第68話 終わりの始まり
((ギニアス隊長!?))
雨で煙る林の中に、エリーの悲痛な声がこだました。何度も何度も、身をもがれるような叫び声が響き渡っている。
私は、心臓を掴まれるような思いで、声のした方へと駆け出す。
立ち並ぶ木々の間を抜け、ぬかるんだ土に足を滑らせながら走っていくと、不意に人影が見えた。
地面に倒れているのは————ギニアスさんだ。
"いったい何が……?"
冷たい雨に打たれながら、エリーがかき抱くようにギニアスさんを抱きかかえている。
近づいた私の目に、ギニアスさんの胸に深々と突き刺さる矢が飛び込んできた。
"嘘……"
あまりの衝撃に、言葉を失ってしまう。
呆然と立ち尽くすしかできない中、ギニアスさんが苦しげに小さく呻いた。
((ギニアス隊長、しっかり!!))
エリーの叫びも虚しく、雨に濡れた軍服が、じわじわと赤黒く染まっていく。
((もうすぐ、治療の道具が届きます! それまで諦めないで!))
必死に言葉を紡ぐエリーに向けて、ギニアスさんは紫色に染まった唇を動かした。
((……情けないな))
降りしきる雨音の中で、かろうじて掠れた声が届いた。
それは寂しげで、どこか自嘲するような響きを纏っていた。
((地獄へ堕ちる覚悟だけは、とうにできていたというのに……こんなところで、自分だけ先に逃げることになるとはな……))
ギニアスさんは、皮肉げに口元を歪めながら、自分を責めていた。
((な、何を言ってるんですか!? 大丈夫、大丈夫ですよ、治療したらすぐに良くなって……))
エリーのハープは、今にも千切れそうだった。
悲しみと恐怖と、信じたくないという気持ちが、彼女の心を蝕んでいる。
ギニアスさんは、そんなエリーを見上げた。
いつもの皮肉げな目をしていたけれど、今は柔らかく細められている。
((すまんな))
そして、震える腕を持ち上げたギニアスさんが、そっとエリーの頭に触れた。
エリーが驚いたようにギニアスさんを見る。
((お前に背負わせる事になってしまって))
柔らかな笑みを浮かべたギニアスさんが、エリーの髪を優しく撫でている。
見開いたエリーの目から大粒の涙がこぼれて、濡れた土に染み込んでいく。
((ぐっ! ゲホッ!))
咳き込んだギニアスさんの口元が、真っ赤に染まる。
((隊長! 駄目、いかないで!))
エリーを見つめるギニアスさんが、またゆっくりと手を上げている。
もう一度エリーの頭を撫でようとしてるのだろう。
彼のホルンは、もう既に消え入りそうなほどに小さくなっている。
((エリー……))
((はい、隊長……))
震える手がエリーの頭に触れた。
((この国を……いや、民を……頼む))
その言葉を最後に、腕が力なく地面に落ちた。
((隊長……?))
呆然と呟くエリー。
ギニアスさんから返事はない。
((ねえ、ギニアス隊長……!))
震える声でもう一度名前を呼んでも、揺さぶってみても、もうギニアスさんのホルンの音は聴こえてこなかった。
((い……いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!))
