第5話 応龍の剣
物語は、罰せられた者の名を覚えている。けれど、罰せられずに済んだ者がどこへ帰ったかは、書かれていない。
――『断雲の剣』
*
太行山・青嵐門修練場 凌玄舟
青嵐門の朝は、水の音から始まる。
後山の泉から引いた細い流れが、苔むした石段の脇を下り、修練場の池へ注いでいた。
朝霧はまだ低い。
松葉には露が宿り、湿った土の匂いが冷えた空気の底へ沈んでいる。
そこに、剣の音だけが重なった。
凌玄舟の剣は、速くはない。
切っ先は水面を撫でる風のように滑り、浮き、沈み、また昇る。右足が踏み込むより先に腰が沈み、袖が翻ったあとから剣身が弧を描く。
一見すれば、舞にも似ている。
だが足裏には石を押し割るほどの力が集まり、円を描いた剣先は、いつでも敵の急所を貫ける。
応龍鎮燼三十六式。
第一式から第六式は一般門徒にも教えるが、その先は段階を追って選ばれた者にしか伝えられない。
凌玄舟は、精鋭の中でも第二十四式まで許された数少ない一人だった。
今朝、凌玄舟が確かめたいのは、どこまで型を進められるかではなかった。
修練場の端に立てた藁人形には、炭で喉、心の臓、手首、膝の位置へ印をつけてある。
同じ型を振るのは、これで三巡目だった。最初は普段の間合い。次は半歩近く。今は藁人形を半歩遠ざけてある。
間合いを変えた時、この剣の不合理は消えるのか。
第一式。
切っ先で大きな円を描く。
藁人形の胸元が空いた。人を相手にするなら、その一瞬で懐へ入られる。
第七式では、敵の持つ武器を落とすように剣を振るう。
第十二式では敵へ肉薄する。
ところが第十三式に移った途端、大きく間合いを取り、全身へ内功を巡らせて反撃に備える。
一手ごとに、命を奪う急所から遠ざかる。
それなのに、型は緩まない。
先へ進むほど狙いは細かくなり、筋の付け根、関節の裏、内力が集まるとされる経脈の交点へ寄ってゆく。
そして第二十一式「泥沙縛骨」。
凌玄舟は低く踏み込み、藁人形の足首を浅く薙ぐ。
続く三式で、倒れた相手を地へ縫い、起き上がりを押さえ、敵の逃げ道を防ぐかのように動く。
第二十四式「堰門断路」。
最後の一歩で、凌玄舟は自ら半歩退いた。
切っ先が朝の空気の中で静止する。
一滴の露が剣身を伝い、石床へ落ちた。
二十四の型を終えた時、藁人形は炭で示した急所を一つも斬られぬまま、踏み込む場所も、退く場所も失っていた。
殺し損ねているのではない。
初めから、殺すことで終わりにしていない。
凌玄舟は剣身へ目を落とした。
――ならば、この剣は何をもって勝ちとするのか。
背後で、細い枝が折れた。
続いて聞こえた浅い息遣いにも、濡れた土を避ける軽い足運びにも、覚えがある。
凌玄舟は振り返らずに言った。
「陸師妹。見ているなら、出てくればいい」
しばらく沈黙したあと、木陰から青衣の少女が姿を現した。
長い黒髪を後ろで軽く結い、腰には一般門徒が用いる剣を佩いている。顔を洗ってきたばかりなのか、頬へかかった髪の先が少し濡れていた。
陸清蘅である。
「別に見てないわ」
「では、なぜ俺の稽古のそばに?」
「通りがかっただけよ」
「通りがかっただけで、三巡も?」
陸清蘅の目が泳いだ。
「一巡目は通りがかって、二巡目は戻って、三巡目は……また通りがかっただけよ」
「口先だけなら、十分に名人と言えそうだ」
「失礼ね。凌師兄がまた変な顔をしていたから、少し心配してあげただけよ」
「変な顔? また?」
「剣を振り始めた時は少しだけ格好いいのに、だんだん難しい顔になっていくから」
凌玄舟が円を描くように剣を振るうと、剣身に残った露が朝日に銀の輪を描き、消えた。
それから鞘へ収めた。
「少しだけ、か」
「そこを気にするの?」
陸清蘅は呆れたように息をつき、凌玄舟の背後へ回った。
「動かないで。結び目が曲がってる」
濡れた指先が、結い上げた髪へ触れる。
凌玄舟が振り向くより先に、陸清蘅は髪紐を引き直して一歩離れた。
「はい。これで剣より先に髪が崩れることはないわ」
「見ていないと言った割には、細かいところまでよく気付く」
「そういう言い方をするなら、次から放っておく」
陸清蘅は顔を逸らした。
朝の光が濡れた髪に宿り、頬の輪郭を白く縁取っている。
凌玄舟は眩しさに目を細めた。
本人へ言えば、調子に乗るに決まっている。
だから何も言わず、修練場の脇に立てかけてあった木の熊手を取った。
朝稽古のあとは、水路へ落ちた松葉を除くことになっている。池の口が詰まれば、下の薬畑へ水が届かない。
凌玄舟が格子へ溜まった葉を掻き寄せると、陸清蘅も袖をまくってしゃがんだ。
葉の塊が外れると、水が一度に走った。
陸清蘅は流れの先にある二枚の分水板を見て、薬畑側の一枚を指二本ぶん動かした。
