4話 夫殺しの貴婦人 後編
日記は、万年筆で書かれているようで、インクがほのかに香っている。玄次の字は達筆であった。大抵は日常の何でもないことが書き連ねられていたが、目に止まったところが何箇所かあった。
3月16日
夜はあれほど艶やかな穂波のあざが、日を浴びると途端に痛々しくなってしまうのはどうしてだろうか。悪癖は自覚している。あれは忌むべきだと。だけど夜な夜な悪魔の囁きが聞こえて来る。気づけば毎夜毎夜、鞭を振るっている。それでも穂波は毎朝僕を許すから、僕は不必要に救われてしまう。僕は僕を許したくないのに、僕が弱いから......
3月24日
日本刀というのは、人を撫で切る残虐と、流線涼やかな美しさが共存する、なんとも不思議な魅力を持つものだ。今朝の散策の折に町の骨董屋でそれに出会ってしまったのだから、僕は一瞬で魅了されてしまった。奥に鎮座していたその刀は南北朝のころのものらしく、おそらくは人間の血を啜っただろう弧線の刀身が鈍く、それでいて力強く輝いていた。そこでまた悪魔のささやきである。「これに穂波の血を吸わせたら、もっとこの刀は麗しくなるに違いない。いや、穂波の方もそうだ。この刀で斬れば一層の艶美を匂わすだろう。」と。僕はそれに抗うこともなく、太刀を購入してしまった。手続きは面倒なものだったが、それを気にしないほど僕は恍惚としていたので気にはならなかった。家に帰ると、さっそく刀を取り出して眺めた。鞘もえんじ色に金紅葉の装飾で、上等だったので佩いてみたが、洋服には不格好であった。
夜、ということはつい先ほどなのだが、この刀をさっそく実用した。穂波は無論この刀を初めて見たのだが大いに驚いていた。その表情もまた良かったが、それ以上に僕は興奮していた。これをついに血に染められるのだと。太刀は暗中にあってますます煌びやか。翻るたびに微かな明かりを走らせた。
しかし難しいのは、穂波を殺すわけにはいかないということだ。法律的にも勿論そうなのだが、第一僕は穂波を愛している。歪んでいることは自分でも承知しているが、だからと言って死なせたいわけなんてない。殺さないように、しかし血を流すにはどうしたらよいかを考えるのに苦心したが、結局太ももに軽く切っ先を突き立てることにした。
改めて穂波のももは柔らかく、切っ先は真っ白な中に少し沈んだ。もう少し押し込むと切っ先の辺りから、血が一筋あたたかく流れた。ランプで照らせば東山の紅葉にも劣らぬだろう燃えるような朱色である。穂波は一瞬苦痛に顔を歪めたが、そのあとは何も気にしないような、虚ろな表情をしていた。全く、我が妻ながら大した女だ。刀の切っ先を突き立てられても動じないとは。いや、僕がそういう風にしてしまったのか。血を流しうなだれる穂波の姿は、さながら殉教したキリスト教の聖人だった。
3月28日
あの刀が一線だった気がしてならない。あそこから僕はついに罪人の域まで至ったのだろう。しかしどうしてもあの太刀が手放せない。あれを持っている限り、僕は穂波を傷つける。殺してしまう可能性だってあるのに、捨てることをどうしても僕の悪魔が拒んでしまう。まるで覚せい剤やらなんやらの薬である。薬……もうそうするしか……いや、滅多なことは考えるものじゃないな。
4月1日
いよいよ、もう決断するしかなくなったようだ。僕はとうの昔に悪魔に魅せられていた。逃げようのない蟻地獄にはまっていた。解放されるには道は一つしかないだろう。私のそばには睡眠薬がある。毎晩服用しているものだ。これを使えば事故で片づけられて穂波にも迷惑は掛かるまい。そのうえ穂波に保険金も行くだろう。いや、こんなことを書いてしまってはこの日記帳が自殺の証拠になってしまうじゃないか!あとでこれは焼かないとな。しかし、このようなことで許してもらえるとも思っていないし、期待もしていない。第一死ぬのは無責任だと自分でも思う。しかし穂波を、私自身を解放するにはこれしかない。
