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5話 密林 前編

 私、木暮紗良は多山さんの事務所で働かせてもらっている。住んでいるのも事務所と同じビルの中だし、大体毎日事務所に通っている。お客さんは毎日来るわけじゃないのだけれど、他にもたくさん仕事があるし、割と忙しい。


 しかし今日は休日だ。うちの事務所だってそんなにブラックじゃない。月に三、四日ほど休日がもらえることになっていて、今日がちょうどその日に当たる。だから事務所に行くこともなければ、多山さんたちと顔を合わせることもない。


 しかも最近は晃介くんが事務所に入ってくれたので、私としても安心して休日を満喫できる。晃介君は、会ったときこそ風来坊のようなズタボロの見た目だったけれど、いざ仕事をさせてみると案外物覚えもよかったし、しっかりしていた。お客さんの幻の中だとまだまだ半人前で、頼りないところはあるけれど、いい後輩だ。


 そんなわけで今日は外出している。この休日にできるだけの買い物は済ませておきたいし、この頃ずっと行けていなかった馴染みの喫茶店にも久しぶりに行きたい。それが終わると今度は家で見たい映画も読みたい本も積み重なっているし、ひょっとしたら働いている日よりも忙しいのではないかとさえ思ってしまう。


 一晩中降り続いた雨も朝方には上がり、日が雲間からさす心地いい天気になった。もう昼前の時間だけど、今日は木曜日なので大通りに人はほとんどいない。アスファルトがまだ雨に濡れていて、一面眩い大鏡面だ。そこに用がある店も色々あるのだけれど、荷物が増えてしまうのが嫌だったので後回しにした。 


 大通りを抜けると川が流れている。ちょうどこの前晃介君と出会った川だ。ここの眺め、とりわけ上流を望む眺めが遥か澄んでいて好きだからついつい歩いてしまう。今日は雨上がりの淡い光が注いで一層輝いている。


 目的の喫茶店は橋を渡ったもっと先。どちらかと言えば街の外れにある。橋を渡るとより静かになった。見渡す限り人がおらず、私だけ取り残されてしまったか、はたまた神隠しにあったんじゃないかと思ってしまった。道は進むにつれて細まり、気づけば裏路地。一人でボール遊びしている子供がいたから少し安心した。


 喫茶店は密林のような住宅街に紛れてひっそりと営業している。看板も小さく、調べてから行こうと思わなければ辿りつかないようなお店だから、大抵人は少ない。お店にとっていいことじゃないかもしれないが、そういう閑散とした雰囲気が私は好きで通い始めた。


 ようやく到着するといつも通りのひっそりとしたドアが目の前に現れた。掛かっていた木の札にはOpenという、オシャレなフォントの文字。これがないと中に入るのが躊躇われてしまう。


 中に入ると、ドアに付けてある鈴がチリンチリンと鳴る。マスターはすぐに気づいて

「あら、紗良ちゃん。久しぶりね。」

「お久しぶりです浜中さん。」

「ほんとよ。でもまあ相変わらず別嬪だこと。」

マスターは浜中さんという女性。少し調子のいい性格で、来るたびに良くしてもらっている。年齢は聞いても教えてくれないけど、多分四十手前あたりだと思う。

「いやあ、そんなこと言ってもなんにも出ませんよ。」


 客は私の他に二人いた。初老の男が一人と、飾り気のない、若い女性が一人。初老男は私と入れ違いになる形で出て行ってしまったので、店内の客は私と女性の二人になってしまった。


 私はコーヒーを一杯とロールケーキを注文した。ここに来たときはいつもこの注文をする。本当に、一度も変えたことがない。ふと他の人は何を頼むのかが気になって、向こうにいる女性客の机を見た。カフェラテが一杯だけあった。もうすでに冷めているらしく、湯気が立っていない。見たところほとんど飲んでいないし、一体どうして飲んでいないのだろうか。


