悪辣なる筆先と、化け狸が持ち帰った兇報
昼下がりの光が差し込む店内には、焼き立てのバニラシフォンケーキが放つ甘く優しい香りが満ちていた。
朝方の悪質な低評価レビューの嵐にもかかわらず、近隣の常連客たちは変わらず店を訪れていた。
ガラスケースの前で品定めをする親子連れに対し、真人は穏やかな手つきでケーキを箱に詰め、手際よくリボンを掛けて手渡す。
どんな悪意に晒されようとも、カウンター越しに対面する客の笑顔の前では、職人としての誠実さを崩すわけにはいかなかった。
しかし、平穏を塗り潰そうとする影は、音もなく忍び寄っていた。
最後の一組となった初老の女性が会計を済ませようとしたその瞬間、店の床の木目から、じわりとどす黒い粘液のような影が滲み出した。
冷え切った油と腐敗臭を混ぜ合わせたような異臭が立ち込め、黒い影は細い無数の触手となって、陳列ケースの焼き菓子へ向けて這い上がろうとする。
客が異変に気づいて息を呑むより早く、レジ下の物陰から茶トラ猫の姿をしたぽん助が飛び出した。
「――『葉隠れ・夢幻の帳』ぽん!」
ぽん助がふわりと前足で空を払うと、懐から散った数枚の木の葉が黄金色の微粒子へと変わり、店先を満たした。
客の意識と視界は心地よい温もりに包まれ、外界の認識から完全に遮断される。
幻惑によって客の時間を切り離した刹那、店の引き戸が勢いよく開かれた。
「波布杜の神威、疾く払わん!」
駆け込んできた綾乃の手から、白木の御幣が一閃した。
清冽な神気が白銀の刃となって空を薙ぎ、床を這い回っていた黒い粘液を両断する。
ジュッと肉を焼くような不快な音を立てて、低級悪霊の群れは断末魔すら上げずに浄化の光の中へと霧散していった。
ぽん助が術を解くと、初老の女性は「あら、少し立ち眩みがしたかしら」と首を傾げ、何事もなかったかのように笑顔で包みを受け取り、店を後にした。
「……助かりました、綾乃さん。ぽん助も見事な目眩ましだ」
「客人に怪我がなくて何よりだぽん。だが、昼間から堂々と仕掛けてくるとは、手口が汚すぎるぽん」
ぽん助が毛を逆立てて唸る。
真人は無言のまま床に膝をつき、悪霊が消滅した跡に残された一枚の黒ずんだ紙片を拾い上げた。
それは、怨念を練り込んだ特殊な墨で緻密に描かれた「呪詛画」の残滓だった。
機械的な幾何学模様を歪ませ、禍々しい怪異の形へと変質させた線描の癖。
それを見た綾乃の表情が、険しく強張る。
「……間違いありません。この筆致、そして筆圧に込められた粘着質な呪詛の構造は、悪辣絵師として裏社会に名を連ねる黒沼蓮也のものです。自分の手技を絶対視し、他者の仕事を呪詛で踏みにじることしかできない外道……」
「ネットの誹謗中傷だけでは飽き足らず、実力行使で店を潰しに来たか」
真人は紙片を指先で擦り、眉根を寄せた。
その夜、営業を終えてシャッターを下ろした店内に、街の裏路地を探索に出ていたぽん助が戻ってきた。
ぽん助は息を切らし、カウンターの上に飛び乗ると、真人と綾乃を見つめて深刻な口調で告げた。
「真人、綾乃の姉ちゃん、敵の正体が分かったぽん。下町の狸ネットワークを使って調べさせたんだが……黒沼の奴、『反AI浄化連盟』とかいう武装集団を仕切ってるぽん」
「武装集団……?」
綾乃が息を呑む。
「表向きは『手作業の尊厳を守る正義の団体』を気取ってるが、実態はただの当たり屋と恐喝のプロだぽん。
自律霊術や自動機械を導入している工房や商店を狙い撃ちにして、ネットで炎上させ、裏で呪詛を使って営業妨害を仕掛ける。
そして『手打ちにしてやる』と持ちかけて、法外な示談金を毟り取ってるんだぽん」
黒沼の真の狙いは思想の純粋さなどではなく、新技術の普及を阻むことで自らの希少価値を吊り上げ、暴力によって利権を貪ることだったのだ。
そして今回、元研究者として名を知られた真人の店を標的に選んだのは、界隈への「見せしめ」としてこれ以上ない格好の獲物だったからに他ならない。
「真人のケーキをめちゃくちゃにして、金を巻き上げようなんて絶対に許せないぽん……! あんな美味しくて優しいケーキを焼く真人が、なんであんな奴らに怯えなきゃならないんだぽん!」
ぽん助が悔しさに前足を震わせる。
真人はぽん助の丸い頭にそっと手を置き、静かに撫でた。
「怯えてなどいないさ、ぽん助」
真人の声は低く、酷く静かだった。
店を構えてから一度も開けたことのなかった、厨房の奥――地下へと続く重厚な防護扉に、真人は視線を向けた。
「道具を金儲けの棍棒にし、他者を踏みにじるために技術を歪める連中を、俺は見過ごすわけにはいかない」
静謐な決意を胸に、真人は地下工房の鍵を手に取った。




