第3話(1) 命の危機のおかわり
黒蓮教本山・蘇明霞の居室 蘇明霞
白瑶が水を取りに出ていくと、入れ替わるように老人が入ってきた。
扉を叩いていたのは、彼だったらしい。
白髪に、胸元まで垂れた長い白髭。痩せているが背は高い。目尻には柔らかな皺が寄り、口元には親しげな笑みが浮かんでいる。
白髭の端には、黄色い粉が少しついていた。衣から漂うのは、薬草だけではない。乾いた虫と古い紙を一緒にしまったような匂いがする。
一見すれば、優しいおじいさんだ。
一見すれば。
私は、彼の手を見て息を呑んだ。
指が異様に長い。
爪も長く、黄ばんだ先端が針のように尖っている。人の皮膚くらいなら、紙みたいに貫けそうだった。
優しいおじいさんの皮を被った、マッドな研究者。
そんな印象だった。
……で、この人は誰?
目覚めたばかりの蘇明霞の寝室へ入れるのだから、医者だろうか。衣の胸元には薬草らしい刺繍がある。腰から下げた革袋は薬が入っているのかもしれない。
私が黙って見つめていると、老人は勝手に納得したように頷いた。それから胸の前で両手を組み、浅く一礼した。
「ふむ。まあまあの眼光ですな。昨夜より、だいぶ良くなられた」
誰だろう、と思って見ていたのを睨んでいると解釈されたらしい。
蘇明霞の目つき、便利なのか不便なのか分からない。
「薛長老。明霞様はまだ本調子ではございません。あまりご無理をさせないでいただけますか」
白瑶が水差しを手に戻ってきた。
薛長老。
白瑶、ないすぅ――。
心の中で拝みながら、平然とした顔を作る。
白瑶は水差しの蓋と封じを確かめ、茶碗の縁を布で拭った。水を注いだ後もすぐには渡さず、明かりにかざして濁りを見て、匂いを確かめる。それからようやく私へ差し出した。
私は受け取り、反射的に口を開いた。
「どう……」
待って。
『どうも』じゃない。
蘇明霞はお礼なんて言わない。少なくとも、白瑶が安心する蘇明霞は。
「どう?」
白瑶が小首を傾げる。
「どうしてこんなに遅いのよ。喉が渇いて仕方ないじゃない!」
ごめんなさい。
本当はそんなこと言いたくないんだけど!
眉間へ力を入れ、精一杯に不機嫌そうな顔を作る。
白瑶はしばらく私を見つめたあと、胸を撫で下ろした。
「あぁ……申し訳ございません。でも、よかった……いつものお嬢様です。先ほどはどうしたことかと」
いつもの私って何?
元の蘇明霞、どれだけ態度が悪かったの?
「先ほど?」
薛長老の細い目が、私と白瑶の間をゆっくり往復した。
笑みは変わらない。
観察する目だけが、少し鋭くなった気がする。
「診候ですよ、診候。無理なぞさせませぬ。茶碗を置いて、まずはお顔をよく見せていただけますかな」
言われるがままに茶碗を寝台の脇に置く。
薛長老の目が、私の唇、瞼、指先を順に追った。
「舌を」
言われるまま口を開ける。
「両手を前へ。指を開き、次は握って」
動かす速さと左右差を見ているらしい。
「昨夜から、嘔吐や痙攣などの症状は?」
質問は私ではなく、白瑶へ向けられた。
「どちらもございません」
白瑶は迷わず答えた。
この老人は、脈だけで何もかも見抜こうとしているわけではない。顔色を見て、動きを見て、そばにいた者から経過を聞いている。
そこは、医者だ。
「では明霞様、脈を取らせていただけますかな」
差し出された掌へ、右の手首を預ける。
袖口がずれ、手首の内側に薄い青痣が覗いた。いつできたものなのか、私には分からない。
長い指が肌へ触れた。骨ばって冷たいと思ったのに、指先だけは妙に温かい。
薛長老は目を伏せ、しばらく脈を探った。
私はその間に、自分でも状態を確かめる。
呼吸は落ち着いてきた。手足に麻痺はない。指示された動きにも、目立つ左右差はなかった。視野の欠けも、激しい頭痛もない。寝台に座っているだけなら吐き気も起きない。
ただし、記憶はない。
この部屋も、白瑶も、目の前の老人も、元の蘇明霞なら知っていたはずなのに。
薛長老が手を離した。
「次は足を下ろして。立てそうなら、少し歩いていただけますかな。侍女はそばへ」
白瑶に履物を揃えてもらい、両足を床へつける。しばらく待ってから、その腕を借りて立った。
膝が頼りない。けれど、頭はくらくらしなかった。
一歩、もう一歩。薛長老の目が足先から膝へ移り、身体の揺れを追っている。
歩幅と左右差、それにふらつき。座ったままでは分からないことを見ているのだ。
「そこまで。お戻りを」
向きを変える時は、白瑶の腕を強くつかんだ。縁へ腰を下ろすと、腿の力が抜ける。
……山を逃げるどころか、部屋の中でこれだ。
「脈の乱れは小さい。手足の痺れも、目立った後遺症も、今のところはなさそうですな。水も少しずつなら問題ございませぬ」
薛長老が茶碗を顎で示した。もう飲んでいいということらしい。
私は茶碗を手に取り、水面を見つめた。
前世の最後に、私の肺を満たしたもの。
喉は渇いている。それでも、口へ運ぶ手が一瞬止まった。
白瑶が茶碗の底へ手を添える。急かさず、取り上げもしない。ただ、落としても支えられる位置にいる。
私は一口だけ飲んだ。
冷たい水が舌を濡らし、喉を通っていく。
咳は出ない。
息もできる。
飲めた。
胸の奥で固まっていたものが、ほんの少しだけほどけた。
白瑶も小さく息を吐いた。
「ただし」
薛長老の穏やかな声が、その安堵へ細い刃を入れた。
「毒はほぼ抜けておりますが、受けた痕跡は残っております」
「待って」
声が思ったより低く出た。
私は水の入った茶碗を見下ろした。水面に、自分の青ざめた顔が歪んで映っている。
「毒って、どういうこと?」
「そのままの意味にございます。昨夜の痺れ方、肌の色、汗に残った匂い、いまの脈。明霞様のお身体は、毒に侵されておりました」
私、溺れたんじゃなくて、毒で死にかけたの?
……いや、違う。
溺れたのは前世の私だ。
この身体の前の持ち主――元の蘇明霞は、毒殺されかけた。
溺れ死んだと思ったら、転生先では毒殺されかけていた。
死因を水から毒へ乗り換えただけでは?
転生特典が、命の危機のおかわり。
趣味が悪い。
凌玄舟が現れる日を待つまでもなかった。
甘い香と帳に囲まれた部屋が、急に出口のない診察室のように思えた。何を触り、何を口へ入れ、誰を近づけてよいのか。安全だと確認できたのは、白瑶が調べ、私がいま飲んだ一口の水だけだ。
私は茶碗を寝台脇へ戻した。
「誰が盛ったか、分かっているの?」
指先が少し震えた。
袖の中へ隠す。
薛長老はにこにことしたまま答えた。
「それは、他の聖女候補の誰が、という意味ですかな?」




