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彼女は百合  作者: 小野寺 大河
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二十八話

 黙々と自主練に取り組む背中に声をかける。

「練習中悪いんだが……、愛子、少し話があるんだ」

 振り向いた愛子は、一瞬眉をひそめたが、すぐに「いいよ」と答えた。 

 グラウンドの隅に移動した俺たちを黄昏が包む。

 遠くでは下校していく生徒や、自主練する学生たちの声が聞こえる。

 学校に着くと、先生は何かを察したらしく「灯下のところへはお前一人で行け」と言って自ら席を外した。

「それで、話って何?」

 体操服姿の愛子が、平然とした口調で言った。

 初めから、愛子に聞くべきだった。

 だって、静森さんの心を揺さぶるのは、愛子しかいないのだから。

「静森さんのことだ。もうずっと学校休んでるって白姫先生から聞いて、さっき静森さんの家に連れて行ってもらった。そしたら、……ひどい顔してた。何があったのか聞こうとしたら『来ないで』『近づかないで』って、『一人にしてほしい』『今は何も話したくない』って言われた。静森さん、すごく泣いてたのに、俺、何もできなかった」

 静森さんに突きつけられた一つひとつの拒絶が、俺の胸を切り裂いた。

 でも、それ以上にその苦しげな声が、表情が、姿が、俺の心を深く、容赦なく抉った。

「何か知らないか? 何でもいいんだ。静森さんを助けたい。少しでも力になりたい」

 愛子は胸の前でぎゅっと小さな拳を握り締め、

「なんでそこまでするの? 応援してるのにいきなり一方的に拒否されて、勝手なこと言われて。なんでそんなに百合花に関わろうとするの?」

 責めるように言い放った。

 夕焼けに染まる愛子の顔が、小さく歪んでいる。

「それは、…………心配だから」

「それだけなの?」 

 言い淀む俺に、愛子の顔が一層険しくなった。

 重たい空気が漂う中、愛子の唇が強い覚悟によって動く。

「私、百合花に告白された」

 強気な瞳を覗き込むと、もう後には引けないと迫られているように思えた。

 愛子は俺から視線を逸らさないまま続ける。

「百合花に、『あなたのことが好きです。付き合ってください』って言われた。私は、好きな人がいるから百合花とは付き合えないって、断った」

 体をやつして泣き伏せる少女の姿が蘇った。

「愛子。好きな人がいるっていうの、告白を断る口実じゃないんだよな?」

「うん。百合花が真剣に告白してくれたから。私も本音で答えた」

 ありがとう、愛子。ちゃんと静森さんと向き合ってくれて。

「お願いがあるんだ。静森さんとは、これからも友達でいてやってくれないか。フられたからって、急にそっけなくされたら静森さん傷つくと思うんだ」

 愛子はきつく唇を結んで、苦しそうに顔を伏せる。

「夏人は、百合花のことばっかりだね」

 雑草が繁茂する地面に落ちていく声が、だんだん涙色になっていく。

「質問に答えて。百合花の応援をするのは、百合花が困ってるから? 皆や私のことを助けてくれてるのと一緒の理由? 心配だから? それとも――」

 それは今まで有耶無耶にしてきたことだった。

 俺はそれに気づいてないフリをして、逃げてきた。

 愛子は真剣に向き合おうとしている。

 俺もちゃんと答えないと。だけど、言葉が出ない。

 愛子は決意を眉宇に漂わせ、涙を滲ませながら懸命に言葉を紡ぎ、

「私の好きな人っていうのは、夏人だよ」

 愛子の声は、俺の心に強く響いた。

「遠足の後から意識するようになった。夏人といると本当に楽しいし、その想いがどんどん大きくなっていって、でもそれがだんだん苦しくなっていって――」

 愛子は大粒の涙を零しながら、柔らかく微笑む。

「好きよ、夏人。ずっとあなただけを見てきました。ずっと前から、――大好き」


 重い目蓋を持ち上げると、目覚まし時計が鳴るまで、だいぶ時間があった。

 最近、こんな日が続いている。

 布団に入ってもなかなか寝付けず、浅い眠りの後、目が覚めてしまう。

 あれから数日が経過したが、まだ愛子に返事してない。

 茫然と立ち尽くす俺に、夕日以上に真っ赤になった愛子が「待ってるから……」と健気に笑んで、俺がそれに甘えたからだ。

 愛子からの好意は、嬉しくないわけがない。

 俺はいつから愛子を女の子として意識し出したのだろう。

 愛子から想いを告げられたとき、愛子の部屋で二人の唇が近づいていったとき、保健室で優しく微笑んでくれたとき――もしかしたら、もっと前からだったのかも知れない。

 寝返りを打つと、今度は静森さんの顔が思い浮かんだ。

 静森さんが学校に来なくなった理由は、愛子にフられたからだと思う。

 俺が愛子と付き合えば、静森さんはどう思う?

 つい最近フられた相手に恋人ができたら、静森さんはさらに傷つく。

 でも、愛子をフれば愛子を傷つけることになる。

 このまま先延ばしにしていいことじゃない。

 俺はどうすればいい?

 どうすれば、皆が傷つかずに済む?

