第54話 クリスと呼んで
「さて、それじゃあ一旦落ち着きましょうか」
両手を合わせて、みんなを見渡しながら声をかけた。
「えぇっ! すぐに講義を始めないの? 早く実験に移りたいんだけど……」
ブライトさんは今すぐにでも実験を始めたいみたいで、ソワソワしながら『アニマ』と呼んでいた箱を見ている。
「まずは一旦落ち着きましょう。じゃないと私……変に緊張して、まともに測れないかもしれませんよ?」
「そ、それは困るわね……仕方ない、一度落ち着きましょうか」
ちょっと意地悪な言い方だったかもしれないけれど、一応は納得してくれたみたい。
「ブライトさん、申し訳ないんですけど、お茶をいただけますか?」
温かい紅茶でひと息いれようと、ブライトさんにお願いすると――
「お茶? えっと……お茶って、どう淹れればいいの?」
「え……?」
思わず声が漏れた。
お茶の淹れかたを知らない?
「ええと……お茶を淹れる道具はありますか?」
「リタルダントおじさまが前に持ってきてくれた茶器と茶葉はあるけど――使ったこと無いわ」
人差し指を口元に当てて、思い出すように首を傾げる。
その可憐な仕草に、思わず年上だってことを忘れそうになる。
「多分、この娘は家事全般が苦手なんじゃないかな? こういう頭の良い学者には、よくこの手の人がいるからね」
アルバートさんが床に落ちていた"ナニか"を弄りながら教えてくれる。
「そうね、他の人に頼めばいいものは、お願いすればいいだけよ。家事に時間を取られたら、研究する時間が減っちゃうじゃない!」
「そ、そうなんですね……」
ヴィヴァーチェさんが苦笑いで頷いている。
どうやらブライトさんは家事能力が壊滅的らしい……足の踏み場もない床を見れば、納得の言葉だ。
「でも、全く家事が出来ないのも困りませんか?」
「平気よ。ご飯は学院の食堂があるし、普段は薄めたワインを飲んでるから、紅茶を淹れることも無いのよ」
私がブライトさんに聞くと、彼女は肩を竦めながら応える。
「……この惨状じゃあ、誰もここに来たりしないだろうしな」
足の踏み場もない床を見渡しながら、ぽつりと呟くアレク。
「バッ……ダメですよ、アレクさん! サラッと本当のことを言われたら傷つきますって!」
ヴィヴァーチェさんが後ろから小声で注意しているけど、幸い、ブライトさんには聴こえていないようだった。
「じゃ、じゃあ……代わりに私がお茶を淹れますね。厨房を借りてもいいですか?」
「やってもらうばかりじゃ悪いからワタシも手伝うわ。こっちよ――」
散らかっている床の上を器用に避けて歩いていく彼女の後を、慎重についていく。
また、爆発なんかしたら、心臓がいくつあっても足りない……
「ブライトさん、待ってください――」
そう私が言った、その時――
――
――――カチ、リ。
「――あれ? いま、何か音がしませんでした?」
振り返って音のした方を見るけれど、あるのは『アニマ』と呼ばれた大きな箱だけ。
――なんだろう……妙に引っかかる。
「音なんてしました?」
ヴィヴァーチェさんが首を傾げてアルバートさんを見るけど、彼も首を横に振っている。
「アリア? どうしたのー?」
奥の方からブライトさんの呼ぶ声がする。
「はーい! 今行きます!」
――気のせいかな?
