淡黄色の蝶 3
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カゴのふたをあけると、なかからはたはたと羽ばたきながら蝶がとんで出てきて、もう暗い夜に向かって消えていった。懐中電灯を消すと、遠くで灯台がほんのりとともっているのが見える。その明かりを頼りにして、彼女たちは歩きだした。
「いったん、お店に戻ろうか」
「そう、ですね」
まだほのかに赤らんでいる目元を押さえて、アイリは応えた。
思っていたことをぶつけるように言いはなって、いくぶんかすっきりしたのだろう。アイリの足取りは軽そうだった。背ではかたかたと、虫取りあみが揺れていた。
一方で、その後ろ姿をながめるフィオの心内は穏やかではなかった。何とかして、目の前の少女を助けたい、そう思っていた。けれど非力な自分だ。自分だけではどうすることもできない。
だから、お店に戻ることにした。今ならサフィーが帰っていることだろう。
サフィーさんなら、どうにかできるかもしれない――一縷の望みをかけていた。
グラシィを扱える、サフィーさんなら、と。
さっさっと、歩みを進めるたびに足音が鳴る。耳をすませると、遠くで波の音が聞こえた。他は極端に静かで、空には長細い月がぼうと浮かんでいた。
フィオは先ほどのアイリの話を思い出していた。彼女がどうして蝶を探すのか。ほろほろと涙を流しながら、必死に教えてくれた。蝶が、大切なものだと言うことを。
アイリはこの街、「ピージュ」へ三日前に帰省し、祖母の家に泊まっている。普段からあまり祖父母にあうことはないらしく、とても歓迎されたようだ。
この春からミドルスクールに通うことになり、その制服姿を見せたいと言うことで、単身この街を訪れたのだ。
彼女がガラスの蝶を祖母からもらったのは昨日。そして、蝶を逃がしてしまったのが、今日の正午過ぎのことだった。
昨日、居間でアイスミルクを飲んでいたアイリに、祖母はあるアルバムを見せた。
ずいぶんと古びた赤い表紙に、消えかけた「ALBUM」と言う金文字。背表紙はすり切れていた。
「これなあに?」
とアイリが問うと、祖母はにっこりと笑って、
「アルバムよ」
「誰のアルバムなの?」
「いろんな人の、ね。おばあちゃんは写真を撮るのが好きなの」
「へえぇ」
「アイリちゃんの制服姿も、きちんと撮ったからね」
もう一度、アイリの顔を見て、祖母はにっこりと笑った。
はら、とアイリは数ページめくる。実にたくさんの人が写っている。そのほとんどが、アイリの知らない人だった。ところどころ、見覚えのある顔が見える。
「これって、おじいちゃん?」
「そうねぇ、この頃はかっこよかったわね」
と、冗談めかして言った。その後は、一つひとつの写真を見ながら、祖母の話を聞くのをくりかえした。
そのなかで、一枚の写真にアイリはひときわ目をひかれた。
二人の女性が写っている。一人はアイリほどの背格好の女の子で、もう一人は大人の女性だった。その女性は、写真でもわかるほどきらきらとした白い髪を後ろでふんわりと束ねていた。包まれるような笑顔は、こころをとらえて離さなかった。
「この女の人は?」
「この人は……あら、そう言えば名前は何だったかしらね。訊いたことがなかったかもしれないわ。でもね、たぶんガラス細工の職人さんよ」
「お名前を訊かなかったの?」
「訊いたのか、訊いていないのかも覚えてないのよねえ」
「おばあちゃん、しっかりしてよ」
ははっ、と二人は笑いあった。
「そう言えば、ガラス細工って?」
「ガラスを溶かしたりして、いろいろ作る職人さんよ」
と答えたとき、祖母はぱちんと手を打った。突然のその音に、ぴくりとアイリは驚いた。
「どうしたの、おばあちゃん」
