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冒険の書  作者: siva5880


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大切な人

 その人族の少年は、毎日のように私を訪ねてきた。


 最初は、ただの興味本位だった。


 人族の少年が、こんな場所にいる私のもとへ通い続ける理由も分からなかった。


 けれど――。


 少年は、いつも私に問いかけてきた。


「これは何?」


「この草は食べられるの?」


「この鉱石は、どうして光ってるの?」


「魔物にも種類があるの?」


 私は、その一つ一つに答えた。


 草や木。


 虫や動物。


 魔物や鉱石。


 私が知っていることを、少年に教えていった。


 少年は、私の話を楽しそうに聞いていた。


 そして次の日になると、また新しい質問を持ってやってくる。


 そんな日々が、いつの間にか当たり前になっていた。


 不思議だった。


 少年と話している時間だけは――


 私の心を覆っていた真っ白な世界に、少しずつ色が戻っていくような感覚があった。


 青い空。


 緑の草原。


 赤い花。


 黄金色に輝く鉱石。


 これまで何の意味も持たなかったものが、少しずつ鮮やかに見えてくる。


 少年と話しているだけなのに。


 私は、満たされていくのを感じていた。


 それが何という感情なのか、最初の私は知らなかった。


 ただ――。


 少年が来るのを、待つようになった。


 今日も来るだろうか。


 どんな話をしてくれるだろうか。


 そんなことを考えるようになった。


 そして、ある日。


 少年はいつものように私のもとへやってきた。


「ねえ」


「……何?」


「明日も来ていい?」


 私は少しだけ考えてから、答えた。


「……もちろん」


 その言葉を口にした瞬間。


 胸の奥に、今まで感じたことのない温かさが広がった。


 私はまだ、その感情の名前を知らなかった。


 ある時には魔法を。


 ある時には剣術を。


 私は、数千年もの間に身につけてきた知識を、少年に教えていった。


 少年は驚くほど素直だった。


 教えたことを何度も繰り返し、失敗しては立ち上がる。


 昨日できなかったことが、今日にはできるようになる。


 そんな少年の姿を見ることが、いつしか私の楽しみになっていた。


 そして――。


 少年は、少しずつ成長していった。


 幼かった少年は、やがて青年へ。


 青年は逞しい男へと姿を変えていった。


 その間も、彼は私のもとへ通い続けた。


 剣を振り。


 魔法を学び。


 時にはくだらない話をして、笑い合った。


 長い長い時間を生きてきた私にとって、人族の成長など一瞬の出来事だった。


 けれど――。


 その一瞬一瞬を、私は確かに覚えていた。


 そして、いつからだっただろう。


 彼は私に、想いを伝えるようになった。


「アリス、俺は君が好きだ」


 最初にそう言われた時、私は笑った。


「やめておけ」


 そう答えた。


「人族の寿命など、私にとっては一瞬だ」


 彼と私では、生きる時間が違いすぎる。


 人族の一生など、長い昼寝よりも短い。


 そんな相手を好きになるなど、馬鹿げている。


 私はそう思っていた。


「それでも、俺はアリスが好きだ」


 彼は、迷うことなく答えた。


「……愚かな男だ」


 私はそう言って、彼の想いを退けた。


 けれど――。


 胸の奥には、何かが残った。


 嫌ではなかった。


 むしろ……。


 どこか嬉しい。


 そんな感情が、ほんの僅かに芽生えていた。


 それでも私は認めなかった。


 何度も断った。


 何度も諦めろと言った。


 それでも彼は、諦めなかった。


 歳月が流れても。


