第3話(2) 医者の言い分
他の聖女候補。
その言葉が、頭の中で遅れて意味を持った。
「……私は、聖女ではないの?」
薛長老が、一瞬だけ目を丸くした。
それから、呵呵と声を上げて笑った。
「それほど当然と思っておられましたか。ええ、残念ながらまだ聖女ではございません。五名いらっしゃる候補のお一人でございます」
五人。
今の私は、まだ聖女ではない。
同じ地位を目指す少女たちのうちの一人にすぎないということか。
黒蓮教の聖女は、原作では教主と並ぶほどの権威を持つように描かれていた。蘇明霞はその立場を使い、捕らえた凌玄舟を好き放題に痛めつけていた。
そこへ座れるのは一人だけ。
「犯人について、推測でも教える気はないのね」
薛長老は答えず、袖から布を取り出して爪先を拭った。ほのかに酒の香りがする。
それから、私の肘の内側へその長い爪を近づけた。
「残った毒を診るため、血を一滴いただいても?」
尋ねながら、その爪を見せるのは反則だと思う。
「……一滴だけよ」
白瑶が私の袖を肘まで折り、腕の下へ清潔な布を添えた。
「動かれませぬよう」
次の瞬間、皮膚へ小さな痛みが走った。
注射針ほどの痛み。
あまりに爪が鋭いせいか、血は一滴しか浮かばなかった。
薛長老は、その爪についた血を舐めた。
舌の上で転がし、目を閉じ、まるで酒の味でも確かめるように丁寧に味わっている。
うえ……気持ち悪っ。
白瑶は止めない。ただ、腕の下の布を動かさず、私の顔色を見ている。それから別の布で採血の痕を押さえた。
ということは、これがこの人の普通の診察なのだろう。
普通であってほしくなかった。
「昨日より苦みが薄い。血香もよろしい。身体の痺れも、ひとまずは心配ありますまい」
本当に血の味で診察してるの?
私が引いているのに気づいたのか、薛長老は柔らかく微笑んだ。
「わしが誰か、お忘れですかな。薛玄蟾。万毒院を預かる長老にございます。もっとも今は、医者としてここにおりますがね」
薛玄蟾。
原作の記憶を探ってみる。
……いや、登場していた記憶はない。私が忘れているだけかもしれないけど、聖女を殺して逃げた凌玄舟を追った人々の中にはいなかったはずだ。
「医者なら、患者を殺しかけた犯人も探してくれるものじゃないの?」
「毒を診るのは医者の務め。毒を盛った者を追うのは、巡察司の務めにございます」
巡察司。警察のようなものだろうか。
薛玄蟾は、寝台脇へ置かれた水へ目を向けた。
「医者が疑いだけで名を挙げれば、診察が処刑の道具になります故」
思っていたより、まともな答えだった。
そのまともさが、この人の見た目と血を舐めた直後の口元にまったく合っていない。
「まして候補の方々の間へこのような老骨が口を挟めば、たちまち粉々にされてしまいます」
絶対、粉々にされる側の人ではない。
「私は粉々にされかけるほどか弱いのよ。このままじゃ安心して過ごせないわ」
薛長老は白髭を撫でた。
「万毒院の徒弟ならば毒に身体を慣れさせるため、少量ずつ処方するのが常ですが……」
「死にかけの病人に試すことじゃないわね」
「いえ、そう断定するものではありませんぞ。虚弱者への毒の投与と経過観察は、貴重な験案に――」
本気で睨む。
薛長老はわざとらしく咳払いをして考え込んだ。
悩んでいると言うより不思議そうな顔をしている。
「明霞様がそこまで毒を恐れられる理由が分かりませんな。ええと、黒蓮聖功は修練中でございましょう?」
……そうだっけ。
と言い出すわけにもいかず、そのまま神妙な顔で「そうね」と返す。
原作で蘇明霞は登場したが、あまり武功を使うシーンはなかった。不意を突かれて凌玄舟に殺されたので、実力を発揮できる場面もなかった。
「黒蓮聖功は、修めるほど毒に強くなる功法にございます。明霞様が今どこまで御し得るかは、診てみねば分かりませぬが――五成に至れば、千毒不侵とも申します。毒から身を守りたければ、修練が最も近道ではございませんか」
……そうなの? と言う代わりに茶碗を手に取り、そこに入った水をゆらゆらと揺らす。
そして、そのまま真面目な顔つきで、こっそりと息を呑む。
顎を少し上げて、物憂げな感じで薛長老を流し見する。
「……面倒ね。他の候補なんて――皆捕らえてしまえばいいのではなくて?」
言っちゃった。
言いたくないけど蘇明霞っぽい台詞!
白瑶は動じてない。ということは、まあまあ正解の台詞だったのかもしれない。
薛長老は片眉を上げ、笑みを深くしたが、承知とも反対とも言わなかった。
……どういう意味に受け止めればいいのかしら。
ゆっくりと水を飲んで時間稼ぎしながら自分の考えをまとめる。
彼……薛玄蟾は『他の候補』と言った。
つまり、私を殺そうとする理由を持つかもしれない少女が、あと四人いる。
でも彼女たちが犯人だろうか? 候補どうしを争わせたい、別の誰かの仕業かもしれない。
分からないことは増えた。けれども、確かなこともある。
少なくとも、今すぐ死ぬような状態ではない。
そして、毒に抗う方法も――。
茶碗を置くと、帳の向こうの窓へ目が行った。
「外を見たいわ」
薛長老は私の足元を見た。
「ふむ……。窓までなら、侍女の手を借りてどうぞ。疲れる前にお座りなさい」
白瑶が肩へ衣を掛け、腕を差し出す。一歩ずつ進み、窓枠へ手をついた時には、もう脚が重かった。
細く開けてもらった板戸の向こうには、庭があった。
低く枝を広げた松の下に、淡い色の庭石が寄せられている。その間を縫う石敷きの小道は、奥の回廊へ曲がって消えていた。軒の影が落ちた石と、日を受けた石。同じ小道なのに、奥へ行くほど色が変わって見える。
人影はない。冷たい風が頬を撫で、松の枝をかすかに鳴らした。
――綺麗。
ただ岩や木を並べただけでは、こうはならないだろう。しばらく、毒のことも忘れて見ていた。
「あの松の下まで出たいのだけれど」
「まだなりません」
白瑶は言い終えてから私の顔を窺い、それでも腕を離さなかった。
医者の私なら、同じことを言う。医者の不養生? 患者になると、これが面白くない。
「……今日は、ここまでね」
白瑶が窓辺へ椅子を寄せた。腰を下ろすと脚の力が抜ける。窓枠の向こうには、まだ松の枝が見えていた。
庭の端にすら、一人で行って帰れない。
山を抜けて逃げるなんて、今の私には話にならなかった。
まずは、外へ出られる身体を取り戻そう。




