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冒険の書  作者: siva5880


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18/54

古代の迷宮(後編)

「んー……いい匂い」


 鼻をくすぐる香りに、俺はゆっくりと目を覚ました。


 チーズが焼ける香り。

 それに、バターが溶ける濃厚な香りが混ざっている。


 昨日までの緊張が嘘のような、穏やかな朝だった。


 薄く目を開ける。


 焚き火の向こうでは、ヘクトルが大きな身体を屈めながら、何かを焼いていた。


「……ヘクトル?」


「おう。起きたか」


 振り返ったヘクトルが、豪快に笑う。


「朝飯だ。腹減ってるだろ?」


「もちろん……」


 俺が身体を起こすと、周りでも仲間たちが次々と目を覚ましていく。


 そして――


「ん……」


 リンが小さく声を漏らしながら、両手を頭上に伸ばした。


「ふぁ……」


 大きく背伸びをする。


 昨日は少し顔色が悪かったリンだったが、今朝は見るからに違っていた。


 頬にもちゃんと血色が戻っている。


「リン、大丈夫そうだな」


「え?」


 声を掛けると、リンは自分の頬に触れた。


「……うん。昨日より、ずっと楽」


「よかった」


 思わず俺も笑った。


 迷宮の中で迎える二日目の朝。


 まだ先には何が待っているのか分からない。


 それでも今だけは――


 仲間たちと囲む朝食の匂いが、妙に心地よかった。


焚き火の前に並べられていた料理を見て、俺は思わず目を丸くした。


 卵を焼いたものに、こんがりと焼かれたベーコン。


 香ばしいソーセージまである。


 さらに――


「……豆のスープまで?」


 朝食とは思えないほどの豪華さだった。


 俺は料理を眺めながら、ふと気になった。


「ヘクトル。こんなに食べて、食料は大丈夫なのか?」


 迷宮探索はまだ始まったばかりだ。


 これから何日も潜る可能性を考えれば、食料はできるだけ節約したほうがいい。


 俺の問いに、ヘクトルは一瞬きょとんとした顔をした。


「ん? ああ……」


 その時だった。


「戻ったぞ」


 通路の奥からヘルメスが姿を現した。


 周囲を警戒しながら見回していたようで、弓を背負い直すと、こちらへ歩いてくる。


「周囲に異常はない。しばらくは大丈夫そうだ」


「おう、ご苦労さん。朝飯食え」


「……もうできたのか?」


 ヘルメスが料理を見て、苦笑する。


 そして俺の隣に腰を下ろすと、ヘクトルの大きなカバンへ視線を向けた。


「レオン、食料の心配なら必要ないぞ」


「え?」


「ヘクトルのカバンの中身を見たことがあるか?」


「いや……」


 ヘルメスは笑った。


「ほとんど水と食料だ」


「……え?」


 俺はヘクトルのカバンを見た。


 かなり大きい。


 昨日から気にはなっていたが、まさか――。


「いや、ほとんどって……」


「文字通りだ」


 ヘルメスが肩をすくめる。


「武器や必要な道具は最低限。残りは全部食料と水」


「…………」


 俺は絶句した。


 するとヘクトルが豪快に笑い出す。


「ははは! 迷宮で腹が減ったら戦えねえだろ!」


「いや……限度があるだろ」


「あるか?」


「あると思う」


 ヘルメスも笑っている。


 どうやら、このパーティーではこれが普通らしい。


 俺は改めてヘクトルの巨大なカバンを眺めた。


 ……あれだけ大きなカバンなら、確かに大量の食料を入れられそうだ。


 それにしても。


