第63話 殲滅のコンチェルト
そこから、地獄が始まった。
美しかった旋律が、一瞬で悪夢のような姿に変わる。
澄んだ音色は刃となり、歓びの音は破壊の暴力となって戦場へと降り注いだ。
”痛っ――――!?”
突然、頭の奥を鋭い針で何本も突き刺されたような痛みが襲った。
"う……いぃ……っ!"
続けて、身体の中をざらりと撫でるような不協和音が、内臓をかき乱してくる。
押し潰すような圧力が胸の奥まで響いて、心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
”っ――! な……に、これ……!?"
息が止まる。
指先ひとつ動せなくて、ただ蹲ることしかできない。
さっきまであれほど美しかった旋律が、今はただの暴力だった。
”なんで……!? 記憶の中のはずなのに、なんでこんなに苦しいの……!”
痛い――
怖い――
苦しい――――!
頭の中に鉄の棒を突き入れられて、ぐちゃぐちゃに搔き混ぜられているみたいだ。
”う、うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!”
膝から力が抜けて、その場に崩れ落ちてしまう。
頭を押さえたまま地面に倒れ込むと、体が勝手に痙攣し始めた。
息が――息ができない!?
喉がひゅうひゅうと、か細い音を立てて空気を求めているのに、肺の奥まで届かない。
”いや……助けて……っ!!”
無我夢中だった。
縋るように、必死に自分のハープを掻き鳴らす。
ピィイイィィィッン――
不格好で、少し掠れた音。
けれども、その音が確かに私を救った。
頭の中を掻き回していた不協和音が、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
”――――――っ!!”
もう一度、必死にハープを弾く。
切れた弦のことも構わずに、必死に、何度も何度も。
壊されていく心を繋ぎ止めるために。
――――すると。
頭の中をぐちゃぐちゃに搔きまわしていた不協和音が、少しずつ和らいできた。
”はっ……! はぁっ……!”
喘ぐように息を吸い込む。
震える体を、なんとか地面から引き上げた。
"はぁ……はぁ……っ"
体を起こして、顔を上げる。
涙で滲む視界の向こう。
その先に見えたものは――――――
優雅に音楽を奏でる、エリー達の姿だった。
”嘘…………”
まるで、大自然を舞台にしたオーケストラのような姿。
中心に立って、感情の無い顔でハープを爪弾くエリー。
対照的に、左右に並ぶ隊員たちは、楽しそうに楽器を奏でている。
――微笑みすら浮かべながら。
”どうして……どうして、笑っていられるの……?”
這いつくばりながら、呆然とその姿を見つめる。
未だ続く、優雅な演奏と美しい旋律。
それなのに、周囲から聴こえてくるのは――
地の底から這いあがるような、苦痛と絶望の音色。
崖の下から、沸き立つように聴こえてくる。
絶望、恐怖――悲鳴になりきれない呻き。
そして、壊れていく心の、断末魔のような軋む音。
それが、崖の下から絶え間なく立ち昇って、私の周りに渦巻いている。
”どうして……”
震える足に力をいれて、立ち上がる。
――本当は、見たくない。
でも、見届けなければいけない気がした。
崖の下が見える場所まで、ふらつきながら歩いていく。
一歩、また一歩と、前へ進む。
やっとの思いで、崖下が見える場所まで辿り着いた。
そして、見てしまった。
”――――っ!”
その光景に息を呑む。
眼下に広がる光景に、声も出なかった。
さっきまで衝突していた兵士たちが、折り重なるように地面に倒れ込んでいる。
ぴくりとも動かない者。
痙攣している者。
頭を抱えて震えてる者。
意味の分からない叫び声を上げている者。
敵軍の前衛が――完全に壊滅していた。
”こんな……こんなことって……”
巻き込まれたのか、味方側の兵士も何人か倒れている。
でも、誰も気にした様子がない。
それが当然みたいに、何も無かったかのように動いている。
その異常な光景に、カチカチと歯が音を立てる。
涙が、勝手に溢れてくる。
昏く、全てを呑み込むような怨嗟と絶望の音色が、眼下に渦巻いている。
そんな中。
味方の兵士が、慎重な足取りで倒れている敵兵に近づいていく。
剣を構えながら、苦しむ敵兵の真横へと辿り着くと――
手にした剣を振り上げた。
――そして。
ためらいなく、振り下ろした。
”いや――――っ!”
その光景を見た瞬間、私は目を背けた。
”嫌……だ……見たくない……!”
ぎゅっと目を閉じて、耳を両手で塞いだ。
――見たくない、聴きたくない――!
でも。
目を閉じても、耳を塞いでも、逃げられなかった。
私の中に流れ込んでくる。
断末魔の悲鳴。
途切れていく命の音。
全部が、私の中に入り込んできて、引きずり下ろそうとしてくる。
"やめて……やめて……っ!!!"