 身体が成長しても。


 彼は変わらなかった。


 いつも真っ直ぐに私を見つめていた。


「アリス、俺は君が好きだ」


 また、その言葉を聞く。


「……本当に、懲りないな」


 呆れたように私は言った。


 彼は笑った。


「何度でも言うよ」


「なぜだ?」


「アリスに振り向いてもらえるまで」


「……馬鹿者」


 私は顔を背けた。


 彼に見られないように。


 自分でも気づかないうちに、口元が僅かに緩んでいた。


 彼は、少しずつ私のもとから遠ざかっていった。


 毎日のように訪れていた彼が、いつしか数日に一度になった。


 それが、数週間に一度になり――。


 やがて、数ヶ月に一度になった。


「……今日は来ないのか」


 私は、いつの間にか彼を待つようになっていた。


 西の大森林。


 ここは、人族が決して足を踏み入れることのできない場所。


 けれど私は、この森の主として自由に出入りすることができる。


 だから、彼が来ないのなら――。


 私が会いに行けばいい。


 そう思えば、それだけのことだった。


 けれど私は、すぐには動かなかった。


 なぜなら――。


 彼はもう、あの頃の少年ではなかったからだ。


 私から学んだ剣術。


 私から学んだ魔法。


 そして、数千年の時の中で私が得てきた知識。


 彼はそれらを自分の力へと変えていった。


 やがて彼は、大陸中にその名を知られる存在となった。


 強大な魔物を討ち。


 人々を救い。


 争いを止める。


 いつしか彼は――。


 大陸を守る守護者。


 人類を守る英雄として、語られるようになっていた。


「……立派になったな」


 その話を聞いた時、私は誇らしかった。


 自分が教えたものが、彼の力になっている。


 そして彼は、その力で多くの人々を守っている。


 それは、とても嬉しいことだった。


 けれど――。


 胸の奥には、別の感情があった。


 寂しい。


 彼が来なくなったことが、寂しかった。


 人族の寿命など、私にとっては一瞬。


 ずっと、そう思っていた。


 けれど彼だけは違った。


 毎日のように顔を合わせていた彼。


 共に笑い、共に語り、私の知識を嬉しそうに学んでいた彼。


 その姿が、私の中から消えていくことが怖かった。


「……会いたい」


 気づけば、私はそう呟いていた。


 そして――。


 私は立ち上がった。


 今度は、私から会いに行こう。


 彼が私のもとへ来てくれたように。


 今度は私が、彼のいる場所へ行けばいい。


「……ふふ」


 思わず笑みがこぼれた。


 いつの間にか私は、人族の一人に会うためだけに、こんなにも心を動かされるようになっていた。


 それが――。


 少しだけ嬉しかった。


 私は時折、姿を変えた。


 ある時は一羽の鳥となり。


 ある時は一匹の猫となった。


 そうして人族の住む街へ入り、王国へ足を運んだ。


 そして――彼に会いに行った。


 人の姿で会うこともあれば、動物の姿のまま彼のそばにいることもあった。


 彼が疲れている時には、ただ隣にいた。


 彼が悩んでいる時には、話を聞いた。


 彼が戦いで傷ついた時には、そっと寄り添った。


 彼もまた、私が会いに来ることを喜んでくれた。


「また来てくれたのか、アリス」


「……嫌だったか?」


「まさか」


 彼は、いつも笑ってくれた。


 そんな日々が、長い間続いた。


 けれど――。


 平穏な日々は、突然終わりを迎えた。


 大陸に、一体の強大な魔族が現れた。


 人々は、その存在をこう呼んだ。


 ――魔神。


 それまで存在していたどんな魔族とも違う。


 圧倒的な力を持つ、恐ろしい存在だった。


 その名が広がるにつれて、人々の間には恐怖が広がっていった。


 そして――。


「俺が討伐する」


