第58話 白い世界
見渡す限りの白い世界。
右を見ても左を見ても、遥か先まで白い空間が続いていて、一つの影も見えない。
足元を見ると、自分の影が無かった。
そもそも、どこから光が差しているのかもわからない。
この白い空間全体が、光を放っているようだった。
肌を撫でる風も感じられないし、暑いのか寒いのかもよくわからない。
恐る恐る足を前に出して一歩踏み出してみたけど、しっかりと硬い感触がある。
だけど、それは土でも木の床でもなく、ましてや石の床でもない不思議な感触。
上を見上げても、どこまでも同じ景色が続くだけ。
――そもそも、ここは一体何処なんだろう。
クリスと実験をしていて、気がついたらこの白い場所にいた。
そうだ、言い争いになった2人に調律をしようとハープを弾いた時に、『アニマ』に音を吸い込まれたんだった……
もしかしたら『アニマ』の中とか……?
そんな考えも浮かぶけれど、「まさかね」と苦笑いしてしまう。
大きい箱だったけど、私が入れるほどじゃない。
それなら、もしかして……夢の中?
それとも――
天国だったり……?
私……死んじゃったの――?
背中に冷たい水を浴びたように冷えていく。ゾッとして額には冷や汗が滲んできて――
ぎゅっと頬をつねってみる。
"……痛い"
頬に広がるじんわりとした痛みを確かに感じる。
夢、じゃあなさそう――
じゃあ、ここは天国? 天国でも痛みって感じるのかな……
そう思いながらなんとなく一歩を踏み出した時、違和感に気づいた。
――音が、無い。
何も音が聞こえない。
もう一度足を踏み出してみる。
確かに、床を踏みしめた感触はある。
それなのに、音がしない。
もう一歩強く踏み込むけど、カサリとも聞こえない。
靴音も、服が擦れる音も、自分の呼吸すらも――
途端に不安になって、大きく息を吸い込んだ。
"おーい! 誰か居ませんか!"
大きな声を出したはずなのに、何も聞こえない。
自分の声すらも。
”どうしよう、どうしたらいいの!?”
焦って口から零れ落ちたはずの言葉も音にならない。
"誰か……誰かいないの!?"
不思議と恐怖は感じないけれど、心の中の不安がどんどん膨らんでいく。
こんな何もない場所に閉じ込められるなんて。
周りを見渡したり、うろうろと歩いたりしていた時に、ふと思い出す。
――そうだ、心の音は……?
慌てて自分の中のハープを奏でようと、胸に手を当てる。
自分の中に意識を向けると、いつも通りにハープに触れる感覚があった。
――よかった、ハープはある。
いつもよりゆっくりと弦に触れて、つま弾いてみると――
”駄目だ……聴こえない――!”
私は、沈黙が満ちた世界にたったひとりだけ閉じ込められてしまった。
"アレク! クリス! ヴィヴァーチェさん! アルバートさん!”
叫んでみるけど、口がぱくぱくと動くだけで、音にならない。
”お父さん! ――お母さん……!”
必死に叫んだ声も聞こえない。
足の力が抜けて、ぺたんと座り込んでしまう。
――助けて……
不安に押しつぶされそうになって、俯いた顔に涙が伝う。
手で顔を覆いながら音の無い涙を流していると、不意にアレクの顔が脳裏に浮かんだ。
困った時に、何度も助けてくれたアレクの顔。
心配そうな顔で差し伸べてくれる手の温もりを思い出す。
”…………”
音のしないため息を吐いて、グイッと袖で涙を拭う。
――不安に押しつぶされちゃ駄目だ!
ここで座っていても、何も変わらない――!
”死んだって決まった訳じゃない。元の場所に帰る方法を探さなきゃ!”
自分を叱咤して、涙を拭って立ち上がった。
改めて見回してみても、白い世界がずっと先まで続いているだけ。
何かあるかもしれないと、とりあえず前に進んでみる。
胸の中の不安を押しとどめるように、ハープの弦をつま弾きながら歩いていく。
――やっぱり、音はしないね。
それでも、ハープに触れていると不安が和らぐ気がした。
ここに、確かに自分がいると感じられるから、音のしないハープをつま弾き続ける。
――
――――
――――――
どのくらい歩いただろうか。
温度も明るさも変わらないし、景色も変わらないこの場所だと、時間の感覚もわからなくなる。
”何かないかな……こっちでいいのかな……”
不安が口に出るけれど、それが聞こえる事は無い。
思わず止まってしまった足を、バシッと叩いて気合を入れる。
”まだ、少し歩いただけじゃない。諦めるには全然早いよね!”
笑顔を作る。無理矢理だろうと、少しは気が晴れるはず。
そう思いながら、また歩き出そうと前を向いたその時。
――ふわり、と空気が揺れた気がした。
”――――!”
音はない。風もない。
でも、確かに感じた。
私の胸の奥、心の音に直接触れたような感覚だった。
この場所に来て初めて感じた感触を必死で探すと、正面の遥か向こうの”白”が、僅かに揺らいだように見えた。
――あそこに何かあるかもしれない。
そう思って、走り出したい衝動を押さえて一歩ずつ踏み出す。
周りにも注意を払って、また何か感じないかと心の中に集中しながら前に進む。
進むにつれて、”白”の揺らぎがハッキリとわかるようになってきた。
湯気のようにゆらゆらと揺れているその場所。
現実感のないこの白い空間で、そこだけが触れられる場所のように思えた。
揺らいでる場所を見つめながら真っ直ぐ向かっていると、一瞬、揺らぎが大きくなった。
何だろう?と思いながら歩いていると――
――ピィィン
”――! 何か聴こえた!?”
私の胸の中に、澄んだ美しい音が響いた。
この場所に来て、初めて聴こえた音。
音が聴こえた事に、涙が出そうなほど嬉しくなる。
”聴こえない”ということは、物凄く私の心を疲弊させていたんだ。
音の聴こえた方――揺らいでいる空間に向かって走り出す。
息を切らしながら走っていると、また「ピィン」と音が聴こえる。
――また聴こえた。これは、気のせいじゃない!
走った。
ただ前だけを見て、必死に。
荒い息も、バクバクと鳴っている心臓の音も聞こえない。
けれども、澄んだ美しい音だけを頼りに必死に足を動かした。
やがて近づいた揺らぎの場所には、揺らぎの正体が見えた。
白い空間にぽっかりと空いている孔。
そこだけ真っ黒な穴が開いていて、ゆらゆらと蜃気楼のように揺らめいている。
”これは……”
走るのをやめて、一歩ずつ慎重に近づく。
息を整えながら心を澄ませてみると、その黒い穴から澄んだ美しい音が響いているのが感じられる……
少しずつ近づいて穴の近くまで来ると、向こう側からゆっくりと風が吹いているのが感じられた。
”…………”
目の前に立って、恐る恐る指を伸ばす。
穴の縁に触れたと思ったら、何の手応えも無かった。
今度は思い切って腕を入れてみる――けれども、結果は同じ。
なんの手応えも無く、するりと手が入り込んでしまう。
――行くべきか、行かないべきか……
近くで目を凝らしてみても、穴の向こう側がどうなっているのかは見えない。
でも、あの音が私を呼んでいる――そんな気がしていた。
穴の前でしばらく悩んでいたけれど、また穴の向こうから「ピィィン」と美しい音が響いてきた。
”行ってみるしか……ないよね”
ひとつ頷いた私は、覚悟を決めて黒い穴の中へと一歩を踏み出した。




