↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔教の聖女に転生したけど、家出したい!  作者: ADA
第一部 断雲前夜
PR
2/6

第2話 お礼も言えない

黒蓮教(こくれんきょう)本山(ほんざん)・蘇明霞の居室 蘇明霞



白瑶(はく・よう)を、一人の少女として見る。


そう決めたものの、私は彼女について何も知らない。


何を聞けばいいかも分からないので、まずは見ることにした。


寝台(しんだい)の横には、まだ白瑶がいる。


薄い帳(とばり)が幾重にも垂れ、香炉から紫がかった煙が細く昇っていた。甘い香りの底に、薬草を焦がしたような苦みが混じっている。


帳の裾(すそ)は、板戸(いたど)の隙間から入る冷気にかすかに揺れていた。足元には布の衾(ふすま)と毛氈(もうせん)が重ねられ、寝台を囲う木には細かな彫刻がびっしり施(ほどこ)されている。


蓮の花にも見えるが、絡み合った根や血管のようにも見える。古いものなのか、手が触れる縁(ふち)だけ色が薄かった。


ふと、指先に硬いものが触れた。


手元を探ると、帳の陰から鞘(さや)に収まった剣が出てきた。眠る時まで、手の届くところへ置いていたらしい。


鞘から抜くより先に、柄(つか)の作りへ目が行った。


鍔(つば)らしい金具の形、巻かれた紐、柄頭(つかがしら)の留め方。見慣れた刀とは違うのに、こういうところばかり気になるのは、前世からの癖だった。


どう見ても、普通のお嬢様の持ち物ではない。


寝台の脇には、磨かれた銅鏡があった。曇りは拭われているが、映る像の輪郭はわずかに歪んでいる。


「起きても平気かしら」


「診てくださった方からは、目を覚まされても無理にお動きにならぬようにと」


「身体を起こすだけよ。駄目そうなら戻るわ」


白瑶の手が、伸びかけて止まった。


命令されるまで触れない方がいいのか、それとも倒れる前に支えるべきか。そんな迷いが、指先に見えた。


私は肘をつき、そこから掌で支えて、自分だけで身体を起こしてみた。


腕に力が入り、背が寝具から離れる。細い身体なのに、背と腹は思ったより素直に姿勢を支えた。少しふらついたが、倒れない。


白瑶の両手は、私の肩へ届く寸前で浮いていた。


「もういいわ」


そう言うと、彼女はようやく息を吐き、私の背へ枕を二つ差し込んだ。少し力を抜いても枕が身体を支えてくれる。気が利いている。


立てるかどうかは、まだ分からない。


でも、起きていられる。


新しい身体でできた、最初の小さなことだった。


銅鏡を取ってもらって、自分の顔を見る。その中には、艶(つや)のある黒髪に白い肌、切れ長の目をした少女が映っている。


挿絵(By みてみん)


眉を上げる。


鏡の少女も眉を上げた。


頬を引っ張る。


整った顔が、遠慮なく崩れた。


……これが、私か。


自分と同じように動くのに、自分ではない。画面の中のアバターへ入り込んだような、なんとも落ち着かない感覚だった。


前世の私は、こんな美人ではない。


可愛いというより綺麗(きれい)。十三歳なのに、すでに人を寄せ付けない冷たい華がある。


現代に生まれていたら、スカウトされてアイドルになるのは確実だっただろう。


ただし、目つきが悪い。


黙っているだけで、相手へ罰を言い渡しているように見える。


鏡の端には、白瑶も映っていた。


柔らかな黒髪を低い位置でまとめ、目立たない灰色の衣を着ている。帯には小さな布袋と細長い革袋が結び付けられ、布袋の口から糸巻きの端がのぞいていた。


私が身じろぎすると手を止める。


私が止まっていると、また働き始める。


枕の角を揃え、乱れた帳を直す。それから帯の革袋から指ほどの薬匙(やくさじ)を抜き、香炉の灰を浅く返した。


煙の色を見て、匙先(さじさき)についた燃え残りの匂いを嗅ぐ。その時だけ、伏せがちだった目が鋭くなった。


白瑶は薬匙を布で拭い、革袋へ戻した。ただの掃除ではなく、何か異常がないか確かめているように見えた。


細い指で部屋の中のものを一つずつ確かめていく様子は、見ていて気持ちがよかった。


灰色の袖から、薬草と灰汁の薄い匂いがする。


怯えているのに、仕事は止めない。


いや。


仕事を止めないことで、怯えていると悟られまいとしているのかもしれない。


「……明霞(めいか)様。もう、落ち着かれましたか?」


おそるおそる声をかけられ、鏡から顔を上げた。


鏡越しにずっとあなたを見ていましたとも言えない。そんなことを考えている私を、白瑶が心配そうに見ている。


けれど、その心配の奥には、はっきりと怯えがあった。


私の顔色を窺(うかが)い、声の調子を探り、すぐ命令に応じられるよう両手を揃えている。逃げられる距離を空けているのではない。呼ばれれば一歩で近づける距離を、怖くても守っている。


