古代の迷宮(後編)
「んー……いい匂い」
鼻をくすぐる香りに、俺はゆっくりと目を覚ました。
チーズが焼ける香り。
それに、バターが溶ける濃厚な香りが混ざっている。
昨日までの緊張が嘘のような、穏やかな朝だった。
薄く目を開ける。
焚き火の向こうでは、ヘクトルが大きな身体を屈めながら、何かを焼いていた。
「……ヘクトル?」
「おう。起きたか」
振り返ったヘクトルが、豪快に笑う。
「朝飯だ。腹減ってるだろ?」
「もちろん……」
俺が身体を起こすと、周りでも仲間たちが次々と目を覚ましていく。
そして――
「ん……」
リンが小さく声を漏らしながら、両手を頭上に伸ばした。
「ふぁ……」
大きく背伸びをする。
昨日は少し顔色が悪かったリンだったが、今朝は見るからに違っていた。
頬にもちゃんと血色が戻っている。
「リン、大丈夫そうだな」
「え?」
声を掛けると、リンは自分の頬に触れた。
「……うん。昨日より、ずっと楽」
「よかった」
思わず俺も笑った。
迷宮の中で迎える二日目の朝。
まだ先には何が待っているのか分からない。
それでも今だけは――
仲間たちと囲む朝食の匂いが、妙に心地よかった。
焚き火の前に並べられていた料理を見て、俺は思わず目を丸くした。
卵を焼いたものに、こんがりと焼かれたベーコン。
香ばしいソーセージまである。
さらに――
「……豆のスープまで?」
朝食とは思えないほどの豪華さだった。
俺は料理を眺めながら、ふと気になった。
「ヘクトル。こんなに食べて、食料は大丈夫なのか?」
迷宮探索はまだ始まったばかりだ。
これから何日も潜る可能性を考えれば、食料はできるだけ節約したほうがいい。
俺の問いに、ヘクトルは一瞬きょとんとした顔をした。
「ん? ああ……」
その時だった。
「戻ったぞ」
通路の奥からヘルメスが姿を現した。
周囲を警戒しながら見回していたようで、弓を背負い直すと、こちらへ歩いてくる。
「周囲に異常はない。しばらくは大丈夫そうだ」
「おう、ご苦労さん。朝飯食え」
「……もうできたのか?」
ヘルメスが料理を見て、苦笑する。
そして俺の隣に腰を下ろすと、ヘクトルの大きなカバンへ視線を向けた。
「レオン、食料の心配なら必要ないぞ」
「え?」
「ヘクトルのカバンの中身を見たことがあるか?」
「いや……」
ヘルメスは笑った。
「ほとんど水と食料だ」
「……え?」
俺はヘクトルのカバンを見た。
かなり大きい。
昨日から気にはなっていたが、まさか――。
「いや、ほとんどって……」
「文字通りだ」
ヘルメスが肩をすくめる。
「武器や必要な道具は最低限。残りは全部食料と水」
「…………」
俺は絶句した。
するとヘクトルが豪快に笑い出す。
「ははは! 迷宮で腹が減ったら戦えねえだろ!」
「いや……限度があるだろ」
「あるか?」
「あると思う」
ヘルメスも笑っている。
どうやら、このパーティーではこれが普通らしい。
俺は改めてヘクトルの巨大なカバンを眺めた。
……あれだけ大きなカバンなら、確かに大量の食料を入れられそうだ。
それにしても。
「……これ、何日分あるんだ?」
俺が尋ねると、ヘクトルは少し考えてから答えた。
「さあ?」
「さあって……」
「足りなくなったら、その時考える!」
「…………」
俺は思わず頭を抱えた。
迷宮探索二日目。
俺は新たな事実を知った。
――ヘクトルは、とんでもない大食漢らしい。
朝食を済ませ、俺たちは再び迷宮の探索を開始した。
昨日と同じように、ヘクトルを先頭に進んでいく。
石造りの通路には、俺たちの足音だけが響いていた。
しばらく進んだところで、前方の景色が少しずつ変わっていく。
「……あれ」
俺は足を止めた。
通路の先。
薄暗い空間の向こうに、大きく開けた場所が見える。
「大部屋か?」
ヘクトルが低い声で呟く。
俺たちはすぐに足を止めた。
昨日の経験から、こういう開けた場所ほど警戒しなければならない。
「リン、頼めるか?」
「うん」
リンが一歩前に出る。
杖を握り、目を閉じた。
「……サーチ」
小さな声とともに、魔力が広がっていく。
