第4話 自分から迎えにいく明日
黒蓮教本山・蘇明霞の居室 蘇明霞
黒蓮聖功。
薛玄蟾が口にした名を、頭の中でもう一度なぞる。
原作で蘇明霞が使っていた、不気味な武功だ。
五成まで修めれば、千毒不侵。
その言葉だけなら、今の私には喉から手が出るほど欲しい。
けれど、原作で知っているのは出来上がった蘇明霞だけだ。どうやってあの力を得たのか。修行の中身は一行も書かれていなかった。
毒を受けた直後に、内容も知らない功法へ飛びつく。
医師として考えれば、正気の沙汰ではない。
窓辺の椅子で脚を休めながら、私は老人へ向き直った。
「黒蓮聖功ね……今すぐ再開する気にはなれないわ」
「おや。ずいぶん慎重なご様子で」
細い目が、笑ったまま私の返事を待っている。
以前の蘇明霞なら、何と答えたのだろう。
「毒を受けたのよ。慎重にもなるわ」
「ごもっとも」
薛玄蟾はあっさり頷いた。
「では、修練をおやめになりますかな」
「やめるとは言っていないわ」
毒を防ぐ力は要る。
だからこそ、分からないまま使いたくない。
「再開する前に、今の身体で何をしてよくて、何をすれば死ぬのか知りたいだけ」
言ってから、少し強すぎたかと思った。
だが薛玄蟾は怒るどころか、白髭を撫でて面白そうに目を細めた。
「昨日までの明霞様なら、死なぬ見込みがあれば迷わず進まれたものを」
やはり、探られている。
「昨日、その見込みが外れたでしょう」
「なるほど。毒は人を賢くすることもある」
「死ななければね」
薛玄蟾は、かっかっか、と笑った。
笑い事ではない。
毒を防ぐために、何をするのかも分からない修練へ戻る。
しかも原作の黒蓮聖功は、自分を守るだけの力ではなかった。黒い気で、他人の身体を内側から壊していた。
私を生かす力が、そのまま誰かを傷つける力にもなる。
私は白瑶を見た。
彼女は右の親指を左の掌へ隠し、視線を伏せていた。
私が強くなることを望んでいるのか、恐れているのか。
きっと、その両方だ。
薛玄蟾は私の視線を追い、白瑶を一瞥した。
「もっとも、すぐに先へ進みたくとも、黒蓮神胎を用いる修練はしばらくできませぬ。先日の大雨と雪解け水で、神池が増水しております。水の濁りが引き、承夢殿と渡夢道を改めて調べ終えるまで、ひと月ほどは見た方がよろしいでしょうな」
黒蓮神胎……。黒蓮教の信仰の元になる神物だと、原作にあった。でも、修行に使うものだとは知らなかった。
どうやら今は、それが納められている場所へ近づけないらしい。
ひと月。
原作では、蘇明霞の過去はほとんど省かれていた。凌玄舟に殺される日だけが、暗闇の向こうから突然迫ってくるように思えていた。
けれど今、私の前にはひと月ほどの猶予がある。
窓まで来るだけで疲れる脚も、運動できるところまで戻せるかもしれない。黒蓮聖功について調べられる。誰に何を尋ねれば、記憶の異常を悟られずに済むか考える時間もある。
逃げ出すには、なにもかもが足りない。
けれど、何も知らないまま、ただ待つしかないわけではなくなった。
「せっかくですので、神胎へ近づけぬこの機会に、先日お約束した茶席を早めてはいかがでしょう。そう――明日など」
約束をした覚えなど、もちろんない。
けれど、元の蘇明霞なら覚えているはずだ。
聞き返せば、忘れたと認める。
助けを求めるように白瑶を見れば、それも答えになる。
私は一拍だけ遅れて、頷いた。
薛玄蟾はすぐには扉へ向き直らなかった。細い目で私の顔を見て、それから笑みをわずかに深くする。
「では、明日。移動には輿を。今の足で万毒院まで歩こうとはなさいませぬよう」
戸が閉まった。
衣に染みついた薬草と乾いた虫の匂いが遠ざかり、部屋には香炉の甘い煙だけが残る。