 彼は、自ら名乗り出た。


「……やめろ」


 私は、すぐに言った。


「魔神には関わるな」


 何度も伝えた。


 それでも彼の意思は変わらなかった。


「アリス。俺は――」


「分かっている」


 私は彼の言葉を遮った。


 分かっていた。


 彼が何を考えているのか。


 何を守ろうとしているのか。


 それでも私は、何度も説得した。


「西の大森林へ来い」


「……」


「私と一緒に暮らせばいい」


 西の大森林には、誰も入ることができない。


 魔神であろうと、簡単に手を出せる場所ではない。


「ここなら、お前は安全だ」


 私はそう言った。


「人類など放っておけばいい」


 初めて、そんな言葉を口にした。


「お前一人が背負う必要などない」


 けれど――。


 彼は静かに首を横に振った。


「それはできない」


「なぜだ?」


「俺は……人類を守りたい」


 その言葉を聞いた瞬間。


 胸の奥が、締めつけられるように痛んだ。


 私は彼を守りたかった。


 彼に生きていてほしかった。


 ずっと、この森で一緒に過ごしたかった。


 けれど彼は――。


 私ではなく。


 人類を守る道を選んだ。


「……そうか」


 私は、それ以上何も言えなかった。


 ただ、彼の顔を見つめた。


 そして心の中で願った。


 どうか――。


 無事に帰ってきてくれ。


 それだけを、何度も何度も願った。


 魔神に挑むことを決めたのは、私たちだけではなかった。


 彼と私。


 そして――。


 獣人族。


 ドワーフ族。


 鬼神族。


 それぞれの種族から、一人ずつ。


 合わせて五人。


 それが、魔神に立ち向かうことを決めた者たちだった。


 けれど――。


 すでに大陸は、魔神によって大きく変えられていた。


 ドワーフ族は、ほとんど大陸から姿を消していた。


 かつては各地で暮らしていた彼らの集落も、今では廃墟となっている。


 生き残った者たちは、身を隠しながら暮らしていた。


 鬼神族も同じだった。


 その強靭な肉体と戦う力を恐れられていた彼らでさえ、魔神の前では抗うことができなかった。


 一人。


 また一人と姿を消していく。


 やがて鬼神族そのものが、大陸から消えてしまうのではないか。


 そんな不安さえ、人々の間に広がっていた。


 獣人族も無事ではなかった。


 各地で魔神の眷属による襲撃が続き、多くの命が奪われていた。


 大陸は、ゆっくりと滅びへ向かっていた。


 そんな中で――。


 私たちは集まった。


 人族。


 私。


 獣人族。


 ドワーフ族。


 鬼神族。


 五つの種族を背負う五人。


 誰もが、魔神がどれほど恐ろしい存在なのかを知っていた。


 それでも、逃げることはできなかった。


「ここで止めなければ……」


 彼が呟く。


「ああ」


 私は答えた。


 魔神を止めなければ。


 この大陸から、さらに多くの命が消えていく。


 そして――。


 いつか、人類だけではない。


 この世界から、あらゆる種族が消えてしまう。


 私たち五人は、魔神のいる場所へ向かった。


 それが――。


 後に大陸中で語り継がれることになる、魔神との戦いの始まりだった。


 そして――。


 私たちは、ついに魔神と対峙した。


 目の前に立つその姿を見た瞬間、私は言葉を失った。


 恐ろしい。


 数千年もの時を生きてきた私でさえ、そう感じた。


 これほどまでの力を持つ存在を、私は知らなかった。


 けれど――。


 そんな魔神を前にしても、彼はいつもと変わらなかった。


 いや。


 むしろ、こんな時だからこそなのかもしれない。


「アリス」


「……何だ?」


「俺と結婚してほしい」


「…………」


 私は思わず彼の顔を見つめた。


 今、この状況で?


