第1話 推しに殺される
息ができない。
私は腕を振り回し、脚に絡みつくものを蹴った。水面へ出なければ。何かにつかまろうと手を伸ばすと、指に何かが引っかかった。握り込むと、手の中でくしゃりと縮まった。
「お嬢様! 息をしてください!」
できないから、もがいているのに!
つかんだものを引き寄せ、身体をひねった。背中に回っていた手を振りほどくと、肩の下から支えがなくなる。落ちる、と思ったところで、細い腕が脇の下へ入り、抱き止められた。
「私はここにおります! どうか落ち着いてください!」
声がすぐ耳元で聞こえた。頬が柔らかいものに押しつけられ、私は顔を背けて咳き込んだ。
濡れた岩で足を滑らせた。息を吸おうとして水を吸い込み、耳の奥でごうごうと音が鳴っていた。最後に見えた川面の光は、もがくほど遠ざかっていったはずなのに。
頬に触れる布は乾いている。むせるたび、甘い香の混じった空気が喉を通った。
水は、ない。
脚を動かすのをやめた。つかんでいたのは、私を支える少女の袖だった。脚には、蹴り乱した寝具が絡んでいる。
空いている手を胸へ当て、次に首筋へ指を添えた。吸うたびに胸が上がる。脈は速いけれど、途切れず指を打っていた。
私は少女の袖を握ったまま、ゆっくり息を吐いた。
それから、吸う。
息が……できる。
水の底では、どれほど望んでもできなかった。
もう一度、吸って、吐く。少女の腕に身体を預けると、背中を支えたまま、そっと寝具へ下ろしてくれた。
助かったのだろうか。
中国への家族旅行の最中だった。川へ落ちた私を、誰かが引き上げてくれた?
けれど、ここは病院には見えない。
薄い帳がかけられた寝台に横たわっていた。少女は、背中の下からそっと腕を抜いた。
私は少女の袖を握っていた指をほどき、自分の手を目の前へ持ち上げた。
指が小さい。手首も細すぎる。見慣れた傷も日焼けの跡もなく、内側に薄い青痣だけが残っていた。
反対の手で触れると、ちゃんと自分の肌の感触がする。
……誰の手?
「這箇、是甚麼……?(何、これ?)」
高い。
誰の声?
しかも、日本語で呟いたつもりなのに、口から出たのは中国語だった。
そういえば、少女の言葉も中国語だ。なのに、意味を考える必要がない。話す時も聞く時も、日本語と同じように自然に頭へ入ってくる。
手を下ろし、少女を見た。この子も、この部屋も知らない。さっきまで川の中にいたはずなのに、手も声も変わっている。
「ここは……どこ?」
「明霞様の御居室にございます。黒蓮教本山の――」
「待って」
少女の肩が跳ねた。
黒蓮教。
いま、明霞と言った?
「私を、何と呼んだの?」
「蘇明霞様、と……」
その名前は知っている。
何度も読み返した武侠小説、『断雲の剣』に出てくる名前だ。
主人公の凌玄舟は、師門を失い、仇を追う若い剣士だった。自分だって傷だらけなのに、困っている人を見ると放っておけない。助けた相手には「無事ならそれでいい」と笑い、また次の誰かを助けに行く。
私は、そんな彼が好きだった。
最終巻で彼が仇を討った時は、ようやく終わったと思った。
失った師門も、幼なじみも戻らない。それでも、生き残った彼には、これからの暮らしがある。私はその続きを読みたかった。
けれど、待っていたのは、新たな武林盟主への推挙だった。
彼なら乱れた武林を治められる。困っている人々を救える。そうなのだろう。私だって、彼を頼りたくなると思う。
だからって、またこの人なの?
その場面では、何度読んでも泣いた。嬉しかったのではない。ここまで傷ついて戦ってきた彼へ、まだ何かを背負わせるのかと思うと、悔しくてたまらなかった。
もう勘弁してやってよ。誰にも頼られず、気が済むまで眠って、たまには酔っ払ってほしかった。
もう世界を救わなくていいから。
彼が旅した景色を自分の目で見たくて、中国への家族旅行を持ち出したのも私だった。
それほど好きな小説だ。登場人物の名を、聞き違えるはずがない。
けれど、蘇明霞は主人公ではない。
黒蓮教の聖女、蘇明霞。
逃げてきた凌玄舟を捕らえ、散々痛めつけた少女だ。彼がどれほど苦しんでも、壊れかけの玩具を眺めるように笑っていた。彼が脱出する時、蘇明霞へ剣を振るう場面では、拳を握って応援した。
倒せーーっ!
今だッッ!
よしッッ! ……と。
その剣で死ぬのが、私?
私が急に身じろぎすると、少女が肩へ手を添えた。
「お嬢様、お加減はいかがですか」
「……まぁ」
いかがもなにも、よくない。何一つよくない。
つまり――――《《私は、推しに殺される》》。
私は少女の顔を見た。
怯えている。目が合うと唇を引き結び、次の言葉を待っている。
とにかく、確かめなければ。
「あなたの名前は?」
少女は息を止めた。
「……白瑶にございます」
「私のそばで働いているの?」
「はい。お嬢様の侍女を務めさせていただいております」
白瑶。知らない名前だ。
顔を見ても、声を聞いても、この子と過ごした覚えはなかった。
原作には蘇明霞の侍女との暮らしなんて書かれていなかった。
「私は、いま何歳?」
「十三歳でいらっしゃいます」
十三。
小さな手を見直した。少女と呼ぶしかない身体と、白瑶の答えが合ってしまう。
「今年は?」
「大観三年にございます」
……年号では分からない。西暦で言ってくれないかな。無理か。
原作に、蘇明霞が何歳で死ぬかなんて書いてあっただろうか。彼女が登場するのは、凌玄舟を捕らえてから殺されるまでだ。それ以前にどう暮らしていたのか、私は知らない。
彼がここへ来るまで、一年あるのか、ひと月なのか。
白瑶が湿った布で首筋の汗を拭い、襟を整える。それを終えると、使った布を手に、寝台の横で一歩下がった。
まずは逃げよう。
そう考えて、帳の向こうを見た。
戸の一部が見える。けれど、あそこを出た先は何も知らない。
十三歳の少女が、身一つで知らない土地へ出てどうする。泊まる所は? 食べ物は? この身体で、どこまで歩ける?
無理でしょ。
「つっ……詰んでない……?」
「詰み?」
少し離れたところで、白瑶が首をかしげた。
おっと。
白瑶がいた。顔を向けると、布を持つ手を胸元へ引き寄せた。
私には初対面でも、白瑶にはそうではないのだ。
この子は、これまでどんな蘇明霞を見てきたのだろう。
逃げたい。それは変わらない。
でも、自分が逃げるためのことばかり聞いていては、この子のことは分からない。
私は白瑶を、一人の少女として見ようと思った。




