淡黄色の蝶 4
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その日も、暖かな日差しが心地よかった。家の庭で日向ぼっこをしていると、目の前を、不安定にくらくらと揺れながらとぶ何かが通りすぎた。
何だろう? ――と、若き日のアイリの祖母、アデラは思った。陽光をまぶしく反射していくそれは、とても珍しく見えた。彼女は嬉々として追いかける。
しばらくしてたんぽぽの花に羽を休めた何かを、アデラはしゃがんで観察した。
蝶だった。淡黄色の羽を閉じていた。けれど、ふつうではなかった。一番に目をひく特徴は、羽が透明なことだった。
「不思議なちょうちょー」
ひとしきりながめると、ふと違和感を覚えた。一向に蝶がとびたとうとしないのだ。よくよく見ると、羽にケガがあるようだった。
かわいそうに――
そうっと家のなかに戻り、カゴと虫取りあみを取りだした。また花を見ると、まだそこにとまっているままだった。
静かにあみをかぶせると、もがこうとしなかった。それほど弱っていたのだ。土と草々を入れたカゴにそっと放した。蝶はひらひらと土の上に立ち、そのままじっとしていた。
きっと、鳥か何かにいじめられたんだわ――アデラは、この蝶が回復するまで、家にかくまうことにした。
一日が経っても、三日が経っても、蝶は羽ばたけなかった。このままだと、死んでしまうかもしれない、と不安になっていった。
ふだんはめったに行かない図書館に行って、いろいろと調べた。しかし、文献はまったくなく、とぼとぼと家に帰った。
部屋に戻ると、カゴのなかの蝶は倒れていた。
「ちょうちょさん、大丈夫?」
恐れていたことが起こってしまう。アデラはとっさにカゴを持って家をとびだした。陽は傾いて、街を橙色に染めあげていた。
気ばかりがあせって、気をつけていたのに、街中央の、広場のまんなかで、石段に足をひっかけてしまった。カゴが線を引いて宙をとんだ。
けれど、幸いだった。すぐそばに人がいたのだ。地にそれが着く前に手でとらえ、カゴを大切そうに抱えて、アデラのもとにその人はかけ寄った。
「大丈夫、かしら?」
「う、うん、平気だよ」
「そう? それならよかった」
細くしなやかで、きらきらとした白い髪を、後ろでふわりと一つに束ねた女性。彼女の差しだした手を取って、アデラは立ちあがり、はたはたとスカートをはたいた。
「あ……そのカゴ」
「ああ、あなたのよね。でも、何を入れているの?」
手渡されたカゴのふたをあけて、乱れた土のなかを探った。ほどなくして彼女が見つけたのは、羽に土がまみれた蝶の姿だった。
両手にそれをのせて、じっと見つめた。思わず涙が頬を伝いはじめ、やがて落ちた。それを機に、せきを切ったようにあふれだした。
「グラシィ、ね」
ぽつりとその女性は言った。
「グ、グラシィ?」
ひっく、としゃくりあげながら、アデラは尋ねた。
「簡単に言うと、生きたガラスのことよ」
「ふつうの、ちょうちょじゃ、なかったんだね……」
涙はとまらない。
「死んじゃったの?」
まったく動かない蝶を見て、肩を落としていた。
「まだ、死んでいないわ」
女性はにこりと微笑んだ。アデラは顔を上げ、その笑みを見やった。
「ねえ、あなた、この蝶々を大切に思っている?」
「うん」
大きく首を縦に振った。その仕草を見て、満足そうに女性は言った。
「なら、私がこの蝶々を助ける。だから、これからもこの子を大事にしてあげて」
「わかった!」
目をごしごしとこすって、まっすぐに女性と目をあわせた。
「いい子ね」
胸元から取りだしたのは、ガラス製の笛だった。平行に何本もひかれた線が、いくつも複雑に重なり、つながっていた。
横になった蝶の上に手をかぶせて、女性は笛を鳴らした。耳によくなじむ、しっとりとした音だった。
