第2話 お礼も言えない
黒蓮教本山・蘇明霞の居室 蘇明霞
白瑶を、一人の少女として見る。
そう決めたものの、私は彼女について何も知らない。
何を聞けばいいかも分からないので、まずは見ることにした。
寝台の横には、まだ白瑶がいる。
薄い帳が幾重にも垂れ、香炉から紫がかった煙が細く昇っていた。甘い香りの底に、薬草を焦がしたような苦みが混じっている。
帳の裾は、板戸の隙間から入る冷気にかすかに揺れていた。足元には布の衾と毛氈が重ねられ、寝台を囲う木には細かな彫刻がびっしり施されている。
蓮の花にも見えるが、絡み合った根や血管のようにも見える。古いものなのか、手が触れる縁だけ色が薄かった。
ふと、指先に硬いものが触れた。
手元を探ると、帳の陰から鞘に収まった剣が出てきた。眠る時まで、手の届くところへ置いていたらしい。
鞘から抜くより先に、柄の作りへ目が行った。
鍔らしい金具の形、巻かれた紐、柄頭の留め方。見慣れた刀とは違うのに、こういうところばかり気になるのは、前世からの癖だった。
どう見ても、普通のお嬢様の持ち物ではない。
寝台の脇には、磨かれた銅鏡があった。曇りは拭われているが、映る像の輪郭はわずかに歪んでいる。
「起きても平気かしら」
「診てくださった方からは、目を覚まされても無理にお動きにならぬようにと」
「身体を起こすだけよ。駄目そうなら戻るわ」
白瑶の手が、伸びかけて止まった。
命令されるまで触れない方がいいのか、それとも倒れる前に支えるべきか。そんな迷いが、指先に見えた。
私は肘をつき、そこから掌で支えて、自分だけで身体を起こしてみた。
腕に力が入り、背が寝具から離れる。細い身体なのに、背と腹は思ったより素直に姿勢を支えた。少しふらついたが、倒れない。
白瑶の両手は、私の肩へ届く寸前で浮いていた。
「もういいわ」
そう言うと、彼女はようやく息を吐き、私の背へ枕を二つ差し込んだ。少し力を抜いても枕が身体を支えてくれる。気が利いている。
立てるかどうかは、まだ分からない。
でも、起きていられる。
新しい身体でできた、最初の小さなことだった。
銅鏡を取ってもらって、自分の顔を見る。その中には、艶のある黒髪に白い肌、切れ長の目をした少女が映っている。
眉を上げる。
鏡の少女も眉を上げた。
頬を引っ張る。
整った顔が、遠慮なく崩れた。
……これが、私か。
自分と同じように動くのに、自分ではない。画面の中のアバターへ入り込んだような、なんとも落ち着かない感覚だった。
前世の私は、こんな美人ではない。
可愛いというより綺麗。十三歳なのに、すでに人を寄せ付けない冷たい華がある。
現代に生まれていたら、スカウトされてアイドルになるのは確実だっただろう。
ただし、目つきが悪い。
黙っているだけで、相手へ罰を言い渡しているように見える。
鏡の端には、白瑶も映っていた。
柔らかな黒髪を低い位置でまとめ、目立たない灰色の衣を着ている。帯には小さな布袋と細長い革袋が結び付けられ、布袋の口から糸巻きの端がのぞいていた。
私が身じろぎすると手を止める。
私が止まっていると、また働き始める。
枕の角を揃え、乱れた帳を直す。それから帯の革袋から指ほどの薬匙を抜き、香炉の灰を浅く返した。
煙の色を見て、匙先についた燃え残りの匂いを嗅ぐ。その時だけ、伏せがちだった目が鋭くなった。
白瑶は薬匙を布で拭い、革袋へ戻した。ただの掃除ではなく、何か異常がないか確かめているように見えた。
細い指で部屋の中のものを一つずつ確かめていく様子は、見ていて気持ちがよかった。
灰色の袖から、薬草と灰汁の薄い匂いがする。
怯えているのに、仕事は止めない。
いや。
仕事を止めないことで、怯えていると悟られまいとしているのかもしれない。
「……明霞様。もう、落ち着かれましたか?」
おそるおそる声をかけられ、鏡から顔を上げた。
鏡越しにずっとあなたを見ていましたとも言えない。そんなことを考えている私を、白瑶が心配そうに見ている。
けれど、その心配の奥には、はっきりと怯えがあった。
私の顔色を窺い、声の調子を探り、すぐ命令に応じられるよう両手を揃えている。逃げられる距離を空けているのではない。呼ばれれば一歩で近づける距離を、怖くても守っている。
彼女をそうさせたのは、この身体の前の持ち主――元の蘇明霞らしい。
私は元の蘇明霞が白瑶へ何をしたのか知らない。