けれど、あの音が妙に耳に残って離れなかった。
胸に引っ掛かりを覚えながらも、厨房のある方へと慎重に足を運んだ。
◇◇◇◇◇
厨房は、さっきの部屋と比べてまだマシだった。
――物で溢れていないだけで、あちこちに蜘蛛の巣がついてるけど……
「ええと……あ、あったあった! これがおじさまから頂いた茶器よ」
そう言って見せてくれたのは、埃の被った木箱だった。
彼女はささっと埃を払うと、嬉しそうに中身を見せてくれる。
「一度、この茶器でお茶を飲んでみたかったのよね。とても可愛い色味で、もらった時は嬉しかったから」
箱の中を覗くと、そこには繊細な絵付けが施されたティーカップとソーサーが静かに収められていた。
若葉を思わせる柔らかなパステルグリーンの素地に、白い花がほのかに光を返しながら、そっと咲いている。
その可憐な佇まいに、思わずため息が漏れた。
「うわぁ……とっても綺麗なカップですね」
「でしょ? リタルダントおじさまって、こういうセンスもあるのよね」
彼女のピアノが楽しげに弾んで、軽快なワルツを奏でている。
――本当に、リタルダントさんの事を信頼してるんだなぁ……
その関係性に、思わず笑みが溢れてしまう。
「いつ頃、リタルダントさんから頂いたんですか? 結構前に贈られたやつですよね」
積もっていた埃の厚さから、最近ではないことはわかるけど……
「ええと……いつだったかしら? ――あ、ここの研究室に越してきた時に頂いたのよ。だから、2年ほど前の話ね」
うんうんと頷きながら、プレゼントされた時の事を教えてくれる。
「この研究室を使えるようになったのが2年前からなの。それまでは、他の研究室を間借りして、肩身が狭かったのよね。でも、"《《色々と》》"あって、この建物を使えるようになったの」
――『色々』は、あまり聞いちゃいけない気がする……
彼女のピアノが一瞬だけ、意地の悪い音になっていた。
「そ、そうなんですね……じゃあ、今日は私が紅茶の淹れかたを教えますから、ブライトさんが淹れてみましょうよ」
「ワタシが?」
ブライトさんが、目を丸くして指で自分を指している。
「ええ、そうです。こんな素敵なカップがあるんですもの、自分でも紅茶を淹れられるようになったら素敵じゃないですか? それに……」
私は、ワザと溜めをつくるような話し方をする。
案の定「……それに?」と反応してくれるブライトさん。
「ブライトさんが紅茶を淹れられるようになって、リタルダントさんに振るまえば――きっと喜んでくれますよ!」
私がそう提案すると、彼女は一瞬驚いた顔をした後に、花が咲いたように可憐な笑顔を向けてくれた。
「いいわね、それ! 紅茶なんて淹れれなくてもいいって思ってたけど、それならワタシもやってみたいわ。アリア、ワタシに教えてくれる?」
「はい、喜んで。一緒に頑張りましょうね、ブライトさん」
私がそう言うと、またパァッと笑顔の花が咲いた――かと思ったら、少し俯いてインクの染みだらけの服の袖を弄りだした。
「あ、あのね……? ワタシのこと"ブライトさん"じゃなくって――"クリス"って呼んでくれる? 親しい人にはそう呼ばれてるの」
私より低い目線。
俯いた顔から上目遣いで、少し頬を紅くしながらそんな事を言ってくるブライトさん。
ボサボサの髪とインクの染みだらけの服なのに、この破壊力……な、なんだろうこの人、可愛いんだけど……
「いいんですか?」
そう私が聞くと、彼女は「もちろん!」と頷いてくれた。
「じゃあ……クリス。一緒にお茶の準備をしましょうか」
少し照れながら彼女の名前を呼ぶ。
それを聞いたクリスも、嬉しそうな顔で頷いた。
その心の音からは、弾けるようなピアノ協奏曲が響いていた――
――その後、埃まみれの厨房から戻った私たちは、皆に紅茶を振る舞った。
「おお、いい香りですね。それじゃあ、いただきます」
ヴィヴァーチェさんが、クリスが淹れた紅茶に口をつけた。