たまらず、その場に蹲った。
"うっ……おえっ……"
胃の中のものを、吐き出してしまう。
何度も、何度も。
まるで――この悪夢を、体から追い出そうとするように。
”はぁ……はぁっ……”
目を閉じて、耳を塞いでも聴こえてくる。
自分のハープを掻き鳴らしても、消えてくれない。
絶え間なく聴こえてくる、兵士たちの絶望の音と、エリーたちの美しい音楽。
”もうやめて……お願い……っ”
幼い子供みたいに体を丸めて、ただ耐えることしか出来なかった。
ただひたすらに、終わってくれと願っていた。
”早く……早く終わって――!”
――どれくらい、そうしていただろう。
ふっと、音が止んだ。
世界そのものを支配していた音楽が、唐突に消え失せる。
”あ…………”
震える体を抱きしめながら、恐る恐る顔を上げる。
"……やっと……やっと終わった……?"
静かだった。
あまりにも静かで、その沈黙が逆に恐ろしい。
涙で滲んだ視界の先に、この惨状を作り出した者たち。
その人達が――
眼下の光景を、満足げな表情で見下ろしていた。
地獄の続きを眺めている、エリー達。
ヤナと呼ばれていた女性は、ヴァイオリンを下ろしながら鼻歌を歌っている。
ホルンを手にする男性は、((今日はいい感じに揃ったな))なんて、軽く笑っている。
他の面々も、満足そうな表情を浮かべて崖下を眺めている。
――まるで、良い演奏会を終えた後みたいに。
”これが……こんなのが、調律師なんて……”
彼女たちを見て、唇が震えた。
人を助ける力だと、信じていた。
誰かに寄り添うための音だと。
――そのはずだった。
なのに、目の前で見たのは、人を壊し、苦しめ、命を刈り取るための力。
――こんなものが、調律師だなんて……!
”……っ”
恐怖でカタカタと震えながら、私はエリーを見た。
彼女だけは、相変わらず何も言わずに立っていた。
風に濃紺のマントを揺らしながら、ただ静かに。
その横顔には、何の感情も浮かんでいない。
人を助けたいと言っていた頃の面影なんて、どこにもなかった。
もう、どこにも前のエリーはいないんだ――そう思って俯いた、その時。
――ピィィン!
暗闇の中で聴こえていた音が、頭の中に響いた。
不意に聴こえた音色に顔を上げて、目の前の光景に息を呑んだ。
――世界のすべてが、止まっていた。
目の前の隊員達が、和やかに会話している姿のまま、ぴたりと止まっている。
その手前に舞い散っている木の葉が、空中に浮かんだまま、動く気配もない。
”何が……え、止まって……?”
突然のことに、理解が追い付かない。
音も風も止まって、崖下から聴こえていた怨嗟と恐怖の音色も止んでいる。
すべてが止まった世界で――
ふいに、エリーが顔を上げるのが見えた。
そして――真っ直ぐに、こちらを見た。
”――――ひっ!!”
心臓が止まったかと思った。
気のせいなんかじゃない、さっきと同じだ。
はっきりと目が合った。
この惨状を作り出した張本人に見つめられて、心臓が、破裂しそうなほどの恐怖に襲われた。
”嫌……やめて……助けて……っ!”
――逃げたい、今すぐ。
この場から走って逃げだしたい。
でも、恐怖で指一本動かせなかった。
このまま殺されるの――?
そう思って、気を失いそうになる。
それでも、なんとか意識を保っていると――
エリーの瞳が、悲し気に揺れるのが見えた。
"……え?"
ほんの一瞬だけ、無機質な瞳に感情が浮かんだ。
戦場に来る前、あの優しかった頃のエリーの瞳。
あの時の瞳が、確かにそこにあった。
彼女の唇が、ゆっくりと動く。
必死に、何かを伝えようとするように。
((お願い))
かすれた声が、頭の奥に直接響く。
((私のようには――))
途切れ途切れに聴こえてくる声。
それでも、エリーは真っ直ぐに私を見つめたまま続ける。
((――ごめんなさい))
優しげな声で、苦しそうに紡ぐその声。
”エリー……?”
((あなたを……助け――――て))
最後まで聞き取る前に、視界がぐらりと揺れた。
黒く染まっていく世界の中、彼女に向けて手を伸ばした。
”あ……エリー……”
膝から力が抜けて、崩れ落ちる。
伸ばした指先は、何にも届かないまま。
――ピィィン!
また聴こえた、澄んだ音色。
わずかに歪んだその音を聴きながら――
私の意識は、そこで途切れた。