「……これ、何日分あるんだ?」


 俺が尋ねると、ヘクトルは少し考えてから答えた。


「さあ?」


「さあって……」


「足りなくなったら、その時考える!」


「…………」


 俺は思わず頭を抱えた。


 迷宮探索二日目。


 俺は新たな事実を知った。


 ――ヘクトルは、とんでもない大食漢らしい。


朝食を済ませ、俺たちは再び迷宮の探索を開始した。


 昨日と同じように、ヘクトルを先頭に進んでいく。


 石造りの通路には、俺たちの足音だけが響いていた。


 しばらく進んだところで、前方の景色が少しずつ変わっていく。


「……あれ」


 俺は足を止めた。


 通路の先。


 薄暗い空間の向こうに、大きく開けた場所が見える。


「大部屋か?」


 ヘクトルが低い声で呟く。


 俺たちはすぐに足を止めた。


 昨日の経験から、こういう開けた場所ほど警戒しなければならない。


「リン、頼めるか?」


「うん」


 リンが一歩前に出る。


 杖を握り、目を閉じた。


「……サーチ」


 小さな声とともに、魔力が広がっていく。


 しばらくして、リンが眉を寄せた。


「……いる」


「何がいる?」


「ゴブリン」


 リンはそのまま集中を続ける。


「かなりの数……。どうやら、あの部屋はゴブリンの集落みたい」


「集落?」


 俺は通路の先を見つめた。


 確かに、ただゴブリンが集まっているだけではないらしい。


「奥に大きなゴブリンが一匹いる」


「大きな?」


「うん。普通のゴブリンより、かなり大きい」


 リンの表情が少し険しくなる。


「それと……弓を持っているゴブリンも複数いる」


「弓兵か」


 ヘルメスが呟いた。


 その目が鋭くなる。


「数は?」


「……正確には分からない。でも、複数。部屋の奥や周囲に散らばってる」


 俺は通路の先を見た。


 こちらからは、まだ敵の姿は見えない。


 だが、その先には間違いなく多数のゴブリンがいる。


 しかも――


 大きな個体が一匹。


 そして弓兵。


「厄介だな……」


 俺が呟くと、ヘクトルが大剣の柄に手を置いた。


「だったら、正面からぶち抜くか?」


「待て」


 ヘルメスが制した。


「弓兵がいるなら、むやみに突っ込むのは危険だ」


 俺たちは顔を見合わせた。


 大部屋。


 多数のゴブリン。


 弓兵。


 そして、明らかに他とは違う大型の個体。


 どうやら――


 迷宮二日目の最初の戦いは、簡単には終わりそうにない。


「数体を大部屋から誘き出して、数を減らそう」


 俺がそう提案すると、ヘルメスも頷いた。


「それがいい。あの弓兵を相手にする前に、できるだけ数を減らしておきたい」


 俺たちは大部屋の入り口から少し離れ、通路の影へ身を隠した。


 そして――


 カンッ。


 俺が石を蹴り、わざと音を立てる。


 しばらくすると、大部屋の奥から声が聞こえてきた。


「ギャ……?」


 やがて、数体のゴブリンが姿を現した。


 武器を握りしめ、周囲を警戒しながらゆっくりと通路へ入ってくる。


 一体、二体……。


 さらに後ろから、もう一体。


 俺は盾を構えた。


 隣ではヘクトルが大剣を握っている。


 ゴブリンたちはまだ、俺たちの存在に気づいていない。


 ――今だ。


「ヘクトル!」


「おう!」


 俺たちは同時に飛び出した。


「ギャッ!?」


 先頭のゴブリンが振り向いた瞬間、俺は盾を叩きつけるようにして体勢を崩させる。


 その隙に剣を振り抜いた。


 ほぼ同時に、横からヘクトルの大剣が唸る。


 ――ズンッ!