雨音を切り裂くように、エリーの叫び声が響き渡った。
"エリー……"
目の前で打ちひしがれているエリーを、ただ見ていることしかできなかった。
震える背中に手を伸ばすけれど、私の手はすり抜けるばかりで触れることは叶わない。
何もできない歯痒さに唇を噛み締めていると、雨に煙る世界は、ゆっくりと色を失っていった。
ギニアスさんを抱きしめて泣いているエリーの姿も、光の粒になって崩れていく。
雨に濡れた土も、鬱蒼とした林も、全てが光に溶けていき——
そして、私はまた暗闇へと戻ってきた。
"ギニアスさん……"
私は、胸の中がスッと冷えていくのを感じながら、ギニアスさんの最後を思い出していた。
——民を頼む。
そう言った彼のホルンは、エリーのことを案じていた。これから先の彼女が、ひどく困難な道に立たされるのを心配する音が、ギニアスさんから響いていた。
エリーにとって、ギニアスさんは精神的支柱だった。その人を喪ったエリーが、この先どんな暗闇を歩むことになるのか……想像するだけで、胸の奥の柔らかな場所をざらりと撫でられたような、そんな不安に駆られてしまう。
大きく息を吐いて顔をあげると、九個の光の球が浮かんでいるのが見えた。
終わりが近づいている。
そんな予感に駆られていた。
そこから先の記憶は、まるで濁流のように私の中に流れ込んできた。
ギニアスさんを喪い、悲しみに暮れるエリー。
そんな彼女の震える肩を、カムリンが必死になって支え続けていた。
けれど、世界はそんな彼女たちに立ち止まる時間さえも与えてくれない。
亡くなったギニアス隊長に代わり、エリーを響撃部隊の隊長に任命する命令書が届いた。
それは、国の上層部からの命令を、直接受ける立場になることを意味していた。
現場を知らない、たとえ知ったとしても大事の前の小事と無視される現実。
そして、理不尽に下される命令。
届いた作戦命令書を一読して、エリーは拳が白くなるほどに強く握り潰していた。
眠れずに椅子に座ったまま朝を迎えたエリーの肩に、カムリンがそっと毛布をかけていた記憶。
あれだけ快活で明るかったヤナが、笑おうとしても上手く笑えなくなっていた。
その横で、ザリスが唇を噛み締めて、何かに耐えるように拳を握りしめている。
どの記憶にも、以前のような柔らかで温かい音は聴こえなかった。
ただ効率的に敵を叩く。そればかりに終始して、民衆を顧みることのない命令書ばかりがエリーの元に届いていた。
少しずつ心の音がすり潰されていくような、そんなエリーたちを、私はただ立ち尽くして見ていることしかできなかった。
((今まで、どれだけギニアス隊長に助けられていたのか……改めて思い知ったわ))
ある夜、エリーが自嘲しながら呟いた。
向かいに座るカムリンも、深く頷いてグラスを傾けていた。
((ギニアスは優秀だったが、現場の情に流されすぎた))
薄暗い部屋の中で、軍の幹部らしき男性が淡々と言い放つ。
エリーは震えるほどに強く握りしめた拳を隠し、静かに立っていた。
((だが、君は違う。そうだろう? ジールクス隊長))
その声には何の感情も宿っていない。
人ではなく、道具をどう扱うかの話をしているようだった。
((君は国家の剣だ。剣に情など不用))
氷のように冷たい言葉が、石の床へと落ちていく。
((国のため、最も効率的に振るわれねばならん))
"——っ! そんなの……!"
思わず叫んだ声は、彼らには届かない。
エリーは顔を俯けたまま、差し出された命令書を受け取った。
その指先は、微かに震えていた。
ギニアスさんは、いつもこんな理不尽な命令を受けていたんだろう。
そして、エリーたちを守るために、立ち向かってくれていた。
時には、自分の手を汚してまで……
それから見た七個の記憶には、あの日見た市場の笑い声は無かった。
あるのは、立ち込める土煙と、生々しい血の跡と、冷徹な作戦命令書。
そして、誰にも見えない薄暗い部屋の片隅で、声を押し殺して泣くエリーの小さな背中だけだった。
気づけば、私の周りを漂う光の球も、あと残り二個になっていた。
"う……うう……"
私は暗闇の中で膝を抱えてうずくまっていた。
溢れた涙が頬を伝い、膝を濡らしていく。
あまりにエリーが苦しそうで、悲しくて、胸が張り裂けそうだった。
涙を流す私の前に、片方の光の球が降りてきた。
"……もう、見たくない"
それが、私の本心だった。
少し前までは、ヤナと楽しく買い物をしていたエリー。
カムリンの前でも、少しずつ笑顔が増えてきていたはずなのに。
理不尽な命令書のせいで激化する戦いに、エリーたちから笑顔が消えていった。
エリーのハープも、ヤナのヴァイオリンも、カムリンのピッコロも、みんなの音が少しずつ歪んでいっていた。
もう十分だ。
これ以上、エリーたちが壊れていくところなんて見たくない。
そう思う気持ちも確かにある。けれど……
"もう見たくない……でも"
私は膝に埋めていた顔をあげて、涙を拭った。
泣いてばかりじゃ駄目だ。
ここで逃げたら、エリーたちの悲しみも苦しみも、全部暗闇の中に消えてしまいそうな気がした。
エリーが生きた証。
彼女が何を背負って、何を得て、そして失ったのか。
全部見届けると決めたんだ。
小さな球の中に確かにあるエリーの記憶。
"エリーが生きた証……見届けなきゃ"
ゆっくりと立ち上がり、大きく息を吸い込んだ。
"……よし"
目の前に浮かぶ光の球に手を伸ばす。
触れる直前、手が震えた。
けれど、自分を叱咤して、歯を食いしばりながら手を前に突き出した。
――
――――
――――――
((わああぁぁぁぁぁっ!))