しばらくして、リンが眉を寄せた。
「……いる」
「何がいる?」
「ゴブリン」
リンはそのまま集中を続ける。
「かなりの数……。どうやら、あの部屋はゴブリンの集落みたい」
「集落?」
俺は通路の先を見つめた。
確かに、ただゴブリンが集まっているだけではないらしい。
「奥に大きなゴブリンが一匹いる」
「大きな?」
「うん。普通のゴブリンより、かなり大きい」
リンの表情が少し険しくなる。
「それと……弓を持っているゴブリンも複数いる」
「弓兵か」
ヘルメスが呟いた。
その目が鋭くなる。
「数は?」
「……正確には分からない。でも、複数。部屋の奥や周囲に散らばってる」
俺は通路の先を見た。
こちらからは、まだ敵の姿は見えない。
だが、その先には間違いなく多数のゴブリンがいる。
しかも――
大きな個体が一匹。
そして弓兵。
「厄介だな……」
俺が呟くと、ヘクトルが大剣の柄に手を置いた。
「だったら、正面からぶち抜くか?」
「待て」
ヘルメスが制した。
「弓兵がいるなら、むやみに突っ込むのは危険だ」
俺たちは顔を見合わせた。
大部屋。
多数のゴブリン。
弓兵。
そして、明らかに他とは違う大型の個体。
どうやら――
迷宮二日目の最初の戦いは、簡単には終わりそうにない。
「数体を大部屋から誘き出して、数を減らそう」
俺がそう提案すると、ヘルメスも頷いた。
「それがいい。あの弓兵を相手にする前に、できるだけ数を減らしておきたい」
俺たちは大部屋の入り口から少し離れ、通路の影へ身を隠した。
そして――
カンッ。
俺が石を蹴り、わざと音を立てる。
しばらくすると、大部屋の奥から声が聞こえてきた。
「ギャ……?」
やがて、数体のゴブリンが姿を現した。
武器を握りしめ、周囲を警戒しながらゆっくりと通路へ入ってくる。
一体、二体……。
さらに後ろから、もう一体。
俺は盾を構えた。
隣ではヘクトルが大剣を握っている。
ゴブリンたちはまだ、俺たちの存在に気づいていない。
――今だ。
「ヘクトル!」
「おう!」
俺たちは同時に飛び出した。
「ギャッ!?」
先頭のゴブリンが振り向いた瞬間、俺は盾を叩きつけるようにして体勢を崩させる。
その隙に剣を振り抜いた。
ほぼ同時に、横からヘクトルの大剣が唸る。
――ズンッ!
一体が吹き飛び、石壁へ叩きつけられた。
残ったゴブリンたちが慌てて武器を構える。
だが、もう遅い。
俺は一歩踏み込み、盾で攻撃を受け流す。
そして、そのまま懐へ入り込んだ。
剣を突き込む。
ゴブリンの身体から力が抜け、その場に崩れ落ちた。
隣ではヘクトルが大剣を振り下ろしている。
数度の攻防。
それだけだった。
通路には、再び静寂が戻った。
「……これで数は減ったな」
俺が息を整えながら呟く。
ヘクトルは大剣を肩に担いだ。
「まだまだいけるぞ」
「焦るな。次は弓兵もいる」
ヘルメスが通路の先を見つめる。
俺も大部屋へ続く暗闇を見た。
――問題は、あの大きなゴブリンだ。
俺たちは武器を構え直し、次の戦いに備えた。
俺たちは焦らなかった。
機を待ちながら、少しずつゴブリンの数を減らしていく。
物音を立てる。
数匹が通路へ出てくる。
そして、俺とヘクトルで確実に仕留める。
それを何度か繰り返した。
大部屋にいるゴブリンの数は、確実に減っている。
だが――
「……ん?」
リンが小さく声を漏らした。
「どうした?」
「ゴブリンたち……警戒し始めてる」
俺は通路の先へ目を向けた。
先ほどまでとは明らかに違う。
ゴブリンたちがこちらの様子を探るように動いている。
大部屋の入り口付近にも数匹が集まり、通路を覗き込んでいた。
「……気づき始めたか」
俺が呟く。
これ以上、同じやり方は通用しないだろう。
その時だった。
ヘルメスが静かに弓を構えた。
「……あそこだ」
視線の先。
大部屋の奥にある少し高くなった場所。
そこには弓を手にしたゴブリンが立っていた。
周囲を見渡しながら、こちらを警戒している。
――見張りだ。
ヘルメスがゆっくりと弦を引く。
ギリッ。
空気が張り詰める。
そして――
シュッ!