 一体が吹き飛び、石壁へ叩きつけられた。


 残ったゴブリンたちが慌てて武器を構える。


 だが、もう遅い。


 俺は一歩踏み込み、盾で攻撃を受け流す。


 そして、そのまま懐へ入り込んだ。


 剣を突き込む。


 ゴブリンの身体から力が抜け、その場に崩れ落ちた。


 隣ではヘクトルが大剣を振り下ろしている。


 数度の攻防。


 それだけだった。


 通路には、再び静寂が戻った。


「……これで数は減ったな」


 俺が息を整えながら呟く。


 ヘクトルは大剣を肩に担いだ。


「まだまだいけるぞ」


「焦るな。次は弓兵もいる」


 ヘルメスが通路の先を見つめる。


 俺も大部屋へ続く暗闇を見た。


 ――問題は、あの大きなゴブリンだ。


 俺たちは武器を構え直し、次の戦いに備えた。


俺たちは焦らなかった。


 機を待ちながら、少しずつゴブリンの数を減らしていく。


 物音を立てる。


 数匹が通路へ出てくる。


 そして、俺とヘクトルで確実に仕留める。


 それを何度か繰り返した。


 大部屋にいるゴブリンの数は、確実に減っている。


 だが――


「……ん?」


 リンが小さく声を漏らした。


「どうした?」


「ゴブリンたち……警戒し始めてる」


 俺は通路の先へ目を向けた。


 先ほどまでとは明らかに違う。


 ゴブリンたちがこちらの様子を探るように動いている。


 大部屋の入り口付近にも数匹が集まり、通路を覗き込んでいた。


「……気づき始めたか」


 俺が呟く。


 これ以上、同じやり方は通用しないだろう。


 その時だった。


 ヘルメスが静かに弓を構えた。


「……あそこだ」


 視線の先。


 大部屋の奥にある少し高くなった場所。


 そこには弓を手にしたゴブリンが立っていた。


 周囲を見渡しながら、こちらを警戒している。


 ――見張りだ。


 ヘルメスがゆっくりと弦を引く。


 ギリッ。


 空気が張り詰める。


 そして――


 シュッ!


 放たれた矢は一直線に飛び、高台に立つゴブリンの胸を射抜いた。


「ギャ……」


 ゴブリンが力なく崩れ落ちる。


 直後。


 大部屋から一斉に叫び声が上がった。


「ギャアアアアッ!」


 ゴブリンたちが武器を手に取り、こちらへ向かってくる。


「来るぞ!」


 ヘクトルが大剣を構える。


 俺も盾を前へ。


 リンが杖を握り直し、ヘルメスが次の矢を番える。


 もう、隠れて戦う必要はない。


――戦いの始まりだ。


ゴブリンたちが一斉に動き始める。


 その中でも、弓を手にしたゴブリンたちは後方へ下がり、こちらへ矢を向けようとしていた。


「弓兵を先に潰す!」


 ヘクトルが叫ぶ。


 次の瞬間――


 ブンッ!


 ヘクトルが腰から手斧を抜き放ち、そのまま弓兵へ投げつけた。


「ギャッ!」


 手斧が弓兵の身体に突き刺さり、その場に倒れる。


「もう一匹!」


 ヘクトルはすぐさま次の手斧を投げる。


 こちらへ矢を放とうとしていた弓兵が、反応する間もなく倒れた。


 その間にも、別の弓兵が弦を引き絞っている。


 だが――


 シュッ!


 ヘルメスの矢が飛んだ。


 弓兵の胸を正確に射抜く。


「一匹!」


 さらに矢を番える。


 シュッ!


「二匹!」


 弓兵同士が狙いを定めるよりも早く、ヘルメスの矢が次々と飛んでいく。


 後方の脅威が、瞬く間に減っていく。


「レオン、前!」


 ヘルメスの声。


「分かってる!」


 視線を戻した瞬間、目の前にゴブリンが迫っていた。


 棍棒が振り下ろされる。


 俺は盾を掲げた。


 ガンッ!


 衝撃が腕に伝わる。


 だが、受け止めた。


「――遅い!」


 盾を前へ押し出す。


 ゴブリンの身体が大きくよろめいた。


 そこへ剣を振り抜く。


 一撃。


 ゴブリンが崩れ落ちた。


「次!」


 間髪入れず、別のゴブリンが横から飛び込んでくる。


 俺は盾を滑らせるようにして攻撃を受け流し、そのまま踏み込んだ。


 剣を振る。


 ゴブリンが倒れる。


 次々と近づいてくる敵を、盾で防ぎ、剣で斬り伏せていく。


 後方ではヘルメスが弓兵を狙い、ヘクトルが手斧を投げて敵の数を削っている。


 そして――


「行くぞおおおっ!」


 ヘクトルが大剣を振り上げ、ゴブリンの群れへ突っ込んでいった。


 大部屋に響き渡る雄叫び。


 俺たちはそれぞれの役割を果たしながら、ゴブリンの集落を一気に制圧していく。


 だが――


 俺はふと、大部屋の奥へ目を向けた。


 まだ、あの大きなゴブリンがいる。


 こちらを睨みつけながら、じっと戦況を見ていた。


 ――本当の強敵は、まだ動いていない。


ゴブリンの群れが崩れていく中――


 大部屋の奥にいた一体が、ゆっくりと立ち上がった。


「……でかい」


 思わず声が漏れる。


 他のゴブリンとは、明らかに違っていた。


 ひときわ大きな身体。


 その手には、ゴブリンの身体には不釣り合いなほど巨大な槍。


 そしてもう片方の手には、大きな盾を構えている。


 ギシッ……。


 盾を前に出しながら、そいつはゆっくりとこちらへ歩いてくる。


 そして――


「ギャアアアッ!」


 突然、槍を突き出した。


 狙いはヘクトル。


 ヘクトルは大剣を構え、その一撃を受け止める。


 ガンッ!


