閑話 宮廷医師の診察
「疲れ、ですかな」
聴診器を耳から外して、宮廷医師のダクテロがそう言った。
俺は開けていた胸元を閉じ、看護師に手伝ってもらいながら身なりを整える。
「こころなしか脈が速くなっておりますが、まあ健康の範囲内でしょう。殿下が気にされているような重篤な症状はございません」
「それは本当か。耐えがたき痛みだったぞ。まさか頭に悪いものでもできたのではと」
「そうおっしゃいますが、痛みは持続しておらず、今もめまいや吐き気もないのでしょう?」
「ああ……」
この国で一番、医療の知識を持つとあって、ダクテロは他の人間よりも少しだけ年嵩だった。
真っ白な髪に、片眼鏡をかけている。その目元にはいくつもしわが刻まれている。
「血圧が高いということもございませんし、精神的なものかもしれませんな。たとえば、心にひどく負荷がかかるようなことがあったとか」
「心に負荷……」
「もしあったのなら、それでございます。極度の緊張状態にあると、頭や首、肩の筋肉が硬直し、激しい痛みをともなうのです。それも十分に静養なされば治りますでしょう」
「……」
あのような急激な頭痛は、いままでになったことはなかった。
王族として、どんなに緊張を強いられる場面であっても。
あの、エルザという女性と会ったときだけだった。頭痛がしている間、俺はなにか大事なことを忘れているような感覚に陥った。そして、エルザという名前に強く反応し、あの女性を求めていると強く自覚した。
これが、俗にいう「恋」というやつなのだろうか。
「ダクテロ、人を好きになったことはあるか」
「はっ? え、ど、どうなさいました突然……」
「答えてくれ。恋をすると、人は普通胸が痛むものではないのか」
「……は、はあ。そのよう、ですな。あいにく、わしはこの年までろくな人付き合いというものはしてきておりませんで……。そのようである、ということしか申し上げられませんが……」
ダクテロはしどろもどろになりながら答える。
この医師はずっと王家のためだけに仕えており、妻を娶ったという話も聞いたことがない。おそらく言っているのは真実なのだろう。
「俺は胸ではなく、頭が痛んだ。とすればこれは、恋ではないのか」
「……どちらの方にか、そういうお相手と出会ってしまわれたので?」
「ああ、その女性に会うと、強く頭が痛んだ。こんなにもその相手を美しい、知りたいと思うのに。嫌だと感じる気持ちとは真逆なのに……だ。極度の緊張状態であったと言われればそうかもしれない。だが、それだけではどうにも不可解でな……」
「それは、たしかに。おっしゃる通りですな」
ふうむ、とあごに手をやって、ダクテロは考え込む。
「しかし、やはりお体に異常は見受けられませんので。頭痛を警戒されるのであれば、そのお相手と会われるのを控えられた方がよろしいでしょう。それか、緊張が解けるまで何度も会うか、です」
「そうか……」
「おそれながら殿下」
「なんだ、トリシア」
看護師はトリシアと言った。
貴族の出だったが、若い時に医療に目覚め、以来ダクテロとともに長く勤めてくれている。ブルネットの髪をきつくまとめ、細いフレームの丸眼鏡をかけていた。
「殿下は……いえ、殿下も、いずれは隣国のフロンスから輿入れされる身。そのことは覚えておいでですよね?」
「ああ。まだ具体的な話はないがな。いずれそうなるだろう」
「では……」
「そうだな。言いたいことはわかる」
自分の結婚相手もおそらく、隣国の姫君か高位貴族の令嬢となる。それはこの国の王太子としては、避けられない運命だった。それはわかっている。けれど、出会ってしまったのだ。
あのエルザという女性に。
「世話になった」
俺は立ち上がると、医務室を出た。
供は連れていなかったので、また蔵書室に向かう。
「エルザ……【沼の魔女】……ジェイド一世の元婚約者……」
ここにある本はみな、ジェイド一世が買い集めたものだという。
俺は棚の間をまっすぐに進む。
初めてここを訪れたときは圧倒されたものだ。貴重で、質の高い本たちが無数にある。
幼いころから俺は当然のようにこの場所に魅了され、足しげく通った。棚にあるものはどれも興味深く、俺の知的好奇心を心ゆくまで満たしてくれた。
いつしか、俺はすべての本が俺に適している、と錯覚するようになった。本当は全部、ジェイド一世のものなのに。同時に俺のためのものでもある、と思い込むようになった。
どうしてそう思ったのかはわからない。
けれど、あまりにも、自分にしっくりときすぎたのだ。
試しに一冊抜き出してみる。
そこには俺の好みの物語が書かれている。
別の棚の一冊を抜き出してみる。
そこには俺の知りたかった世界の秘密が書かれている。
どの棚でやってもそうだ。
これは素晴らしいことだった。と同時に恐ろしいことでもあった。
俺とジェイド一世はまるで生き写しだ。
それは肖像画が遺されているから知っている。
でも、こんな好みまで似るだろうか。思考も、考え方も、先祖からまるごと引き継いでしまったかのように。
まさか、女性の好みまで……?
俺はある一冊を本棚から引き抜いた。
これはある年に初めて読んだものだ。中には印象的なしおりが挟まっていた。しおりの表には名もなき野花の押し花があしらわれており、裏には「親愛なるジェイド様へ」と手書きの文字が書かれている。ページは、ちょうど愛の言葉を語り合う男女の場面だった。
俺は、そのしおりをふところに入れた。
そして、もう一度「エルザ」に会わなければ、と思った。
第二章はここまでです。
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