放たれた矢は一直線に飛び、高台に立つゴブリンの胸を射抜いた。
「ギャ……」
ゴブリンが力なく崩れ落ちる。
直後。
大部屋から一斉に叫び声が上がった。
「ギャアアアアッ!」
ゴブリンたちが武器を手に取り、こちらへ向かってくる。
「来るぞ!」
ヘクトルが大剣を構える。
俺も盾を前へ。
リンが杖を握り直し、ヘルメスが次の矢を番える。
もう、隠れて戦う必要はない。
――戦いの始まりだ。
ゴブリンたちが一斉に動き始める。
その中でも、弓を手にしたゴブリンたちは後方へ下がり、こちらへ矢を向けようとしていた。
「弓兵を先に潰す!」
ヘクトルが叫ぶ。
次の瞬間――
ブンッ!
ヘクトルが腰から手斧を抜き放ち、そのまま弓兵へ投げつけた。
「ギャッ!」
手斧が弓兵の身体に突き刺さり、その場に倒れる。
「もう一匹!」
ヘクトルはすぐさま次の手斧を投げる。
こちらへ矢を放とうとしていた弓兵が、反応する間もなく倒れた。
その間にも、別の弓兵が弦を引き絞っている。
だが――
シュッ!
ヘルメスの矢が飛んだ。
弓兵の胸を正確に射抜く。
「一匹!」
さらに矢を番える。
シュッ!
「二匹!」
弓兵同士が狙いを定めるよりも早く、ヘルメスの矢が次々と飛んでいく。
後方の脅威が、瞬く間に減っていく。
「レオン、前!」
ヘルメスの声。
「分かってる!」
視線を戻した瞬間、目の前にゴブリンが迫っていた。
棍棒が振り下ろされる。
俺は盾を掲げた。
ガンッ!
衝撃が腕に伝わる。
だが、受け止めた。
「――遅い!」
盾を前へ押し出す。
ゴブリンの身体が大きくよろめいた。
そこへ剣を振り抜く。
一撃。
ゴブリンが崩れ落ちた。
「次!」
間髪入れず、別のゴブリンが横から飛び込んでくる。
俺は盾を滑らせるようにして攻撃を受け流し、そのまま踏み込んだ。
剣を振る。
ゴブリンが倒れる。
次々と近づいてくる敵を、盾で防ぎ、剣で斬り伏せていく。
後方ではヘルメスが弓兵を狙い、ヘクトルが手斧を投げて敵の数を削っている。
そして――
「行くぞおおおっ!」
ヘクトルが大剣を振り上げ、ゴブリンの群れへ突っ込んでいった。
大部屋に響き渡る雄叫び。
俺たちはそれぞれの役割を果たしながら、ゴブリンの集落を一気に制圧していく。
だが――
俺はふと、大部屋の奥へ目を向けた。
まだ、あの大きなゴブリンがいる。
こちらを睨みつけながら、じっと戦況を見ていた。
――本当の強敵は、まだ動いていない。
ゴブリンの群れが崩れていく中――
大部屋の奥にいた一体が、ゆっくりと立ち上がった。
「……でかい」
思わず声が漏れる。
他のゴブリンとは、明らかに違っていた。
ひときわ大きな身体。
その手には、ゴブリンの身体には不釣り合いなほど巨大な槍。
そしてもう片方の手には、大きな盾を構えている。
ギシッ……。
盾を前に出しながら、そいつはゆっくりとこちらへ歩いてくる。
そして――
「ギャアアアッ!」
突然、槍を突き出した。
狙いはヘクトル。
ヘクトルは大剣を構え、その一撃を受け止める。
ガンッ!