私はようやく息を吐いた。
「白瑶」
「はい」
「私が候補になったのは、いつ頃だったっけ」
白瑶の顔に、また緊張が戻った。
言ってから、聞き方を間違えたと気づいた。
「幼い頃からでございます」
答えを聞いても、私は何も思い出さない。
人名も、顔も、修行の光景も浮かばない。蘇明霞の身体なんだから頭の中に記憶の断片でも残っていてくれたらいいのに。
「他の四人は、どんな――」
言いかけて、止めた。
元の蘇明霞なら、知っているはずだ。
白瑶もそれに気づいたらしい。右の親指を隠したまま、返事を待っている。
私が何も言わないでいると、白瑶は黙って頭を下げた。
私が誰を好み、誰を嫌っていたか。どの候補と何があったか。知らないことを尋ねるたび、彼女へ記憶の異常を見せることになる。
その一方で、何も尋ねなければ、私は顔も知らない四人の中へ無防備に入っていく。
原作が始まった時、蘇明霞はすでに黒蓮教の聖女だった。
でも今は、五人いる候補の一人。
少なくとも原作で蘇明霞が聖女として現れる頃には、残る四人は一人も物語へ姿を見せなくなる。
どこへ行った?
候補を外れ、普通の信徒へ戻った?
自分から辞めた? 追放? 毒殺?
それとも――元の蘇明霞が、殺した?
寝台脇の剣へ目が戻った。
鞘に収まっているだけの剣が、さっきより重く見える。
椅子の肘掛けを押して立つと、白瑶がすぐ腕を差し出した。彼女の手を借りず、一歩ずつ進む。たった数歩。縁へ腰を下ろしたところで息をついた。
私はそっと柄へ手を伸ばした。
白瑶は止めなかった。ただ、すぐ支えられるよう私のそばへ膝をつく。
柄へ触れた瞬間、指が勝手に動いた。
小指から順に締め、親指を添える。手首は固めすぎず、肘から肩の力を抜く。考えてそうしたのではない。気づいた時には、剣を抜ける形で握っていた。
ぞっとして、一度手を離した。
前世の私は刀剣を見るのが好きだった。鍔の形や拵えなら多少は分かる。でも、剣を扱う訓練なんて受けたことはない。抜いたことはあるけど、あくまで手入れのためだけだ。
もう一度、握る。
やはり同じ形になった。
「……身体は、覚えているのね」
白瑶が不思議そうに私を見る。
私は何でもないふうを装い、剣を元の場所へ戻した。
この身体には、私が知らないだけで、身を守るために積み上げたものが残っている。
元の蘇明霞は、どうやって生き残ったのだろう。
原作には、何も書かれていない。分からないなら、これから確かめるしかない。
少なくとも、だれもが私の死を望んでいるわけではないらしい。
白瑶は、私の世話をしてくれている。薛玄蟾は怪しすぎるけれど、患者として私を診て、今すぐ死ぬ状態ではないと教えた。
でも、あの老人は、私の異変に気づいているかもしれない。
私は寝台脇の銅鏡を引き寄せた。
鏡の中では、切れ長の目をした美少女がいかにも不機嫌そうな顔でこちらを見返している。
うん。
顔は申し分ない。
「白瑶、明日の茶席で着る衣を選んで。いちばん私らしく見えるものを」
白瑶は目を瞬いた。
「わたくしが選んで、よろしいのですか」
「私をいちばん見てきたのは、あなたでしょう?」
また言い方を間違えただろうか。
白瑶はしばらく黙っていたが、やがて隠していた右の親指をそっと解いた。
「かしこまりました」
笑ってはいない。
けれど、その声からは、さっきまでの固さがほんの少し消えていた。
まずは明日一日、蘇明霞を演じ切ってみせる。
薛玄蟾の問診だろうが何だろうが、受けて立とう。
生きたい。
怖くても、明日が来てほしいと思えた。
それこそ私が自分から迎えにいく、最初の明日だ。




