5話 密林 中編
数日の間、また仕事の日常に戻ったのだけど、客が来るわけでもなく、はっきり言って退屈だった。今もやることが無くて過去の請求書の控えの整理をしている。しかしまあぼったくるものだ。値段を言うのははばかられるけれど、カンマが無ければ桁を間違えてしまいそうなほどだ。多山さんがいつもいじっている機械たちに何か秘密があるのだろうか。
何枚かめくると、この前の晃介君の件の請求書が出てきたので思わず笑ってしまった。
「どうかしたんすか?」
と、当の晃介君に突っ込まれてしまった。
「君のこの前の請求書を見つけちゃってね。思わず笑っちゃったわ。」
「ひどいじゃないすか。元はといえば紗良さんが……」
「そうだったわね。少しは同情するよ。」
晃介くんのも綺麗に綴じておいた。
インターホンが鳴った。両手がふさがった多山さんが押したのかしらと思い、ドアを開くといつかの女性が立っていた。正直、数日前のことながら、この麗奈さんのことは完全に忘れてしまっていた。
「あ、こんにちは木暮さん。貰った名刺を頼りに伺いました。」
彼女は前に会ったときよりはちょっと華やかな装いをしていた。滑らかな白いトップスに空色のショートパンツ。この前の陰鬱な感じとは打って変わったときめく乙女だ。
彼女を事務所に入れ、応接間まで案内した。しかしまだ多山さんが来ていない。普通この時間にはすでに来ているはずなのだけど。多山さんの自宅に電話をかけた。
「もしもし、紗良ちゃんかい。どうしたんだい?」
多山さんはすぐに出た。
「もしもし、多山さん。お客さんが来たのですけれど。」
「はて、今日は来客の予定なんて無かったはずだけど。」
彼は寝起きかなのか、大義そうな声をしていた。
「いえ、予約はなく突然来られた方なんですけど。」
「なるほど、しかし私は今日所用があるからね。申し訳ないけど紗良ちゃん、晃介くんと協力して対応してくれないかい?」
いやいや、待ってほしい。確かに多山さんが機械をいじってるのは何回も見てるけど、突然自分たちだけでやれって言ったって。有無を言わさず電話は切れてしまった。
受話器を置くと晃介くんが寄ってきた。
「多山さん、なんて言ってました?」
「私たちだけでやれってさ。」
晃介くんは私以上に驚いた。
「ええ!そりゃ無理な話でしょ。第一僕はあの妙なコンピュータの使い方が分からないんだ。」
二人でごたついているのを感じ取ったのか、麗奈さんがこちらの様子を気にしだした。
「あの、どうかされたんですか?」
何とかこの不測の事態を悟られずに乗り切らなければならない。私は「いやいや、何ででも。」とだけ濁した。
ともあれ今日は私が主軸でやっていかなければならない。晃介くんだけを送り込んで私自身は外からコンピュータを操作することも考えたが、それはちょっと不安なのでやめた。先にコンピュータの設定だけしておいて二人で幻に入ることにする。
さて、多山さんはどんなふうに話を聞いてたっけ?見よう見まねってのも案外難しいものね。
「あなたのご依頼、聞かせてもらえますか?」
麗奈さんはバッグからまたあの蛾の標本を取り出してきた。
「これが原因でした。これのせいで思い悩む羽目に……」
「それまたどうして?」
「この標本はですね、三週間前くらいに行った、インドネシアでのフィールドワークのときに手に入れたものなんです。深い深いジャングルの中で苦労して捕まえました。」
そう言って彼女が標本をこちらに向けると、蛾の羽は蛍光灯の光を透かして輝いた。
「それじゃあ大切なものなのでは?」
「そうだと良かったんですけどね。これを捕まえるときに私は選択に迫られました。」
麗奈さんは続けた。