金属音が大部屋に響いた。
「……っ!」
ヘクトルがわずかに後ろへ押される。
巨体から繰り出された一撃は、見た目以上に重い。
大ゴブリンはヘクトルを睨みつけ、何かを叫んでいる。
「ギャッ! グルァ!」
言葉の意味は分からない。
だが、その様子を見ていたヘクトルが、ふっと笑った。
「……なるほどな」
「ヘクトル?」
俺が声を掛けると、ヘクトルは大剣を肩に担いだ。
「こいつ、俺とやりたいらしい」
「……一人で?」
「ああ」
ヘクトルは一歩前へ出る。
「こいつは俺がやる」
「でも――」
「大丈夫だ」
ヘクトルがこちらを見る。
「ここまで来たんだ。最後くらい、こいつと一対一でやらせてくれ」
俺は大ゴブリンへ視線を戻した。
大盾を構え、巨大な槍を握りしめている。
その目には、獣のような殺気だけではない。
まるで、自分と同じように武器を握る相手を認めているようにも見えた。
ヘクトルがゆっくりと前へ出る。
大ゴブリンも槍を構え直した。
その間に、俺たちは下がる。
「……分かった」
俺が頷く。
ヘクトルは笑った。
「ありがとよ」
そして――
大剣を両手で握り直す。
「さあ、来い」
大ゴブリンが咆哮する。
「グオオオオオッ!」
迷宮の大部屋に、二つの雄叫びが響き渡った。
俺たちが少し離れると、周囲に残っていたゴブリンたちが動き始めた。
数体が大ゴブリンを囲むように集まり、武器を構えながら声を上げている。
「ギャア! ギャアア!」
まるで――応援しているようだった。
「……なんだ、これ」
俺は思わず呟いた。
大ゴブリンは槍を構え、ヘクトルだけを見つめている。
周りのゴブリンたちも手を出そうとはしない。
「……決闘?」
リンが不思議そうに呟く。
俺も同じことを考えていた。
言葉は分からない。
それでも、今の状況だけを見れば、まるでそうとしか思えない。
「面白え……!」
ヘクトルが笑った。
さっきまでとは明らかに違う。
楽しそうだった。
「こいつ、いいな!」
ヘクトルは大剣を構え直す。
大ゴブリンも槍を低く構えた。
次の瞬間――
ドンッ!
二人が同時に踏み込んだ。
槍が一直線に突き出される。
ヘクトルは身体をひねってかわし、そのまま大剣を横薙ぎに振り抜いた。
ガンッ!
大ゴブリンは大盾で受け止める。
凄まじい音が響いた。
「ははっ!」
ヘクトルが笑う。
「そうこなくちゃな!」
大ゴブリンが槍を引き戻し、再び突き出す。
ヘクトルは大剣で槍の穂先を弾いた。
金属と金属がぶつかり合う。
ガンッ!
ギィンッ!
互いに一歩も引かない。
周囲のゴブリンたちは、その戦いを取り囲みながら一斉に声を上げている。
「ギャアアア!」
その光景を見ながら、俺は思った。
――本当に、決闘をしているみたいだ。
そして何より――
ヘクトル自身が、この戦いを心から楽しんでいた。
「ヘクトルー! 負けたら承知しないよー!」
突然、リンが声を張り上げた。
「えっ……?」
俺は思わずリンを見る。
いつの間にか、すっかりこの妙な空気に呑まれている。
「頑張ってー!」
リンは両手を口元に添え、ヘクトルを応援している。
ヘルメスも苦笑しながら、その様子を眺めていた。
「……すっかり観客だな」
「そうみたいだな」
俺も思わず笑ってしまう。
その瞬間――
大きな衝撃音が響いた。
ガンッ!!