原作にも、侍女との日常なんて一行もなかった。
ただ、凌玄舟にした仕打ちを思えば、悪い想像はいくらでもできる。
機嫌一つで叱りつけたのかもしれない。
罰を与えたのかもしれない。
優しい声で呼んだ後に、もっとひどいことをしたのかもしれない。
けれど、知らないことを知ったつもりで決めるのも違う。
白瑶が怯えている。
それでも私の世話をしている。
いま確かなのは、その二つだけだ。
元の蘇明霞がしたことも、白瑶にとっては全部『私』のしたことになる。
魂が別人です、なんて言い訳は通じない。
それなのに私は、蘇明霞という少女の過去をほとんど知らない。
「……お嬢様?」
白瑶が、もう一度私を呼んだ。
目覚めた直後、水の中にいると思い込んで暴れた私を、何度も「ここにおります」となだめてくれた子だ。
少なくとも、そのことには礼を言いたかった。
私は白瑶に、できるだけ穏やかに微笑みかけた。
「ええ。もう落ち着いたわ。《《助けてくれて、ありがとう》》」
その瞬間。
白瑶の顔から血の気が引いた。
揃えていた指がほどけ、灰色の衣の裾を強くつかんだ。
「……え、なに?」
「お、お嬢様……やはり、まだお加減が! まさか私に、ありがとうなどと……!」
しまった、これはNGワードだったっぽい。
ありがとうの一言で重病を疑われるなんて、元の蘇明霞はどれだけ徳を積んでこなかったのか。
先が思いやられる。
先――そうだ。
いまの自分が原作のどの時点にいるのか、確かめなければならない。
白瑶から今年が大観三年だとは聞いた。けれど、『断雲の剣』に年号の記述なんてほとんどなかったから、それだけでは原作開始までの時間が分からない。
青嵐門がまだ無事なら、凌玄舟が黒蓮教へ来るまで猶予がある。すでに武林盟の襲撃が起きているなら、家出の準備をしている間にも彼がここへ来るかもしれない。
まず、それを確かめる。
私はわざと顎を上げた。
「お水を一杯ちょうだい。それから、山外から届いた知らせで、いちばん新しいものを集めなさい。正派の大きな動き――武林盟と青嵐門に関わるものを優先して」
白瑶は一瞬だけ、青嵐門という名に戸惑ったようだった。
「青嵐門は太行の門派と聞いております。あちらの出来事が本山へ届くまで、早くともふた月ほどかかります。それでもよろしいでしょうか」
ちゃんと聞き返してくれる。
怯えていても、できない命令を分かったふりで引き受けない子らしい。
太行から、ふた月。……って、どこ? いや、原作ではそこまで細かい描写はなかったし、よく分からない。
原作では数行で進んだ逃亡にも、現実には距離と時間がある。
私は銅鏡を白瑶に渡しながら答える。
「構わない。出来事が起きた日と、知らせがここへ着いた日は分けて。誰が、どこから持ち込んだ話かも。噂なら、噂だと分かるようにして」
「承知いたしました。まずお水をお持ちし、その後、外郭の行旅院で尋ねます」
「そうして。《《あり》》……」
危ない。
ここでまた感謝したら、今度こそ医者を呼ばれる。
白瑶が不思議そうに目を瞬いた。
「あり?」
「《《蟻》》が集らないよう、部屋の隅まで掃除しておきなさい!」
ッ……苦しい。
あまりにも苦しい。
けれど白瑶は、ぱっと安堵したように顔を明るくした。
「はいっ。承知いたしました!」
銅鏡を元の場所に戻し、水差しを取りに行く足取りまで軽い。
横暴に振る舞って安心されるなんて、どういう人間関係なの。
戸が閉まると同時に、私は両手で顔を覆った。
すぐにでも訂正したい。
でも、私が善人らしく振る舞って満足することと、白瑶が安心できることは同じではないらしい。
いきなり別人になった私を信じろと迫れば、それもまた主人の都合だ。
さっき、白瑶は私の命令を聞き返した。
私は怒らなかった。
次も同じようにする。
まずは、それだけだ。
ありがとうを受け取ってもらう方法は、まだ分からない。
推しに殺されないためには、原作を変えなければならない。
そのためには、いまが原作のどの段階なのかを確かめ、逃げる力と場所を手に入れる必要がある。
けれど、その前に。
私は、今日まで蘇明霞が築いてきた人生に殺されない方法を、探さなければならなかった。
そして戸の外で、硬いものが木を軽く叩く音がした。
水差しを持った白瑶が戻るより先に、私はまた知らない人物と向き合わなければならないらしい。