数十秒のあいだ続いただろうか。手をどかすと、ぱたぱたと蝶は羽を動かして、宙をまわった。先ほどまでが嘘のように、元気なようすだった。
もう一度笛を吹くと、すぅと宙を切って女性の指先にとまった。彼女が蝶の、胸のあたりに二三度ふれると、すぐさまそこはピンのようになった。
「これでなくさないでしょう?」
前髪をととのえて、その蝶の髪留めをアデラにつけた。
「ええ、とっても似あっているわ」
ふふ、と女性は笑った。へへ、とアデラははにかんだ。
「大切にしてあげてね」
何度も、何度もうなずいた。頭をなでる女性の手のひらは、たおやかだった。
「あっ、そうだ!」
「なあに? どうかしたの?」
「写真を撮ってもいいかな。ああっ、カメラお家に置いてきちゃった!」
残念そうにしたを向く。その姿を見かねたのか、ある一組の観光客が、彼女に声をかけた。
「だったら、私たちが撮ってあげようか?」
ばっと顔を上げる。瞳が夕日に負けないほどにきらきらしていた。
「いいの?」
「もちろん!」
たった、と女性の脇に走ってよった。
「い、いえ、私はけっこうです……」
おろおろとする女性を見て、観光客は快活に笑って言った。
「せっかくですから、どうぞ」
「でも……」
「いきますよー」
そんな女性をよそに、シャッターが押される。フラッシュがたかれて、この光景が切りとられた。
「ありがとう!」
住所や名前を尋ねられ、アデラは嬉しそうに答えた。「あとでお家に送るからね」と言う観光客の声がひびく。夕焼けはより一層赤くなっている。
観光客らと別れると、いつの間にか、女性はいなくなってしまっていた。
ただ、アデラの前髪には、優美な淡い黄の蝶の髪どめが、光を浴びてきらりときらめいていた。
「その女性は笛を使った、とおばあさまはおっしゃったのよね」
こくりとアイリはうなずいた。それをみてサフィーは満足気に笑って、胸元から何かを取りだした。
「それは何なんです?」
「たぶん、その女性と同じ笛よ」
「笛、ですか」
細かく通った線が、光をさまざまな方へ反射させ、神秘的な雰囲気をかもし出していた。
「グラシィを扱うことができる印でもある。この笛を持っているのは、この街で七人しかいないの」
アイリの目線にあわせるために、サフィーは身をかがめた。
「アイリちゃんが探している蝶について、しっかりと思っていて。わかった?」
「うん!」
と応え、瞳と口を固く閉じて、両手を胸のあたりで組む。祈っているようだった。ぽんぽんと彼女の頭をなでて、サフィーは夜空を見上げた。
空には、細長く照る月が浮かんでいる。星がちかちかとまたたいている。灯台がまるい光の輪を描いていた。
「グラシィは、つまりは思いの形なの。フィオちゃんもよく知っているでしょう? 思えば、応えてくれるわ」
「はい。……でも、いったいどうするんですか?」
「呼ぶのよ」
ふふっ、と微笑んで、笛を口元でかまえる。
「呼ぶ?」
「この笛でね」
そう言ったのち、サフィーは笛を鳴らした。
夜の街にひびきながら消えていく、素直な音。自然と目を閉じて、その音に身を任せると、どこか懐かしさを感じた。いつか聞いたような音だった。
「グラシィは、記憶力がよいの。一度聞いた音でも、きっと覚えているわ。……あとは、アイリちゃんの気持ちが届いてくれれば」
言い終わらないうちに、フィオは宙を指差した。
「あれは何でしょう?」
「届いた、のね」
ふたたび、笛の音がひびく。空を切るようにつぅと羽ばたくそれは、やがてアイリの髪にとまった。居心地がよさそうに、羽を閉じた。
「アイリちゃんが探していたのは、この子?」
サフィーが尋ねた。頭の上にいる蝶を振りはらってしまわないように、手を振って応えた。この子に間違いないです、と言うふうに。
そっと蝶を手にのせる。顔をめいっぱいに近づけて、アイリは見つめた。ほっとして、表情はへなとゆるんでいた。