ヘクトルの大剣と、大ゴブリンの槍が激しくぶつかり合う。
大ゴブリンが槍を突き出す。
ヘクトルは大剣で弾き、踏み込む。
大ゴブリンは大盾を構え、真正面から受け止めた。
「グオオオッ!」
「うおおおおっ!」
二人の雄叫びが重なる。
大剣が振り下ろされる。
大盾が受け止める。
槍が突き出される。
ヘクトルが紙一重でかわす。
互いに一歩も譲らない。
そのたびに、周囲のゴブリンたちが歓声のような声を上げる。
「ギャアアア!」
「グギャッ!」
まるで本当の決闘を見守っているかのようだった。
俺はいつの間にか、拳を握っていた。
「ヘクトル……!」
大ゴブリンが渾身の力で槍を突き出す。
ヘクトルはそれを大剣で受け止め、歯を食いしばった。
「――まだだ!」
そして、大剣を押し返す。
互いの全力がぶつかり合う。
どちらも退かない。
どちらも倒れない。
俺はその光景から目を離せなかった。
敵のはずなのに。
今、目の前で戦っている二人は、互いの力を認め合うように全力でぶつかっている。
「……負けるな、ヘクトル!」
気づけば、俺も声を上げていた。
リンと同じように。
ただ目の前の戦いを――応援していた。
激しい攻防は、いつまでも続いた。
ヘクトルの頬には傷が走り、大ゴブリンの肩からも血が流れている。
互いに傷つきながら、それでも二人は止まらない。
大剣が唸る。
槍が突き出される。
盾がぶつかり合う。
――そして。
ドゴンッ!!
大ゴブリンが大盾を叩きつけた。
「ぐっ……!」
直撃を受けたヘクトルの巨体が大きく弾き飛ばされる。
足がもつれ――
ドサッ。
ヘクトルが片膝をついた。
「ヘクトル!」
リンが叫ぶ。
大ゴブリンは勝利を確信したのか、大きく腕を振り上げた。
「グオオオオオオッ!!」
咆哮が大部屋に響き渡る。
周囲のゴブリンたちも一斉に騒ぎ始めた。
「ギャハハハ!」
「ギャギャッ!」
ヘクトルを指差し、笑っている。
俺は思わず一歩前へ出そうになった。
だが――
「……待て」
ヘルメスが俺の肩を掴んだ。
「ヘクトルを信じろ」
「……!」
その言葉に、俺は足を止めた。
そして――
俺は異変に気づいた。
膝をついたヘクトルの身体から、白いものが立ち上っている。
「……蒸気?」
汗が熱気に変わり、身体から白い蒸気となって立ち上っていた。
ヘクトルの肩が、ゆっくりと上下する。
ドクン。
ドクン。
まるで心臓の鼓動まで聞こえてきそうだった。
そして――
全身の筋肉が、さらに張り詰めていく。
腕。
肩。
胸。
背中。
筋肉が圧縮されるように盛り上がり、浮き出た血管が皮膚を走っていく。
「……なんだ、あれ」
俺は息を呑んだ。
ヘクトルがゆっくりと顔を上げる。
その目から、さっきまでの楽しそうな笑みが消えていた。
代わりにあるのは――
戦う者の鋭い眼差し。
片膝をついたまま、ヘクトルは大剣を握り直した。
そして――
ズンッ。
地面を踏みしめる。
ゆっくりと立ち上がった。
白い蒸気が、身体から立ち上り続けている。
「……ヘクトル」
俺が呟く。
ヘクトルは大ゴブリンを睨みつけた。
そして、口元をわずかに吊り上げる。
「……まだ終わっちゃいねえぞ」
大部屋の空気が――変わった。
大ゴブリンは、立ち上がったヘクトルを見つめていた。
そして――
右手をゆっくりと上げる。
手招きするように、指を曲げた。
「……来いってことか?」
俺が呟く。
どうやら大ゴブリンは、まだ戦うつもりらしい。
ヘクトルは答えなかった。
ただ、大剣を握り直す。
そして――
大きく振りかぶった。
「……ッ!」
大ゴブリンも大盾を正面に構える。
完全に受け止めるつもりだ。
次の瞬間。
ヘクトルが踏み込んだ。
「うおおおおおおおっ!!」
大剣が――振り下ろされる。
ドォンッ!!