 気になってくるとどうしようもなくなり、私は思わず浜中さんにヒソヒソ声で尋ねた。

「あそこにいる女の人、さっきから全然飲み物飲んでないですけど、どうしたんですかね?」

「そうなのよ!かれこれ一時間前からあんな感じでね。なんか綺麗な蝶々?そんなふうな標本とずっと睨めっこしてるのよ。」

「蝶?」

顎をくいとあげて首を必死に伸ばし、女性の手元を覗き込むと確かに木の箱を両手で抱えて見つめていた。それが蝶なのかどうかは分からなかった。


 コーヒーは相変わらず芳しく香り、味も美味しかった。あの人も冷めないうちに飲めばよかったのになんて思いながら啜っていると、向こうの女性もカップを手に取ったので、つい目で追ってしまった。彼女はカップに口をつけるとすぐに口を離してしまった。見ればやっぱりカップの中身は減っていない。


 私がロールケーキを食べ終え、カップを空にしても彼女はまだいた。

「美味しかったです、会計よろしくお願いします。」

と言ってひとまずお金を払うと、私は女性に声をかけた。どうしても気になったから。

「あの......それ、飲まないんですか。」

私の方に顔を向けた彼女の母はやつれていた。目は虚ろで、見るからに気分が沈んでいるようだった。彼女は私の方を向くと

「あ、ああ。ええ、そうでした。」

と、取ってつけたようにカップに口をつけた。だけどやっぱり中身は減っていない。


 どうしてこんなになっているのかが気になってしまい、私はどんどん踏み込んでしまった。

「なんでそんなに落ち込んでらっしゃるんです?」

と聞いてみたが、彼女は答えず目線を落とした。その目線に合わせると、彼女が抱えている木箱。今度はちゃんと中身が見えた。確かに綺麗な蝶。図鑑でしか見ないような色合いの羽が鮮やかだ。

「その蝶、大事なんですか?」

と聞くと

「ええ、大事です。まあ蝶じゃなくて蛾なんですけどね。」

しまった。この手のマニアの人なのか。間違えちゃダメなやつだったかしら。

「あ、そうなんですね。すいません、私素人なもので。」

「いえいえ、知らないと分からないものですしね。」

ああ良かった、優しい人で。


 しかし疑問が消えたわけじゃない。

「でも、その蛾と落ち込んでることと、何か関係があるんですか?」

彼女は何も言わずにコクリと頷いた。ここで深追いするのは流石に無遠慮だと思った私はしばらく彼女が口を開くのを待っていた。


 時計によれば二分の後、体感で言えばとうに十五分経ったと思われるほどの静かで重苦しい空気だったけど、ついに彼女は口を開いた。

「実はこれ、燃やしてしまおうと思うんです。」

「ええ!どうして?」

いきなり矛盾を突きつけられて我ながら情けなく動転した。何事かと奥にいた浜中さんが顔を出したが、彼女はそれにも、驚く私にも特に気をとめずに話を続けた。

「私、こんなナリですけど、学者をしているんです。昆虫専門の。それでこれは、ついこの間採集してきた蛾の標本なんです。とても貴重なものです。」

「ならなおさらどうして?」

「採集しているときに、私一つ間違いを犯した気がしまして。それは話せば長いですが。ともかく、これを持っていると罪の意識がどんどん大きくなっちゃって。だけどせっかく手に入れた貴重な標本だから捨てるに捨てられなくって。」


 彼女の話はそこで終わった。間違いが何か分からないけれど、こんなときこそうちの事務所の出番じゃないか。

「あの......私のところならそれ、解決できるかもしれません。」

「どういうこと?」

「それ聞かれちゃうと中々説明が難しいんですけどね。でも大丈夫です。もうどうしようもなくなっちゃったら、うちに来てください。」

私はカバンから名刺を取り出して彼女に手渡した。

「私、木暮紗良っていうので。」

彼女は手に取った名刺をまじまじと見つめていたが、ハッとしたように私の方を向き直り

「あ、斉藤麗奈です。」

と名前を教えてくれた。名刺は持ち合わせていないようだった。


 麗奈さんはうちに来るだろうという確信がなぜかあったので、私の心中はすっきりとしていた。もう思い残すことはないと、店を出ると、すでに正午を過ぎており真上の空には少しの雲も残っていなかった。雨も乾き、ただ晩夏の爽やかな風が吹いていた。



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