彼女をそうさせたのは、この身体の前の持ち主――元の蘇明霞(そ・めいか)らしい。


私は元の蘇明霞が白瑶へ何をしたのか知らない。


原作にも、侍女との日常なんて一行もなかった。


ただ、凌玄舟(りょう・げんしゅう)にした仕打ちを思えば、悪い想像はいくらでもできる。


機嫌一つで叱りつけたのかもしれない。


罰を与えたのかもしれない。


優しい声で呼んだ後に、もっとひどいことをしたのかもしれない。


けれど、知らないことを知ったつもりで決めるのも違う。


白瑶が怯えている。


それでも私の世話をしている。


いま確かなのは、その二つだけだ。


元の蘇明霞がしたことも、白瑶にとっては全部『私』のしたことになる。


魂が別人です、なんて言い訳は通じない。


それなのに私は、蘇明霞という少女の過去をほとんど知らない。


「……お嬢様?」


白瑶が、もう一度私を呼んだ。


目覚めた直後、水の中にいると思い込んで暴れた私を、何度も「ここにおります」となだめてくれた子だ。


少なくとも、そのことには礼を言いたかった。


私は白瑶に、できるだけ穏(おだ)やかに微笑(ほほえ)みかけた。


「ええ。もう落ち着いたわ。《《助けてくれて、ありがとう》》」


その瞬間。


白瑶の顔から血の気が引いた。


揃えていた指がほどけ、灰色の衣の裾(すそ)を強くつかんだ。


「……え、なに?」


「お、お嬢様……やはり、まだお加減が! まさか私に、ありがとうなどと……!」


しまった、これはNGワードだったっぽい。


ありがとうの一言で重病を疑われるなんて、元の蘇明霞はどれだけ徳を積んでこなかったのか。


先が思いやられる。


先――そうだ。


いまの自分が原作のどの時点にいるのか、確かめなければならない。


白瑶から今年が大観(だいかん)三年だとは聞いた。けれど、『断雲(だんうん)の剣』に年号の記述なんてほとんどなかったから、それだけでは原作開始までの時間が分からない。


青嵐門(せいらんもん)がまだ無事なら、凌玄舟が黒蓮教(こくれんきょう)へ来るまで猶予(ゆうよ)がある。すでに武林盟(ぶりんめい)の襲撃(しゅうげき)が起きているなら、家出の準備をしている間にも彼がここへ来るかもしれない。


まず、それを確かめる。


私はわざと顎を上げた。


「お水を一杯ちょうだい。それから、山外(さんがい)から届いた知らせで、いちばん新しいものを集めなさい。正派(せいは)の大きな動き――武林盟と青嵐門に関わるものを優先して」


白瑶は一瞬だけ、青嵐門という名に戸惑ったようだった。


「青嵐門は太行(たいこう)の門派と聞いております。あちらの出来事が本山へ届くまで、早くともふた月ほどかかります。それでもよろしいでしょうか」


ちゃんと聞き返してくれる。


怯えていても、できない命令を分かったふりで引き受けない子らしい。


太行から、ふた月。……って、どこ? いや、原作ではそこまで細かい描写はなかったし、よく分からない。


原作では数行で進んだ逃亡にも、現実には距離と時間がある。


私は銅鏡を白瑶に渡しながら答える。


「構わない。出来事が起きた日と、知らせがここへ着いた日は分けて。誰が、どこから持ち込んだ話かも。噂なら、噂だと分かるようにして」


「承知いたしました。まずお水をお持ちし、その後、外郭(がいかく)の行旅院(こうりょいん)で尋(たず)ねます」


「そうして。《《あり》》……」


危ない。


ここでまた感謝したら、今度こそ医者を呼ばれる。


白瑶が不思議そうに目を瞬いた。


「あり?」


「《《蟻》》が集(たか)らないよう、部屋の隅まで掃除しておきなさい!」


ッ……苦しい。


あまりにも苦しい。


けれど白瑶は、ぱっと安堵したように顔を明るくした。


「はいっ。承知いたしました!」


銅鏡を元の場所に戻し、水差しを取りに行く足取りまで軽い。


横暴(おうぼう)に振る舞って安心されるなんて、どういう人間関係なの。


戸が閉まると同時に、私は両手で顔を覆った。


すぐにでも訂正したい。


でも、私が善人らしく振る舞って満足することと、白瑶が安心できることは同じではないらしい。


いきなり別人になった私を信じろと迫れば、それもまた主人の都合だ。


さっき、白瑶は私の命令を聞き返した。


私は怒らなかった。


次も同じようにする。


まずは、それだけだ。


ありがとうを受け取ってもらう方法は、まだ分からない。


推しに殺されないためには、原作を変えなければならない。


そのためには、いまが原作のどの段階なのかを確かめ、逃げる力と場所を手に入れる必要がある。


けれど、その前に。


私は、今日まで蘇明霞が築いてきた人生に殺されない方法を、探さなければならなかった。


そして戸の外で、硬いものが木を軽く叩く音がした。


水差しを持った白瑶が戻るより先に、私はまた知らない人物と向き合わなければならないらしい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。