 金属音が大部屋に響いた。


「……っ!」


 ヘクトルがわずかに後ろへ押される。


 巨体から繰り出された一撃は、見た目以上に重い。


 大ゴブリンはヘクトルを睨みつけ、何かを叫んでいる。


「ギャッ! グルァ!」


 言葉の意味は分からない。


 だが、その様子を見ていたヘクトルが、ふっと笑った。


「……なるほどな」


「ヘクトル?」


 俺が声を掛けると、ヘクトルは大剣を肩に担いだ。


「こいつ、俺とやりたいらしい」


「……一人で?」


「ああ」


 ヘクトルは一歩前へ出る。


「こいつは俺がやる」


「でも――」


「大丈夫だ」


 ヘクトルがこちらを見る。


「ここまで来たんだ。最後くらい、こいつと一対一でやらせてくれ」


 俺は大ゴブリンへ視線を戻した。


 大盾を構え、巨大な槍を握りしめている。


 その目には、獣のような殺気だけではない。


 まるで、自分と同じように武器を握る相手を認めているようにも見えた。


 ヘクトルがゆっくりと前へ出る。


 大ゴブリンも槍を構え直した。


 その間に、俺たちは下がる。


「……分かった」


 俺が頷く。


 ヘクトルは笑った。


「ありがとよ」


 そして――


 大剣を両手で握り直す。


「さあ、来い」


 大ゴブリンが咆哮する。


「グオオオオオッ!」


 迷宮の大部屋に、二つの雄叫びが響き渡った。


俺たちが少し離れると、周囲に残っていたゴブリンたちが動き始めた。


 数体が大ゴブリンを囲むように集まり、武器を構えながら声を上げている。


「ギャア! ギャアア!」


 まるで――応援しているようだった。


「……なんだ、これ」


 俺は思わず呟いた。


 大ゴブリンは槍を構え、ヘクトルだけを見つめている。


 周りのゴブリンたちも手を出そうとはしない。


「……決闘?」


 リンが不思議そうに呟く。


 俺も同じことを考えていた。


 言葉は分からない。


 それでも、今の状況だけを見れば、まるでそうとしか思えない。


「面白え……!」


 ヘクトルが笑った。


 さっきまでとは明らかに違う。


 楽しそうだった。


「こいつ、いいな!」


 ヘクトルは大剣を構え直す。


 大ゴブリンも槍を低く構えた。


 次の瞬間――


 ドンッ!


 二人が同時に踏み込んだ。


 槍が一直線に突き出される。


 ヘクトルは身体をひねってかわし、そのまま大剣を横薙ぎに振り抜いた。


 ガンッ!


 大ゴブリンは大盾で受け止める。


 凄まじい音が響いた。


「ははっ!」


 ヘクトルが笑う。


「そうこなくちゃな!」


 大ゴブリンが槍を引き戻し、再び突き出す。


 ヘクトルは大剣で槍の穂先を弾いた。


 金属と金属がぶつかり合う。


 ガンッ!


 ギィンッ!


 互いに一歩も引かない。


 周囲のゴブリンたちは、その戦いを取り囲みながら一斉に声を上げている。


「ギャアアア!」


 その光景を見ながら、俺は思った。


 ――本当に、決闘をしているみたいだ。


 そして何より――


 ヘクトル自身が、この戦いを心から楽しんでいた。


「ヘクトルー! 負けたら承知しないよー!」


 突然、リンが声を張り上げた。


「えっ……?」


 俺は思わずリンを見る。


 いつの間にか、すっかりこの妙な空気に呑まれている。


「頑張ってー!」


 リンは両手を口元に添え、ヘクトルを応援している。


 ヘルメスも苦笑しながら、その様子を眺めていた。


「……すっかり観客だな」


「そうみたいだな」


 俺も思わず笑ってしまう。


 その瞬間――


 大きな衝撃音が響いた。


 ガンッ!!