 目の前には、私たちがこれから命懸けで戦おうとしている魔神がいる。


 なのに彼は、冗談でもなく真剣な顔をしていた。


「ふふっ……」


 私は思わず笑ってしまった。


「今は、それどころではないだろう」


「俺は本気だ」


「分かっている」


 そう言いながらも、私は笑った。


 何度断っても諦めなかった男。


 何年経っても、変わらない男。


 こんな時でさえ、私に想いを伝えてくる。


「……本当に、困った男だ」


 私はそう呟いた。


 けれど――。


 胸の奥は、不思議なほど温かかった。


 そして。


 私たちは魔神へ向かっていった。


 戦いは――凄まじかった。


 一撃一撃が、大地を震わせる。


 魔神が放つ力を受けるたび、身体の奥まで衝撃が響いた。


 私も全力で魔法を放った。


 彼も剣を振るい、魔神へ立ち向かった。


 獣人族も。


 ドワーフ族も。


 鬼神族も。


 五人全員が、持てる力のすべてをぶつけた。


 それでも――。


 魔神は強かった。


 あまりにも強大だった。


 私が数千年の時を生きてきた中で、これほどの力を感じたことはなかった。


 何度も攻撃を受け。


 何度も立ち上がる。


 魔力を削られ。


 身体を傷つけられる。


 それでも、戦うしかなかった。


 そして私は――。


 初めて、本当の意味で死を感じた。


 数千年生きてきた私ですら。


 この戦いでは――。


 死ぬかもしれない。


 そんな恐怖を、はっきりと感じていた。


私は――覚悟を決めた。


 このままでは、誰も魔神を止められない。


 ならば。


 私が持つすべてを、この一撃に託す。


 数千年。


 長い時の中で蓄えてきた魔力。


 それを、すべて解放する。


「……これで終わらせる」


 私は詠唱を始めた。


 身体の奥底に眠る魔力が、次々と引き出されていく。


 大地が震えた。


 空気が歪む。


 私の周囲に、膨大な魔力が渦を巻き始めた。


 それを感じ取ったのか――。


 魔神の動きが変わった。


 私を止めようとしている。


 自分の死を理解したのかもしれない。


「アリス!」


 魔神が、私へ向かって突進してくる。


 凄まじい攻撃だった。


 けれど――。


「行かせるか!」


 彼が、その前に立ちはだかった。


 剣を構え、魔神の攻撃を受け止める。


 身体はすでに傷だらけだった。


 血が流れ。


 呼吸も荒い。


 それでも彼は、私の前から退かなかった。


「……っ!」


 魔神の攻撃が彼を吹き飛ばす。


 それでも彼は立ち上がる。


 また魔神が襲いかかる。


 彼は盾を構え、必死に受け止める。


「アリス……!」


「私は大丈夫だ!」


 私は詠唱を続けた。


 彼が守ってくれている。


 だから私は、迷わない。


 すべての魔力を、一つに集める。


 そして――。


「――終われ」


 解き放った。


 轟音とともに、膨大な魔力が魔神へと叩き込まれる。


 光が大地を覆った。


 衝撃が周囲を吹き飛ばす。


 視界のすべてが白く染まった。


 やがて光が消えた時――。


 そこには、瀕死の魔神が倒れていた。


「……勝った」


 誰かが呟いた。


 私もそう思った。


 終わった。


 私たちは、魔神に勝ったのだ。


 そう思った――その瞬間。


「――まだだ」


 魔神が、ゆっくりと立ち上がった。


 もう戦える身体ではない。


 それでも魔神は、残された力をすべて振り絞った。


 その視線が、私へ向く。


「アリス……!」


 魔神が最後の力を解き放つ。


 私を道連れにするつもりだった。


 避けることができない。


 ――その時。


「アリス!」


 彼が、私の前へ飛び込んだ。


 そして――。


 私は、その構えを見た。


 知っている。


 私が教えた技。


 かつて私が彼に教えた、あの技。


「……飛影閃突」


 彼の姿が、一瞬で消えた。


 次の瞬間。


 魔神の懐へ入り込んでいた。


 速い。


 あの頃に教えた時とは、まるで違う。


 私が教えた以上の速さ。


 私が教えた以上の威力。


 彼自身が、何度も何度も磨き上げた技だった。


「――っ!」


 一閃。


 その一撃が、魔神を貫いた。


 肉体だけではない。


 魔神の魂そのものを――砕いた。


 魔神の身体から力が抜けていく。


 そして――。


 大地へ崩れ落ちた。


 静寂が訪れた。


 終わった。


 本当に――終わったのだ。


 私は、ただ彼を見つめていた。


 傷だらけになりながら。


 それでも私を守るために立ち続けた彼を。


 私が教えた技で。


 今度は彼が、私を守った。


 静寂が訪れた。


 魔神の身体が崩れ落ちる。


 それと同時に――。


 彼の身体も、ゆっくりとその場に崩れた。


