第59話 光の球
――真っ暗だ。
今度は黒い空間の中を歩いている。
周りは黒く塗りつぶされていて何も見えないけれど、何かあると感じる方向へと足を進める。
足元だけはぼんやりと光ってるような感じがしていて、歩く分には問題ないし、しっかりと踏み締める感触はある。
けれども、真っ暗で自分の手も見えない。
音が聞こえないのはさっきの場所と同じだけど、こうも見えないと不安が募っていく。
――ピィィン!
また奥の方から音が聴こえてくる。
慎重に一歩ずつ歩いていくと、向こう側に星みたいな明かりが光っているのが見えた。
”あれは、なんだろう? 星……?"
夜空に浮かぶ一番星のように輝くその光。
見上げながら近づいていくと、周囲に星明かりがぽつりぽつりと増えていく。
きらきらと輝く光と高く澄んだ音――
真っ暗で不安を掻き立てられた場所だったのに、今は幻想的な場所に感じられた。
”……きれい”
音にならない呟きも気にならないくらい、美しい光景が広がっている。
灯りに吸い寄せられるようにフラフラと歩いていくと――
ふわり、と。
淡い光が上から舞い降りてきた。
丸くて透き通っているその球は、子供の頃に遊んだシャボン玉のようだった。
手のひらくらいのその球は、触れると弾けてしまいそうな儚さでふわふわと漂っている。
"わぁ……"
いくつもの光のシャボン玉が、まるで初雪のようにゆっくりと降り注いでくる。
淡く儚く、壊れてしまいそうな光の球。
その温かな光に誘われて、私は一歩近づいた。
そっと、ひとつの光の球に顔を寄せた、その時――
"――――っ!"
声も出せずに飛び退いた。
"た、球の中に……人がいる!?"
小さな――手のひらくらいに小さな人間が、閉じ込められていた。
そこには、向かい合って何かを話している男女の姿。
口を動かして、身振りを交えながら楽しそうに笑っている。
私の目には、球の中の人が確かに生きているように見えた。
"な、なに、これ……っ"
心臓が激しく脈打って、手の震えを止められない。
浅くなった息を必死に吸いながら、額に浮かんだ冷や汗を拭った。
――シャボン玉の中に、人がいるなんて。
それも、あんなに小さな人間が閉じ込められて……
なのに、どうしてあんなふうに楽しそうに笑っていられるの?
理解が追いつかない。
コレが何なのか、わからない。
さっきまで幻想的に見えていた景色が、途端に恐ろしいもののように感じられた。
私も、このシャボン玉に閉じ込められるの――?
背中がゾッと冷えたけれど、どうしてもシャボン玉に視線が吸い寄せられる。
――怖い、けど……
シャボン玉の中をじっと見つめていると、微かに声が聴こえた気がした。
耳に届く音じゃなくて、心に届いた音が。
目を閉じて心を澄ませると、微かに声が聴こえてくる。けれども、何を言っているのかまではわからない。
そう、わからないけれど、確かにそれは言葉だし、感情があるのがわかる。
このままシャボン玉から離れる選択も出来る。
よくわからないものに触れるのは危険かもしれない。
――でも……
私は震える指を、ゆっくりと伸ばした。
触れてはいけない気がするのに。
それでも、確かめずにはいられなかった。
指先が光の球に触れた。
――その瞬間。
ぱちん、と。
まるでシャボン玉が弾けるように、光が弾けて球が消えた。
"――えっ?"
次の瞬間――
世界が変わった。
辺りを包んでいた暗闇がほどけて、足元から光が溢れ出す。
"えっ……何、これ……!"
暗闇を押し退けて広がる光に、色が付きはじめた。
白の光が茶色に色付き、足元が木の床になっていく――
"床が……できてる!?"
あまりの事態に足が竦んで動けない。
床を見つめていると、別の色が視界の端をよぎった。
ハッと視線を上げると、いつのまにか私のすぐ横に極彩色のタペストリーが掛けられた壁が出来上がっていた。
息を飲んで一歩下がった時、床から浮き出てきた重厚なテーブルが視界に入った。
"何……何が起きてるの……!?"