 ヘクトルの大剣と、大ゴブリンの槍が激しくぶつかり合う。


 大ゴブリンが槍を突き出す。


 ヘクトルは大剣で弾き、踏み込む。


 大ゴブリンは大盾を構え、真正面から受け止めた。


「グオオオッ!」


「うおおおおっ!」


 二人の雄叫びが重なる。


 大剣が振り下ろされる。


 大盾が受け止める。


 槍が突き出される。


 ヘクトルが紙一重でかわす。


 互いに一歩も譲らない。


 そのたびに、周囲のゴブリンたちが歓声のような声を上げる。


「ギャアアア!」


「グギャッ!」


 まるで本当の決闘を見守っているかのようだった。


 俺はいつの間にか、拳を握っていた。


「ヘクトル……!」


 大ゴブリンが渾身の力で槍を突き出す。


 ヘクトルはそれを大剣で受け止め、歯を食いしばった。


「――まだだ!」


 そして、大剣を押し返す。


 互いの全力がぶつかり合う。


 どちらも退かない。


 どちらも倒れない。


 俺はその光景から目を離せなかった。


 敵のはずなのに。


 今、目の前で戦っている二人は、互いの力を認め合うように全力でぶつかっている。


「……負けるな、ヘクトル!」


 気づけば、俺も声を上げていた。


 リンと同じように。


 ただ目の前の戦いを――応援していた。


激しい攻防は、いつまでも続いた。


 ヘクトルの頬には傷が走り、大ゴブリンの肩からも血が流れている。


 互いに傷つきながら、それでも二人は止まらない。


 大剣が唸る。


 槍が突き出される。


 盾がぶつかり合う。


 ――そして。


 ドゴンッ!!


 大ゴブリンが大盾を叩きつけた。


「ぐっ……!」


 直撃を受けたヘクトルの巨体が大きく弾き飛ばされる。


 足がもつれ――


 ドサッ。


 ヘクトルが片膝をついた。


「ヘクトル!」


 リンが叫ぶ。


 大ゴブリンは勝利を確信したのか、大きく腕を振り上げた。


「グオオオオオオッ!!」


 咆哮が大部屋に響き渡る。


 周囲のゴブリンたちも一斉に騒ぎ始めた。


「ギャハハハ!」


「ギャギャッ!」


 ヘクトルを指差し、笑っている。


 俺は思わず一歩前へ出そうになった。


 だが――


「……待て」


 ヘルメスが俺の肩を掴んだ。


「ヘクトルを信じろ」


「……!」


 その言葉に、俺は足を止めた。


 そして――


 俺は異変に気づいた。


 膝をついたヘクトルの身体から、白いものが立ち上っている。


「……蒸気?」


 汗が熱気に変わり、身体から白い蒸気となって立ち上っていた。


 ヘクトルの肩が、ゆっくりと上下する。


 ドクン。


 ドクン。


 まるで心臓の鼓動まで聞こえてきそうだった。


 そして――


 全身の筋肉が、さらに張り詰めていく。


 腕。


 肩。


 胸。


 背中。


 筋肉が圧縮されるように盛り上がり、浮き出た血管が皮膚を走っていく。


「……なんだ、あれ」


 俺は息を呑んだ。


 ヘクトルがゆっくりと顔を上げる。


 その目から、さっきまでの楽しそうな笑みが消えていた。


 代わりにあるのは――


 戦う者の鋭い眼差し。


 片膝をついたまま、ヘクトルは大剣を握り直した。


 そして――


 ズンッ。


 地面を踏みしめる。


 ゆっくりと立ち上がった。


 白い蒸気が、身体から立ち上り続けている。


「……ヘクトル」


 俺が呟く。


 ヘクトルは大ゴブリンを睨みつけた。


 そして、口元をわずかに吊り上げる。


「……まだ終わっちゃいねえぞ」


 大部屋の空気が――変わった。


大ゴブリンは、立ち上がったヘクトルを見つめていた。


 そして――


 右手をゆっくりと上げる。


 手招きするように、指を曲げた。


 「……来いってことか?」


 俺が呟く。


 どうやら大ゴブリンは、まだ戦うつもりらしい。


 ヘクトルは答えなかった。


 ただ、大剣を握り直す。


 そして――


 大きく振りかぶった。


「……ッ!」


 大ゴブリンも大盾を正面に構える。


 完全に受け止めるつもりだ。


 次の瞬間。


 ヘクトルが踏み込んだ。


「うおおおおおおおっ!!」


 大剣が――振り下ろされる。


 ドォンッ!!


