


 私はそう考えていた。


 だから――


 その日も、木々の陰から少年を眺めていた。


 少年は霧の向こうを見つめる。


 そして、一歩。


 また一歩と――


 幻術の領域へ踏み込んでいった。


 私はまだ知らなかった。


 この少年が、私の予想を遥かに超える存在になることを。


私が森に張った幻術は、侵入者にとって最も恐ろしいものを映し出す。


 強大な魔物を恐れる者の前には、その魔物が現れる。


 死を恐れる者の前には――


 死、そのものが姿を現す。


 心の奥底にある恐怖を読み取り、それを現実のように見せる魔法。


 だからこそ、この幻術を越えられる者はいない。


 少年が霧の向こうへ進んでいく。


 そして――


 幻術が発動した。


「……」


 私は木の上から、その光景を見つめていた。


 少年の前に何かが現れる。


 私は、その姿を見て――


 言葉を失った。


 魔物ではない。


 死でもない。


 炎でも、血でもない。


 そこに広がったのは――


 暗闇。


 何もない。


 ただ、どこまでも続く黒。


「……無?」


 私は思わず呟いた。


 少年は、暗闇の中に一人立っていた。


 誰もいない。


 何もない。


 声すらない。


 ただ、孤独だけがそこにあった。


「……そういうこと」


 私は、初めて気づいた。


 この少年が最も恐れているもの。


 それは――


 孤独だった。


 いつも一人だった少年。


 誰かと笑い合うこともなく。


 誰かに背中を預けることもなく。


 ただ一人で、この広い世界を歩いてきた。


 その少年の前に現れたのは――


 「一人ぼっち」という恐怖だった。


 私は黙って少年を見つめていた。


 そして――


 胸の奥に、奇妙な感情が生まれた。


 私は長い年月を生きている。


 数百年。


 あるいは――数千年。


 その間、私はずっと一人だった。


 長い時を生きるエルフ。


 人族とは違う時間を生きる者。


 私の周りにいた者たちは、皆、先に歳を取り、いなくなっていった。


 気がつけば――


 私は一人だった。


「……同じなのね」


 少年と私は、何も知らないまま――


 同じ孤独を抱えていた。


 そのことに気づいた瞬間。


 私は、初めて思った。


「……この子と、話してみたい」


 ただの暇つぶしではない。


 ただの興味でもない。


 初めて――


 誰かと話したいと思った。


 私は木から静かに降りる。


 そして、少年の前へ向かって歩き出した。


 数百年ぶりに。


 あるいは――


 数千年ぶりに。


 私は誰かと話をするために。


私は――


 幻術を解いた。


 その瞬間、周囲を包んでいた霧がゆっくりと晴れていく。


 白く霞んでいた景色が、少しずつ姿を現していく。


 そして――


「……」


 そこには、一面の花畑が広がっていた。


 冬の終わりを告げる花。


 色とりどりの花々が咲き誇り、柔らかな風に揺れている。


 まるで、この場所だけ春が訪れたかのようだった。


 私は少年の前に姿を現した。


 少年はしばらく、言葉を失っていた。


 そして――


「……なんて、綺麗なんだ」


 その顔には、心からの感動が浮かんでいた。


 私は思わず、少年の顔を見つめた。


 恐怖を乗り越えた者の顔ではない。


 ただ、目の前の花を見て喜んでいる。


「あなた」


 私は声を掛けた。


「どうして、この森に入ってきたの?」


 少年は少し考えるように首を傾げた。


 そして、当たり前のことを答えるように言った。


「ここには、とても綺麗に咲き誇る花畑があるって聞いたから」


「……え?」


 私は思わず聞き返した。


「花を見るため……?」


「うん」


 少年は頷いた。


「見てみたかったんだ」


「……」


 私は言葉を失った。


 何年も。


 毎日、毎週、毎月――


 何度も何度も、この森へ挑んできた。


 霧の魔法に追い返されても。


 幻術に阻まれても。


 それでも諦めずに、何年もかけてここまで辿り着いた。


 その理由が――


「……花を、見たかったの?」


「うん」


 少年は嬉しそうに頷いた。


「こんなに綺麗な花、見たことなかったから」


「……ふふ」


 私は思わず、小さく笑った。


 なんて子なのだろう。


 私は、いつの間にかこの少年に興味を持っていた。


 孤独を恐れながらも、それでも一人で森へ挑み続けた少年。


 その目的が、ただ花を見ることだったなんて。


「……あなた、面白い子ね」


 私は少年へ歩み寄った。


「私は――アリス・グランノーア」


 そう名乗ると、少年は少し驚いた顔をした。


 そして――


「僕の名前は……」


 少年が口を開く。


 その名前を聞いた瞬間から――


 私の長い人生は、大きく変わることになる。

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