巷はエイプリルフールだ。そんな日に冗談めかして死ぬのも面白かろう。僕が死んだこと自体がフェイクだという人もいるかもしれない。しかしまあ、報道されるのは4月の2日か3日だから、そこで「ああ、北沢玄次は本当に死んだんだなと気づく次第だ。
死ぬのはもう結構前から覚悟はしているが、それにしても名残惜しい。最後の夜にもう一度穂波に……
日記はそこで終わっていた。あとに行くにしたがって字が乱れていた。
「これ、最後のページだけまだインクの匂いが残ってるわ。」
と紗良さん。普段は抜けているくせに、こういう時に限って鋭いのだから不思議だ。
「今日の日付って何日?」
言われたので部屋の隅の方にあった、壁掛けカレンダーを見てみると4月1日だった。
「やっぱりね。最後のページを書いたのはついさっきよ。」
「ということは……」
「ええ、彼、今夜死ぬつもりよ。」
これは困ったことになった。北沢が殺すのをやめようが何をしようが、玄次はそもそも死ぬつもりである。すると北沢はどうすればいいのか……
不意に扉が開いたので僕はつい自分の姿が見えなくなっていることを忘れて机の下に隠れてしまった。思い出して顔を出したところで紗良さんと目が合って笑われてしまったからきまりが悪い。扉を開けたのは北沢だった。
「あら、あの人電気つけっぱなしだったのかしら。」
彼女はそういって少し不思議がる様子を見せたが、すぐに何かを探し出した。
少しガサゴソしたと思えば、すぐに取り出してきたのは薬瓶だった。玄次の睡眠薬である。
「ほんといけないわ。このために来たんだから。すっかり忘れていたわ。ちゃんともとに戻しておかないとあの人が死んでしまう。」
と独り言を漏らすと、北沢は自分の寝間着のポケットからもう一つ薬瓶を取り出して、入れ替えた。ああいけない。玄次はとうに死ぬつもりなのだから、おそらくはそっちも毒なのだろう。もう救いようはないのだろうか……
どうあがいてもこの夫婦は三途の川に隔てられる運命なのかと痛感すると、別の情念が湧いてくる。せめて、せめて最後に心を通わせてほしいと。僕はとっさに手に持っていた玄次の日記帳の最後の一ページを開いて机のど真ん中に置いた。バサリと音がしたのはあまりに不自然だったが、北沢が気づいてくれればそれでいい。
北沢はちゃんと気づいた。気づかない方が無理があるものの、彼女は気づいたうえで日記帳を手に取った。文章は長くないのですぐに読み終わったよう。しかしそのあとで北沢はしばらく黙っていた。
北沢の目は虚ろ、力が抜けたようで乳白色の首筋も、幽かな青紅色の口紅も、黒錦の乱れ髪も、力なく流れて妖艶であった。彼女の手から日記帳が抜け落ちて机に落ちた。紙の匂いがふわりとたった。
「なんなのよそれ、バカみたいじゃないの私。あの人は勝手に死ぬつもりだったのね。あれもこれも全部徒労だったってこと?」
彼女はうつむいてまた黙った。
「いや、こんな被害者面されるくらいなら黙らせたまま私の手で殺した方がよかったわ。ええ、心配ないわ、許してあげる。あなたをまたお節介に救ってあげるわ。この薬瓶がはなむけよ。」
北沢は薬瓶をもとに戻した。
北沢が部屋を出ようというところ、日記がにわかに輝きだした。
「そろそろ終幕のようね。」
と紗良さんが言うと、その言葉通りに日記の光はどんどん激しく広がっていき、やがて僕たちを飲み込んだ。
目を覚ますと、いつものように多山さんが出迎え労ってくれた。しかし僕は釈然としなかった。
「僕がしたこと、間違ってたんすかね?なんか余計に北沢さんを悩ませてしまった気がして。」
そう紗良さんに聞いてみると
「間違ってたかどうかなんて私にはわからなかったけど、悪くはなかったんじゃないかな、あの判断は。」
優しい口調で答えてくれたので少し安心した。脇に居た多山さんも
「北沢さんはとても満足していたよ。『すっきりした。』ってね。」
そう教えてくれた。これでよかったかどうかなんてやっぱり解らないけれど、今日は自分を許せそうだ。