凄まじい衝撃が大部屋を揺らした。
「……!」
俺は息を呑んだ。
その一撃を見た瞬間、脳裏に蘇った。
――ヘイゼルの白。
あの異常な大剣が生み出した、圧倒的な破壊力。
それを思い出すほどの一撃だった。
大ゴブリンの大盾が――
ミシッ。
嫌な音を立てる。
そして。
バキィィンッ!!
大盾が、真っ二つに割れた。
「な――」
そのまま大剣は止まらない。
盾を叩き割った勢いのまま、その奥にいた大ゴブリンへと食い込んでいく。
一瞬。
時間が止まったように感じた。
そして――
大ゴブリンの巨体が、ゆっくりと左右へ崩れ落ちた。
静寂。
誰も声を上げない。
周囲のゴブリンたちでさえ、何が起きたのか理解できていないようだった。
ヘクトルは大剣をゆっくりと引き抜く。
白い蒸気が、まだ身体から立ち上っている。
「…………」
俺は言葉を失っていた。
あれほど激しく戦っていた相手を――
たった一撃で。
ヘクトルは大剣を肩に担ぐと、小さく息を吐いた。
「……終わったな」
その声だけが、静まり返った大部屋に響いた。
大ゴブリンが倒れた瞬間――
周囲にいたゴブリンたちが、一斉に騒ぎ始めた。
「ギャアアッ!」
次の瞬間には、我先にと大部屋の奥へ逃げ出していく。
武器を捨てる者までいた。
あれだけヘクトルを取り囲んでいたゴブリンたちが、今度は一目散に逃げていく。
「……終わったな」
俺が呟く。
だが、そんなことを気にしている場合じゃなかった。
「ヘクトル!」
俺たちはすぐに駆け寄った。
ヘクトルの身体には、槍で受けた傷や打撲がいくつもある。
特に盾を叩きつけられた時の傷は深そうだった。
「止血剤!」
「はい!」
リンがすぐに道具袋を開く。
俺はヘクトルの傷口を確認し、止血剤を塗り込んでいく。
「痛くないのか?」
「痛えぞ」
ヘクトルは笑った。
「だったら笑ってないでじっとしてろ」
「ははは!」
傷口を薬草で覆い、布を巻いていく。
ヘルメスも手伝いながら、ヘクトルの身体を確認していた。
「骨は大丈夫そうだな」
「そうか」
ヘクトルは安心したように息を吐く。
そして、倒れた大ゴブリンへ視線を向けた。
「……強敵だった」
その顔には、満足そうな笑みが浮かんでいた。
「久しぶりに、あんなに全力で振ったぜ」
俺も大ゴブリンへ目を向ける。
あれほどの巨体。
大盾と巨大な槍。
最後までヘクトルから逃げず、真正面から戦い続けた。
「……ああ。強かったな」
俺がそう答えると、ヘクトルは嬉しそうに笑った。
「だろ?」
傷だらけなのに――
まるで最高の戦いを終えた男の顔をしていた。
戦いが終わり、俺たちは改めて大部屋の中を調べ始めた。
そこは、ただのゴブリンの住処というわけではなかった。
部屋の隅には、いくつもの宝石が積まれている。
古びたメダル。
使い込まれた武器。
動物の皮。
何に使うのか分からない収集品まで、雑然と並べられていた。
「……これ、全部集めてたのか?」
俺は辺りを見回す。
おそらく、この迷宮に入り込んだ冒険者や旅人、あるいは魔物から奪ったものなのだろう。
中には、かなり価値がありそうな品もある。
「結構な収穫だな」
ヘルメスが宝石を手に取って眺める。
リンも古びたメダルを一枚拾い上げた。
「これ……何のメダルだろう」
「鑑定できるやつがいればいいんだけどな」
俺たちは価値のありそうなものを一つずつ確認し、カバンへ収めていった。
そんな中――
「おい」
ヘクトルの声がした。
俺が振り返る。
ヘクトルは、大ゴブリンが倒れていた場所に立っていた。