「へぇ……なかなか素敵なカップだね。混沌の室内と繊細なカップの対比は、なかなか芸術的じゃないか」
アルバートさんがカップを褒めているようだけど、独特な表現だから褒めてるのか分かりにくい……
「どう? アリアから教えてもらって、ワタシが淹れてみたんだけど……美味しいかしら?」
クリスが胸の前で両手を組みながら聞いている。
「ああ、初めて淹れたなら、こんなもんじゃないか? 一応、飲める味にはなっているぞ」
アレクが紅茶の香りを楽しみながら、ぶっきらぼうに感想を言っている。
思わず強い目線でアレクを見たら、スッと視線をずらされてしまった。
「いやいやアレクさん、その評価は厳しいですよ! 初めてなら十分に及第点じゃないですか? もう少し練習したら、あっという間に上達しそうですよ」
ヴィヴァーチェさんから褒められて、少し照れているクリス。
私の方をチラッと見て、嬉しそうにはにかんでいる。
「良かったね、クリス。もう少し練習したら、リタルダントさんにお茶を振る舞いに行けそうだね」
私の言葉に頷くクリス。
その様子を見たアルバートさんが、おや?という顔で聞いてきた。
「あれ? 今、アリアは"クリス"って言ってたかい? いつの間に、そんなに仲良くなったんだい?」
「ホントですね、いつの間に?」
ヴィヴァーチェさんも目を丸くして聞いてくる。
「ふふっ、さっきお話しして……ねぇ、クリス?」
「ええ、あまり乙女に詮索するのは無粋よ?」
二人で顔を見合わせて笑う。
――ああ、なんかいいな……こういうの。
温かい紅茶と穏やかな笑い声。
こんな時間がずっと続けばいいのに――
その時、視界の端に『アニマ』の針が微かに揺れている気がした。
あれ? と思って目を凝らしてみると、針は動いていなかった。
――気のせい……?
胸に残る引っ掛かるものはあったけれど――
それもクリスとのおしゃべりで、次第に頭から消えていった……
◇◇◇◇◇
「さて、それじゃあ――もう一度説明するわね」
さっきまでの柔らかい空気が、少しだけ引き締まった気がした。
紅茶の休憩も終わって、改めてクリスの研究内容について教えてもらうことに。
散らかっていた床を少し片付けて、彼女は少し大きめの石板の前に立っている。
「そもそも、人間は『音』をどうやって聞いてるか知ってる?」
――音を?
え、どうやって聞いてるかなんて、考えたことも無い……
「えっと……耳で聞いてるんじゃないんですか?」
ヴィヴァーチェさんが「はい」と手を上げて答える。
「耳は、人間が音を認識するための器官であって、音が"何故伝わるか"という説明にはなっていないわ。えーと、唐変木騎士の……なんだったかしら?」
「アレクサンダーだ! 人の事を唐変木とか言うな!」
アレクがこめかみに血管を浮き上がらせて怒っているけど、クリスはどこ吹く風で――
「いちいち怒鳴らないでよ、煩いわね。ええと、アレクね? アンタは貴族でしょう、なら学院で習ったわよね」
アレクは不満そうに唸っているけど、質問に答えた。
「……音は、振動で生まれる。その振動が空気を通って人間の耳に届いて、音として認識する――だろう?」
「そう、正解よ」
クリスが正解だと、軽く手を叩いているけど……
――音が振動?
振動って、ブルブル震えるってこと……だよね?
「アリア――は、よくわかってないみたいね。じゃあ、まずはそこから説明していきましょうか」
クリスはメガネのズレを直しながら、ニヤリと笑みを浮かべる。
その笑顔に、何か危機感を感じた私は「簡単に……」と言おうとしたところで、クリスの言葉に阻まれた。
「大丈夫、アリアにも理解出来るように、優しく教えてあげるから! どれだけわからなくても、わかるまで教えてあげる!」
満面の笑顔で言うクリス。
彼女のピアノは「逃がさないよ」とでもいうような音節――その音色に背筋の奥がひやりとした。
――うう、理解出来るかなぁ……




