第55話 人間らしく
「いい? まずは簡単なところから説明するわね」
クリスはそう言うと、壁に貼り付けてある石板に何かを書きだしていく。
カッカッという小気味良い音が部屋の中を跳ね回り、色々な絵と、意外と綺麗な文字が綴られていく。
「これが、人が音を聞くという"物理現象"よ」
石板に音叉と人の耳が描かれて、その横に耳の奥の絵と……これはなんだろう? 耳と人の頭の中……?
「これはなんの絵ですかね? 人の耳に、頭の中……?」
ヴィヴァーチェさんが怪訝な顔で石板に描かれたものを見つめている。
「まぁまぁ、とりあえずは彼女の講義を聞こうじゃないか」
アルバートさんが指を口元に当てながら、静かにするように促した。
「まず、音は振動だという事をさっき話したわね。今、ワタシ達の周りにある空気――これが振動を運ぶ役割を持っているの」
音叉の絵を指差して、そこから人の耳まで指を動かしている。
――空気の振動……
そう言われて意識してみると、クリスの声が私の耳の奥をトントンと震わせてるのが感じられた。
「この振動が耳に届くと、外耳を抜けて鼓膜を震わせる。そして、その振動は小さな骨へと渡されて、さらに奥へ――」
耳の中の絵を指して、外側からゆっくりと内側へと指を動かしながら説明している。
アレクは腕を組んだまま頷き、ヴィヴァーチェさんは「へぇ……」と感心した声を漏らしている。
「やがて、内耳の奥深く。ここで液体――水の揺れとなって……目には見えない情報を、脳へと伝えるの」
「えっ!?」
思わず声が出てしまった。
――耳の中に水があるの!?
え、溢れたりしないの?
自分の頭を軽く振ってみるけど、水の音は聴こえない……
ふと視線を感じて顔を上げると、クリスが眼を丸くして私を見ていた。
「あ……ご、ごめんなさい。お話、続けてください……」
――目の前でいきなり大きな声を出したと思ったら、頭を振り出してるんだもの、変な事をしてると思うよね……
熱くなった顔を俯いて隠すけど、クリスは「大丈夫よ」と言って顔を上げるように促した。
「まぁ、耳の中に水があるって、ピンとこないわよね。ワタシも初めて知った時は驚いたわ」
耳の奥を意識して彼女の声を聞いてみるけど、水の感覚はいまいちピンとこない。
けれど、彼女の声とは別に、私の中で響くピアノの旋律――
これは『耳』で聞いていないことだけは、ハッキリとわかった。
「この耳から脳へ情報を伝える現象――ワタシはこれを『信号』と呼んでいるわ」
一拍置いて、クリスは続けた。
「それを脳が『音』として認識することで、ワタシ達は音のある世界を生きることが出来るのよ!」
そこで、バシッと石板を手で叩いた。
「ここまで理解できたかしら? どう、アリア?」
「え? えっと……多分、大丈夫……」
いきなり当てられて、咄嗟に大丈夫だと言ってしまった……
で、でも、絵で説明してくれたから、なんとなくわかった気がする……多分。
「これ、上手くやったら、商売に活かせそうですねぇ――」
「そうなのかい? ボクなんかには思いつかないけど、流石は商人だね」
ヴィヴァーチェさんとアルバートさんが小声でやり取りしているのを、クリスがキッと睨んで黙らせている。
「これは、普通の人間が『音の聞く』までの流れよ。じゃあ『調律師』が――アリアが魂魄振動を認識するのはどうやっているのか……」
一段低くなった声に、思わず身体が前のめりになる。
――何を言われるんだろう。
私が"人間とは違うもの"だとか言われるんだろうか……
隣から、ゴクリと喉を鳴らす音が聞こえた。自分の心臓の音も、痛いほど大きくなっている――
「さっきも言ったけれど、アリアが人の感情を受信出来るのは、魔法でも、ましてや神の奇跡でもない――」
クリスは一度、私たちを見渡す――その視線が、部屋の空気を張り詰めさせた。
彼女の口元が僅かに動き、スッと息を吸い込むと、溢れる音が耳を震わせた。
「科学で説明できる――れっきとした"物理現象"よ」
部屋に沈黙が落ちる。
――物理現象。
魔法でも奇跡でもない……
その言葉が、胸の奥にゆっくりと沈んでいく。
ずっと見ないふりをしていた不安に、静かに触れていくように。
その言葉を聞いて、胸につかえていた"ナニか"がぽろりと落ちた気がした。
――良かった……私、ちゃんと人間なんだ……
視界が歪んで、頬に涙が流れるのを止められなかった。
私の涙に気づいたクリスは、ギョッとした顔で慌て出した。
「ア、アリア、どうしたの!? なんで泣いてるの?」
あわあわと両手を振りながら駆け寄ってきた。
「どうした、アリア!? ――貴様、アリアに何をした!」
血相を変えたアレクが、私を庇うようにクリスの前に立ちはだかった。
「アレクさん……違うの。嬉しくて……」
喉が震えて上手く話せない。
それでもアレクの腕を掴んで、クリスのせいでは無いと必死に訴える。
「嬉しい……? 何かされたわけではないのか?」
こちらを振り返り、困惑したチェロの音色を纏いながら私に聞いてくる。
それに頷いて答えた私は、改めてクリスへと顔を向けた。