 凄まじい衝撃が大部屋を揺らした。


「……!」


 俺は息を呑んだ。


 その一撃を見た瞬間、脳裏に蘇った。


 ――ヘイゼルの白。


 あの異常な大剣が生み出した、圧倒的な破壊力。


 それを思い出すほどの一撃だった。


 大ゴブリンの大盾が――


 ミシッ。


 嫌な音を立てる。


 そして。


 バキィィンッ!!


 大盾が、真っ二つに割れた。


「な――」


 そのまま大剣は止まらない。


 盾を叩き割った勢いのまま、その奥にいた大ゴブリンへと食い込んでいく。


 一瞬。


 時間が止まったように感じた。


 そして――


 大ゴブリンの巨体が、ゆっくりと左右へ崩れ落ちた。


 静寂。


 誰も声を上げない。


 周囲のゴブリンたちでさえ、何が起きたのか理解できていないようだった。


 ヘクトルは大剣をゆっくりと引き抜く。


 白い蒸気が、まだ身体から立ち上っている。


「…………」


 俺は言葉を失っていた。


 あれほど激しく戦っていた相手を――


 たった一撃で。


 ヘクトルは大剣を肩に担ぐと、小さく息を吐いた。


「……終わったな」


 その声だけが、静まり返った大部屋に響いた。


大ゴブリンが倒れた瞬間――


 周囲にいたゴブリンたちが、一斉に騒ぎ始めた。


「ギャアアッ!」


 次の瞬間には、我先にと大部屋の奥へ逃げ出していく。


 武器を捨てる者までいた。


 あれだけヘクトルを取り囲んでいたゴブリンたちが、今度は一目散に逃げていく。


「……終わったな」


 俺が呟く。


 だが、そんなことを気にしている場合じゃなかった。


「ヘクトル!」


 俺たちはすぐに駆け寄った。


 ヘクトルの身体には、槍で受けた傷や打撲がいくつもある。


 特に盾を叩きつけられた時の傷は深そうだった。


「止血剤!」


「はい!」


 リンがすぐに道具袋を開く。


 俺はヘクトルの傷口を確認し、止血剤を塗り込んでいく。


「痛くないのか?」


「痛えぞ」


 ヘクトルは笑った。


「だったら笑ってないでじっとしてろ」


「ははは!」


 傷口を薬草で覆い、布を巻いていく。


 ヘルメスも手伝いながら、ヘクトルの身体を確認していた。


「骨は大丈夫そうだな」


「そうか」


 ヘクトルは安心したように息を吐く。


 そして、倒れた大ゴブリンへ視線を向けた。


「……強敵だった」


 その顔には、満足そうな笑みが浮かんでいた。


「久しぶりに、あんなに全力で振ったぜ」


 俺も大ゴブリンへ目を向ける。


 あれほどの巨体。


 大盾と巨大な槍。


 最後までヘクトルから逃げず、真正面から戦い続けた。


「……ああ。強かったな」


 俺がそう答えると、ヘクトルは嬉しそうに笑った。


「だろ?」


 傷だらけなのに――


 まるで最高の戦いを終えた男の顔をしていた。


戦いが終わり、俺たちは改めて大部屋の中を調べ始めた。


 そこは、ただのゴブリンの住処というわけではなかった。


 部屋の隅には、いくつもの宝石が積まれている。


 古びたメダル。


 使い込まれた武器。


 動物の皮。


 何に使うのか分からない収集品まで、雑然と並べられていた。


「……これ、全部集めてたのか?」


 俺は辺りを見回す。


 おそらく、この迷宮に入り込んだ冒険者や旅人、あるいは魔物から奪ったものなのだろう。


 中には、かなり価値がありそうな品もある。


「結構な収穫だな」


 ヘルメスが宝石を手に取って眺める。


 リンも古びたメダルを一枚拾い上げた。


「これ……何のメダルだろう」


「鑑定できるやつがいればいいんだけどな」


 俺たちは価値のありそうなものを一つずつ確認し、カバンへ収めていった。


 そんな中――


「おい」


 ヘクトルの声がした。


 俺が振り返る。


 ヘクトルは、大ゴブリンが倒れていた場所に立っていた。


 その手には、一つのネックレスが握られている。