「……!」


 私はすぐに駆け寄った。


「しっかりしろ!」


 彼の身体を抱き起こす。


 けれど――。


 私が見ていたのは、彼の身体ではなかった。


 その魂だった。


 さっきまであれほど力強かった彼の魂が、少しずつ弱っていく。


 まるで、命そのものが消えていくように。


「……そんな」


 私は、彼の魂を見つめた。


 そして――。


 気づいた。


 彼の魂に、見たことのないルーンが刻まれている。


 それは――。


「……魔神のルーン」


 私は息を呑んだ。


 知っている。


 このルーンが何なのか。


 魔神が持っていた、特殊なルーン。


 不死に近い存在へと至るための力。


 生と死を繰り返すための――ルーン。


「まさか……」


 私は彼の魂を見つめ続けた。


 彼は魔神を倒した。


 その代償として、魔神の持っていた力が彼の魂へ刻まれたのだ。


 けれど――。


 それは今の彼を救う力ではない。


 彼の魂は、すでに限界を迎えていた。


「……お前は、このまま死ぬ」


 その事実が、はっきりと分かった。


 私は、何千年もの間生きてきた。


 だからこそ分かる。


 彼の命は、もう長くない。


 それでも――。


 私は同時に、もう一つのことに気づいた。


 このルーンは、ただ死を与えるものではない。


 生と死を繰り返す力。


 魂を失わず、再び生を得る力。


「……転生」


 その言葉が、口からこぼれた。


 彼は死ぬ。


 けれど――。


 完全に消えるわけではない。


 このルーンが彼の魂に刻まれたことで、彼は再び生を得る。


 別の姿で。


 別の人生で。


 そして――。


 いつかまた、私の前に現れる。


「……また、会える」


 そう理解した瞬間。


 胸の奥に、安堵が広がった。


 けれど――。


 目の前にいる彼を失うことには変わりがない。


 私は彼の身体を強く抱きしめた。


「……馬鹿者」


 声が震えた。


「どうして……こんなことに」


 彼は、もうほとんど力を失っていた。


 それでも――。


 私の顔を見て、微かに笑った。


「……アリス」


「……何だ」


「……結婚の話……」


 私は思わず彼の手を握った。


「今は、それどころではないだろう……」


 そう言ったけれど。


 声は震えていた。


 彼は小さく笑った。


 そして私は、彼の魂に刻まれたルーンを見つめた。


 この人とは――。


 また会える。


 いつか必ず。


 だから私は、最後まで彼のそばにいる。


 それが――。


 私にできる、ただ一つのことだった。


あの戦いから、何十年が経ったのだろう。


 いや……。


 もしかすると、何百年、何千年という年月が流れているのかもしれない。


 私には、もう分からない。


 ただ、毎年欠かさず続けていることがある。


 雪解けの季節。


 春の訪れを告げる風が、大陸を吹き抜ける頃。


 私は魔法を使う。


 春風に私の魔力を乗せ、大陸全土へと送り届ける。


 凍てついた大地を温め。


 草木に芽吹きを与え。


 豊かな実りが大地を満たすように。


 彼が守ろうとした、この大陸の人々が――今年も穏やかに暮らせるように。


 そして私は、その魔法を大陸全土へ広げながら、彼の魂を探している。


 転生した彼の魂を。


 風に乗せた魔力が、大陸の隅々まで広がっていく。


 私は目を閉じ、その中にある無数の魂を感じ取る。


 一つ。


 また一つ。


 けれど――。


「……今年も、いない」


 彼ではない。


 私は静かに目を開いた。


 そして、また一年が過ぎていく。


「……また、今年も見つからない」


 一体、どれだけの月日が流れたのだろう。


 世界は、あの頃とは大きく変わっていた。


 いつの間にか、ドワーフ族は大陸から姿を消していた。


 かつて各地に存在した彼らの街や工房も、今では古い遺跡として残るだけになった。


 鬼神族もまた――。


 姿を消した。


 けれど、完全に血が途絶えたわけではなかった。


 長い年月の中で、一部の鬼神族と人族の間に子が生まれ、その血は少しずつ人族の中へ受け継がれていった。


 時折、人族とは思えないほど大きな身体を持つ者が生まれる。


 そして――。


 鬼神族を思わせる、強大な怪力を持つ者も。


 そんな者たちは、何世代にもわたって生まれては消えていった。


 いつしか、人々はそれを特別なことだとは思わなくなっていた。


 世界は変わっていく。


 種族も。


 国も。


 街も。


 人々の暮らしも。


 長い年月の中で、すべてが少しずつ姿を変えていった。


 それでも――。


 私は変わらない。


 毎年、春が来る。


 雪が解ける。


 私は春風に豊かな実りを託し、大陸へ届ける。


 そして、その風の中から彼の魂を探す。