「ワタシ、何か悲しませることを言っちゃった……?」
眉根を下げて、心配そうに聞いてくる彼女に、頭を振って違うと応える。
「私、ずっと怖かった……自分が、みんなと同じなのかわからなくて――」
頬を伝う涙を拭うけれど、溢れる涙は止まりそうもなくて――
「でも、クリスが魔法でも奇跡でもないって――私も、ちゃんと人間なんだって思えたの」
顔を上げて、クリスの顔を見る。
感謝を伝えたかったけど、彼女の顔も泣きそうになっていて――
「だから、嬉しかったの。私も……化物じゃなくて、みんなと同じ人間だって……安心できた」
クリスの両手をそっと握る。
涙で滲んだ視界では、彼女の顔もよく見えないけど、それでもしっかりと眼を見て伝えたかった――
「教えてくれてありがとう、クリス。あなたの言葉で救われた気分だよ」
そう言って泣きながら笑ってみせる。
するとクリスは驚いて目を丸くした後、ちょっとだけ怒った顔で口を開いた。
「貴女が"化物"? そんな非合理なワケないじゃない!」
彼女は繋いだ手をギュっと握り返しながらつづける。
「いい? 貴女は立派な人間よ! ちょっとだけ人とは違う"才能"を持った人間!」
握った手のひらから、駆け足のようなのに温かなピアノの音が伝わってくる。
気を遣って言っているんじゃない――本心からそう言ってくれている。
――その事に、また涙が溢れそうになる。
涙で歪む視界のままでいると、スッと目元に柔らかいものが当てられた。
赤い目で横を見ると、ハンカチを手にしているアルバートさんの姿。
「そんなに不安を感じてたとは知らなかったよ。気づけなくてごめんね?」
優しく涙を拭ってくれる横から、ヴィヴァーチェさんが身を乗り出してきた。
「アリアさんが"化物"なんて、あるわけないでしょう! 僕からしたら、天使か女神ですよ」
困ったように笑いながら私の顔を覗き込んでくる2人。気遣わしげなリュートとトランペットが、私を囲むように響いている。
「アルバートさん、ヴィヴァーチェさん……」
2人の言葉に胸がじんと温かくなる。
「そうですよね、アレクさん?」
ヴィヴァーチェさんはそう言うと、後ろを振り返りながら道を譲るように、一歩後ろに下がった。
「アリア……」
すぐ目の前にアレクが立っていた。
「気づかなくてすまない。ただ、これだけは覚えていて欲しい――」
アレクが少し俯いた口元から零れる言葉。
彼のチェロが深く、低く鳴り響いて、私を包み込んで守ろうとしている。
「俺は、お前を見てきた。そのチカラを持ったお前は、誰よりも悩んで、迷って――それでも前に進んできただろう」
アレクの手が伸びてきて、ゴツゴツした指先が私の頬に触れた。
その手から熱いくらいの熱が伝わってくる。
「その姿は――他の誰よりも人間だった。迷い、苦しみ、それでも明るく前に進むお前は、誇り高い人間だ。……そんなお前を"化物"なんて言う奴がいたら、俺がこの手で叩き斬ってやる」
「アレク……」
アレクの瞳に宿る温かな光が、私の不安を溶かしていく。
手のひらから伝わる熱が、冷えていた心臓を今度こそ本当に温めてくれた。
「ん? ……あ」
3人からの視線に気づいて、アレクが慌てて手を離した。
「あら……? これって――」
「あ、わかります?」
「せっかくの雰囲気だ。野暮なことは言いっこなしだよ」
3人が何やらコソコソと話している……
「お前ら!」
顔を真っ赤にして慌てるアレク。
その姿を見て、思わず声を出して笑ってしまう。
「あはは――なるほど。アリアには素敵な王子様がいたのね」
ニヤリと笑ってからかってくるクリスに、私も思わず顔が熱くなってしまう。
「お、王子様ってわけじゃ……」
恥ずかしくなって目をそらしたけれど、はクリスはニヤニヤしながら、私の頬をつついてくる。
「いいの? そんなこと言って――まぁ、あの唐変木が相手なら、進展は少なそうね……」
そう言うクリスの視線を追うと、ヴィヴァーチェさんたちに喰ってかかるアレクの姿。
――さっきはカッコよかったんだけどなぁ……
苦笑いでアレクを見ていると、クリスが「さあ、一旦仕切り直しましょう!」と、アレクたちを止めた。
「さて……もう一度講義を始める雰囲気じゃないわね。もう実験をしながら説明した方が早いわ」
クリスが私たちの顔を見渡しながらそんなことを言う。
「アリア、どう? まだ実験は怖い?」
彼女のピアノは好奇心に溢れているけど、その隣には気遣う優しさも鳴り響いている。
――うん、クリスを信じよう。
「大丈夫、クリスを信じる。――実験しましょう」
私はクリスの目を見ながら頷いた。
「ホント!? じゃあ、すぐに準備するわね!」
飛び上がる勢いで喜ぶクリスが『アニマ』に駆け寄って、何やら準備を始めていく。
ふと視線を感じてアレクを見ると、少し心配そうな顔。でも、何も言わずに見守ってくれている。
そんなアレクに微笑んだ――その時。
――――カチ、リ。
また、聞こえた音。
なんだろう、胸がざわつく……
聞こえた音の方を見ると、クリスが張り付いている『アニマ』の姿。
少しだけ、不安が首をもたげた――