 動物の牙を加工して作ったものらしい。


 大小様々な牙が紐に通され、その中央には小さなメダルが取り付けられている。


「それは?」


「こいつが身につけてた」


 ヘクトルはネックレスを眺めた。


 しばらく黙っていたが、やがてそれを自分の手に巻き取る。


「……記念に貰っておく」


「記念?」


「ああ」


 ヘクトルは大ゴブリンへ目を向けた。


「こいつは強かったからな」


 そう言って、ネックレスを大事そうにカバンへしまった。


 俺はその姿を見ながら、少しだけ笑った。


 魔物との戦い。


 それだけなら、いつもの冒険と変わらない。


 けれど今日の戦いは――


 ヘクトルにとって、きっと忘れられない一戦になったのだろう。


ゴブリンの集落を後にし、俺たちは再び迷宮の奥へと進んでいった。


 先ほどの戦いで傷を負ったヘクトルも、応急処置を済ませて歩いている。


 とはいえ、無理はさせられない。


 俺たちはいつも以上に周囲を警戒しながら、ゆっくりと通路を進んでいた。


 しばらく歩いたところで――


「……待って」


 リンが突然、足を止めた。


「どうした?」


「サーチに……変な反応がある」


 リンは杖を握り直し、目を閉じる。


 周囲へ魔力を広げていく。


「……ここ」


 リンが、通路の壁へ近づいた。


 一見すると、ただの石壁だ。


 俺には何の変化も見えない。


「何かあるのか?」


「うん。壁の向こうに空間がある」


 リンが壁へ手を近づける。


「……隠し部屋だと思う」


「隠し部屋?」


 ヘルメスが近づいてくる。


 リンは壁をじっと見つめた。


「風が流れてる」


「風?」


「うん。ほんの少しだけど……この隙間から」


 リンが指を差した。


 よく見ると、石壁の一部にほんのわずかな隙間がある。


 そこから、ごく微かな風が流れ込んでいた。


「なるほどな」


 ヘルメスが壁を調べる。


 周囲の石とは違い、一部分だけ継ぎ目が不自然だ。


「入口が隠されてる」


 俺も壁に手を当ててみる。


 冷たい石の感触。


 だが、その奥には確かに空間があるようだった。


「……この迷宮、まだ何か隠してるみたいだな」


 リンが頷く。


「中に何があるかは……まだ分からない」


 俺たちは顔を見合わせた。


 ゴブリンの集落の先。


 そして今度は――


 誰にも見つからないように隠された部屋。


 俺は剣に手を添えた。


「……開けてみよう」


 迷宮の奥で、俺たちは新たな発見をしようとしていた。

隠し部屋の入口を見つけたものの、問題は扉だった。


 石壁に紛れるように作られた小さな扉。


 取っ手すら見当たらない。


「ちょっと待ってろ」


 そう言ってヘルメスが扉の前にしゃがみ込んだ。


 指先で石の継ぎ目をなぞり、周囲を調べていく。


「……ここか」


 小さな金具を押し込み、別の場所を軽く捻る。


 カチッ。


 乾いた音がした。


「開くぞ」


「……手慣れてるな」


 俺が思わず言うと、ヘルメスは苦笑した。


「こういう仕掛けは、冒険者をやってれば何度か遭遇する」


 さらに二つ、仕掛けを解除する。


 カチリ。


 最後に扉を押すと――


 ゴゴゴゴ……。


 石の扉がゆっくりと横へ動いた。


 その先には、小さな部屋があった。


「……小部屋だな」


 広さはそれほどない。


 だが、部屋の中央に置かれているものを見た瞬間、俺たちは足を止めた。


「宝箱……」


 そこに置かれていたのは、一つの宝箱だった。


 以前、一層で見つけた木製の宝箱とは明らかに違う。


 重厚な木材に金属の装飾が施され、縁には細かな彫刻まで刻まれている。


 金具も鈍く光っている。


「……ずいぶん豪華だな」


 リンが目を輝かせる。


 俺も思わず息を呑んだ。


 隠された小部屋。


 そして、その奥に置かれた明らかに特別な宝箱。