「密林の中、駆け回った私はやっとの思いでヒラヒラと綺麗な羽を振る蛾を見つけました。これこそ追い求めていたものだと捕まえようとしたそのとき、視界に別のものが入りました。子どもが倒れていたのです。見たところ原住民の子でした。歳はよく覚えていませんが、日本でいう中学生くらいだったと思います。ともかくその子どもが丸太の下敷きになっていたのです。私は大いに迷いました。助けた方がいいのは分かっている。しかし今を逃せば蛾がどこかへ飛んでいってしまう。ほんの刹那の間でしたが、私はよくよく考えました。考えたうえで少年を見捨てたのです。下敷きになったくらいならそのうち仲間が来て助けてくれるだろうと言い訳がましい理由をつけて。そんな保証はどこにもないのに。」
そこで彼女は一旦息を深く吸った。
「少年は結局どうなったんでしょうね。」
ちょっと聞いてみた。
「さあ、全く分かりません。助かったかもしれないし、そうじゃないかもしれません。しかしどちらにせよ私の知るところではありません。私はこの蛾の標本を見るたびに自分の後悔の念が膨らんでいくのを感じました。今だってそうです。もういっそのこと燃やして捨ててしまおうかとも考えました。でもせっかく手に入れたのにっていう気持ちも確かにあって。捨てるのが忍びなくなってしまい、今に至るという全くもって情けない話です。」
話を聞き終わったところで晃介くんが心配そうに聞いてきた。
「今回の件、ホントに僕たちだけで大丈夫なんすか?」
「なんとかいけそうよ。二人で協力していきましょ。」
実際、話を聞く限りでは、何とかなりそうな案件ではあった。「少年を助けるか助けないか」という至極単純な選択だし、場面もおそらくそこの一つ。それくらいだったらコンピュータの設定だって難しくないはずだ。
多山さんがやってたのを思い出しながら、種々の機械を操作してみた。シンテムは思いの外簡単だったので、すんなりと作業を終えることができた。よくよく考えてみれば、多山さんが無理なことを私たちに押し付けるはずがない。きっと彼自身はやれると判断していたのだろう。
設定が済むと、麗奈さんに例のヘルメットをかぶってもらった。最初ヘルメットを手渡された彼女は半笑いになっていた。きっと冗談だと思ったのだろう。しかし私がずっと真面目な顔をしているので、怪訝な表情になりながら被った。
私たちは私たちで準備に取り掛かる。いつもの作業だが、二人とも、いつも以上に緊張感があった。
「設定とか、本当にやれてます?」
と、まだまだ不安を顔に浮かべる晃介くん。
「失礼ね。ちゃんとやれてるわよ。」
私ってそんなに信用できないのかしら。ちょっと不満が残るけど、ゴーグルのスイッチを入れた。
目を開けた瞬間、気圧されるほどの風景が現れた。聞きしに勝る大密林だ。日本じゃ見ないような大木が乱立し、そのそれぞれから苔やら蔦やらをぶら下げている。流石に熱帯なだけあって蒸し暑かった。いや、それだけじゃない。高い木の葉が抑えられることなく茂っているので、差し込むはずの太陽を丸ごと隠してしまっているのでかなり暗い。それもまた鬱屈とした雰囲気を醸し出している。
先に異変に気づいたのは晃介君の方だった。
「紗良さん、おかしくないですか?」
「おかしいって、何が?」
「もう二、三分待ってるのに、斉藤さんが全然見えないじゃないですか。」
もうそんなに経ってたかしらと、腕時計に目を落とせば確かに時間が経っている。確かにおかしい。普通依頼人はすぐに現れるはず。
麗奈さんが実はまだヘルメットを被っていない?いや、被るのをこの目で確かめた。じゃあどうして?晃介くんは疑いの眼差しを向けてきた。
「紗良さん、まさか設定ミスとかしてないですよね?」
「ハハハ、まさかね、まさか……あ。」
「あって。何やらかしたんですか?」
「転送位置の詳細設定してなかったかも。」
よくよく思い出すとそうだ。私は二人の転送位置を麗奈さんがいた密林としか設定していなかった。それだと私たちは……
「それじゃあ斉藤さんがいるところの真反対にいる可能性だってあるじゃないですか!」
かなりまずい。ともかく望み薄ではあるが、四方八方麗奈さんの姿を探した。しかしこの通りの大密林だ。ずっと奥の方を見通そうとしても、木々の重なりが見えるだけである。私たち二人は、密林の中のどこかも分からない地点に取り残され、言わば遭難してしまったのである。




