↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔教の聖女に転生したけど、家出したい!  作者: ADA
第一部 断雲前夜
PR
1/6

第1話 推しに殺される


息ができない。


私は腕を振り回し、脚に絡みつくものを蹴った。水面へ出なければ。何かにつかまろうと手を伸ばすと、指に何かが引っかかった。握り込むと、手の中でくしゃりと縮まった。


「お嬢様! 息をしてください!」


できないから、もがいているのに!


つかんだものを引き寄せ、身体をひねった。背中に回っていた手を振りほどくと、肩の下から支えがなくなる。落ちる、と思ったところで、細い腕が脇の下へ入り、抱き止められた。


「私はここにおります! どうか落ち着いてください!」


声がすぐ耳元で聞こえた。頬が柔らかいものに押しつけられ、私は顔を背けて咳(せ)き込んだ。


濡れた岩で足を滑らせた。息を吸おうとして水を吸い込み、耳の奥でごうごうと音が鳴っていた。最後に見えた川面の光は、もがくほど遠ざかっていったはずなのに。


頬に触れる布は乾いている。むせるたび、甘い香の混じった空気が喉を通った。


水は、ない。


脚を動かすのをやめた。つかんでいたのは、私を支える少女の袖だった。脚には、蹴り乱した寝具が絡んでいる。


空いている手を胸へ当て、次に首筋へ指を添えた。吸うたびに胸が上がる。脈は速いけれど、途切れず指を打っていた。


私は少女の袖を握ったまま、ゆっくり息を吐いた。


それから、吸う。


息(・)が(・)…(・)…(・)で(・)き(・)る(・)。


水の底では、どれほど望んでもできなかった。


もう一度、吸って、吐く。少女の腕に身体を預けると、背中を支えたまま、そっと寝具へ下ろしてくれた。


助かったのだろうか。


中国への家族旅行の最中だった。川へ落ちた私を、誰かが引き上げてくれた?


けれど、ここは病院には見えない。


薄い帳(とばり)がかけられた寝台(しんだい)に横たわっていた。少女は、背中の下からそっと腕を抜いた。


私は少女の袖を握っていた指をほどき、自分の手を目の前へ持ち上げた。


指が小さい。手首も細すぎる。見慣れた傷も日焼けの跡もなく、内側に薄い青痣(あおあざ)だけが残っていた。


反対の手で触れると、ちゃんと自分の肌の感触がする。


……誰の手?


「這箇(チャカ)、是甚麼(シシンマ)……?(何、これ?)」


高い。


誰の声?


しかも、日本語で呟いたつもりなのに、口から出たのは中国語だった。


そういえば、少女の言葉も中国語だ。なのに、意味を考える必要がない。話す時も聞く時も、日本語と同じように自然に頭へ入ってくる。


手を下ろし、少女を見た。この子も、この部屋も知らない。さっきまで川の中にいたはずなのに、手も声も変わっている。


「ここは……どこ?」


「明霞(めいか)様の御居室(ごきょしつ)にございます。黒蓮教(こくれんきょう)本山の――」


「待って」


少女の肩が跳ねた。


黒蓮教。


いま、明霞と言った?


「私を、何と呼んだの?」


「蘇明霞(そ・めいか)様、と……」


その名前は知っている。


何度も読み返した武侠小説(ぶきょうしょうせつ)、『断雲の剣(だんうんのけん)』に出てくる名前だ。


主人公の凌玄舟(りょう・げんしゅう)は、師門(しもん)を失い、仇(かたき)を追う若い剣士だった。自分だって傷だらけなのに、困っている人を見ると放っておけない。助けた相手には「無事ならそれでいい」と笑い、また次の誰かを助けに行く。


私は、そんな彼が好きだった。


最終巻で彼が仇を討った時は、ようやく終わったと思った。


失った師門も、幼なじみも戻らない。それでも、生き残った彼には、これからの暮らしがある。私はその続きを読みたかった。


けれど、待っていたのは、新たな武林盟主(ぶりんめいしゅ)への推挙だった。


彼なら乱れた武林を治められる。困っている人々を救える。そうなのだろう。私だって、彼を頼りたくなると思う。


だからって、またこの人なの?


その場面では、何度読んでも泣いた。嬉しかったのではない。ここまで傷ついて戦ってきた彼へ、まだ何かを背負わせるのかと思うと、悔しくてたまらなかった。


もう勘弁してやってよ。誰にも頼られず、気が済むまで眠って、たまには酔っ払ってほしかった。


も(・)う(・)世(・)界(・)を(・)救(・)わ(・)な(・)く(・)て(・)い(・)い(・)か(・)ら(・)。


彼が旅した景色を自分の目で見たくて、中国への家族旅行を持ち出したのも私だった。


それほど好きな小説だ。登場人物の名を、聞き違えるはずがない。


けれど、蘇明霞は主人公ではない。


黒蓮教の聖女(せいじょ)、蘇明霞。


逃げてきた凌玄舟を捕らえ、散々(さんざん)痛めつけた少女だ。彼がどれほど苦しんでも、壊れかけの玩具(おもちゃ)を眺めるように笑っていた。彼が脱出する時、蘇明霞へ剣を振るう場面では、拳を握って応援した。


倒せーーっ!


今だッッ!


よしッッ! ……と。


その剣で死ぬのが、私?


私が急に身じろぎすると、少女が肩へ手を添えた。


「お嬢様、お加減はいかがですか」


「……まぁ」


いかがもなにも、よくない。何一つよくない。


つまり――――《《私は、推しに殺される》》。


私は少女の顔を見た。


怯えている。目が合うと唇を引き結び、次の言葉を待っている。


とにかく、確かめなければ。


「あなたの名前は?」


少女は息を止めた。


「……白瑶(はく・よう)にございます」


「私のそばで働いているの?」


「はい。お嬢様の侍女(じじょ)を務めさせていただいております」


白瑶。知らない名前だ。


顔を見ても、声を聞いても、この子と過ごした覚えはなかった。


原作には蘇明霞の侍女との暮らしなんて書かれていなかった。


「私は、いま何歳?」


「十三歳でいらっしゃいます」


十三。


小さな手を見直した。少女と呼ぶしかない身体と、白瑶の答えが合ってしまう。


「今年は?」


「大観(だいかん)三年にございます」


……年号では分からない。西暦で言ってくれないかな。無理か。


原作に、蘇明霞が何歳で死ぬかなんて書いてあっただろうか。彼女が登場するのは、凌玄舟を捕らえてから殺されるまでだ。それ以前にどう暮らしていたのか、私は知らない。


彼がここへ来るまで、一年あるのか、ひと月なのか。


白瑶が湿った布で首筋の汗を拭い、襟を整える。それを終えると、使った布を手に、寝台の横で一歩下がった。


まずは逃げよう。


そう考えて、帳の向こうを見た。


戸の一部が見える。けれど、あそこを出た先は何も知らない。


十三歳の少女が、身一つで知らない土地へ出てどうする。泊まる所は? 食べ物は? この身体で、どこまで歩ける?


無理でしょ。


「つっ……詰んでない……?」


「詰み?」


少し離れたところで、白瑶が首をかしげた。


挿絵(By みてみん)


おっと。


白瑶がいた。顔を向けると、布を持つ手を胸元へ引き寄せた。


私には初対面でも、白瑶にはそうではないのだ。


この子は、これまでどんな蘇明霞を見てきたのだろう。


逃げたい。それは変わらない。


でも、自分が逃げるためのことばかり聞いていては、この子のことは分からない。


私は白瑶を、一人の少女として見ようと思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。