闇を呑み込んだ光の空間が、次々と色付いていく。
石造りの壁に、木の天井、意匠を凝らした家具達。
まるで白いキャンパスに絵の具を乗せるように、鮮やかに筆を躍らせるように景色に色が広がっていく。
でも、これは絵じゃない。
本物の――いや、本物みたいなものが、私の目の前に現れていく。
激しく鼓動を繰り返す心臓に手を当てる。
不思議と怖さは感じないけれど、驚きと混乱で頭の中がグルグルと回っていた。
天井を見上げていた顔を下ろすと、目の前のテーブルにさっきのカップルがいた。
二人は椅子に腰かけて、楽しげに話している
すぐ隣に私がいるのに、まるで見えていないかのようだ。
その光景に思わず一歩後ろへ下がると、床に転がる鞄が目に入った。
下げた足のかかとがぶつかると思ったら、私の足が鞄をすり抜けてしまった。
”――!?”
私が茫然と自分の足を見つめていると、不意に頭の中に”声”が響いてきた。
((ねぇ、明日はいよいよ発表の日よ! わたし、楽しみで今夜は眠れなさそう))
突然の”声”に驚いて顔を上げると、20歳くらいの美しい女性が、喜びで弾んだ声で向かいに座る男性に話しかけている。
”声が……聴こえる!? 今の声って、この人の声だよね……?”
((はは、エリーは本当に楽しみにしていたからね。僕もその気持ちはわかるけれど、明日が本番なんだから、しっかりと体を休ませないと――))
近い距離で語らう二人は、幸せに満ちた顔をしていた。
よく見てみると、このカップルも、椅子もテーブルもわずかに透けて見える。
そこにいるのに、そこにいない。
”……”
私は楽しく語らう女性へと、ゆっくりと手を伸ばした。
伸ばした指が彼女に触れる間際、緊張で指が震えた。
ぎゅっと目を瞑り、手を前に出してみるけど、手ごたえは何もなかった。
恐る恐る目を開けると、女性の体の中に私の手が刺さっていた。
”ひっ!――わあぁぁっ!?”
驚いてすぐに腕を引いたけれど、目の前の女性は何事もなかったように、男性とのお喋りに夢中になっている。
――なに? なんなの、コレ……?
理解できない光景に、体が無意識に後ずさっていく。
((だから、ずっと一緒にいようね!))
エリーと呼ばれていた女性が満面の笑みでそう言った時、フッと目の前の景色が歪んだ。
”あ……”
想わず伸ばした手の先で、幻のように先程の光景が白くなっていく。
そして、次の瞬間にはすべてが消えて、元の暗闇が辺りを包んだ。
あの光景の残滓が細かい光となって足元に振り落ちていく。
その残滓も消えた後、私は再び真っ暗な空間に立っていた。
”……なに、今の……”
心臓が激しく脈を打っているのを感じるのに、その音は聴こえない。
幻だろうと、さっきは”声”が聴こえたのに、私は自分の音を聴くことが出来ないでいた。
混乱する頭のまま、ゆっくりと顔をあげると――
そこには、いくつもの淡く儚く、壊れてしまいそうな光の球が漂っている光景。
さっきと同じように静かに、ゆらゆらと揺れながら――まるで、私を誘うように。
"もしかして、これが全部さっきみたいな景色が――?"
暗闇に浮かぶ光の球は、煌めく星空のように幻想的で、どこか怖ろしさを孕んで私の前に広がっていた。
……喉が乾いて仕方ない。
ゴクリと音のしない唾を呑み込むと、私はぐるりと廻りを見渡した。
――怖い。
光の球は、無数に浮かんでいる。
あの中に何があるのか、わからない。
また、あんな光景を見るのか、全然違うものを見るかもしれない。
でも――
頭の中にアレクの顔が浮かんだ。
クリスの顔も、ヴィヴァーチェさんも、アルバートさんも。
――戻りたい。
みんなのところに。
ここで立ち止まってる場合じゃない。
どこかに、元の場所に戻るヒントがあるかもしれない。
私はぎゅっと拳を握った。
震える足に力を込める。
――大丈夫。私は一人じゃない。
視界に浮かぶゆらゆらと揺れる光の球。
私は、ひとつの光へと震える手を伸ばした――




