第56話 不安の音
慌ただしくクリスが準備を進める横で、軽くリュートを弾いていたアルバートさん。
少し難しい顔をして手が止まったと思っていたら、柔らかなリュートの音色と一緒に歌い始めた。
♪――知性を司る女神の信徒よ
混沌の渦に身を浸し
なお衰えぬ、その探求は
いつの日か 誰かに届くだろうか――♪
柔らかな音で奏でられた歌は、この乱雑な室内と不思議と調和していた。
『アニマ』をいじくる手は止めないまま、アルバートさんに視線だけ向けて呟くクリス。
「……アンタ、歌上手いのね。」
「ありがとう。もっと褒めてくれてもいいんだよ?」
そんなアルバートさんを、ちょっとだけ睨んでクリスが文句を言いだす。
「でも、混沌ってどういうこと? この部屋のことを歌にしてるでしょう!」
「あはは、バレちゃったか。いやぁ、この雑然とした室内と匂い立つ知性が混然としてるのが堪らなくて……つい歌にしてしまったよ」
よくわからないことを言うアルバートさんに、アレクがため息を吐いた。
「はぁ……馬鹿なことしてないで、大人しく待ってろ」
「まぁ、いいじゃないですか。アルバートさんの歌はお金が取れる歌ですよ? こうやって聴けるだけでも役得ですよ」
ヴィヴァーチェさんがアレクを宥めて、みんなでお喋りが始まる。
――そんな、いつもの雰囲気を感じていると……
――カチ、リ。
「また……聴こえた――」
「どうしたアリア。何か気になることでも?」
アレクが私の様子に気づいて声を掛けてくれる。
「ちょっと――気になる音が……」
私はそれだけ言うと、立ち上がってクリスの方へと歩いていく。
さっきの音も『アニマ』の方から聞こえてきていたけど、一番近くにいたクリスは気づいた様子はない。
――気のせい?
いや、でも何度か聴こえたあの音は……
実験が始まる前に、この不安は解消しておきたかった。
忙しなく動き回って準備しているクリスには悪いけど、声を掛けさせてもらう。
「クリス……ちょっといい?」
「ん、どうしたの? トイレならドアを出て左に行けばあるわよ」
手元から顔を上げずに応えるクリス。
「い、いや、トイレじゃなくて、その『アニマ』のことなんだけど……」
「ちょっと不安になっちゃった? 大丈夫、痛いことは何もないから!」
クリスからはピアノの協奏曲が聴こえてくる――楽しみで仕方ないという音。
「そうじゃなくて……あのね、さっきから『アニマ』からカチカチと音が聴こえるんだけど――」
「音が聴こえる? まさか、まだ『アニマ』を動かしていないわ。何か他の音じゃないの?」
軽く笑いながら、私の思い違いだと言ってくるけれど、何故かこの『アニマ』から聴こえているという確信がある。
「変に聞こえるかもしれないけど……その『アニマ』から聴こえてるのは間違いないの」
そう言った途端、クリスの動きが止まった。
「気のせいかと思ったんだけど、その音を聴いてたら妙に不安な気持ちになって……ゴメンね、忙しい時にこんなこと聞いて――」
言葉の途中でクリスがこちらに振り向いた。
さっきまで楽しげに弾んでいたピアノが、一瞬で低音を高速で叩く音に変わった。
「今、『アニマ』は動いていないわ。」
そう言って、真鍮製のメーターにそっと手を触れる。
「それなのに、アリアには聴こえている……? 『アニマ』から聴こえたのは、間違いないのね?」
感情が削ぎ落とされたような低い声と、光が消えた琥珀色の瞳。
その迫力に押されて、何度も頷く。
「残留圧力が原因……? いや、その作動音だと私たちも聞こえているはず……」
彼女の手から工具がすべり落ちた。
けたたましい音を立てて床に転がる工具に目もくれず、思考に没頭している。
「だとしたら、人の可聴域を超えた振動を『アニマ』が出しているということ……?」
口元に手を当てて、ブツブツと呟いている。
彼女のピアノも鍵盤を叩く速度がどんどんと早くなっていく――
「――いや、これは推測の域を出ないわ。結局、実験するのが一番確実ね……アリア、このまま実験するわ! 可能性をひとつずつ潰していくわよ」
クリスはそう言うと、また工具を手に取って作業を始める。
「ちょっと、そこの胡散臭い商人と浮ついた吟遊詩人の二人! 手伝ってくれる?」
「胡散臭いって……」
ブツブツと文句を言いながら、クリスの元へと向かう二人。
アルバートさんは、何やら楽しそうにクリスに質問しながら手伝っている。
「――大丈夫なのか? さっきは不安そうにあの女に聞いていたが……」
アレクが私の横にきて、心配そうな顔を見せる。
「わかりません。クリスの事は信用していますけど、あの『アニマ』から、少し不安な音が聴こえていたので……」
そう言って、3人がかりで作業している方へと視線を向ける。
「実験をやると決めたのはお前だ。今更止めはしないが、何か良くないと感じたらすぐに中止しろ」