その手には、一つのネックレスが握られている。
動物の牙を加工して作ったものらしい。
大小様々な牙が紐に通され、その中央には小さなメダルが取り付けられている。
「それは?」
「こいつが身につけてた」
ヘクトルはネックレスを眺めた。
しばらく黙っていたが、やがてそれを自分の手に巻き取る。
「……記念に貰っておく」
「記念?」
「ああ」
ヘクトルは大ゴブリンへ目を向けた。
「こいつは強かったからな」
そう言って、ネックレスを大事そうにカバンへしまった。
俺はその姿を見ながら、少しだけ笑った。
魔物との戦い。
それだけなら、いつもの冒険と変わらない。
けれど今日の戦いは――
ヘクトルにとって、きっと忘れられない一戦になったのだろう。
ゴブリンの集落を後にし、俺たちは再び迷宮の奥へと進んでいった。
先ほどの戦いで傷を負ったヘクトルも、応急処置を済ませて歩いている。
とはいえ、無理はさせられない。
俺たちはいつも以上に周囲を警戒しながら、ゆっくりと通路を進んでいた。
しばらく歩いたところで――
「……待って」
リンが突然、足を止めた。
「どうした?」
「サーチに……変な反応がある」
リンは杖を握り直し、目を閉じる。
周囲へ魔力を広げていく。
「……ここ」
リンが、通路の壁へ近づいた。
一見すると、ただの石壁だ。
俺には何の変化も見えない。
「何かあるのか?」
「うん。壁の向こうに空間がある」
リンが壁へ手を近づける。
「……隠し部屋だと思う」
「隠し部屋?」
ヘルメスが近づいてくる。
リンは壁をじっと見つめた。
「風が流れてる」
「風?」
「うん。ほんの少しだけど……この隙間から」
リンが指を差した。
よく見ると、石壁の一部にほんのわずかな隙間がある。
そこから、ごく微かな風が流れ込んでいた。
「なるほどな」
ヘルメスが壁を調べる。
周囲の石とは違い、一部分だけ継ぎ目が不自然だ。
「入口が隠されてる」
俺も壁に手を当ててみる。
冷たい石の感触。
だが、その奥には確かに空間があるようだった。
「……この迷宮、まだ何か隠してるみたいだな」
リンが頷く。
「中に何があるかは……まだ分からない」
俺たちは顔を見合わせた。
ゴブリンの集落の先。
そして今度は――
誰にも見つからないように隠された部屋。
俺は剣に手を添えた。
「……開けてみよう」
迷宮の奥で、俺たちは新たな発見をしようとしていた。
隠し部屋の入口を見つけたものの、問題は扉だった。
石壁に紛れるように作られた小さな扉。
取っ手すら見当たらない。
「ちょっと待ってろ」
そう言ってヘルメスが扉の前にしゃがみ込んだ。
指先で石の継ぎ目をなぞり、周囲を調べていく。
「……ここか」
小さな金具を押し込み、別の場所を軽く捻る。
カチッ。
乾いた音がした。
「開くぞ」
「……手慣れてるな」
俺が思わず言うと、ヘルメスは苦笑した。
「こういう仕掛けは、冒険者をやってれば何度か遭遇する」
さらに二つ、仕掛けを解除する。
カチリ。
最後に扉を押すと――
ゴゴゴゴ……。
石の扉がゆっくりと横へ動いた。
その先には、小さな部屋があった。
「……小部屋だな」
広さはそれほどない。
だが、部屋の中央に置かれているものを見た瞬間、俺たちは足を止めた。
「宝箱……」
そこに置かれていたのは、一つの宝箱だった。
以前、一層で見つけた木製の宝箱とは明らかに違う。
重厚な木材に金属の装飾が施され、縁には細かな彫刻まで刻まれている。
金具も鈍く光っている。
「……ずいぶん豪華だな」
リンが目を輝かせる。
俺も思わず息を呑んだ。
