第四十話 探り合いも悪くない①
茫然としたナタリーの鼻からつうっと血が垂れ落ちた。
半開きの唇にぽつっと赤が滴り、鉄の味に湿る
フルガラの蹴りが直撃したのは胴体だ。だが衝撃の瞬間、無意識に反応し腕で顔を庇っていたのだ。とはいえ両腕で凌げる衝撃ではなかった。腕で強かに鼻を打ち付けていた──らしい。
自分の反応をようやく把握したナタリーの前に、つかつかとフルガラが進み出た。
「!」
あわてて立ち上がろうとするも、フルガラは両脚でナタリーを跨ぐようにして立ち、動きを封じてくる。
「あー、やっと面白くなった」
フルガラは機嫌のよい声音で嘯くと、片脚でナタリーの顔の横をどしんと踏みつけた。
そのまま片脚立ちの跨いだ体勢でナタリーを見下ろす。
「ねーナタリー、面白いこと言ってたよね? クシャナが最強? 元・剣聖の『八人目』が?」
「……っ、そうだよ!」
ナタリーは鼻を拭って言い返した。
油断して思いっきり蹴りを喰らった自分の不覚で破裂しそうな気分だが、クシャナのこととなると負けん気が点火する。
「師匠を斬るなんてあんたには早いっ」
「そうなんだー」フルガラは気のない相槌を打ち、
「でもキミはぜーんぜん大したことないね」
その目は退屈なおもちゃを見るものだった。ナタリーを貶し、あるいは煽る気など皆無だ。
「実はさっきまでの受け答え次第でまずはキミを斬ろうと思ってたんだ。クシャナがアーノルドを斬ったと認めたら、あるいは斬ってないって嘘をついたら。でもキミはどちらでもない回答をしたね」
だから斬らなかった。
「でもさぁ、あんなカンタンに……人の言うこと信じるぅ? 単純すぎるって。暢気に握手しちゃダメでしょ。だからフルガラ蹴っ飛ばしちゃったじゃんか。──斬る価値もない」
直前まで剣呑な問答をしていたのに、敵意が失せるとあっさりと相手を信じた。そんなナタリーの反応を思い出し、フルガラは目元をニィと歪めた。
──ナタリーは鼻血の止まらない顔のまま、何も言い返せなかった。
怒りが自分へと向けられていく。
こんな危険なやつを相手に油断しているつもりはなかったのに、なんて様だ。
『斬る価値もない』
服についていた糸くずでも捨てるようなフルガラの言葉が、痺れる身体に反響している。
鼻腔から流れ落ちる血が顎から滴り、ぱたぱたと胸元に落ちた。鉄の匂いが一気に増す。
「フルガラ!」「ナタリー!」
二人の鋭い声が飛び込んでくる。
呼ばれたフルガラが顔を上げた。
「あれぇセオドール。積もる話はもういいの?」
「そんなことより、何があったんだ」
「こっちも話が盛り上がっちゃってさ。だって年もほぼタメだったんだよ?」
「勝手な真似を。ふざけるのもいい加減に──」
セオドールはフルガラの肩を掴んでナタリーを踏みつけるように立っていた場所から離すと、詰問で迫る。しかしフルガラは悪びれた様子なく、のらくらとした返答をするばかりだった。
「──ナタリー」
ナタリーの傍らで膝をついたクシャナがそっと覗き込んできた。
「鼻か?」
「…………あ、うん。こんなの、すぐ止まる……」
自分の顔は見えないが、きっと顔半分が真っ赤になったはず。慌てて素手で拭おうとすると、クシャナが懐から薄手の布を取り出しナタリーの鼻に押し当てる。太刀を使った直後、刀身を拭うときに使う拭紙代わりの布だ。
「いいよ、ししょ……、ふぐ」
「いいから。押さえときな」
師匠の大事な持ち物が、と焦るナタリーは鼻から下を布で覆われて黙らされてしまった。
無言のナタリーの頭のなかを、惨めな感情が駆け巡る。焦燥、屈辱、不覚、後悔、怒り──それらが全部積もって、混ぜ合わさって、膨れ上がり、身体を突き破ってしまいそうだった。
無言でじっと全身を硬くするナタリーの肩をクシャナは支え、立ち上がらせる。
「今日のところ、話はもういいかね」
フルガラをきつい口調で問い質していたセオドールがはっとする。
「クシャナ、ナタリーは──」
「今日は丸一日護衛の仕事だったもんでね。へとへとなんでお先に上がらせてもらうよ」
──実質、話はここで切り上げ、続きは明日以降だと暗に示す。
閉口するセオドールの横で、フルガラがひらひらと手を振った。
「ばいばーい、クシャナ。弱いお弟子さんがいると手間暇かかって大変だね」
「……! ふが、」
あんたが蹴ったんでしょーが! と眦を尖らせるナタリーの肩をクシャナが押さえた。布の奥で呻く弟子の背中を手で支え、強引に宿へと引き連れる。
と、クシャナは一度足を止め、肩越しにフルガラを見る。
「あんまりうちの弟子を安く見積もらないことだ」
「へえ。じゃあ次はどのくらい遠くまで蹴り飛ばせるかな?」
「フルガラ!」
とうとうセオドールの声に怒気が含まれる。
危険な存在と、大破してしまった資材倉庫を丸投げする形にはなるが、クシャナは布で鼻を押さえたまま怒りに強張るナタリーを連れ、宿に向かっていった。