「……どこにいるんだ」


 思わず、そう呟いた。


 答える者はいない。


 それでも私は、探し続ける。


 いつか必ず。


 あの魂を見つける。


 そして――。


 もう一度、彼に会う。


 それが何百年先でも。


 何千年先でも。


 私は待ち続ける。


 彼が守ろうとした、この大陸に春を届けながら。


 最初の頃は――。


 私を追いかけていたのは、彼だった。


 毎日のように私のもとへやって来て。


 私の話を聞き。


 私から知識を学び。


 何度断っても、真っ直ぐに私へ想いを伝えてきた。


 そんな彼を、私は何度も遠ざけようとした。


 けれど――。


 いつの間にか、立場は逆になっていた。


 今度は私が、彼を探している。


 毎年、春が来るたびに。


 大陸全土へ春風を送りながら。


 彼の魂を探し続けた。


 そして――。


 長い年月が過ぎたある春の日。


「……見つけた」


 私は、ようやく彼の魂を見つけた。


 間違えるはずがない。


 何百年。


 何千年。


 どれほど姿を変えていても、私には分かる。


 彼だ。


 あの人の魂だった。


「……やっと、見つけた」


 私は思わず笑った。


 涙が出そうになるほど、嬉しかった。


 けれど、私はすぐに彼のもとへ行くことはしなかった。


 まだ彼は、小さな命だった。


 これから成長していく。


 そして、いつかまた――。


 私の前に立つ日が来る。


 だから私は、昔と同じように彼のそばにいることにした。


 ある時は、一羽の鳥になった。


 彼の近くを飛びながら、その成長を見守った。


 またある時は、一匹の猫になった。


 彼のそばで眠り。


 彼の声を聞き。


 彼が成長していく姿を、静かに見つめ続けた。


 かつては、彼が私を追いかけていた。


 今度は――。


 私が彼を見守る番だ。


 いつか。


 いつかまた、彼の口から私の名が呼ばれる日が来る。


 その日を、私は楽しみに待っている。


「……早く大きくなれ」


 私は小さな猫の姿で、彼のそばに寄り添った。


 そして、静かに目を閉じる。


 また声が聞ける日を夢見ながら――。


 私は、彼の成長を待ち続けた。


そして――。


 彼の魂が、少しずつ形を持ち始めた。


 人として生まれ。


 小さな身体で、この世界に生を受ける。


 その瞬間。


 魂に刻まれたルーンが、淡く輝いた。


 それは、魔神との戦いで彼に刻まれたルーン。


 生と死を繰り返す力。


 そして――。


 失われた過去を、魂の奥底から呼び戻す力。


 彼は、自分自身を思い出していく。


 私と過ごした時間。


 私から学んだ魔法。


 剣術。


 そして――。


 魔神との戦い。


 すべてを。


 私は、彼のそばへ向かった。


 すると――。


「……アリス」


 彼は、私の名を呼んだ。


 その声を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。


 彼は嬉しそうに笑った。


 そして――。


 私へ駆け寄り、強く抱きついてきた。


「会いたかった……!」


 その言葉に、私は何も言えなくなった。


 私も、ずっと待っていた。


 何百年。


 何千年。


 ただ、この瞬間を。


 けれど――。


 私は気づいていた。


 生と死を繰り返す彼らには、代償がある。


 転生するたびに、何か一つ。


 あるいは、いくつかのものを失っている。


 ある時は視力。


 ある時は聴力。


 ある時は身体の一部。


 また別の時には、魔力や身体能力。


 何を失うのかは、その時によって違った。


 それでも――。


 彼は、私との再会を喜んでくれた。


 失ったものを嘆くこともなく。


 自分が以前とは違う身体になったことを悔やむこともなく。


 ただ、私がここにいることを喜んでくれた。


「……また会えたね、アリス」


 その言葉に、私は微笑んだ。


「……ああ」


 私は彼の身体を抱きしめ返した。


 何度生まれ変わっても。


 何かを失っても。


 この人は、私を忘れない。


 そして私は――。


 どんな姿になったとしても、彼を見つけ出す。


 それが、私たちの約束になっていた。


 私にとって――。


 彼は、かけがえのない大切な存在になっていた。


 最初は、ただの人族だった。


 毎日のように私のもとへ通ってきた、幼い少年。


 けれど、長い年月を共に過ごすうちに、私は彼を失いたくないと思うようになった。


 そして彼もまた、何度生まれ変わっても私のもとへ戻ってきた。


 再会。


 そして――別れ。


 それを、何度も繰り返した。


 生まれ変わるたびに、彼は何かを失った。


 それでも、私を見つければ笑ってくれた。


「アリス」


 その声を聞くたびに、私は思った。