隠された小部屋。
そして、その奥に置かれた明らかに特別な宝箱。
ただの収集品が入っているとは思えない。
「ヘルメス……罠は?」
「今から調べる」
ヘルメスが慎重に宝箱へ近づく。
俺たちはその背後で武器を構えた。
ここまで隠されていた部屋だ。
この宝箱も――
簡単には開けさせてくれないかもしれない。
俺たちは、すぐには部屋の中へ入らなかった。
まずは扉の外から、部屋全体を調べる。
「リン、頼めるか?」
「うん……」
リンは頷くと、杖を握りしめた。
目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整える。
「……サーチ」
小さな声とともに、魔力が広がっていく。
部屋の壁。
床。
天井。
そして――中央に置かれた豪華な宝箱。
リンはかなり集中しているようだった。
額には薄っすらと汗が浮かんでいる。
「…………」
俺はリンの前に立った。
万が一、何かが飛び出してきても対応できるよう、盾を構える。
ヘクトルは大剣を手に、通路の奥を警戒している。
ヘルメスも周囲を見回しながら、いつでも弓を引けるよう準備していた。
誰も口を開かない。
聞こえるのは、リンの呼吸と、迷宮の奥から響いてくる小さな音だけ。
「……部屋の中は……」
リンが集中を続ける。
「……何もいない」
俺は少しだけ息を吐いた。
「宝箱は?」
「…………」
リンはさらに意識を集中させる。
しばらくして――
「……魔力の反応がある」
「罠か?」
「分からない……。でも、普通の宝箱じゃない」
リンの声は真剣だった。
俺は盾を握り直す。
豪華な宝箱。
隠された部屋。
そして、そこから感じられる魔力。
どうやら――
この宝箱には、何か特別なものが入っているらしい。
リンのサーチで部屋の中を確認したあと、今度は物理的に調べることになった。
「俺が見る」
ヘルメスがそう言って、慎重に部屋へ入っていく。
床を一歩ずつ確認しながら、壁や天井にも目を向ける。
宝箱の周囲も入念に調べ、罠が仕掛けられていないかを確認していく。
「……大丈夫だ」
しばらくして、ヘルメスが宝箱の前でしゃがみ込んだ。
蓋の縁。
蝶番。
鍵穴。
指先で一つずつ確認していく。
「罠はない」
「本当に?」
リンが尋ねる。
「ああ。少なくとも、俺が確認した限りではな」
ヘルメスは腰から細い道具を取り出した。
「よし。鍵を開けるぞ」
細い金属を鍵穴へ差し込む。
カチャ……。
カチッ。
小さな音が部屋に響く。
俺たちは固唾を呑んで見守った。
ヘクトルも珍しく黙っている。
やがて――
「……開いた」
ヘルメスが呟いた。
そして、ゆっくりと蓋を持ち上げる。
ギィ……。
古びた音とともに、宝箱が開いた。
「…………」
俺たちは中を覗き込む。
そこに入っていたのは――
一つの石だった。
手のひらほどの大きさ。
表面には見たことのない文字のような模様が刻まれ、淡い光を帯びている。
「……これって」
俺が言葉を失っていると――
「……!!」
リンが目を見開いた。
すぐに宝箱へ駆け寄る。
「ルーンストーン……!」
「これが?」
俺は石を見つめる。
以前、ポポから聞いた話が頭をよぎった。
迷宮で見つかるという、特殊な石。
魔力を秘め、古代の技術によって作られたもの。
「間違いない……」
リンは興奮を隠せない様子だった。
「本物のルーンストーンだよ……!」
小さな隠し部屋。
厳重に隠された宝箱。
その中に眠っていたのは――
俺たちが探し求めていた、ルーンストーンだった。




