下町の静かな焼き菓子店と、理不尽な悪意の兆候
夜明け前の下町は、川面から吹き上げる冷えた風に包まれていた。
街並みが深い藍色の静寂に沈む午前四時、路地裏に佇むシフォンケーキ専門店『フォンド・ルポ』の厨房には、すでに淡い白熱灯の明かりが灯っている。
店主の葛城真人は、麻のエプロンの紐をきつく締め直し、ステンレスの作業台に向き合っていた。
ボウルに割り入れられた新鮮な卵白は、余分な熱を持たせないよう厳密に温度管理されている。
真人の指先が作業台脇に置かれた円筒形の器具――小型の自律霊術式攪拌器の起動盤に触れた。
微かな駆動音とともに、青白い霊力回路が器具の表面に浮かび上がる。
かつて真人が自律霊術工学の研究室で培った技術を応用した特注品だ。
内部に組み込まれた自律演算コアが、室温、湿度、卵白の粘度を瞬時に測定し、気泡の微細構造が最も安定する回転数へと自動で最適化していく。
しかし、真人は機械にすべてを委ねているわけではない。
泡立ての最終段階、メレンゲが絹のような光沢を帯びる瞬間を見極めるのは、彼自身の双眸と、指先に伝わる抵抗感だけだった。
「――よし、八分立て。角がわずかに折れるこの固さだ」
「相変わらず、いい手つきだぽん。機械の面倒見がいいのか、ケーキの面倒見がいいのか分からんぽん」
低く掠れた呑気な声が、作業台の下から響いた。
姿を現したのは、丸々と肥えた一匹の茶トラ猫――に見える化け狸のぽん助である。
ふさふさとした尾を小さく揺らしながら、二本足ですっと立ち上がると、器用に前足を使い、薄力粉とアールグレイの茶葉粉末を目の細かいストレーナーでふるいにかけ始めた。
「道具は手足の延長だ。機械が正確な基盤を整えてくれるからこそ、俺は生地のわずかな機微に全神経を注げる」
「職人サマの能書きは相変わらず堅苦しいぽん。だがまあ、この茶葉の香りは極上だぽん。早く焼いてほしいぽん」
真人は微苦笑を漏らしながら、メレンゲと卵黄生地を手早く、かつ気泡を決して潰さぬ絶妙なストロークで切り混ぜていく。
流し込まれた生地はアルミの型を満たし、余熱を終えた大型オーブンの奥へと滑り込んだ。
やがて店内に、ベルガモットの気品ある香りと、焼き菓子特有の甘く香ばしい匂いが満ち始める。
焼き上がりの鐘が小さく鳴り響いたのとほぼ同じ刻限、店舗の引き戸に取り付けられた真鍮のベルが涼やかな音を立てた。
「おはようございます、葛城さん。今朝も素晴らしい香りが表の通りまで漂っていましたよ」
暖簾をくぐって現れたのは、近隣の古社・波布杜神社の筆頭巫女、神代綾乃だった。朝の一番祈祷を終えたばかりの彼女は、白衣に緋袴という凛とした装いのまま、ふっと肩の力を抜いてカウンターの丸椅子に腰を下ろす。
「おはようございます、綾乃さん。ちょうどアールグレイが焼き上がったところです」
真人は逆さにして粗熱を取った型から、ナイフを使わず手のひらの絶妙な圧加減だけで生地を外していく。
切り分けられた一切れが、白磁の皿に載せられて綾乃の前に差し出された。
フォークを入れた瞬間、しゅわっと微細な気泡が弾ける音が厨房に響く。
口に含んだ綾乃は、ふわりと目を細め、静かに息を吐き出した。
「……見事ですね。舌の上でほどけるような軽さなのに、お茶の深みと生地の弾力がしっかりと残っています。境内の空気を吸うのと同じくらい、心が澄み渡るようです」
「そう言っていただけると、早起きした甲斐があります」
平穏で、どこまでも満ち足りた朝のひとときだった。
だが、その調和を打ち破るように、真人のエプロンのポケットでスマートフォンが鋭いバイブレーションを繰り返した。一度や二度ではない。
まるで何かの氾濫を告げるように、執拗に震え続けている。
真人が怪訝に眉を寄せ、画面を点灯させた。
「……これは」
画面に並んでいたのは、店舗の公式アカウントに対する膨大な数の通知と、大手グルメレビューサイトからの「低評価レビュー急増」を知らせるアラートだった。
『自動機械に作らせたケーキを職人の手作りと偽る詐欺店舗』
『魂のないAIの汚物。食べたら吐き気がした』
『伝統的な製菓技術に対する冒涜。今すぐ看板を下ろせ』
星一つの最低評価とともに、悪意に満ちた定型文のような中傷が、この数十分の間に数百件単位で書き込まれていた。
「……ひどい。何ですか、これは」
画面を覗き込んだ綾乃が息を呑み、その清らかな瞳に怒りの色を宿す。
真人は無言のまま、中傷の波を遡るように指を滑らせた。
発信源はすぐに判明した。
ネット上で数十万の追随者を抱える絵師であり、自律術式を糾弾する過激派コミュニティの象徴・黒沼蓮也のアカウントだった。
『人間の手作業による尊厳を踏みにじる輩が、菓子屋の面をして自律機械の紛い物を売り捌いている。許されるべきではない。浄化の鉄槌を』
黒沼の扇動を受け、彼の信奉者たちが一斉に『フォンド・ルポ』を標的とした攻撃を仕掛けていたのだ。
「手作業の尊厳、か」
真人は低く呟いた。
自律霊術工学の最前線にいた頃、技術の利権を巡り、正義を騙った人間たちが互いを引き裂き合っていた光景が脳裏をよぎる。
道具をただ憎む者、あるいは道具を棍棒にして他者を叩く者。
その醜悪な争いに嫌気が差してこの街に逃れてきた真人を、過去の因縁は嘲笑うかのように追いかけてきていた。
ガタッ、と店の外で鈍い物音がした。
ぽん助が素早く窓辺に寄り、カーテンの隙間から表を覗き見る。
丸い瞳が警戒の色に細められた。
「真人、店の引き戸に何か貼られてるぽん……!」
真人が静かに玄関へ向かい、戸を開ける。
そこには、墨のような異臭を放つ黒い液体で書かれた一枚の貼り紙があった。
『機械の走狗に破滅を』
赤黒い呪詛の気配が、その文字の周囲に陽炎のように揺らめいている。
綾乃が即座に踏み出し、袖から取り出した破魔の鈴を鳴らそうとしたが、真人は静かに手を上げてそれを制した。
貼り紙を冷徹な視線で見つめ、真人は迷いのない手つきでそれを剥ぎ取った。
指先にわずかな痺れが走るが、顔色一つ変えない。
「葛城さん、これは明確な霊的嫌がらせです。波布杜神社の名において、霊的治安当局に即座に通報を――」
「ええ、連絡は入れましょう。ですが、彼らは法や警察を恐れるような手口は取らないはずです」
真人は紙片を丸め、屑籠へと放り込んだ。
その背中は、理不尽な悪意に晒されながらも、微塵も揺らいでいなかった。
厨房の奥では、自律攪拌器が静かに待機状態の光を放ち、オーブンからは変わらぬ小麦の香りが漂っている。
「俺がここで焼いているものに、偽りは何一つない。機械を尊び、己の手を磨き、最高の菓子を出す。それだけだ」
静かに告げた真人の瞳の奥に、かつて自律霊術の頂点に立っていた男の、冷徹で揺るぎない覚悟が静かに灯っていた。