「アイリちゃんに、渡したいものがあるんだったわ」
ちょっと待っていて、と立ち上がり、祖母は居間から出ていった。
何だろう? ――とうきうきした気持ちを抱いて、アイリはぱたぱたと足を揺らした。また写真に目を落とすと、
「右の女の子がおばあちゃんだよね」
とぽつりと言った。
「お待たせね」
と、わずか数分のうちに祖母は戻った。両手を背側にまわし、手に持っているものを隠して、アイリの前に立った。いたずらな笑みを浮かべて、
「これを、あげるわ」
そう差しだしたのは、つやつやと光る、黒い小さな箱だった。
「何が入ってるの?」
「あけてみて」
おそるおそるあけてみると、なかには蝶が入っていた。それもふつうの蝶ではない。実に変わった、珍しい蝶、正確に言うと、蝶の髪留めだった。
羽を広げた大きさはにぎった拳ほどだった。羽は薄い黄色で、透き通っていた。光の当たる方向を変えると、色味が微妙に変わっていく。美しかった。
「ありがとう!」
嬉々として言うアイリを、愛おしそうに祖母は見つめていた。
「おばあちゃんの、宝物よ」
「宝物?」
「ほら、ここにつけてるでしょう」
と言って、写真のなかの女の子を指差した。その子の髪には、蝶が止まっているように、確かにその髪留めがついていた。
「やっぱりこの女の子、おばあちゃんだったんだね」
「そうね――」
と、思い出すように、祖母は目を閉じた。
「――私の思い出、と言うか、そう、それは少し不思議な体験だった」
そうして語りはじめたのは、彼女の子どもの頃のことだった。
二人がお店に着くと、そのなかから明かりがぼんやりとついて見えた。入口のステンドグラスが、夕方とはまた違う表情を見せていた。
「CLOSED」と言う看板は、取り外されていなかった。とすると、ふつうなら閉店している時間なのだろう。これほど遅くなると予想していなかったアイリは、おろおろとするだけだった。
サフィーさんが帰っているのね――フィオは戸をそろりとあけた。かしゅん、とベルが鳴る。
「おかえりなさい、フィオちゃん」
いつもより少し声の調子が低い。勝手にお店を閉め、あげくこんな時間まで歩きまわっていたのだ。いくら温厚なサフィーでさえ、黙ってはいられないだろう。
お店のなかには、かすかに甘い香りがただよっていた。ガラス製のカップを取って、サフィーは紅茶に口をつけた。澄んだ赤い色があざやかだった。
「フィオちゃん――」
「ごめんなさい!」
サフィーの言葉をさえぎって、フィオは頭を下げた。そのあとを追って、アイリも頭を下げる。
「……『ちょうちょを探しにいっています』と書いてあったけれど、どう言うことなの?」
ため息を一つこぼしてから、さとすように尋ねた。ふだんの穏やかな、包みこむようなやさしい声に戻っていた。
「実は、ここにいるアイリちゃんが、蝶々を探していて――」
と、今に至るまでの経緯を話した。サフィーは身振りを交えて説明するフィオを見つめながら、ときおりうなずいて聞いていた。
「そう言うことね」
紅茶を飲み、頬に片手を当てて考える仕草をする。やがて腰のほどまで伸びた茶色の髪が、立ち上がると同時にさっと揺れた。
「ガラスの蝶、ねぇ」
ゆったりと、アイリの方へ歩みよる。
「アイリちゃん、と言ったっけ? ……私もね、おばあさまのそのお話を知っているの」
ふふっ、と笑って、サフィーは彼女に問うた。
「あなたは、ほんとうにその蝶を見つけたい?」
数秒の間ののち、アイリはこくりと首を縦に振った。
「大切にすると、約束できる?」
「できます」
力強く答えた。彼女の瞳は、まっすぐにサフィーをとらえていた。
「そう、わかったわ。それでは――」
机の上にあるティーセットを取り上げて、言う。
「少し、外に出ましょうか」
そして、やわらかい笑みを浮かべた。