彼のチェロが、ぎぎっと軋んだ音を立てた。
「途中まで進んでいると、多少の違和感では止まれなくなる。けれども、そういう時の違和感はバカにならないもんだ」
過去に、何かあったんだろう。
この悲しい音を聴いて、心の中に無遠慮に踏み込むのは……まだ出来ないな。
「とにかく、少しでも違和感を感じたら、実験を中断するんだ――大丈夫、一度しか出来ないものじゃない。仕切り直して何度やっても大丈夫だろうさ。お前に何かある方が、余程問題だ」
アレクの過去に、何か重なるものがあるんだろう。
心配してくれる気持ちは嬉しいけれど――
「心配してくれてありがとう、でも大丈夫ですよ」
そう言って笑い返すと、アレクは少し眉尻を下げながらも頷いてくれた。
その後もアレクと一緒に作業を眺めていると、クリスから聴こえてくるピアノ協奏曲が、クライマックスに向かってテンポが速くなっていく……
複雑な音色と叩きつけるような速さが最高潮を迎えようとした時――
ガチャンという金属音。
「――出来た! コレでアリアの魂魄振動を測れるわ!」
クリスが突然立ち上がって、大きな声を出した。
ぐるりとこちらを振り返って、ぎらりと光る瞳を向けてくる。
「さあ、アリア! さっそく実験を始めましょう!」
興奮を抑えられない様子のクリス。
床に散らばる色々なものを避けながら進んでいくけれど、それももどかしいとばかりに「早く、早く!」と手招きしてくる。
――本当に嬉しいんだなぁ。
その様子に苦笑いしながらも、クリスの喜ぶ様子に私も嬉しくなる。
『アニマ』の前に着いて、用意された椅子に座る。
私の後ろにアレクが仁王立ちしていて、すぐ脇でヴィヴァーチェさんとアルバートさんがこちらの様子を伺っている。
「それじゃあ、説明するわね」
クリスが眼鏡をくいっと持ち上げながら口を開いた。
「さっき説明した通り、『アニマ』は人の出す振動を感知する装置よ。それは理解してくれたかしら?」
軽く首を傾げて確認してくるクリス。
私は彼女を見つめたまま、しっかりと頷いた。
「よろしい。では、振動を感知するにはどうしたらいいか――それは、この受信筒を使うわ。この筒を身体に当てて、その人が出す固有の振動を感知するの」
そう言って、目の高さに黒い筒のようなものを掲げて見せてくれる。
「一般の人間だと固有の振動が微弱すぎて、心臓付近に当ててもらうんだけど……アリアも同じように心臓の位置に当ててくれる?」
「わかったわ――この辺りでいいの?」
受け取った黒い筒を、胸の間に当ててからクリスに確認する。
「そう、いいわね。それで、その受信筒が感知した振動は、このメーターに繋がっていて、振動の強さを測定するの」
そう言って、真鍮製のメーターを指さした。
ガラス越しに見える針は「0」を指している。
左側にいくと「-1、-2、-3」と数字が書かれていて、逆側には「1、2、3」と数字が並んでいる。
今はまだ、針は止まったまま……これがどんな感じに動くのか……
「一般の人は微弱な針の動きって言ってましたけど、実際には「1」とかくらいなんです?」
ヴィヴァーチェさんが興味深げに針を眺めて質問すると、クリスは胸を張って答えた。
「馬鹿じゃないの? 「1」なんて届くわけないでしょう。ほんの少しだけ、ぴくりとでも動けば凄いほうよ」
――ん?
それって、頭の良くない私でもおかしいと思うんだけど……
後ろにいるアルバートさんが、大きくため息を吐いてクリスに話しかける。
「なんとまぁ……そんな感度の受信機なんて役に立つのかい? 実験の予算が足りなかったのかい?」
「うるさいわね! いいのよこれで。理論値からいうと、本物の調律師が出す魂魄振動は数千から数万倍になるわ……過去、最も偉大だったと伝わる”エコーズ・ジールクス”でも、メーターの「3」まではいかないはずよ」
アルバートさんも半信半疑といった感じで「ふーん」と返事を返している。
「とにかく、調律師の魂魄振動ならメーターが検知できるはずよ。そして、測定された数値はこの記録装置がグラフとして記録していくの」
『アニマ』の上に載っている紙を巻かれた円筒。
ゆっくりと回転しているその筒を指差しながら、クリスの説明は続く。
「つまり、今まではアリアしか感じられなかった”人の心”が――」
「数値になって、誰でも見れるようになる――?」
クリスの言葉に続けて、自分の口から滑り出した言葉。
「そう、その通り!」
クリスが嬉しそうに頷く。
――すごい。
クリスは、科学という力で、見えないものを見ようとしている。
「さあ、これで準備完了よ」
彼女の心の音は盛大なオーケストラのように鳴り響いている。
けれども、彼女は指揮者のように冷静に音を奏でていた。
「それじゃあ――始めるわね」
クリスの指が『アニマ』のスイッチに触れた――