「寄せすぎよ。昨日は薬苗、今日は下の蕪畑の番」
凌玄舟は格子の詰まりしか見ていなかった。薬畑と蕪畑の順番までは頭になかった。
「よく覚えているな」
「忘れたら、王師叔が飛んでくるもの」
凌玄舟はしばらく考え込んでから、ため息をついた。
「――応龍鎮燼剣は妙だ」
「急所を狙わないから?」
凌玄舟は水路を掃除する手を止めた。
「やはり見ていたな」
「それくらいは見れば分かるわよ。凌師兄、今日は藁人形に近づいたり離れたりしていたでしょう。間合いの問題なの?」
「急所へ届く間合いでも、型はそこへ行かない」
陸清蘅は水路から濡れた松葉を一掴み上げ、竹籠へ落とした。
「青嵐門の剣は、斬った数を競う剣ではないでしょう。相手を伏せて、自分も止まる。講義ではそう習ったわ」
「よく覚えているな」
「当然でしょ」
「王師叔が褒めていたぞ。陸師妹は講義で誰より大きな声で発言すると」
陸清蘅の目が誇らしげに細まる。
凌玄舟は続けた。
「ただ、発言はいびきと歯ぎしり以外で頼むとも言っていたぞ」
「ひどい!」
陸清蘅の頬がたちまち赤くなった。
「女性には言ってはいけないことがあるのよ! まったく、凌師兄は剣は上手いけど、女性の扱いときたら……」
「女性の扱いを上手くなってほしいのか」
陸清蘅は一瞬言葉に詰まり、濡れた松葉を必要以上の勢いで籠へ放り込んだ。
「……そのまま剣だけ極めていればいいんじゃないの」
凌玄舟が言葉の意味を考えていると、修練場の入口から穏やかな声が届いた。
「朝から仲がよいな。お前たちがおれば、鶏鳴もいらぬ」
二人は同時に振り返った。
白髪交じりの髪を髻に結い、青玉を嵌めた冠で留め、青い波の刺繍が入った道袍をまとう男が立っている。
青嵐門掌門人、岳澄淵。
凌玄舟の師父である。
そこに立っているだけで静謐な空気が修練場に満ちる。だが、弟子を見る目元には柔らかな笑みがあった。
「掌門師伯」
陸清蘅が慌てて礼をする。
凌玄舟も木の熊手を置き、拱手した。
「師父」
岳澄淵は、露に濡れた石床へ目を向けた。
凌玄舟の足跡が三重の弧を描き、藁人形との間合いを一巡ごとに違えている。
「第二十四式まで届いたか」
足跡だけで見抜かれ、凌玄舟は一層頭を下げた。
「はい。ですが、いまだ形だけで分からぬことが増えました」
「分からぬと思えるからこそ、前へ進める」
岳澄淵はわずかに微笑んだ。
「往々にして、分かったと思う者ほど、何も分かっておらぬものじゃ」
凌玄舟の耳にはその言葉が、剣法だけへ向けられたものではないように聞こえた。
彼は顔を上げた。
「師父。応龍鎮燼剣は、なぜ急所を外すのですか」
岳澄淵の目から、わずかに笑みが退いた。
叱責ではなかった。
「玄舟。お前には、あの剣が相手を殺し損ねているように見えるか」
「振り始めた時には」
凌玄舟は三重の足跡を見た。
「今は、殺すこととは別の終わりへ相手を追い込んでいるように見えます」
岳澄淵は池の向こうへ目を向けた。
水面を渡る風が朝霧を揺らし、取り残された松葉を水路の格子へ運んでゆく。
「昔、この辺りの山村には、飢えた虎や狼が下りることがあった。手負いの獣ほど恐ろしいものはない。半端に斬れば、死ぬまでに人を二人、三人と傷つける」
岳澄淵は、藁人形の足に残った浅い裂け目を見た。
「応龍鎮燼剣は、そうした獣を地へ伏せ、牙の届く間合いへ誰も入れぬまま仕留めるために練られた。急所へ一太刀を賭けるより、脚を奪い、起き上がりを押さえ、逃げ道を塞ぐ。ゆえに人を相手とすれば、回りくどく見える」
筋は通っていた。
それでも凌玄舟は、すぐに頷けなかった。門派の精鋭にだけ許された剣法が猛獣制伏だけの技とは思えなかった。
「虎狼は四つ足です。ですが、この剣には立つ者の肩や腕を封じる招式もある。人へ向ければ急所を外し、獣へ向ければ刃筋が高い。どちらのための型なのでしょう」
岳澄淵はわずかに目を細めた。
「長く伝わるうち、人へ用いる工夫も加わったのであろう。一つの相手だけを想定した剣とは限らぬ」
「継ぎ足されたものにしては、二十四式のつながりが滑らかすぎます」
「ならば稽古を続けよ。探求せよ。自分の剣で確かめることじゃ」
凌玄舟は再び拱手した。
「承知しました」
納得したわけではない。
それでも、師の説明を退けられるほどのものを、まだ何一つ掴んではいない。
問いを叱らず、自分の剣で確かめろと命じられた。
その言葉は信じられる。
凌玄舟は藁人形の炭跡と、石床に残る三重の足跡を見た。
次は獣の脚を模した束を作り、同じ型を試してみよう。
獣を伏せる剣だというなら、どこかで噛み合うはずだった。
岳澄淵は修練場を去りかけ、石段の手前で足を止めた。掃除を再開した二人に向かって言う。
「――そうじゃ。二人に頼むことがあった」