 いくら考えを巡らせても、答えが出ない。

 鳥のさえずりが遠くに聞こえ、遮光カーテンの隙間から覗く朝日に、目をすがめる。

 二度寝する気にもなれず、ゆっくりと身体を起こして着替えを始める。

 トントン、と部屋のドアが叩かれた。

「夏人、ちょっといいか」

 スーツ姿の親父が部屋に入ってきた。

「何だよ、朝早くから。小冬の着替えなら覗かねぇぞ?」

「そうじゃない。それはまた今度ということで」

 決行はするのかよ。

 俺は気だるくベッドに腰掛け、「それで、何の用だよ」と親父を見上げる。

 親父はわざとらしく咳払いをしてから、

「最近、元気がないな。何かあったのか?」

「別に、……何もねぇよ」

 自分が思っている以上に暗い声になってしまった。

 言動が一致していないことに、心の中で苦笑する。

 親父はどっかりと俺の隣に腰を下ろし、正面を見たまま話し出す。

「母さんは高嶺の花だった」

 何の話だよと思ったが、その声音からいつものくだらない冗談ではないと分かった。

 俺は親父の横顔を眺めつつ、黙って聞き入る。

「母さんは、たくさんの男たちから言い寄られていた。学校の中でも外でも、母さんに告白する男はたくさんいた。誰もが母さんに恋をしていた。俺もその中の一人だったんだが、俺は何の取り柄もない平凡以下の男だった。今もそうか。……でも母さんが好きで好きで仕方なかった。寝ても覚めても、母さんを想い続けた。毎日話しかけたし、良いところ見せようと勉強も運動も頑張った。失敗ばかりだったけどな。だから告白して、母さんから『いいよ』って言われたときは、体が宙に浮いた気がした。付き合うようになって、同じ時間を過ごして、同じ苗字になって、お前と小冬が生まれて――」

 親父は目を細め、

「俺は今、本当に幸せだ。家に帰ると母さんがいて、小冬がいて、お前がいて。皆で馬鹿みたいな話して、喧嘩して、仲直りして、笑って、本当に幸せなんだ。だから、あのとき母さんに想いを伝えていなかったら、母さんのことを諦めていたらと思うとゾッとする」

 一瞬顔をしかめた親父は、少しぶっきらぼうに、

「朝早くから悪かった。つまらない昔話だ。お前はいろいろ考えているみたいだな。その、なんだ、父さんには難しいことは分からないが、多分、恋愛は頭でするもんじゃない」

そして即座に立ち上がり、照れくさそうに顎鬚をなでる。

 俺は広い背中を見上げる。

 俺が親父を唯一尊敬しているところ――それは親父が絶対に浮気をしないことだ。

 年甲斐もなく母さんとベタベタしてるのを見て、俺はいつも「気持ちが悪い」と言っているが、でも本当はすごいとも思ってる。

 絶対言わないけど。

「朝からうるせぇんだよ。説教くさいことばかり言ってると母さんに愛想尽かされるぞ」

親父は「それは困るな」と言い残し、部屋を出て行った。


「今日の授業はこれでおしまいです」

 四限の日本史の授業が終わり、白姫先生がそう告げると、俺は大きく背伸びした。

 すると、先生は「あ、そうそう」と、可愛らしくポンッと手を叩いた。

「左塔くんはお昼休み、生活指導室に来てくださいね」

 言われた通り、ドアの前で待っていると、すでに仮面を外した先生が現れた。

「とにかく入れ」

 テーブルを挟んで、向かい合わせに座る。

「上手くいってねェみたいだな」

 白姫先生は脚を組んで、胸元から白と緑のタバコを取り出した。

「ちょっと、いろいろありまして……」

 俺はテーブルに視線を落とし、覇気なく零した。

 先生は溜め息を漏らし、手際よく火をつけ、

「静森の家に行って以来、お前の――それに気丈にしてるが灯下も様子がおかしくなってんじゃねェかよ。だいたい検討はつくが、話してみろ」

「愛子に事情を聞きに行ったじゃないですか。そのときに、聞かれたんです。なんでそこまでするんだって。俺は答えられませんでした。そしたらその後、」

 愛子の苦しそうな、柔らかい微笑みを思い出す。

「愛子に告白されました。こんな俺に、好きだって、言ってくれました」

 愛子は一生懸命告白してくれたのに、俺は情けなくも答えられなかった。

 タバコを携帯灰皿に捨てた白姫先生は、ゆっくりと体を前に乗り出してくる。

 それから、俺の顔を愛おしそうに両手で包み込み、

「なぁ、私にしとくか? 別にいいぞ。舎弟のことは嫌いじゃない」

「先生……、何言って」

 白姫先生は甘い吐息を漏らしながら、惹き込まれそうな瞳を潤ませた。

 熱を持って潤んだ瞳も、官能的な胸元も、すがるような唇も、全てが魅惑的だ。

 そして、その欲望の塊が、震える俺の唇に近づいてくる。

「やめてください! 俺は先生のこと、本当の姉貴みたいに思ってます! それに俺には隣にいたい人がいるんです!」

 先生の顔がゆっくり離れていく。

「舎弟。今、誰の顔が浮かんだ?」

「誰って、それは――」

「それがお前の本心なんだよ」

 座り直した白姫先生は、再びタバコに火をつける。

「舎弟はさ、いろんなこと考えてるだろ。静森を助ける方法。灯下への返事。二人を傷つけずに済むやり方はないか。そういうのを考えるのは、悪いことじゃない。でもよ、舎弟の気持ちはどうなんだよ。他の誰かじゃなく、テメェの気持ちはどこにあるんだ? 全部を全部丸く収めるなんてのは、土台無理な話なんだよ。何かを選ぶとき、必ず選ばれないもう一方が生まれる。皆が皆聖人みたいに生きてんじゃねェぞ? ずるくてもカッコ悪くても、欲しいモンのために無様にがんばってんだよ。テメェは充分考えた。だからさ、今度はテメェのことだけ考えろよ。本当の気持ちと向き合えよ。これは先生としてじゃない。姉貴として言ってるんだ」

 白姫先生はこれを伝えたくて――。

「気持ちが決まってんなら、やるべきことは一つだろ」

「白姫先生。俺、」

 先生は口の端を吊り上げ、強く、そして優しく言い放った。

「行くぞ、ノンストップで送り届けてやるよ」

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