((第二射用意! ――――撃てっ!))
((怯むな! 突撃! 突撃ぃぃぃ!!))
色づいた世界に生まれた光景は、鼓膜を震わせるような怒号と悲鳴だった。
”……また、戦場だ”
見上げた空は青くて、どこまでも高く澄み渡っている。
その下で悪夢のような光景が繰り広げられている。
大きな城壁を背に、土煙を舞い上げ、地面を揺らして両軍が激突していた。
凄惨な光景から目を逸らして振り向くと、少し高台になっている場所に、エリー達の姿が見えた。
"エリー……!"
目の前の地獄から逃げるように、エリー達の元へと走った。
けれど、たどり着いた先にいた響撃部隊の面々は、酷くやつれた顔色をしていた。
”ひどい顔……心の音も……”
エリーの目元にも、酷いクマが浮いていた。
以前の無表情は、感情を押し殺している顔だったけれど今のエリーはまるで違った。
感情をどこかに置き忘れてしまったような、押し殺す感情さえ、擦り切れて残っていないみたいだった。
エリーからは、重くひび割れたハープの音が、途切れ途切れに聴こえてくる。
酷く耳障りで、苦しそうな音。
ヤナも酷い顔をしていた。
本人は笑っているつもりなんだろう。口元だけ引き攣ったような歪な表情をエリーに向けている。
弾むようだった彼女のヴァイオリンも、掠れたような音が細く響くだけだった。
カムリンもザリスも同じだった。
ピッコロもホルンも、どこかが欠けたような、ひび割れた音を奏でている。
みんなが限界を超えて、壊れはじめていた。
小高い丘の上から激しく衝突している戦場を見下ろして、エリーがぽつりと呟いた。
((……ギニアス隊長なら、どうしたでしょうね))
乾いた風が彼女の髪を揺らした。呟いた言葉は風に流されて、青く澄んだ空へと消えていった。
靡く髪を押さえながら、エリーの目がすっと細くなる。
((でも、もう隊長はいない。私が……私たちが、この戦争を終わらせる))
その一瞬、エリーから感情が堰を切ったように溢れ出した。
喜びも悲しみも、怒りも愛情も。
彼女の中にまだ残っていたものを吐き出すように、ハープの音が高く強く、狂おしいほどに鳴り響いた。
そして——次の瞬間、彼女から一切の音が消えた。
"————え?"
無音。
周りでは兵士たちの怒号と悲鳴が飛び交っているというのに……
エリーの周りだけ、ぽっかりと音の無い空間が作られていた。
その空気に触れた瞬間、背中にゾワリと強烈な悪寒が走った。
額から冷や汗が吹き出してくる。
小刻みに震える身体を両手で抱きしめながらエリーを見ると、彼女がハープを構えるのが見えた。
すっと片手を上げて、エリーが冷徹な声で静かに告げる。
((響撃部隊、演奏準備))
"やめて……"
静かに下された命令に、私は身体を震わせながら口を開いた。
"もう、これ以上は……"