 また会えた。


 それだけで、十分だった。


 けれど――。


 何度も再会と別れを繰り返すうちに、私たちの間にあったものは、少しずつ変わっていった。


 彼は、私を大切にしてくれた。


 私は、彼を守り続けた。


 そしていつしか――。


 私たちは、互いを必要とするようになった。


 ある時、彼が私に言った。


「今度こそ、ずっと一緒にいたい」


 私は、静かに笑った。


「……今度こそ、か」


 何度も聞いた言葉だった。


 けれど、その時の彼の顔を見て――。


 私は、もう断らなかった。


「……ああ」


 私は彼の手を取った。


「今度こそ、一緒にいよう」


 何度も生まれ変わって。


 何度も出会って。


 何度も別れて。


 それでも、また互いを見つけた。


 その繰り返しの果てに――。


 私たちは、ようやく結ばれた。


 長い長い時間を生きてきた私が、初めて知ったもの。


 それは――。


 誰かを愛し。


 誰かに愛されるということだった。


 再会。


 そして――別れ。


 いったい、何度繰り返してきたのだろう。


 彼の転生は、いつも赤子として生まれるとは限らなかった。


 ある時は、一人の赤子として生まれ。


 またある時は、ある日突然――青年の姿で、この世界に現れた。


 どこで生まれたのか。


 それまで何をしていたのか。


 そんなことさえ分からない。


 ただ、彼の魂だけは確かに彼だった。


 そして私は、どんな姿になった彼でも見つけ出した。


 再会する。


 共に過ごす。


 そして――別れる。


 それを、何度も繰り返した。


 最初の頃は、それでよかった。


 また会える。


 そう思えたから。


 彼もまた、再会するたびに私を見つけて笑ってくれた。


 けれど――。


 長い年月の中で、少しずつ彼は変わっていった。


 何度生まれ変わっても、人生には苦しみがある。


 愛する者との別れ。


 仲間との死別。


 戦い。


 孤独。


 そして、自分自身の死。


 それらを何度も経験する。


 何度も失い。


 何度も傷つき。


 それでも、生きなければならない。


 そして、また死ぬ。


 そのたびに転生する。


 終わりのない生と死の繰り返し。


 いつしか彼の魂は――。


 疲れ果てていた。


「……もう、疲れた」


 ある時、彼はそう呟いた。


 私は何も言えなかった。


「アリス……俺は、もう十分だと思う」


「……」


「何度生きても、最後には誰かを失う」


 彼の声は震えていた。


「何度死んでも、また生まれる」


 彼は自分の手を見つめていた。


「もう……終わりにしたい」


 その言葉を聞いた瞬間。


 私は胸を締めつけられるような痛みを感じた。


「……何を言っている」


「俺は、本当の意味で死にたい」


 初めてだった。


 彼が――。


 自ら死を望んだのは。


 私は、彼を何度も見つけてきた。


 何度も再会して。


 何度も別れて。


 それでも、また会えることを幸せだと思っていた。


 けれど今――。


 彼にとって、この力は祝福ではなかった。


 終わることのできない苦しみだった。


「……私は、お前を失いたくない」


 そう言うことしかできなかった。


 彼は、悲しそうに笑った。


「知ってるよ、アリス」


 その笑顔が――。


 今まで見てきたどの笑顔よりも、寂しく見えた。


 そして私は初めて気づいた。


 私はずっと、彼と再会することだけを願っていた。


 けれど彼は――。


 もう、再会することさえ苦しみになり始めていた。


彼にとって――。


 魂に刻まれたルーンは、いつしか呪いになった。


 生と死を繰り返す力。


 けれど、それは彼に終わりを与えなかった。


 死んでも、また生まれる。


 生きても、また死ぬ。


 何度繰り返しても、終わることができない。


 その呪いを解くために、彼は何度も生と死を繰り返した。


 そして――。


 私もまた、彼の本当の死を探すようになった。


 彼を生かすためではない。


 彼が望む、最後の終わりを見つけるために。


 それでも、彼は何度も生まれ変わった。


 私は何度も彼を見つけた。


 そして――何度も彼を見送った。


 ある時。


 私は、一つの噂を耳にした。


 飛影閃突。


 その技を使う青年がいる、と。


 私はすぐに、その青年のもとへ向かった。


 きっと彼だ。


 そう思った。


 けれど――。


 そこにいた青年は、私を見ても何の反応もしなかった。


「……あなたは?」


 その言葉を聞いた瞬間。


 私は理解した。


 彼は――記憶を失っている。


 私のことも。


 かつての人生も。


 魔神との戦いも。


 何も覚えていなかった。


 けれど、その青年は楽しそうに笑っていた。


 多くの仲間たちに囲まれて。