 ただの収集品が入っているとは思えない。


「ヘルメス……罠は?」


「今から調べる」


 ヘルメスが慎重に宝箱へ近づく。


 俺たちはその背後で武器を構えた。


 ここまで隠されていた部屋だ。


 この宝箱も――


 簡単には開けさせてくれないかもしれない。


俺たちは、すぐには部屋の中へ入らなかった。


 まずは扉の外から、部屋全体を調べる。


「リン、頼めるか?」


「うん……」


 リンは頷くと、杖を握りしめた。


 目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整える。


「……サーチ」


 小さな声とともに、魔力が広がっていく。


 部屋の壁。


 床。


 天井。


 そして――中央に置かれた豪華な宝箱。


 リンはかなり集中しているようだった。


 額には薄っすらと汗が浮かんでいる。


「…………」


 俺はリンの前に立った。


 万が一、何かが飛び出してきても対応できるよう、盾を構える。


 ヘクトルは大剣を手に、通路の奥を警戒している。


 ヘルメスも周囲を見回しながら、いつでも弓を引けるよう準備していた。


 誰も口を開かない。


 聞こえるのは、リンの呼吸と、迷宮の奥から響いてくる小さな音だけ。


「……部屋の中は……」


 リンが集中を続ける。


「……何もいない」


 俺は少しだけ息を吐いた。


「宝箱は?」


「…………」


 リンはさらに意識を集中させる。


 しばらくして――


「……魔力の反応がある」


「罠か?」


「分からない……。でも、普通の宝箱じゃない」


 リンの声は真剣だった。


 俺は盾を握り直す。


 豪華な宝箱。


 隠された部屋。


 そして、そこから感じられる魔力。


 どうやら――


 この宝箱には、何か特別なものが入っているらしい。


リンのサーチで部屋の中を確認したあと、今度は物理的に調べることになった。


「俺が見る」


 ヘルメスがそう言って、慎重に部屋へ入っていく。


 床を一歩ずつ確認しながら、壁や天井にも目を向ける。


 宝箱の周囲も入念に調べ、罠が仕掛けられていないかを確認していく。


「……大丈夫だ」


 しばらくして、ヘルメスが宝箱の前でしゃがみ込んだ。


 蓋の縁。


 蝶番。


 鍵穴。


 指先で一つずつ確認していく。


「罠はない」


「本当に?」


 リンが尋ねる。


「ああ。少なくとも、俺が確認した限りではな」


 ヘルメスは腰から細い道具を取り出した。


「よし。鍵を開けるぞ」


 細い金属を鍵穴へ差し込む。


 カチャ……。


 カチッ。


 小さな音が部屋に響く。


 俺たちは固唾を呑んで見守った。


 ヘクトルも珍しく黙っている。


 やがて――


「……開いた」


 ヘルメスが呟いた。


 そして、ゆっくりと蓋を持ち上げる。


 ギィ……。


 古びた音とともに、宝箱が開いた。


「…………」


 俺たちは中を覗き込む。


 そこに入っていたのは――


 一つの石だった。


 手のひらほどの大きさ。


 表面には見たことのない文字のような模様が刻まれ、淡い光を帯びている。


「……これって」


 俺が言葉を失っていると――


「……!!」


 リンが目を見開いた。


 すぐに宝箱へ駆け寄る。


「ルーンストーン……!」


「これが?」


 俺は石を見つめる。


 以前、ポポから聞いた話が頭をよぎった。


 迷宮で見つかるという、特殊な石。


 魔力を秘め、古代の技術によって作られたもの。


「間違いない……」


 リンは興奮を隠せない様子だった。


「本物のルーンストーンだよ……!」


 小さな隠し部屋。


 厳重に隠された宝箱。


 その中に眠っていたのは――


 俺たちが探し求めていた、ルーンストーンだった。


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