 共に冒険をして。


 くだらないことで笑い合って。


 初めて見るような笑顔を浮かべていた。


 そして私は――。


 その姿を見て、胸の奥が温かくなった。


「……そうか」


 彼は今、苦しんでいない。


 あの呪いに押しつぶされることもなく。


 過去の人生に苦しめられることもなく。


 ただ、一人の冒険者として。


 仲間たちと、この人生を生きている。


 私は――。


 過去のことも話さなかった。


 彼に私の存在を思い出させることもしなかった。


 今の彼にとって、私は必要ない。


 少しだけ。


 本当に少しの間だけでもいい。


 彼が、この人生を楽しめるのなら。


 それでいい。


「……さようなら」


 私は、彼に聞こえないほど小さな声で呟いた。


 そして、その場を離れた。


 またいつか。


 彼の魂が苦しみに囚われる時が来るのかもしれない。


 その時は――。


 私はまた彼を探す。


 そして、彼が本当の終わりを望むのなら。


 今度こそ、その願いを一緒に探してあげよう。


 それまでは――。


 私は遠くから、彼を見守る。


 鳥になって。


 猫になって。


 決して彼の人生を邪魔しないように。


 ただ、彼が笑っている姿を見つめながら。


 少しでも長く。


 彼が、この人生を楽しめるように――。


 私は今――。


 西の大森林にある、いつもの花畑にいた。


 色とりどりの花が咲き誇る場所。


 彼と初めて出会った、思い出の場所。


 私は一人、花畑に腰を下ろしていた。


 風が花々を揺らしている。


 目を閉じると、あの日のことを思い出す。


 まだ幼かった彼が、毎日のように私のもとへ通ってきた。


 草木のこと。


 動物のこと。


 魔物のこと。


 鉱石のこと。


 魔法や剣術。


 私は、彼にたくさんのことを教えた。


 そして――。


 いつしか彼は、私にとって大切な存在になっていた。


「……あの頃は、楽しかったな」


 私は小さく笑った。


 花畑は、あの頃と何も変わっていない。


 今も美しい。


 何千年経っても、この場所だけは変わらない。


 そう思っていた。


「……あの時と同じで、美しいままなんだね」


「……え?」


 聞き覚えのある声。


 私は――動きを止めた。


 ゆっくりと振り返る。


 そこには、一人の青年が立っていた。


 息を激しく乱している。


 まるで、ここまで全力で走ってきたかのように。


「……どうして……」


 私は立ち上がった。


 目の前にいる青年を見つめる。


 その顔。


 その声。


 その瞳。


 そして――。


 魂。


「どうして……ここが……?」


 声が震える。


 青年は、少し困ったように笑った。


「分からない」


 そう言って、一度息を整える。


「気づいたら……ここへ向かって走っていた」


 私は何も言えなかった。


 そんなはずはない。


 彼は何も覚えていなかった。


 私のことも。


 過去の人生も。


 魔神との戦いも。


 すべて忘れていたはずだった。


 それなのに――。


 どうして。


 どうして、この場所に。


 青年が、私を見る。


 そして――。


「……アリス」


 その名前を呼んだ。


 胸の奥が、大きく震えた。


「ただいま、アリス」


「…………」


 何も言えなかった。


 ただ、涙が溢れてきた。


 何千年もの間、ずっと待ち続けた。


 何度も再会し。


 何度も別れて。


 彼の苦しみを知り。


 だからこそ、距離を置いた。


 今の彼が幸せなら、それでいいと思った。


 もう私のことなど思い出さなくてもいい。


 そう思っていた。


 なのに――。


 帰ってきた。


 彼自身の足で。


 彼自身の意思で。


 私のもとへ。


「……レオン……」


 私は、彼の名前を呼んだ。


 そして――。


 堪えていた涙が、一気に溢れ出した。


「うっ……うぅ……」


 子供のように泣きじゃくる私を見て、レオンは優しく笑った。


 そして、ゆっくりと私のそばまで歩いてくる。


「ただいま」


 もう一度。


 優しい声で、そう言った。


 私は何も答えられなかった。


 ただ彼に抱きついた。


 何千年もの時間を越えて――。


 ようやく帰ってきた、大切な人を抱きしめながら。


 私は思った。


 もう、離さない。


 今度こそ――。


 この人のそばにいよう。


 春も。


 夏も。


 秋も。


 冬も。


 この先、どれだけの時間が流れようとも。


 私は、この人と共に生きていく。


 そして――。


 花畑には、あの日と同じように。


 優しい春風が吹いていた。

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